天国の日々 / 30



 夢を見た。
 夢であったらよかったものを、見た。

 夢では無かったから──決した後も、こうして醒める事はなかった。


 *


 ゆっくりと伸びてきた手が、左の肩を掴んだ。
 
 「……すまない、万事屋」
 
 それは、ずっと聞きたかった声の、紡いだ『名』に相違ない。
 自分を、こんな声で、こう呼ぶのなんて、あの男以外にはいない。
 泣き出す寸前の様な。何かを堪えて強がって笑ってみせる様な。こんな声で。
 当然の様に屋号でしか呼ばない、そんな存在を指す名称を。こんなにも呑み込み損ねて溢れた情動の侭に呼ぶ者など、あの男以外には、いない、筈だ。
 歓喜の期待に、だからこそ銀時はびくりと全身を震わせた侭、木偶の様に動けなくなった。
 だが、そんな事には構わぬ様に、左肩に置かれた手が、今し方新しく作られた『疵』の上をそっとなぞる。昔ついた『疵』の上を奇しくもぴたりとなぞる様に刻まれた、皮肉の様なその痕を。
 「ひじか、た」
 すまない、と紡がれた筈の言葉が、痛烈な弾劾に聞こえた。
 土方の記憶が戻ったのであれば、それは同時に銀時の犯した卑劣な所業が知れたと言う事だ。記憶の無い土方に、お前は俺のものなのだと、手前ェの都合の良い解釈を押しつけて与えると言う、大凡真っ当な人間では選ばない様な卑怯な思惑が。
 弱味に付け込んだも同然の所業だ。記憶の無い、自己のあやふやな状態の人の精神に、痛烈に刷り込んだ。寄る辺として縋れと、他には何もないのだと選択肢を根こそぎ奪って、嘗てお前を棄てた恋人のくせにそれを今更惜しんで無理矢理に、土方自身の意志なぞ無視して与えたのだ。
 だから、銀時は畏れた。断罪と、弾劾を。当然の報いを。子供でも知っている様な、嘘がばれた時に受ける因果応報の結果なのだと。
 お前が戻って来てくれたなら嬉しい。でも、お前が戻って来てくれたから、怖い。
 詰られて、確実に見限られて呆れられるより先の、侮蔑へとその表情が変化する事を畏れて、まるで凍り付いた様に固まって動けない。
 そんな銀時の視線の先で、土方はただ泰然と。一瞬先には泣くとも怒るとも嘆くとも笑うともつかない、そんな掴み所のない表情を浮かべてそこに居た。
 「ひじか、」
 「………すまねぇ、な」
 待つ事に途方もない恐怖を憶え、思わず銀時が声を上げかけた時、それを遮る様に土方が口を開いた。何処か夢を、遠くを見る様な眼差しで──微笑みを浮かべる。
 「──」
 息を呑む。
 それは、嘗て銀時が寸時囚われた、支配と嗜虐心との狭間で、土方の見せた笑みと同質のものだった。
 大丈夫だ、と──笑いかけて来た。あの、悲しそうで、辛そうで、嬉しそうに歪んだ、表情だ。
 「好きなんだ。本当なんだ。お前が変わっちまうのが怖くて、手放した癖に、俺は、──俺は、」
 だから咄嗟に、銀時はそう振り絞る様に叫んでいた。身体の奥が震える。腕が震える。散々人の心を踏みにじって、蔑ろにしておいて、今更何を言うのか。自分でそう自嘲が沸き起こるのも構わず、堪えきれず、繰り返す。
 「好きなんだ。土方。好きなんだ」
 思わず背を引き寄せれば、振り解かれる事もなく、一度浮き上がった手がゆるりと再び疵痕の上へと落ちて、強い力でそこに指がかかる。
 「万事屋、」
 土方の声は掠れて酷く小さい。こぼれる水の滴の様なそれを、銀時は掴みたくて、棄てたくて、解らなくなってただ、土方を抱き締める腕の力を強めた。
 「ほんとうは、俺は、お前のことが、       ──」
 内緒話の様に、密やかに紡がれたそんな言葉が銀時の耳朶を打つ。
 そこに込められた何かの哀切に気付く事も出来ない侭、畏れとも歓喜とも怯えともつかない感情にひととき浸された所で。
 腕の中の身体ががくりと力を失って頽れた。
 肩の傷から、指が ──落ちる。
 
 *
 
 旅立ちの日は晴天の方が良い。
 誰が言ったともどうしてそう思うかも良く知りはしないが、恐らくは晴れている方が縁起が良いとかきっとその程度の事なのだろう。
 暦の上では疾うに春だが、まだ肌寒く、桜も出番待ちの蕾を蓄えている季節だ。
 もう朝の霜柱が昼には融けて、道を悪くする事に辟易する様な気温ではない。ゆっくりと目覚め始めた空は薄紫の雲をはいて温かみがあって、澄んでいて綺麗だった。
 庭から見える空をそうして暫し見つめていた銀時だったが、やがて草臥れた頭をぎくしゃくと寝室の方へと戻した。
 そこには、土方が眠っている。
 昨日の夕方、自然公園での『真剣勝負』の後で、意識を失った土方を何とか運んで寝かせて。それから今の時間、早朝に至るまでその様子に全く変化は見られない。
 「………」
 土方の記憶は、戻ったのだろうか。死んで千切れた切れっ端たちは、完全に元通りに繋ぎ直されたのだろうか。
 そうだとしたら、何故今『そう』なったのか。戻らねばならない時間までの猶予を終えた途端、まるで夢から醒めろとでも突きつけるかの様に。
 偶然、だろう。左肩の疵のぴたりと上をトレースする様な切り口。傷には至らなかった傷口。だが、あの時の土方の咄嗟の挙動と、獰猛な野良犬の様な好戦的な表情とが、嘗ての姿に、重なった時。
 ああ、矢張り──、と。そう、思ったのだ。
 記憶が無くなろうが、作り替えられようが、教え込もうが、刻みつけようが。どうやってもこの男は銀時の意には沿わぬ『土方十四郎』であって、『真選組の副長』であるのだと。
 真選組よりも坂田銀時の存在を依って立つ世界にした所で、この男の本質は懐かない野生の獣であって。それを征服して執着して愛してやりたいと、己の身勝手な心がそこに付随して生じるのが解った。
 失われたその残骸を、土方であって土方ではない存在だからこそ、意の侭にしてやろうと思っていたのに。造り直せば直すだけ、打ち直せば直すだけ、鋳型に填めようとすればするだけ、それは記憶を失って猶、土方でしかない存在だったのだと思い知る。土方が感じていた齟齬よりももっと強く、その違和感を憶える。
 結局。誰よりも、失われた『土方十四郎』を求めていたのは銀時自身だった、と言う事だ。
 万事屋、と呼ばれた。あの男しか呼ばない声で。どうあってもお前の意には沿わぬのだと言う心を浮き彫りにして。
 その瞬間背筋を走り抜けたのは歓喜だったのか、それとも酷い怯えだったのか。ただの失望だったのか。
 今更何と言葉を尽くした所で、己が記憶を失った人間に対し行った酷い所業と自分勝手な愛情の押しつけと──分かれを切り出したくせ諦めきれずにそんな無様を晒した、この醜い恋情は赦されて良い行いでは無かった。
 軽蔑されるか見限られるか痛烈な弾劾を突きつけられるか。何れも避け難いだろう。
 つまり、これで今度こそ本当に終わる、と言う事だ。奇しくもリハビリの日々の期限となった日取りと全く同じ時に。
 もしも仮に、土方が、記憶を取り戻していなかったとしても。昨日の相対は、ほんの僅かの綻びから生じた、何かの偶然起こした、記憶の僅かばかりの発露だったのだとしても。
 ……仮令そうだったとして、今日と言う日がどう言う形であれ何かが『終わる』事に変わりはない。それは、土方の記憶や感情の所在、銀時の恐れや諦念など無関係にして、だ。
 銀時は苦りきった笑みを理性とは別の場所で刻み、縁側の窓にことりと背中を預ける。寝室で瞑る土方の姿は遠い。だが、その距離を詰めて良いのかも良く解らない。
 溜まって行く鬱積と疲労とが、終わりの覚悟を聡く感じて。こんなにも卑怯で、臆病な己が酷く滑稽に思えた。
 それでも、厭われても憎まれても見限られても、土方の事を諦められそうもない。どうしたら良いかなぞ解らず、ただ諦める事だけが出来ない。子供の癇性の様に持て余しているのは、確かな恋情だ。
 「すまない」
 繰り返された、その言葉は。果たして誰に向けたものだったのか。『誰』の悔恨だったのか。
 掌に顔を埋めた銀時は、背中を丸めてずるずるとその場に座り込んだ。
 分かれを切り出したり、それを翻して自分に都合の良い状況に持ち込んだり。そんなひとの心を踏み躙る手前勝手な決断ばかりをしたくせ、そのことに後悔が無い事が一番酷い話だと思う。悪いとは思えないから、罪はより罪らしい。
 言葉を尽くしても、想いを尽くしても、これは手酷い裏切り行為なのだ。
 況して、土方の記憶が戻っていなければ良い、などと思うのは──
 そうやってどれだけ蹲っていたのか。一分か。一秒か。或いはもっと長い間か。不意に、目の前に膝をつく気配がした。衣擦れの音。裸足で畳を踏む音。近付いて来る、ぬくい体温。
 時間をかけて、ゆっくりと顔を起こして、

 「……お早う、坂田」

 「……………おはよう」
 憶えたのは落胆か、期待か。安堵か。どれとも名状し難くて、銀時は情けない様な顔で笑った。柔らかく穏やかな『土方』の微笑が直ぐ目の前にあって、思わず手を伸ばす。
 払われるかな、と思ったが、そんな事もなく。銀時の手指は土方の黒い髪をさらりと撫でて、側頭部を下って頬へと触れた。
 「……髪、また少し伸びたな」
 ここに来た時に切ってやってから、二ヶ月は経っただろうか。切ったばかりで固かった黒い毛先も今はは柔らかな手触りと長さとで銀時の指先を擽る。
 「なら、またお前が切ってくれれば良いだろう」
 銀時の手が髪を弄るのに、心地よさそうに目を細めた土方は事も無げにそう言った。
 「…………いいの?」
 「何が…?」
 「………」
 静かに微笑んでいる土方に、銀時はかすかな違和感を憶えた。
 嘘ではない。だが、その正体は一体何なのか。それを探るより先に、土方は銀時の身体越しに窓を見上げた。その向こうの、外の世界の、空を。
 「今日から復職だ。晴れて良かった」
 「……そうだな」
 銀時はゆっくりと、土方の頭髪を弄んでいた手を離す。その指先が完全に離れ切る寸前に、土方が
 「坂田」
 万事屋、と呼ぶのに似た響きに名前を呼ぶのに、銀時はただ目を細める事で応じた。
 多分。醜い事にも、歓喜を憶えていたのではないか、と思う。
 
 
 糊の効いた真新しい、黒の羅紗地に銀の縁取りの入った隊服は、既に前日に届けられていた。
 白い清潔なシャツに袖を通し、黒いスラックスを穿いてベストを着て、スカーフを巻いて、上着を羽織る。
 書斎の鴨居に掛けてあったそれらを身に纏った土方の姿は、よく見慣れた様で、まるで見慣れない異質な存在の様にも見える。
 「久し振りでも、やっぱその恰好の方がオメーらしいわ」
 「…そうかな」
 おろし立ての筈のお堅い隊服は、土方の身にまるで昔からそう在ったかの様にぴたりと収まっていた。故に銀時は世辞でもなんでもなく端的にそう感想を述べたのだが、土方は姿見も無いこの部屋で、自らの形がどう見えるのかもさして気にする風でもなく、ただ少しはにかんだ様な表情を浮かべてみせるのみだった。
 朝、電話を寄越した山崎は、九時頃にこちらに到着すると言って寄越した。時計を見上げれば時刻は八時と九時の丁度間。十一と十二の数字の間に置かれた長針が、そうする間にもゆっくりと歩みを進めている。
 無粋な此岸と彼岸の距離は、徐々に近付いて交わろうとしていた。
 引っ越しの為の荷は既にまとめて玄関に置いてある。とは言え家財の殆どはこの家に備えつけであったものだから、実際に持ち出す荷物は着替えや手荷物程度しかない。
 それでも、見慣れた机の上が綺麗に片付いている様や、押し入れにきちんと仕舞った布団、何も乗っていない卓袱台などは、この家屋から住人を失った後の物寂しさを何処となく漂わせている。
 銀時が整えた庭草も、また夏を迎える頃には野放図に茂るだろう。玄関先の白木蓮はそろそろ開ききっている。生け垣の椿も花弁を茶色くしてぽとりぽとりと我先に落ちて久しい。それを片付ける者らを送り出した後は、悄然と次の住人を待つのだろうか。
 「坂田」
 呼ばれた声に誘われる様に、庭へ向けていた視線を振り返らせれば。そこには、目尻に今までの様な険しい力を持たない──敢えて表すならば穏やかで幸福そうとしか言い様のない、そんな虚無にも似た土方の微笑がある。
 真選組の隊服を纏った土方が、然しそうではない『土方』の表情を浮かべている。
 それは酷い冒涜の様で。望んだ何かの結果の様で。矢張り開けてはいけなかった筺の底の澱みの様で──そこに映し出された己の顔が、そら見た事か、とばかりに嗤うのが滑稽だった。
 「坂田、」
 繰り返される名を紡ぐ唇に指で触れ、頤を辿って、声を発している声帯を喉ごと柔く掴めば、土方は「苦しい」と小さく笑った。
 その名をその格好で紡ぐ、それが不愉快だ、と。もう少し力を込めれば喉を潰せる。そんな腕一本の狭間にあるのは、然し酷く不釣り合いな甘く穏やかな空気。
 「…………本当にいいの」
 苛立ちの焔を瞳の奥に揺らしながら、銀時は選択肢の不確かな問いを発して、
 「何が…?」
 その不安定な笑みに、土方は再び確かな応えを残して、そっと目を伏せた。
 言葉は。無垢な子供の口にする問いかけの様に透徹とした、迷いの一切の無い声音で。波立つ事のない程深くに潜んだ大きな感情の顕れの様であった。
 「…………」
 応えられず。答える事も出来ず。落ちた沈黙は、切れ味の悪い刃の様にじわじわと食い込んで行く様な重苦しさを伴っているくせ、不思議に穏やかな空気を保っている。
 伏せられた目蓋に誘われる様に、銀時は僅かに笑みを刻んでいる土方の唇に寸時の口接けを落として、それからより一層声を潜めて、至近距離で囁いた。

 「俺のもので、いいの」

 秘め事の様な、緊張に掠れたその囁き声に、指の下で土方の喉が僅かに震えた。笑うにも似た吐息。
 目蓋を持ち上げた土方が、くしゃりと歪む様な笑みを浮かべた。それは草臥れた老人の様で、或いは嘆き疲れた若者の様な表情で。銀時は何故か胸が酷く痛むのを感じた。
 これには憶えがある。なにかを歪めて仕舞う時の、諦念によく似た罪悪感だ。
 「解っている」
 土方の手が、厳かな指揮者の様な動きでゆるゆると持ち上がり──銀時の左肩にそっと触れた。
 刃の引っかけた切れ目と、その下に刻まれた疵とをなぞる様に。
 途方もない失望を自ら引き裂いたそこに、なにかを残そうと、見出そうとするかの様に。
 あの『土方』の知らない筈の『はじまり』を、辿った。
 「万事屋、」
 その指先に込められていたのは、決して喜悦ではない。悲嘆ではない。
 ただ、ひたすらに虚無に等しい、ぞっとする程に澄んだ想いだった。
 
 もうこれで、おまえのものになれたから。
 
 背に回される腕。縛る様に。疵を辿って、囁く言葉。
 「──」
 寸時瞠目した銀時は、これが己の抱いた幻想の結末だったのだと言う事を悟った。
 こう在る事を、そうは決して出来なかった男へと願った、与えようとした、その帰結。
 
 土方十四郎は予定通り、リハビリを終えて真選組の副長として復職するだろう。
 千切れた記憶に悩みながらも、また真選組の為に尽くすだろう。
 坂田銀時は依頼を全て終えて、万事屋の退屈だが穏やかな日常に戻るだろう。
 家族にも等しい仲間に囲まれて、困窮した生活を送ったり暇を持て余して生きるだろう。
 住処の互いに変わらぬ侭、距離だけを近づけて。心の置き処を変えて。愛し愛されながら両者は再び同じ途を往くのだろう。
 何も、無かったかの様に。
 何も、無かったのだから。
 手前勝手な決断も、縛り合えなかった情も、恐がって離した手も、変わって仕舞った形も、全ては失った記憶の中での秘め事。
 二人だけの知る、甘い失望に浸された秘め事。
 
 笑って、もう土方を縛る事のない堅苦しい隊服ごと、腕を回して強く、抱き寄せる。
 嬉しさと、愛しさと、歪んだ歓びに震える銀時の背に、疵を辿る手はその侭に、同じ様に土方の腕が寄せられた。
 この狭間に唯一確かに存在するのは、先も続く二人だけの天国の日々。
 互いを縛り合う様に寄り添った二人の口元には、屈託のない笑みがあった。
 





歪みっぱねぇですがこれで終了です。
拍手とかに励まされてなんかもうほぼノンストップと言う奇蹟(当比)の実現でした。一ヶ月少々毎日の様にお付き合い下さり(リアルタイム)、本当にありがとうございました。

: 
 









































*

*

*

蛇足。
説明とかなんかそういうのホント苦手なんで、どうでも良い方はやっぱり黙って回れ右推奨。

えーと……、始まりの段で土方は銀さんを騙して笑おうとした上、それを隠し通す事で互いに屈託を深めちゃったんで、飽く迄因果的な言い方にすると、自業自得なんですということで。欺き通す対象が変わっただけ。
大っぴらに、真選組を放り棄てて万事屋を選んでもいいよ、が公認と言う有り得ない選択をして頂きたかったのでした。