※登場人物の死にネタどころか殺しちゃった系などの痛い危険成分で出来てます。苦手な方はご注意下さい。 ========================= 安堵 とすん、と、重たい何かの落ちる音が聞こえた。 土方の指に最後まで引っ掛かっていた服が肩からずれて、半端によれたそれがいやに重たく感じられる。 興奮は無かった。焦りも、悲しみも、瞋恚も、何も。 眼下には、白いシーツの上にだらりと身を投げ出した男の肢体。 黒い髪がばさばさに散って、開いた額には薄く汗ばんだ跡。 薄く開かれた唇からは唾液がこぼれおちて、縁には白い泡が少し。整った鼻梁の下には鼻水の跡。 どうして、と問う様に見開かれた眼の横からは涙が幾筋も伝い落ちて。 開き気味だった瞳孔が、完全に黒く大きく開ききって。濁った眼球の表面にはもうなにも映ってはいない。 銀時はそっと、その首を捉えていた両手を解いた。 生白い首には歪に食い込んだ十指の形をした痣。 布団の上に無造作に横たわった四肢。最後まで銀時の左肩を掴んでいた手が落ちた、それと同時に時が止まった様だ。 眼下には、白いシーツの上にだらりと身を投げ出した男の死体。 綺麗な貌が驚きや怯えや怒りに彩られた侭、虚ろに銀時の事を見上げて来ている。 抵抗されて掻きむしる様に引っ掻かれた手が、じくじくと痛い。 銀時は、白い着流しに身を──まるで死に装束の様に包まれて、自分を見つめている死体に笑いかけた。 もう、これでお前が苦しい事はなにもない。 怯える事も。悩む事も。嘆く事もない。 もう、これでお前がほかの誰かのものになる事もない。 笑う事も。憎まれ口を叩く事も。抱き締め返してくれる事も、ない。 「土方、」 苦痛を示して濡れた顔は、その最期が決して楽なものではなかったと物語っていた。 もっと楽に殺してやる事は幾らでも出来たけれど、誰に何で殺されたかも解らない侭自分の元から消えて仕舞うのは厭だった。 どうせならば、最期の時まで己を殺す人間を、坂田銀時の事を見ていて欲しかった。 窒息死の苦痛は、長く、苦しい。心得て頸動脈を落としてやらずに気道だけを塞ぐ様な真似をすれば、それこそ眼球や舌や下のもの全てが飛び出すぐらいに苦しむ事になる。 事切れるまでの間は出来るだけ長い事見ていたかったけれど、シーツを脚で引っ掻いて泣きながら藻掻く土方があんまりにも苦しそうだったから、気道を押しつぶした侭頸動脈をそっと圧迫してやった。 苦しんで、泣き濡れて、意識を永遠に途絶させた男の顔は、茫然と、虚ろで、苦しげで、悲しげに見えた。 瞳孔が散大して白目をむきかけて仕舞っている目を、閉ざしてやろうかと一瞬考えてやめる。見ていなくても俺を見ていて欲しかった。そう思って、大きく見開かれた眼を覗き込む様にして自分を映し込んでみて、良かった、と安堵する。 その代わりの様に、濡れた顔を、着物の端を使って丁寧に拭ってやった。まだほんのりと、生きていた体温の残る身体を抱え上げてみれば、脱力しきったそれはまだ硬直が始まっていないから、よく出来た抱き人形の様だと思った。 戦場でよく見慣れた顔と、同じ顔だ。 何故、と茫然と。終わりなのか、と言う虚ろと。間際を襲う、苦しみと。帰りたいと言う、悲しさと。 いきなり死ねば人間そんなものだろう。歳を取って孫に囲まれて大往生、なんて言うパターンや、長い不治の病に諦めでも感じていない限りは、誰もが理不尽な死に対して絶望し、抗って、疑問を抱いて、それでも死んで行く。 見慣れたそれらの死に顔と違うのは、それが愛した男の姿だと言う事だけだ。 銀時はだらりと脱力した土方の首の後ろに手を添えて、その額に、見開かれた目元に、まだ柔らかい頬に、薄く開かれた唇に、絶え間なく口接けを落とした。 「ひじかた」 動かないそれが、何も言わないそれが、自分の手で容易く手折れたそれが、酷く愛おしくて。銀時はこの上ない飢餓感を憶えた。 「土方」 あいしてる。 囁く声が泣きそうで、笑い出しそうで。 まだ、足りない、と思った。 * 沖田総悟は忙しい身だった。 自分の上司に当たる男のこなしていた仕事全てを引き受ける、と言う訳には流石に至らなかったが、ある程度の机仕事が否応無しに回って来る事になった事がその最たる要因だ。今までの様に適当にサボってぷらぷらと職務をこなす振りをして遊んだり、職務のついでに鬱憤晴らしをしたりと言った真似も、おいそれと出来なくなって久しい。 正しく、忙しい身だった。 副長、と言うポストに一応は就く事になったのは、沖田自身の希望と言うよりは、近藤の願いと言ったほうが良かった。沖田は兼ねてから副長の座が欲しいと冗談交じりに言い続けて来たが、それは飽く迄面倒な職務を抜きにして、の話だ。対外的に、局長の真横に立つ事の叶う、その役職だけが欲しかったと言える。前副長に言わせれば「テメェは副長ってのを何だと思ってやがんだ」と溜息を吐く所だろう。 沖田は賢しい性質で、剣の腕は言わずもがな誰もが認める達人級で、頭の回転も速い。だが、人の上に立つにはとことん不向きな性格だった。しかも面倒臭がりで、書類仕事──と言うより、文字アレルギーと言っても良いだろうか、完成された書類や書籍を斜め読みし必要な情報を取捨する事は叶っても、それを自分で作る事には非常に向いていない。 故に結局、山崎が監察から副長助勤と言うポストに就いて、沖田が──副長職が本来こなすべき書類仕事の殆どを片付ける事となっている。 その労も並大抵のものではない為に──正直を言うと山崎は前副長の職務量に現実に己が相対して、改めてその人間離れした多忙さを思い知った──、各隊にそれぞれ隊長の他執務を専任でこなす副職が新たに置かれる事となり、副長職にかかる負担を軽減する羽目になった。 近藤は長い事悩んだ挙げ句にそれらの決定を淡々と許可した。そして沖田に、「トシの居た場所を護れるのはお前しかいない」と願い出て来たのだ。それこそ頭も下げかねない勢いで。 沖田は前述通り、面倒な職務は不要でただ近藤の隣に立つ理由としての副長職が欲しかったのと、嘗て『そこ』に居た人間の代わりには結局のところ、役割でも、存在感でも、意味でも、誰も成り代われなどしない事を良く知っていたので、副長代理、ではなく、副長職そのものに就く事には隠さず難色を示していた。 (『そこ』に何も残らなくなったら、それこそあん人は戻って来ないって事を、誰もが認めるしかなくなっちまう) 仮に。何かの奇跡が起きて、前副長が生きて戻る事があったとしたら。それこそ、居場所はもう無いと、もう一度黄泉の国へと帰って仕舞いかねない。 沖田は、そんな己の想像が酷く子供じみた、願望にも似たものである事に気付いて少しは困惑した。 それでも日々は続くし、真選組も組織として走り続けている。この侭副長と言うポストを空にした侭ではいられないのが現実だった。 何かの弱味を衝かれて、警察組織から出向の『副長』が宛がわれたりしたら、それこそ、副長職どころか真選組そのものが姿を変えて仕舞いかねない。 だから、沖田は面倒な執務を多少は被る事になる事を諦めて、『副長』を請け負う事にした。 正しく。忙しい身だ。 それもこれも、ある日忽然と姿を消して仕舞った前副長が悪い。 前副長は──土方は、端的に言えば見栄えのする男だった。そして、野生の獣にも近い男だった。 そして。責任と立場のある男だった。 発端が何であったのかを沖田は知らない。ただ、真選組に関わる何か──例えば不祥事や、以前起きた伊東のクーデターの件やら──大きな問題を盾に取られる形で、警察組織に関わる偉い幕臣のお歴々にその身を差し出す事を強要されていたらしい。 尤も、これは沖田が直接土方や他の誰かから訊いた話ではない。深夜に土方がこそこそと、甘い香を纏って帰って来るのを何度か目撃して、いつもの様に甚振る弱味にでもならないかな、と単純な好奇心で探り知った事だった。 こっそりと侵入した高級料亭の奥間で沖田が目にしたのは、土方が──あのプライドの高く、誰にも飼い慣らされる事などない様な男が、複数の男の幕臣らに組み敷かれて女の様に啼かされている姿だった。 そんな様を目の当たりにして沖田は、不用意に探った己にも、自分を売る決断を勝手に、そう、また勝手に一人で決めて行ったのだろう土方にも、激しい怒りを覚えた。 その事をダシに甚振る手管も考えなかった訳ではない。だが、疲弊した風体で遅くに帰って来た土方が、一人こっそりと宿直用の狭い浴室の中で、何度もえづきながら胃酸を吐き戻して、怒りや屈辱を軋る歯ぎしりに変えているのを盗み見て──もう、諦めた。 昔からあの男はそういう奴だった。だから、勝手にしやがれと思って、寸時考えた幕臣らの暗殺案も脳内で破り捨てた侭放ったらかしにした。 ただ、一つ気になったのは、万事屋などと言う稼業を営む男の存在だった。 坂田銀時。攘夷戦争時代に『白夜叉』などと大層な二つ名で呼ばれ畏れられた侍。 銀時は土方と折り合いが悪いらしく、顔を付き合わせればしょっちゅう子供じみた喧嘩に興じて何かと騒ぎを起こす男だった。 そして、沖田には未だにこれが何の化学反応の結果なのかが解らない侭なのだが──男は土方の情人でもあった。身体を差し出すだけの幕臣らとは異なり、心を、ある意味で近藤以上に明け渡す対象だったのだ。 喧嘩するほどなんとやら、と言う奴なのかは知れない。ただ、銀時は土方の『事情』を知った上で、それごと土方を支えて愛する事にした様だった。土方にしては、他の男に散々に扱われた後で、自分を好きだなどと真摯に言って寄越す相手になど近付きたくはなかっただろうに、男の執拗なアプローチに負けたのか、或いは真選組の誰にも晒す事の叶わない己の汚い『秘密』を共有して受け入れてくれた相手に対して情や安堵でも湧いたのか。 気付けば二人は、密かに情を重ねる関係になっていった様だった。 だが、それらの情報は沖田の、既に匙を投げた身としてはどうでもよいものだった。話の種にもならないし、何かが収穫出来る訳でもない。 銀時のお節介さやお人好しさは良く知っている。それらの情動で土方に関わることを選んだのであれば、いっそその侭、もう二度と馬鹿な事をしない様に縛り付けてやれば良いんでィ、とも考えた事もある。 何しろ銀時は勁い男だった。心も、腕っ節も。土方の最も厭うだろう、自分の背負いきれない荷にはならない男なのだ。伴侶にもなれないが、真選組以外に生きる術を見出そうともしないあの木偶には丁度良い揺籃の存在にはなれるかもしれない。 それは期待と言うよりは、淡々とした感想だった。 だからこそ。ある時二人が忽然と江戸から姿を消した事を知った時には、遂に煮詰まった銀時が土方を無理矢理連れ去ったのかと思った。 だがそれは些か歪な話だ。坂田銀時と言う男は、仮に土方の自由を奪う事でその全てが手に入ると唆したとして、そんなのはアイツじゃないから意味がない、と平然と答える様なタイプだ。 況して二人とも、手に手を取って駆け落ち、などと言う無責任な人物では絶対にない。 沖田のそんな疑念を裏付けるかの様に、土方の姿の最期に目撃された付近にあった空き家から、大量の血液反応が出たのだ。血液そのものは念入りに洗われた様で、DNAの類や、この血液が土方のものだろう確証は何も発見出来なかった。ただ、比較的に新しいその血液の量が致死量を軽く超えている事だけは確かだった。 銀時の血液なのか、土方の血液なのか、或いは二人のものなのか。それとも全く関係無い誰かのものなのか。 仮にも、武装警察の副長が行方不明と言う状況だ。捜査は日々慎重にあらゆる手段や方面にまで拡げられたし、銀時の方も彼の身内や知己たちが総出で捜索に当たっていた。 そうやって何日も費やした後に出た結論は、坂田銀時と土方十四郎はそれぞれ別件で、生死不明の侭行方不明。恐らく江戸にはもういない。いたとして、特に土方のほうは、形も残らぬ死体になっている、か、それを作った可能性が高い。と言うものだった。 これで真選組副長の失踪事件と、一般市民の失踪事件は共に、公の捜査のほぼ打ち切る所となり、事件は未解決の札を下げた侭風化の時を待つ事となる。 だが、流れる日々に、二人の捜索は地道に、諦めない者らの手によって日々飽きずに続けられ。 それでも、組織の形は少し変わったし、万事屋と言う稼業は当面眼鏡とチャイナ娘の二人と巨大犬一匹とで続けられていく様になった。 誰もが受け入れ難い現実を、どこかで受け入れる様な、諦念の作業に入ったのかも知れない。 ただ、あれ以来、彼らに関わる者らからは笑顔や余裕が失われた。 それが沖田にとっては最も気に食わない所だった。 だから、沖田は白黒をはっきりつけてやりたいと思う様になった。散々周囲の人間を泣かせたり嘆かせたりした挙げ句に、どこぞで乳繰り合いでもしていたら、それこそ斬り殺してやろうと半ば本気で考えながら、忙しい副長職の身に置かれながらも、独自に勝手に捜査を続けていた。 それでも手応えのまるでない、ひたすら待ち続ける釣りの様な作業の中で。沖田が偶々それに気付いたのは、日頃の運の賜物なのか。不真面目に辺りをきょろきょろとしていたお陰なのか。 幕府のお偉いさんの護衛任で地方に出向いていた沖田は、部下に警備状況を確認して、後は適当に巡回でもしている振りでもしようと、護衛対象の参加するちょっとした祭りの様なそこをふらふらと散策気分で歩いていた。 その時、人混みの中に、黒い色彩がふと眼についた。黒い髪に、黒い着流しの男が、雑踏の中を歩いている。 だが、沖田はそこで眼を疑った。色彩こそ土方と同じであれど、その頭髪は好き放題に跳ね回った天然パーマだったのだ。 黒い天パの男は、沖田の遠くからの注視に気付いたのか気付いていないのか、雑踏の中を買い物の荷物らしいものを抱えて歩いて行き、その姿は追う内にどんどん町はずれの方へと消えて行く。 男は町はずれの、まだ開発の手の及んでいない、舗装もされていない街道を慣れた足取りで辿って行き、やがて鬱蒼と茂った山道へと消えた。 人がまるで住んでいない、と言う風情ではない。だが、好んで誰かが立ち入ると言う場所でもない。 そう閉鎖的でもない田舎の町で、主要な駅の近くから離れれば直ぐに郊外の未開発の地が広がっている。それは後ろ暗い人間が隠れ住む環境としては絶好の場所と言えた。 山道を前に、沖田は暫し躊躇った。それは自分の知りたい解答への鍵の様で、或いは全く関係ないものかも知れなくて、それとも単純に『それ』を知らずにいるべきなのか。珍しくも悩んだ。 結局、沖田は一旦任務に引き揚げて、身の空いた夜になってから再びそこに出向く事にした。その間にどうするかを考えようかと思っていた筈だと言うのに、実際はいつも以上に熱心に仕事に就く事で『そのこと』を考えない様にするのに精一杯だった。 行き先は誰にも告げずに夜、投宿先を抜け出した沖田は、小さく、光量を自在に調整出来る手元灯りを携えて山道に立っていた。いっそ亡霊なら良いんだけどねィ、とそんな事を考えながら、獣道にも近いその道に踏み入ることにした。 人がしょっちゅう行き来している、と言うには、道は些かに開けていなかった。真っ暗闇の夜である事も手伝って、野放図に生えた雑草や夜道をじっと見つめる小動物の眼に監視される様にして、沖田は道なき道を一時間近く歩き続けた。正直、遭難していたと言っても良いかもしれない。子供の頃をこう言った田舎で過ごした経験も手伝って、なんとなく、人が通ったのではないかと思える轍を足裏で探りながら、下りたり登ったり。携帯電話は持っていたが、どうせ圏外だろうと思っていたので電源は落としてある。 ここに潜むかも知れない亡霊の居所を、誰にも知られない様にする為ではない。きっと。 秋口の季節の夜だ、夜風は大分涼しかったと言うのに、厳しい行軍に薄ら汗をかき始めた頃、沖田は遂にそこに辿り着いた。 そこは森の中に密やかに佇む、古いあばら家だった。元は偏屈な老人か人嫌いの若者でも住んでいたのかも知れない。つくりなどは可成り古そうで、あちこちが崩れており、一見見る限りでは廃墟かと思えた。 だが、家の裏にそっと回ってみれば、そこには明らかに最近人が手を加えたと思しきこぢんまりとした畑があった。猪や狸を避ける仕掛けも施されているそこには、幾つかの野菜らしきものが埋まっている様だった。 家から人の気配はしない。灯りの一つも灯ってはいない。不法侵入になる事は承知で、沖田は汗を軽く拭うと、×の字に板の外から打ち付けられている玄関ではなく、畑のある裏手の、濡れ縁に足をかけた。戸を横に引けば、キイキイと軋む音を立てながら古い雨戸が開いた。中は相変わらず真っ暗で、肝試しでも出来そうな風情だったが、沖田はそこで靴を脱いだ。汚れの少ない畳の上にざくざくと無遠慮に踏み込む。 入り込んだのは居間らしい、広めの部屋だった。家具は何もなく、一度風雨に晒されっぱなしだった様な酷い有り様は、言葉通りの廃墟に見えた。 襖は全部板で打ち付けられたり外れて転がっていたりして、辺りに生活の気配はない。もしも自分が道に迷った旅人だったとしたら、この屋根のある場所だけで良い、と思って、探索なぞせずに隅っこでさっさと丸くなって仕舞うだろう。 人の気配はないのに、人の痕跡が残っている。入り込める場所はその侭に放置されていて、そこは単純に身を休めるには目的を十二分にこなしている。 それは、関わるな、と言う無言の警告だ。 江戸でもままある事だ。廃墟や空き家に勝手に入り込んで暮らす人間は、自分が不法侵入者と言う犯罪者である事を認識した上でそこに留まる理由がある者が殆どだ。 故に、好奇心や屋根を求めて入り込む輩がいたとして、そこに隠れ住む者らはそれをただ無言で黙認する事が多い。だが、彼らがいつどうやって気を変えるかは解らないから、そういった場所で人間の痕跡を見つけた場合は速やかに立ち去るべきである。 まるで何かのイキモノの巣穴だ。人間と言う、叶わない外敵が自らのテリトリーに入り込むのを黙認するしか無い『それ』は、人間が立ち去るのをじっと、闇に身を潜めてこちらを伺いながら待っているのだ。 不気味な想像に、沖田は小さく息を吐いた。それから、玄関に当たる方角──襖や壊れた家財が散乱して大凡通れそうもない──を見た。吐いた息を静かに吸って、声を上げる。 「旦那ァ」 いるんでしょう?とは言わなかった。此処は鬼の巣穴だ。鬼はきっと、闇の中から沖田の事をじっと伺っているのだろうから。 居間の様な、過ごしやすい場所を空けておくのは、戸を開けておく休憩所と同じだ。泥棒でも思わず素通りして仕舞う様な、不自然ではなく不気味なだけの、何でもない廃墟の屋根として。 沖田の声が暗闇に吸い込まれて、数秒。 かたん、と音がして、押し入れの襖が少しだけ隙間を空けた。沖田がそちらを振り向けば、押し入れの中は棚板が外された空間になっており、そこにライトをむければ、黒い影がすっと消えていく所だった。 押し入れに歩み寄ってみれば、板がなく納戸の様になったそこの、右手の壁が口を開いていた。開け閉め出来る様になっているらしい。沖田はライトで足下を照らしながら押し入れに入ると襖を閉めて、外に出るとすぐそこに立て掛けてあった板を押し入れの壁に戻す様に置いた。 一つ、深呼吸をしながら、ゆっくりと頭を巡らせる。 天井の高いそこは、大きな玄関戸を抜けた直ぐの所の土間だった。板張りの部分には万年床の様な布団と、古びた卓袱台が隅に寄せられており、土間部分にある竃や水回りと言った炊事場には明かな生活の痕跡がありありと見て取れた。 板の間にある柱に、身を凭せ掛ける様にして座っている黒い色彩の男へと、沖田はゆっくりと光量を絞ったライトを向けた。すれば男は眩しそうに少しだけ眼を眇めたのみだった。 「……お久し振りですねィ、旦那」 存外に、平坦な声音が出た。黒い色彩の男は、沖田の知る男と色を全く異にしていたし、無精髭も生えて少々草臥れた風体をしていたが、その顔は紛れもなく、坂田銀時のものだった。 一瞬、本当にあの二人が融けてひとつの人間にでもなって仕舞ったのではないかと。そんな錯覚を憶える程に、男の印象は沖田の知る今までとまるで違って仕舞っていた。 「昼間の、やっぱ総一郎君だったか」 「総悟でさァ。やっぱり気付いてやしたか。流石旦那だ、」 逃亡者になって、気配に益々敏感になりやしたか──そう言いかけた口を何となく噤む。責めてやりたい事も、訊きたい事も山の様にあった筈だと言うのに、男の姿を光の元に照らし出した瞬間に、その答えは全て出て仕舞っていた。だから、これ以上嫌味を連ねる事に何の意味があるのか、と。そんな事を考えて仕舞ったのだろう。 「…………それが、土方さんですかィ」 乾いた声が出た。なんて頼りのない、まるで泣きそうな声だと自分に思って、どうしようもなくなる。 目の当たりにするとは思わなかった。万に一つという幻想を考えなかった事は無かった。だから、副長職に渋々と就いていた。もしもあの人が戻って来たら、またここに戻って来れるようにと。子供じみた夢を見ていた。有り得ない、とは言い聞かせつつも。 消えて仕舞うことのほうが、余程信じ難かった。 「ああ」 銀時の答えは簡素だった。座り込んだ膝の上、大事そうに両手で抱えて、愛おしむ様に何度も撫でている、白い、真っ白なかたまり。 何度も何度も、そうして愛していたのだろうか。この三年間ずっと、何度も。繰り返し撫でる手の下で、白さは滑らかに光ってすべすべに見えた。 そのうち孔が空くかもしれない。そんな事を思ってから、きっとそうなるまでこの男はこうしてあの人を愛おしんで慈しんで大事にし続けるのだろうと容易く想像がついて仕舞い、沖田は意識して奥歯に力を込めた。 銀時が抱えていたのは、白いきれいな骨だった。頭蓋の骨だ。 肉も皮膚もないから、それが土方である証拠など何処にもないのだけれど──この男の優しげな手つきだけが、全てを物語っていた。 「……他は、腹ン中ですかィ?」 部位が足りない。土方が行方不明になったのは、その頭部だけではない。 あの、空き家に残された大量の血痕の痕跡を見た時から、沖田にはその結末が薄らと想像出来ていた。敢えて考えてはみたくなかっただけで。 「ああ」 男はもう一度そう頷くと、腕に抱え込んだ頭蓋の側頭部にそっと口接けを落とした。 愛おしんだ記憶を、思い出しているのかも知れない。否、今でもきっと愛おしんでいるのだろう。あの人を。こうやって。 「全部、ここに」 真っ白な骨を抱いて、銀時は自らを指さしてみせた。 男は、何かがあって土方をその手で殺めたあとで、閨の中で愛しい男を抱くのと同じ様にして、その身を解体して食ったのだ。肉を食んで、内臓を飲み込んで、血を啜って、眼球を舌で転がして、脳味噌を味わって。 その身が全て腐敗して土に帰って仕舞うより先に、自らの裡に飲み込んだのだ。 肉を削がれて、人体模型の空洞の様になった骨を持ち去って、後は時間をかけて粉にして食った。 愛おしむ為の頭蓋だけは残して。否、ずっとああやって撫で続けていれば、少しづつ骨は摩耗して粉になって、この廃屋を漂う空気と共に男の臓腑に入り込むのだろう。 愛した男の身を、余す所なく、全てを。男は食い尽くす。 それは途方もない想像の様だったが、実際目の当たりにすれば現実味はあった。 知りたかった筈の事を、知らぬ方が良かったと思うのは、あの夜土方を追い掛けてその抱える『秘密』を知った時にも思った事だった。全く、自分はまるで成長していないらしいと気付かされた気がして、沖田は苦く笑う。 黒い髪も、黒い装束も、目立つ形を隠すための変装というよりは、土方と言う人間を自分の身に捕らえたのだと言う顕れなのかもしれない。 男は愛おしげに頭蓋を見つめて、それから、少しばかり伺う様な表情で沖田の方を見上げた。 どうするの?と言う問いにも聞こえる表情に、沖田は無言でかぶりを振って返した。 銀時の罪状は、殺人と、死体損壊と遺棄と、不法侵入と、その他諸々、数え切れない程の量になる。銀時とてそれを理解しているからこそ、己の周囲の人間をこの酷い所業の風聞に巻き込まぬよう、置いてここまで来たのだろうから。 だが、沖田には銀時を訴えたり、捕らえたりする気はまるで湧きそうもなかった。 探していたものは見つけたのだから、それで充分だった。 ただ、果たして土方が望んで死んだのか、望まずして殺されたのか──それだけは気にかかったが、男の、狂気などまるでない、純粋に突き抜けた様な想いを前にしたら、それさえもどちらでも良かった。 否、そもそも沖田は土方にまつわる事に関しては、とっくの昔に匙を投げているのだから。 「…………明日、朝早ェんで、俺ァもう行きますぜィ」 「…ああ。じゃあな、総一郎くん」 くるりと背を向けた沖田が、誰にも何も言わないと思っているのか。或いはそれすらもどうでも良い事なのか。男はまるで町中で普通に交わす挨拶の様にそう呟いて寄越した。 「総悟でさァ」 もう、訂正された名を憶えてくれたとして、二度と呼ばれる事は無いだろうけど。 思いながら、沖田は元通りに押し入れから出て、辺りに自分の侵入の痕跡のないことを確認してから、足早にその場を去った。 これは秘め事。誰にも知られてはならない『秘密』の堆積だ。 山道をゆっくりと下りながら、『果て』に辿り着いた自分のすることは、あの二人のいない世界をいよいよ本気で受け入れなければならない事だと、強く言い聞かせながら。 * 山道を下りていく灯りを最期まで見送る事もしない侭、銀時は腕の中の頭蓋に口接けを落とした。 これは秘め事。沖田は『秘密』の砂山を崩す様な真似はしまい。 土方の笑う姿も、辛そうな様子も、死に際の顔も、屠った味も、全て胸の裡に残っている。 手の中に遺されたのは、こんなにも小さくなってしまったものだけだけれど。 「あいしてるよ、土方」 答えのない事に何処かで安堵しながら、銀時は自らの血肉と、腕の中の小さな骨をそっと抱き締めて笑った。 ”私は間違い無く地獄に堕ちるでしょう” |