Bandersnatch



 (げ)
 「おや土方さん。これは奇遇ですね。『げ』とか何とか聞こえた気がしますが、そちらで流行っている新しい挨拶か何かでしょうか?」
 いや挨拶では無い。断じて。この野郎に声とか掛けるくらいならご飯に掛ける。というか音に出した覚えも無い。
 そんな事を思いながらも土方は足を止める。別に会話をしたくて立ち止まった訳ではなく、単にその場所に留まらざるを得ない必要があったからなのだが。
 佐々木異三郎。幕府に仕える名門佐々木家の嫡男であり、生まれも育ちも出世街道一直線の、自称エリート。自称でなくとも間違いなくエリート。薄灰色の髪を一筋の乱れなく固め、何処かで見たデザインの白い制服をこれまた僅かの乱れもなく纏った男。
 そんな出で立ちに加え、淡泊な口調や表情もあってそのイメージは限りなく透明に近い白の色だ。読めず、得体も知れない色。どう染まり、何処に向かって牙を剥くのかも判然としない。
 見廻組局長。その役職に就いている事だけがはっきりと知れている唯一の事柄だった。土方は佐々木の経歴に一応目を通しはしたが、連ね重ねられた人生の積み木はどれもこれも空々しく実感のないものばかりだった。辿った道、成した事は経歴としては華々しいものの筈だと言うのに、そこに何故か薄ら寒さを憶えずにいられない。余りに淡々と、無機質に過ぎる様に思えて。
 携帯電話に目を落とした侭、メールだか何だかは知らないが忙しなく指を動かし続ける男との距離は二米と少し程度。抜刀と同時に斬りかかる間合いには足りる。相手は無粋な飛び道具を所持していた筈だが、それを向けられるより先に接近出来る自信はある。
 ……とは言ったものの。想定は完璧では無く、寧ろイメージすら湧いては来ないのが正直な所であった。三天の怪物と称される白い男とは以前一度斬り結んではいるが、そうにも拘わらず何もイメージが湧かない。自分が勝つ事も、負ける事も。
 「…取り敢えずその場合は間合いを取るよりは、刀で受ける事を選んだ方が懸命そうです。アナタの不意打ちには余り意外性は無さそうですので、エリートとしてはスマートに応じさせて頂きます」
 横目すら向けていなかった方角から突如淡々とした声が返って来る。独り言、にしては含みがありすぎる上にタイミングも絶妙。思わずちらりと伺うが、男は相変わらず携帯電話のディスプレイをそう熱心でも無さそうに見つめており、その不意に口にした内容は牽制ですら無い、世間話以下のものだと自然と知れた。
 「…………つーかさっきから人の頭ン中でも見てんのかテメェ」
 「これは失礼。その様な心算は無かったのですが、アナタがどうにもそういう顔をなさっていたもので邪推した迄です。エリートたる者は常に凡人の上に立つべきスキルを磨いておくものですからね。人心の掌握や駆け引きはこれでも得意な方と自負していますよ。外れていたら無礼とは思いましたが、その様子ですと……強ち間違いでも無かった様ですね」
 「はっ。正解は、テメェが剣を抜くより先に懐刀の女が俺の喉を掻っ切る、だろーが」
 肩を竦めて吐き捨てれば、薄ら光る携帯のディスプレイから佐々木が初めて目線を外した。ふむ、とも、ふん、とも取れる息を鼻から漏らし、片眼鏡越しに土方の顔を見る。
 「完全に気配を消していたのぶめさんに気付かれるとは。流石は真選組の鬼の副長殿。殺気には敏感なご様子ですね。まあ一つ敢えて訂正を加えるのであれば、別に私、アナタに危害を加えて良しとはのぶめさんに言及はしていませんので。その辺りの所は誤解無きよう」
 悪びれた風でもなく淡々と言う佐々木の言葉は事実だろう。土方が刀の柄に乗せていた手を退ければ、廊下のほぼ端の曲がり角に佇んでいた信女が姿を寸時覗かせ、踵を返して去っていくのが遠目に見えた。その様子からも、彼女は今ここに狙って潜んでいたと言う訳ではなく、偶さか同じフロアに居ただけの様だ。土方の殺気とも言える物騒な気配を鋭くも察知し、牽制を寄越したと言った所か。
 佐々木の護衛としていつも潜んでいるのかとも最初は思ったが、それにしては些か距離が離れ過ぎている。暗殺剣の速度や彼女の身軽さを思えば決して足りない距離ではなかったが、土方の──下手人の腕次第では護衛対象に支障は十二分に生じるだろう。
 仮に牽制にしたって、気付かれなければそれまで、と言う距離だ。つまり──何の意味もない。土方が佐々木に遭遇したのも、佐々木に対して物騒な想定を考えたのも、それに気付いた信女が牽制を向けて来たのも、やはり土方がそれに気付いたのも。全てはただの偶然に過ぎない。
 姿をわざわざ見せていったと言うのは、おあいこと言う意味か、それとも矢張り想像通りの牽制か。とは言え見廻組側も、まさか土方が理由もなく佐々木に斬りかかる様な、そんな短慮に及ぶまいとは思っているだろう。そこまで見くびられているとは流石に思わない。
 信女の去っていった方角には見廻組の詰め所(オフィス)がある上、今土方と佐々木の佇むエレベーターホールにはご丁寧にも録画ではなく所謂『覗き見』タイプの──セキュリティ部署が常時モニターをしている監視カメラが設置してあるのだから余計にだ。本気で斬りかかるにしたってもう少し場所と状況は選ぶ。
 「自分で言うのも何ですが、私、何せ政略にも使い得る身分のエリートですから。ここが警察庁の建物とは言え、残念ながら暗殺の可能性は否定出来ないんですよね」
 アナタ方の様な奔放で狙い所の無い人種とは違いますから。とまたしても余計な一言を付け加えつつ、佐々木はぱたんと携帯電話を閉じた。
 「で、詰め所から出て行くテメェをわざわざお見送りって訳か。誰彼構わず噛み付くも辞さない有能な番犬で結構なこった」
 「のぶめさんの行動がアナタに不快な思いをさせたのであれば謝りますよ。まあ、戯れ程度の思考とは言え彼女に悟られる様な殺気を漏らしたアナタにも責任はあると思いますが」
 「殺気じゃねェ、ただの嫌悪感だ。要するにテメェなんぞとこんな所で遭遇しちまって、気分が最悪に近ェってだけの、な」
 偶々今日が松平への報告を兼ねた登庁の日で、偶々出掛けに近藤から書類を一通任され、偶々その書類が見廻組から要請された捜査協力の資料の一つで、偶々それを提出した帰りに、偶々煙草を吸えず苛々していた所、偶々エレベーターホールで佐々木に遭遇しただけの事。何処までも『偶々』の積み重なった挙げ句の、最悪の気分をもたらす状況。
 歯にまるで衣など着せない土方の言い種に、然し佐々木は不快感を示すどころか、逆にほんの少しだけ口元を弛めてみせた。殆ど無表情で形作られた表情筋が少し動いた程度のそれが、何故か面白がるのにも似た──敢えて分類するならば好意的なものである事に気付いて仕舞い、土方は露骨に顔を顰めた。背筋が寒い。
 「      、正直な方ですね、アナタは」
 ポーン、と、目の前のエレベーターの到着を示す電子音が丁度重なり、佐々木が何と口にしたのか確信が持てず、土方は思わずそちらを睨む様に見遣る。とんでもなくそぐわない様な言葉が正直と言う嫌味な感想にかかった様な気がしたのだが、まるで狙った様に上手く聞き取れなかった。
 土方の訝しげな視線を受けた侭、佐々木はすたすたとエレベーターに乗り込むと、階数表示のボタンの並んだパネルの前に立って言う。
 「お乗りにならないんですか?」
 問いに、上階へか下階へか向かう先を示すランプを見上げるが、行き先はどうやら同じ下階の様だ。寸時迷い掛けた土方だったが、「気にくわない」とか「得体が知れない」程度の理由でエレベーターに同乗したくないなどと子供じみた言い分を持つのも、それを看破されるのも癪だった。そんなのはあの腐れた天パとの喧嘩だけで良い。
 日頃の人員運搬を考慮した筺の積載量は多い。広々としたエレベーター内に二人きりと言う状況は正直望ましいものでは全く無いのだが、こうなって仕舞った以上は致し方ない。奥に乗り込み、壁に背を預ける形で腕を組むと、土方はパネルの前に立った佐々木に告げる。
 「一階だ」
 「私もです」
 そう応じて、佐々木の手がパネルの上を動き、扉が左右から閉ざされた。するとたちまち、しん、とした沈黙が筺の中に落ちる。
 煙草が欲しい所だったが、生憎一般のフロア──公共の場での喫煙は禁じられている。何フロアかに喫煙所は一応用意されているのだが、真選組の隊服姿はここでは妙に目立つ。警察組織の一つとして別に場違いと言う訳ではないのだが、ここに詰めている連中は見廻組を含めて、真選組隊士の様な所謂『成り上がり』の出自を持つ者は少ない。
 そのくせこちらは他にはない、特別警察と言う超法規的な権限の行使を許されている。攘夷浪士のテロ活動を相手にするには、縦割りの大義な組織構造では到底追いつかないのだから、現場の権限は現場の人間に持たせるのは理に適っていると言う判断だ。……一応付け足して言えば責任の所在も含む。
 そんな権限を成り上がりの連中が持つ、と言う理由を主に。身分も家柄も無い田舎者は煙たがられるきらいがある。喫煙者の言葉通りに、と思考を締めれば、思いの外下らない冗談に土方は自分で渋面になる。
 つまる所この建物では、長官である松平の執務室ぐらいしか土方が落ち着いて煙草を愉しめる場所は無いと言う事だ。
 別に人目を憚ったり萎縮する心算などさらさらないのだが、目の前の自称エリート様を含め、連中は土方らの様な成り上がりの幕臣を、どこか遜りながらも見下す態度を隠さない。それが居心地が悪いと言うか単純に不快だし気にくわない。そんな些事でいちいち苛つくのは望む処ではないし、万一の不祥事でも起こして仕舞ったらそれこそコトだ。
 煙草なら少し我慢してでも表で吸った方がマシだ、と、尋常ならざる喫煙量を誇る土方でさえもそんな結論に落ち着く程に。
 出自だの育ちだの家柄だの氏だの姓だの教養だの学だの──何れも天領と言う名で囲われた田舎には無縁のものであり、土方には関心の範疇外のものばかりだった。
 手前には剣だけがあって、剣に裏切られた事はない。そんな実戦と実力主義を主張し体現してきたからこそ、家柄に地位を与えられて来た人間達には煙たがられ、成り上がりめと蔑まれるのは解っている。お上の寛容な御心だけで侍を名乗れる身分なのも重々承知している。
 だが、幾ら『お勉強』が出来た所で、それの役立つ分は少なくとも土方には無かった。無かった、と言う事は、必要性も無いと言う事だ。なので今更そんな連中と張り合う気にもやり合う気にもなれない。
 一応、賢しさの回転数は多少あるらしい脳を持っていた事もあり、兵法書を愛読して得ていた知識は戦術家として大いに役立った様で、人員を動かす任ではその規模に拘わらず一定の評価は得られている様だった。ついでに、自らの作戦に自ら率先して斬り込むと言う──曰く、蛮勇とやらも。
 江戸に出て来てから自然と権謀術数や政治的な意図の絡む駆け引きにも触れる事となったのもそれに拍車をかけたらしく、気付けば真選組の頭脳だなどと勝手な役割が他称されていた。立身出世に興味はまるで無くとも、真選組以外の警察組織に関わる場面では無駄に権限や身分と言う言葉が足枷になる。その所為で現場主義の己の考えにそぐわない事もままあるのが正直本意ではない所だ。
 剣に身分は関係無いし、強さは己を裏切らない。だから手前の信念だけを抱えて先陣を切る。恐らくはそんな己の信念も、将来的には椅子に座って命令を出すだけの身分を約束されたエリート連中とは決して相容れないものなのだろうが。
 近藤の役に、組の役に立っていると言う意味では自負は確かにあるのだが、そんな些細な賢しさなど、先程から無表情に佇んだきりでいるエリート様にとってはそれこそ可愛いものでしか無いのだろう。今時刀一本とその信念だけで生きようとする侍など、愚かしい前時代のものにしか見えないに違いない。
 人員も権力も惜しみなく投入した策の弄し方と言い、作戦が失敗しようが成功しようが何かしら益は転がり込むので構わないと言う効率的で合理的な思考と言い、他者を遠慮なく踏み躙るも厭わず利用するやり口と言い、罪人は裁くだけのものと言う主張と言い、何もかもが土方には度し難い。
 より正確に言うのであれば、思考としては至るものだが、実行に移すには何かしらの躊躇いを生じる類と言う事だ。土方は己を潔白だとか清廉だとか思う心算は毛頭無いが、佐々木ほどには人や作戦をモノとして、手段として割り切る気にはなれない。
 家やその家族さえも道具にしか数えない人間など、正しく怪物以外の何者でもない。
 「……ってオイ」
 「どうされました?」
 先頃から、パネルに背を向け佇んでいる佐々木の視線を真っ向から受ける形になっており居心地が悪かったのは正直な所だったが、エレベーターが一階に到達する迄の僅かの時間の辛抱だからと敢えて無関心を決め込んでいたのだが。
 不意に気付いた土方は組んでいた腕を解くと、筺の壁から背を浮かせた。パネルの前に陣取っている佐々木をぐいと押し退けてみれば、エレベーターは先程のフロアから全く動いていない。
 それもその筈。パネルの階数ボタンは何ひとつ押されてはいなかった。
 「オイコラ何の心算だ、巫山戯てんのかテメェは!一階ったろーが!!」
 「お聞きしましたが。同じ目的地とも言いましたが。押したとは一言も言ってませんよ」
 このエレベーターは最新型なのもあってか、機能面よりデザイン性を重視しているらしく、普通のエレベーターによくある、扉の上の階数表示ランプが存在していない。正確に言えば、到着したフロアの階数をデジタルの液晶パネルに表示するのみの機能になっている。
 更に、揺れを殆ど感じさせない作りだとかなんだかで──、
 「クソッタレエリート様が、何の嫌味だってんだよ」
 とは言え、訳の解らないイヤガラセじみた真似をした佐々木もだが、エレベーター特有の浮遊感に気付かなかった自分の過失も間違い無い。土方は苛立ちながらも【1】と印字された階数ボタンを押そうと腕を振り上げかけ、
 「やはりアナタは無警戒な上に真正直な方の様ですね、土方さん」
 「っ」
 すい、とパネルの前に割り込む様に再び入って来た佐々木に胸を掌で軽く押され、思わず飛び退く様に離れた。
 「殺意はのぶめさんが反応する程に本気。嫌いな相手と言い切るのも本気。ですがその癖、その相手からの報復や反撃には無警戒」
 佐々木の口調は小馬鹿にすると言うよりは、ただの事実の数え上げだった。土方は刀に再び掛けそうになる手を抑え、片眼鏡の向こうの三白眼を睨め付ける。
 或いはこの、図星と言う土方の痛手さえも解った上で嬲っている心算なのかも知れないと寸時思う。
 思う、が。それ以下である可能性の方が高いだろうと己が弾き出した事にも気付いている。
 「……何が言いてェ」
 「ご自分と同じ様な事を相手が考えているとは思わないので?」
 「は。テメェが真選組含めて、俺の事を毛嫌いするまでもなく見下してんのくれェは知ってる心算だがな」
 生まれも育ちもエリート。今も、連中の言う『凡人』の心や命を、歩くついでに踏み躙る事に痛痒や悔恨のひとつすら感じないのだろう男の目は、レンズの向こうのそれも、裸眼のそれにも、人間を見る様な感情など読み取れ無いものだった。
 嫌う迄もない。路傍の石ころの様なものだ。だからそう言えばきっとあっさりと頷くだろう。ただの石ころに好きだの嫌いだのと思う人間が居ますか、と。
 だが、土方のそんな考えとは裏腹に、佐々木はやおら、ぽん、と手を打った。「ああ」と得心のいった様な、態とらしい声を上げる。
 「どうやら誤解が生じている様ですね。私、真選組(あなたがた)のファンであると以前申し上げたと思いますが」
 白々しい、と反射的に反論が返った。土方は頭半分ほど上にある佐々木の無表情を睨みながら、ごくごく自然に利き足に体重をずらしていく。
 「テメェみてェな怪物の言う『ファン』ってのはアレか、犬の糞とかそう言う意味か?」
 「まさか。エリートの辞書にはそう言った下賤な単語はありませんから。言葉通りの意味です。真選組の皆さんの中でもアナタの事は結構気に入っているんですよ、こう見えても。どうにも私には愛想が足りない様で何かと誤解されがちですが。好意的な相手でも無ければ、わざわざ凡人のどうでもよい過去など調べあげたりしませんよ」
 しゃあしゃあと宣う佐々木に、土方は自分でも凶悪だろうと思える表情を向けた。予想通りとは言え忌々しいことこの上ない所行をあっさりと認められると言うのも実に気持ちが悪い。
 土方が手紙にしたためた以上の、より正確に言うなれば『把握した上での』佐々木の物言いは、普通に略歴を読んだだけで知れる事柄ではないものだ。故郷でのある程度の事──例えば近藤の道場に厄介になっていた事など──なら容易に知れただろうが、まさか幼少の頃の、兄やそれに纏わる事まで調べ上げられているとは思わなかった。
 土方の過去を調べる事など佐々木の権力や人脈を考えれば簡単な作業だっただろうが、その目的は未だ不明瞭な侭だった。何しろ土方は真選組の局長ではなく副長だ。真選組を目障りに思っていただろう佐々木がそれ程熱心に探る意味のある対象でもないだろうに。
 そう考えてみれば佐々木の言い種は実に尤もな内容に聞こえて、土方は渋面を隠さず得体の知れない無表情を見上げた。不愉快だと言う感情の侭に口の端を下げる。
 「気色悪ィ事真顔で抜かしてんじゃねぇよ」
 ストーカーの言い分だなと真っ先に浮かんだ悪態は、身から出た錆になりかねないので懸命にも噤んでおく事にした。身と言うか身内のだが。
 「ご安心を。冗談ですから」
 「冗談じゃなけりゃ斬り捨ててやらァ」
 「多分」
 「…しかも多分かよ」
 相変わらずの淡々とした口調。エリート様の冗談はよく解らないと吐き捨てながら、利き足に乗せた体重を悟られない様に肩を竦めつつ逆の足を半歩下げる。
 後は鯉口を切るだけの、言葉通りの臨戦態勢だが、訳のわからない冗談やエレベーターを動かさないイヤガラセ程度にそこまで身構える自分が、土方には少々不可解でもあった。
 或いはこれは予感だろうか。こと焦臭い事に関する自分の勘が疑うべくもないものであるものだとは、土方は長年の経験から既に承知の上でいる。
 佐々木の様子は今ここで何か土方に害を為そうとしている様には見えないし、そうする理由もない筈だ。もしも本当に土方を消したいのであれば、この男ならばもっとスマートに事を運ぶだろうと言う確信だってある。
 (袋の鼠。……いや、筺の中の猫つった方が良いか)
 得てして正しい表現だと思い、表情には出さず苦笑する。密室の中の出来事は知れない。この筺の中にはお誂え向きな事に監視カメラもない。それどころか、見廻組の詰め所があるフロアがスタート地点とくれば、これ以上は無い程の伏魔殿の完成だ。
 だが、それだけ己の不利にしかならない材料を揃えてみたところで、土方の裡にはそれらの邪推めいた懸念よりも、そんな事は有り得ないだろうと言う確信の方が強い。
 だ、と言うのに、背筋が粟立つ。厭な感覚が拭いきれない。先頃感じた己の勘は疑うべくもない筈なのだが、それが佐々木の『何』に向けられれているのかが解らない。
 (これじゃまるで、)
 まるで畏れている様だ、と声に出さずに呻いて、土方は腰の刀を不意に意識する。まるで精神安定剤の様に、柄に触れさせたくなる手を、軽く拳を握る事で堪えて留まりながら思う。これは単なる意地なのか、本能的な衝動なのか。
 「正直な所を言いますと、私はアナタの様なタイプが最も嫌いなんですよ」
 身構える土方に気付いているのかいないのか、佐々木が不意にそんな言葉を口にする。
 「そいつァ重畳なこって」
 「だと言うのに……いえ、だからこそと言うべきでしょうかね。アナタに興味が湧いたんですよ、土方さん」
 そこで初めて、佐々木の表情に笑みらしい笑みが浮かんだのを見る。然しそれは先頃エレベーターに乗り込む前に見たものより余程人間味の無い、まるで作った能面の様な表情だった。
 それが、面白そうな風情を湛えて──面白そうだ、と判別出来て仕舞ったこと事態がそもそも気味の悪い話だったのだが──いる事に気付き、土方は思わず顔ごと目を逸らした。敵と分類しても良い相手と二人きりと言う状況でする事では無いだろうとも瞬時に理解してはいたのだが、それでもそうせずにいられなかった。
 こんな類の──好意でも悪意でも良いが──感情を向けられる事の気味悪さを得るのは願い下げだと、強い忌避感がそう思わせている。
 「喩えるなら、眠る前に黒いあの虫を見て仕舞った様な感じですかね。姿が見えなくなっても、徹底的に潰しておくまで安心出来ない様な」
 考える様な風情で言って寄越す佐々木の言葉を受けて、江戸の人間の八割以上が厭うだろう、平たくて脂にテカった姿が瞬時に脳内に描き出される事となった土方の頬は引きつった。確かに黒みの多い出で立ちだとは思うが、アレに喩えられると言うのは、得体の知れない感情を向けられるより余程心外だ。
 「……………好意だなんだと抜かした割には随分な言い種じゃねェか。第一ソレは興味たァ言わねぇ。辞書引いて出直せや」
 「そう言う意味ではアナタにも坂田さんにも、似た様な感想を抱きます」
 土方の反論に返る言葉は正しく繋がってはいないかった。だが、囁く様なその声がふと近くなるのを感じて顔を正面に戻せば、驚く程近い距離に佐々木の能面めいた顔があるのに気付く。
 「っ、な」
 背中は筺の壁。下がるスペースが一歩も無い事を瞬時に理解した土方は、今度こそ刀に手を乗せかけ──だがまたしても留まった。
 詰められた距離はほんの一歩程度。だがそれは、限りなく敵に近い立ち位置の人間同士が向かい合うには相応しくない一歩だ。
 「……黒いアレと一緒にされんなァ御免だが、腐れ天パ野郎と一緒くたにされんのも真っ平なんだがな」
 喉が、乾く。ひりついた舌が貼り付いて痛いが、辛うじていつも通りの悪態をつけた。
 些細な反撃に対する満足感など無いに等しい。無表情な相手の顔からは手応えさえあるのかも伺い知れない。ただ、自分を見下ろす様に覗き込んでいるその顔を、薄く嗤いながら見上げ続ける土方の脳裏には、虚勢、と言う言葉が過ぎっていた。
 「成程、それは失礼しました。率直な感想ですしそこまで厭がられるとは思ってもいなかったもので」
 「虫や天パと同列に扱われて厭がらねぇ奴が何処に居るよ」
 「それだけアナタ方を気にかけていると言う心算だったのですが。凡人のアナタには些か喩えが難解過ぎましたかね」
 「それで通じるんなら、エリートって奴らは偏執的で理解不能な変態だと認識を改めさせて貰わなきゃなんねぇな」
 エリート様の価値観は解らない。それとも単なる嫌味の心算なのだろうか。どちらにせよ面白くない冗談な上に、言っている事は薄ら寒い内容でしかない。思って土方は心の底から、虚勢の可能性を振り切る様な溜息を嫌味と共に吐き出すが、相変わらずと言うべきか佐々木の方は特に気にした風情でもない。
 「……で、そんな下らねぇ事を抜かす為に、わざわざこんなイヤガラセをしたのか?エリート様がお暇なこった」
 土方は再び佐々木の体で遮られる形になった階数ボタンのパネルを肩越しに睨む。たった二歩程度の距離の筈だと言うのに、何故こんなにも遠いのか。というか近年のバリアフリー化に合わせて、子供や車椅子用にパネルのもう一つぐらい設置すべきではないのか。
 益体もなくそんなことを考えてから呻く。低い位置の予備の操作パネルも、同乗した人間を押し退けられない状況も、警察庁のオフィスフロアには無用なものでしかない。
 退かすか、押させれば良いだけ。たったそれだけの距離が、今の土方には遙かに遠い。怖じ気づいている訳ではなく、恐らくは単に気持ちが悪いだけの話。何をするとも知れない、何を考えているかも知れないモノを──怪物を忌避する本能。
 それは、刀に何度も手をかけそうになる程の危機感なのか。抜けないのは、面倒な諍いを起こさない様にする為なのか。
 「いえね」
 く、と佐々木が喉を鳴らしたその音を、笑い声だと気付いたのはある意味で必然だった。笑みの気配など欠片も刻んでいない無表情の中でそれを、笑っているのだ、と理解出来たのは──
 「こう言っておけば、アナタは考えるでしょう。踏み留まるでしょう。私の言葉を嘘だと断じている癖に、その裏に見えなかったかも知れない一片の真実が在りはしないかと期待するでしょう?」
 今迄に、アナタにとって唯一の武器を抜こうと思えば何度も機会があったのに、それをしなかったのが良い証拠です。
 そう囁いて、喉だけで嗤った佐々木の手が、総毛立って硬直していた土方の顎を不意に捉えた。
 「鬼だの茨ガキだのと標榜しながら、結局アナタは冷徹になどなれない、可哀想なぐらいに正直な人間だと言う事ですよ」
 至近距離で囁いて寄越す無表情の笑い顔は──嘲る様な成分を、親切めかした中に確かに含有したもので。
 「──ッ!」
 笑っているのだ、と判じた、得体の知れないモノに対する嫌悪感を孕んだ直感。粟立っていた背筋を通って頭に瞬時にして血が昇り、土方は眼前に、キスをしそうな程の距離にあった佐々木の顔めがけて拳を突き出していた。それが予想していた様な、こちらを突き放す様な動作一つで躱された事に腹は立たない。
 (怪物、が…!)
 呻きながら、押し出された上体を両の足で踏ん張って留まると、中途半端に空に伸ばした拳を引き戻す。同時に、頭に昇った血が己の内圧と共に急速に低下していくのを感じる。
 何かの痛痒を感じたとすれば、それは単なる屈辱感だ。先頃までの嫌味の延長線の戯れ程度のものでしかないそれに反撃を食らわせるなど、馬鹿馬鹿しすぎて目も当てられない。
 だが、ほらやっぱり、と言いたげな表情をひとときそこに残した佐々木の態度そのものには腹が立っていたが。
 「……下らねェ話はそれで終ぇか」
 「ええ、まあ。好意が過ぎた故の老婆心ですよ。アナタの馬鹿正直で単純でお人好しな所は、組織人としては欠点にしかなりませんから。足下を掬われる前にご忠告申し上げた迄です。今、真選組(アナタ方)に消えられては今後が面白くありませんのでね」
 「は。ご親切なお為ごかしで結構」
 苛々と吐き捨てる土方に背を向けると、佐々木は今度こそ見える様に、手を伸ばして階数ボタンを押した。【1】の数字が点灯し、エレベーター独特の浮遊感が低い駆動音と共にやって来る。
 手首のスナップだけで再び携帯電話を開いた佐々木は、相変わらずの驚異的な速度でボタンを叩き始める。これでこの下らない上に埒もない話は今度こそ終わりか、と、土方は知らず安堵を背に乗せた。
 これが当初からの流れで、やっとそこに至っただけだ。
 不愉快且つ不可解極まりない話だが、佐々木の指摘は間違っていない、とは、己に問いかけるまでもなく土方には解りきっていた。
 得体の知れない、言語の通じない様なエリートと言う人種であると言い切るその癖に、そこに何か己に理解出来る感情的な意図がないかと探って仕舞う。
 無表情での嫌味の応酬や駆け引きではない、私的なものが混じってはいないかと疑っている。
 人間として、見ようとしている。
 だって、そうでもなければ説明がつかない。この得体の知れないエリート様の向けて来た、正体不明の感情や論破が何であったのかを。
 そう、あの時佐々木は土方の過去とその感情とを『把握した上で』言ったのだ。
 アナタが救いたかったのは自分自身だ、と。
 それが単なる嫌味で発せられた分析と言うだけならば何とも思わなかっただろう。だが、佐々木の容赦ない剣は土方の心の最も痛い部分を突いた。
 佐々木鉄之助の境遇を己に重ね見ていた。それは重々理解している。だからこそ、義弟の存在など歯牙にも掛けない男に宛てた手紙を書いたのだ。人らしい情があの無表情の何処かに在りはしないかと信じて、頭を下げるに等しい願いをしたためた。
 ……結果は散々だった訳だが。それでも確かに、相手を同じ警察官、人間として見ている事は未だに変わり無い。
 土方の、鉄之助の、人間の心を理解した男は、人間以外の何者でもないと思う。エリートだから人心の掌握に長けるなどと嘯いていたが、人の心を単なるゼロとマイナスだけで分類などを本気でしているとしたら、それは名門生まれだのエリートだのでは最早無い。ただの──呼ばれる通りの怪物だ。
 (怪物が、警察なんて役割背負って、何を護るって言う?)
 その想像は実にぞっとしないものがあった。攘夷浪士なら破壊活動を、天人なら利を、幕府なら現状維持を、天導衆なら掌の上の安寧を、嘗ての夜叉なら日々の平穏を。どんな者にもそれぞれ求めるものや目的がある筈だ。
 だが、怪物は何を求める?エリートとして全てを手に入れ切った男が、将来までほぼ約束された未来のある男が、元暗殺部隊から引き抜いた片腕を伴い、一体何をしようと言う?
 それこそ、エリートの価値観と言う奴で、凡人には理解し難いものなのかも知れない。一橋派や現将軍派の争い、つまり政権交代に興味などはないと言い切った事からも、佐々木が地位や身分の為に動いているとは到底思えない。その際こぼした「大法螺につき合った」と言う言葉こそが怪物の本意なのかと思えたのだが、その正体は土方には未だ知れていない。
 気に食わない上に反りも決定的に合わない。相容れたいとも思わない。だが──不承不承認める。この男の得体の知れなさは、紛れなく土方に恐怖に似た警戒心を持たせるものだ。だからこそ人間として理解しようとしている。せめて目的や向かう方角の意味さえ知れれば、少なくとも『怪物』では無くなるからと信じて。
 そんな感情をして、佐々木は土方を『可哀想なくらいに正直な人間』と評したのだとしたら。
 エレベーターの前で見せた『面白そう』な──好意に分類出来る表情も。二度目に繰り返した至近距離での嘲りも。
 「偶々、ですよ。土方さん。アナタとお話をしてみたかった所に、偶々誰の邪魔も入らない様な場所があった。それだけの事です。利になる機会があれば決して無駄にはしないのがエリートですから」
 「……それで『好意』たァ、下らねぇ事をホザきやがる」
 「お気に召しませんでしたか?一応アナタ方の事を評価しているのだと、私なりに解り易く表した心算だったのですが」
 「なんの『利』かなんざ知りたくもねェが、それでこんな無駄話させられてるってんなら、尚更お断りだ」
 義理の弟である鉄之助に対するものが無関心で、それよりもマシな扱いがこんなものだと言うのであれば、この男は人格的に本当に破綻しているとしか言い様がない。少なくともエリート様は円滑な人間関係と言うものを勉強した方が良いだろう。あと人としての情緒とかも。
 (円滑な人間関係とやらを事務的に勉強して処理し過ぎただけかも知れねェがな)
 感情を事務的に処理する事に慣れた挙げ句が、機械(からくり)の様な男の有り様だと言うのも強ち的外れな見え方では無いのかも知れない。投げ遣りにそんな事を思った土方がふんと鼻から息を吐いてパネルに視線をやれば、丁度階数の表示は五階を通り過ぎた所だった。あと少しでこんな茶番は終わる。
 「そもそも、アナタから全然メールの返信が無いのでやむなくこう言った手段を講じた迄です。宜しければ今後は応じて頂ければ、こちらとしてもこんな面倒な事をしなくて済む分有り難いのですが」
 「悪ィがエリート様絡みのアドレスは漏れなく着信拒否してるんでな。つーかテメェとの無駄話がそもそも願い下げなんだと気付けや」
 ポーン、と、エレベーターの停止を知らせる電子音が鳴り響くのと同時に、軽い振動が筺を揺らす。見上げれば、ドアの上のパネルには【01】の数字が表示されていた。どうやらノンストップで下りて来れたらしい。まあ、停止中に長話をしていられた事を考えれば、今日のこの時間は利用者が少ないのだろう。……それこそ、偶々。
 左右に大儀そうに開くドアを、パネルの前に立った佐々木が「どうぞ」と言う仕草で示している。同乗した人数が多い場合にはよくある光景だが、この状況ではうすら寒いものしか感じられない。
 ひとつ舌打ちをして土方は佐々木の横を通り過ぎた。狭い筺から漸く開放された様な安堵に我知らず詰めていた息を吐けば、背後でエレベーターの扉が閉まる音が聞こえた。筺は閉ざされたが生憎佐々木の気配は未だ直ぐそこに在る。同じ階で下りたのだから当然だが。
 『偶々』とやらの連続で実に下らない思いをさせられた。ポケットに乱暴に両手を突っ込むと、別れの言葉ひとつ告げずに歩き出した土方の背へと「土方さん」呼び止める様な佐々木の声が追って来る。
 足は、止めない。ここからは今までの『偶々』ではないのだから、付き合う必要などない。
 「アナタのそれは、単なる感情論ですか?」
 それ、と指した言葉に咄嗟に反論や問いが幾つか浮かびかけたが、振り切る。
 感情で言うならば、現状は確かに不快以外の何でもない。だから、それ、と言う言葉は土方が佐々木に抱いた全てを指すのだろう。
 とは言え、素直に肯定するのも、むきになって否定するのも癪だった。大体の所、佐々木の言う『感情論』とは真選組の副長に宛てたものではない。もしも土方十四郎と言う個人に問いたものであるなら、それに対して手前の個人的な感情以外のものがあるのかと問うのはおかしい。
 「…さてな。お利口自慢のエリート様なら、ちったァ手前ェで考えてみやがれ」
 「幾らエリートでも理解出来ない事はありますよ。単に知りたいと思わないだけなのかも知れませんが」
 理解と了解は別と言う事か。思って土方は、気付けば結局足を止めていた己に気付き、苛々と頬の内側を噛んだ。今日の最大の失態は、エレベーターが動いていなかった事に気付かなかった失態よりも、寧ろこちらかもしれない。
 「久しく湧いた疑問だったもので。……そうですね、暇が許せば自分で考えてみる事にしましょう」
 ぱちんと携帯を閉じる音を響かせた佐々木は「それでは」と短く残し、立ち止まった侭の土方を追い越して行く。その背が完全に離れて行く前に土方は呻く様に漏らしていた。
 「……意味なんざ無ェんだろう、どうせ」 
 ここに来ても結局、何一つ、読めていない。本当に単なる時間の無駄も良い所だった。その事実はずっと土方の心に波立つ様な苛立ちを投じて凝った侭だ。同じ『掴み所のない』と言う表現で括ったとしても、あれは銀時の様なタイプとは違う。
 (どこまでもカラで、人間味が無ェ白い怪物。……返り血に濡れた白い鬼より余程タチが悪ィたァな)
 何処まで行っても払拭できない薄気味の悪さを軽く横に転嫁して、土方は立ち止まった侭で空を仰ぎ見る。速やかに外に出て一刻も早い喫煙をする事が当面のストレス発散になるとは解っていたが、迂闊に急いで出て佐々木にまた遭遇する可能性を──限りなく低いだろうとは思ったが──良しとする気にはなれない。
 そんな八つ当たりも含めて、心の底から吐き捨てる。
 「くたばれ、怪物(エリート)」




分が悪すぎて勝負にすらならんと言う。

shun the frumious Bandersnatch.