不可侵



 「ひーじかーたくーん」
 「うおッ!?」
 何の前触れも気配もなく背後から、耳元に囁かれた声と「ふー」と言う吐息に、土方はびくりと背筋を伸ばした。振り返るまでもなく声音で解ったその正体に向けて怒鳴り声を上げる。
 「万事屋、テメェ一体どっから入って来やがった!?」
 ここは真選組の屯所、副長の執務室兼私室だ。畳張りの八畳間の隅には大きめの文机が置かれているだけで、他には生活用の家具以外の飾り気は碌にない、実用一点張りの部屋。
 そんな室内には堆く詰まれた紙束やファイルやらがそこかしこに散らかっており、それらに包囲される形になっている机の前に上着までしっかり着込んだ制服姿の土方はいた。
 そしてその背後には今、土方の指摘した通りの、万事屋の坂田銀時がぴったりとくっついている。
 「普通に門からに決まってんだろ。おめーらの所のストーカー局長と一緒にすんなよ。
……あーれぇ〜、鬼の副長さんともあろうお方が、もしかして、ひょっとして、客が来た事にすら気付かなかったんですかァ?」
 離れろ、と土方に乱暴に押し遣られながらも銀時はにやにやとそう言い、大人しく両手を挙げた。膝立ちの侭一歩ばかりを離れる。
 「誰が客だ、誰が!門番は何やってやがんだ畜生め」
 銀時の、得たと言わんばかりの笑みに土方は血管をぴきぴきとさせながら呻く。
 殆ど一日中書類と睨めっこするデスクワークに追われ、少しだけ、ほんの少しだけうとうとしたその瞬間に、なんでタイミング良く万事屋(このやろう)は来るのだと悪態を胸中でひっそりつく。
 「門の所でジミーに会ってな。訊いてもないのに、副長は今日執務に励んでるから自室ですよって教えてくれたもんで」
 「山崎ィィィィ!!!帰ったら殺すぞあの野郎ォォ!」
 あっさり答える銀時と対照的に、今ここにいない山崎に向けて呪いめいた悪態(というより死刑宣告)を一頻り吐き出すと、土方は煙草を取り出して火をつけた。はぁ、と煙を吐き出しながら、そんな忌々しい経緯を経てちゃっかりと部屋に座り込んでいる自称客の銀時を睨む。
 「見ての通り今日は忙しいんだよ。用がねぇならとっとと帰れ」
 言いながら自ら視線を周囲に彷徨わせる。朝から余り書類の山が減っている気がしない。真剣に没頭していた筈なのだが、土方の仕事効率よりも書類の山が増えて行く方が早いのは明らかだった。
 「実戦だけでなくて執務も膨大か。副長さん苦労してんのな」
 「あっコラてめぇ一応機密なんだぞ勝手に見てんじゃねェよ!」
 散らばる書類の一つをひょいと取り上げてぱらぱらめくる銀時の手から素早く書類(それ)を奪い返すが、今の散らかったこの部屋の中ではそれも余り意味が無かった。何しろ周囲の何処を見回しても散らばっているのは部外秘の書類ばかりである。
 「ここにあるの、殆ど始末書じゃねェの。お、なになに…器物損壊に市民からの苦情に…」
 「だから勝手に見てんじゃねェ」
 無駄か、と悟った土方は取り上げた書類を卓にぽいと投げ、溜息の代わりに煙草の煙を盛大に吐き出した。こんな状況ではニコチンも余り精神安定の役に立たない。
 「ああ、そうか。こんだけ多いのは一昨日の捕り物の所為か。攘夷志士くずれの銀行強盗とか言ったか?」
 「〜なんでテメェが知ってんだよ」
 「何でって。そりゃあんだけでっかいニュースになってりゃなあ。今日だって朝からその報道尽くしの編成で、結野アナの占いコーナーも短めカットされてんだよ?どうかしてるよこの国、どうかしてる」
 ぶつぶつと、かなり本気の込もった銀時の愚痴めいた言い分に一瞬だけ苦笑し、土方は一昨日の事件を思い出す。
 攘夷志士くずれのグループの起こした強盗事件。それは真選組が出れば本来ならあっと言う間に片付く程度のものだった。
 犯人グループは用意していた爆弾を用い、店内にいた行員や客を人質に取って金銭と脱出出来る車輌、監獄にいる大物攘夷浪士の解放、そしてテレビで犯行声明を伝える事を要求してきていた。
 強盗なのか自爆テロなのか陽動なのか、その何れでもあるのか。土方は警戒しつつも、早期解決を選んだ。幸い、逃げて来た行員の証言から犯人グループの様子や、工事中の地下からの侵入が容易であるという情報を得られたのもあり、マスコミを遠ざけて一斉突入の機会を窺う。
 然し、突入命令の寸前。内部で突如爆発が起きた。犯人グループは、報道管制を無視して真選組の突入の瞬間という衝撃的な映像を撮ろうとしたマスコミの中継カメラから突入を察知したのだ。
 爆発で直接の死者は人質には出なかったが、怪我人が出た。最早真っ当には逃げきれないと悟った犯人らは逃げ惑う人質や爆発の騒ぎの最中に、脱出しつつ真選組に一泡噴かせる一手に出たのだった。
 怪我人の救出。逃げようとする元人質達の動き。これによって隊士が二人、犠牲になった。
 然しなんとか犯人達を捕らえ、崩れかかった銀行から外に引き摺り出す。
 隊士に抑えこまれていた犯人のひとりに、またしても愚かなマスコミが近付いた。スクープに浮き足だった女記者は、もう犯人は無力化されたものだと思い込んでいた。
 女を制止しようと隊士が犯人から意識を逸らしたその瞬間、犯人は記者を人質か道連れかに狙って動いた。義手に忍ばせていた刃を振り抜き、自分を抑えていた隊士を振り解くと、駆け出す。
 隊士の不注意だったとは全面的に言い切れはしない。記者が軽率だったのは間違いないが、それを制止しておくだけの力が幕府の権力に無かったのも、間違いない。
 だが、義手から光るものが見えた瞬間、土方は既に動いていた。女記者の腕を掴んで引っ張り寄せ、同時に自分は一歩を踏み出す。土方の姿を認めた刃が二度翻るより先に、鞘ごと刀を片手で突き出し、柄で犯人の顎を一発殴打。鞘から手を離し、次の瞬間には柄を握って振り抜く。一閃。
 犯人が切り伏せられたのとほぼ同時に、女記者が地面に転がり、その痛みに小さな悲鳴を上げた。
 (余計な事しなきゃ、無駄死にしねぇで済んだかもしれねェのにな)
 事切れた犯人の骸を見下ろして、誰にともなく呟きながら土方は足下に落ちた鞘を拾い上げた。そして、じっとこちらを捉え続けていたファインダーの存在に気付き、追い払う様な仕草をして、煙を吐き出す。
 「あの場面、何度も何度も流されるもんだからな、オメーに惚れ直しちまったよ。五回は軽く。でも銀さんが惚れ直すくれェだし?きっとあちこちで真選組格好良いー、土方さん素敵ーとか言われてやがるんだろうなー、あぁ妬けるねー妬ける」
 「知るか。餅でも魚でも好きに焼いてろ。報道の自由だかなんだか知らねぇが、ああ言うのは迷惑なんだよ。今回のウチの犠牲だってアイツらの責任だ。隊士の家族に訃報を伝えなきゃなんねェとか、真選組の失態に対する謝罪行脚だとか、こちとら後まで引き摺りそうな要素盛り沢山でもう腹一杯だわ」
 回想を継ぐ様な銀時の態とらしく軽い声に、土方は煙草を噛み潰して露骨に表情を歪めた。犠牲になった隊士の一人は病弱な母親の為にと身を粉にして働いていた青年だった。
 そういう連中は下手をすれば毎日の様に出る。殉職だ、死兵だ、と軽く割り切るには人の命は重過ぎるものだが、全てを失わずに全員を護ってやれる度量など、誰もが持ち得る筈もない。
 刀を手にした時点で、危険に身を投じた時点で、誰かに向き合った時点で、自己責任だ。
 割り切るのに慣れようとしている己に気付けるからこそ、気鬱にもなる。そうして際限のない溜息と共に煙を吐き出す土方を銀時は暫くじっと見ていたが、やがて手をつい、と伸ばしてきた。
 「なん、」
 その行方が自らの左腕だと気付いた土方は反射的に身を引くが、拒絶の意のあるその距離をあっさりと詰め、気温の高い日にも拘わらず、しっかりと袖の通された左腕に、つん、と銀時の人差し指が触れた。
 「──万事屋、てめぇ」
 「手当、したのか?」
 意に気付くのは必然だった。土方は頬の内側を噛むと、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。舌を打つ。
 「……近藤さんには直ぐバレたからな。世話んなってる医者に診て貰えって言われたよ」
 「一日中執務なのも、近藤(ゴリラ)の配慮か」
 「…………まァな。……〜ところで万事屋、てめェ、いつ気付きやがった」
 目を細めて土方の左腕を、制服の下にある包帯の巻かれた傷を、透かし見る様に見ていた銀時は事もなげに肩を竦める。
 「テレビでやってたって言ったろ。あの場合お前なら女退けた勢いの侭、刀抜いて切り捨ててる筈だ。一発殴るフリして、鞘飛ばす様な回りくどい真似はしねェ」
 「………」
 現場に居なかった癖によく見抜く、と感心より呆れの強い溜息をつき、土方は袖越しに腕の傷に僅かに触れた。
 女を引っ張った時、女に向けられていた刃は当然の様にそこに割り込んで来た土方の左腕を大きく抉っていた。悲鳴も上げず態度にも出さず疵を隠した土方の様子と、黒い制服という血の目立たない装束も相俟って、あの場で気付いた者は誰も居なかっただろう。況して、一方向から見ていたテレビカメラでは丁度解らない角度だった筈だ。
 近藤が気付いたのもその後、土方が刀を持った右腕で鞘を拾い上げる動作を見せた時だった。
 (……よく、見てる)
 もう一度反芻し、土方は制服を正す様に袖を引いた。局長命令の執務と脱がない上着から、或いは沖田辺りも気付いていたのかも知れないが。幾ら何度も繰り返し報道されたからといい、小さなブラウン管越しでよく気付けたものだ。
 「痛ェ?」
 その動作を違う意味に取ったのか、銀時が問いながら手を再び伸ばして来るのを、土方は今度は黙って見送った。
 「違ェよ。傷も大した事ねェしな」
 「ふぅん」
 相槌を打ちながら、銀時は土方の左腕に触れた。上着と、白いシャツの向こうの、見えない筈の傷の位置に、正確に。
 「おい…、何して、」
 「痛ェ?」
 もう一度訊いた手がそっと、衣服と包帯越しに傷をなぞった。何かを悼む様に。労る様に。
 「……痛くねェよ」
 「痛ェの飛んでけー」
 土方の応えと逆にそう言うと、銀時は隊服に包まれ遠い筈の土方の腕──の傷──に顔を寄せ、くちづけた。
 「〜ッだから、痛くねぇってんだろーが!」
 真っ赤になりつつも、左腕に無理をさせたくなくて動かせない土方の思いを知ってか知らずか、銀時は白い袖に唇を押し当てた侭。
 「オメーは時々妙に頑張り屋さんで意地張り屋さんだかんな、銀さん心配にもなっちまう」
 「……………、余計な世話だ。手前ェの身くらい手前ェで面倒見れらァ」
 一瞬詰まった。照れ隠しの様に早口になる土方を、見抜いているのかいないのか、銀時は目を細めてじっと見ている。そんな銀時の態度から、ひょっとして屯所をこうして訪ねて来たのはこのことが原因なのだろうかと土方は不意に気付き、不作法なテレビ局と口の軽い山崎とに苛立ちの矛先をちらりと向けつつ、掴まれた侭の手を引いた。
 「も、良いだろ…。離せ」
 「痛くなくなったんなら離す」
 「〜だから痛くねぇって言ってんだろうが最初ッから!」
 ついむきになって乱暴に引き戻した事で、じり、とした痛みが一瞬左腕を走った。思わず顔を顰める。
 (……、痛)
 それほど深くはない傷だが少しの痕くらいは残るかも知れない、そんな程度の傷だと言うのに、痛み、と言う感覚ばかりは忘れた頃に主張する。今更傷の一つ増えた所でなんとも思わないが、人間の体は脆いものだな、と思わずにいられない。天人との戦争時には、奴らの頑丈な体や再生能力の前に、地球人とは、侍とはどれだけ無力なのだろうと、嘗ての人々はどれほど痛感させられたのだろうか。
 「やっぱ痛ェんじゃねーか。無理すんなよ、冷や汗出てんぞ」
 「出 て ね ェ」
 銀時の軽口に頑固に返し、土方は先程から放り出した侭だった万年筆を取り上げた。筆の方が書き易いのだが、大量に文字を書く時はこちらの方が効率が良いからと、以前山崎を含む隊士らから贈られたものだ。
 卓の上に置いてあった書きかけの書類を前に、その万年筆の尻で額を揉む。果たしてどこまで書いたのだったか。
 その万年筆と眉間に皺を寄せる土方とを、膝の上に肘をついた銀時は暫くじっと見ていたが、やがてしみじみと吐き出す。
 「お前ってさぁ、愛されてるから苦労する立場だよなつくづく」
 「……はァ?」
 また戯れ言かと、書類から目を上げずに土方は一応疑問符を投げておく。今目を離したら、漸く見つけた続きをまた忘れそうだった。
 土方の意識が余り向いて来なかったのは別に気にする所ではなかったのか、銀時は構わず続ける。
 「近藤(ゴリラ)は真選組(おまえら)の大将であって象徴だろ。アイツそのものが真選組の大黒柱みてェなもんだ」
 「ああ」
 頷く。真選組の創設期からの隊士に限らず、真選組(ここ)に居る者の多くは、近藤に何らかの恩を受けたり、近藤の人柄に惚れ込んでいるのだ。時にストーカーじみた事をしたり情けない姿を晒す事もあるが、それらも「仕方ない人だな」と苦笑出来る程に皆──、言って仕舞えば長兄や親父を見る様な目で近藤勲を慕い尊敬している。
 まあ、流石に行きすぎた失態に対しては副長である土方が必死でフォローをして誤魔化したり支えたりをしているのだが。とは言え、それが無くなった所で皆が近藤に愛想を尽かすとは思い難い。
 土方自身、それは不思議な連帯だと思っている。隊士達には階級差があるし、一年に何度かは隊員が増員されたり減ったりを繰り返すと言うのに、真選組(ここ)はいつだって、誰にとっても信頼深い一つの家族の様なものだった。
 真選組と言う器は実に度量が深い、と言うべきなのだろうか。否、その多くは恐らく近藤勲の人柄に因るものなのだろう。
 (まァ…、あの人は何でもかんでも自分の懐に、友やら家族みてェに抱え込んじまうのが特技みたいなもんだしな…)
 考えながらもキリの良い所まで書き切り、煙草の箱を探りながら土方は小さくごちる。改めて思う迄もないが、自分とて彼に拾われた様なものだった。
 銀時の言う事も恐らくはそういう事だ。付き合いはまだそう長くもないのに、彼の目から見ても近藤の存在は確かな『柱』と映るのだろう。
 「で、お前はそのゴリラ柱に続く、真選組の魂とか、肝とか、看板娘…じゃなかった、看板とか。そんなもんだろ?」
 「魂は買い被り過ぎだ。俺ァ近藤さんを…、てめーの言う「柱」って奴を支えるつっかい棒みてェなもんだからな」
 煙草をくわえてライターを探す。さっき使ってからどこに置いただろうか。
 周囲を見回した土方の目の前に、いつの間にか接近し机の真横に膝立ちになった銀時の姿があった。驚く間も無く、とん、と人差し指で胸元を突かれる。
 「局中法度、ったっけ。ゴリラ柱の周りに出来たあばら屋に、本当の意味で士道を説いて侍の魂ってのを作り上げたのは、お前だろ?」
 「………で、何なんだよ?」
 銀時の思いの外の真剣な表情に一瞬気圧されながら、一連の問いかけがどう繋がるのか解らず、土方はライターを探すのも忘れて不審さを隠さない眼差しを銀時に向けた。もし注意を引く為にこんな話題を選んだのだとしたら、踊らされた形になるな、と何処かで思わないでもなかったが。それにしては銀時の表情は真摯で、真剣だった。
 つい、と伸びた銀時の手が、土方の頬に触れるか触れないかの位置で、躊躇う様に意識的に止められる。
 「柱守って、隊士には凛とした自分を示し続けなきゃなんねェ。怪我ひとつ気取られない様にしなきゃなんねェし、痛いって言う事も出来ねェ」
 顔の真横のてのひらの温度が、触れてもいないのに──熱い。
 瞠目した土方は、然し次の瞬間には、いや、とかぶりを振った。
 「……だから、痛くねェってんだろうが」
 その怪我は痛くないかもしれない。でも、他に負った怪我は?負うだろう怪我は?
 きっと続いただろうそんな言葉を口には乗せず、銀時はもう片手も伸ばしてきた。土方の両頬を挟み込む様にして抱え、額をこつりと押し当てられる。
 至近距離の行動に、土方は思わず目を見開いた。
 「お前は、白夜叉(俺)と同じなんだな」
 「え?」
 問い返した、小さな呟きに応えは返らない。
 当然だ。土方は銀時の過去を知らない。銀時が昔攘夷戦争に参加していたのだろう程度の想像はついているが、それ以上の事は何も知らないのだから。
 だが、知る筈もないその姿が、ぼんやりと白い輪郭を見せた気がした。
 戦場の守護神の様に崇められ、皆の手本となり、尊敬と畏怖とを集め、返り血と自らの血とを化粧にしてひたすら先陣を切った、嘗ての銀時の姿。
 真選組をただの、刀を持てる暴力集団にはしない様、侍たる士道を説き、副長と言う立場に在りながら常に先陣を切り込む土方。
 侍の魂を護ろうとするのだろう、その在り方は何処か似ている気がした。
 知る筈もない。想像でしかない。だが銀時の行為が、嘗て見て来たかの様な──労るものである事にだけは気付き、土方は狼狽えた侭硬直するほかない。
 今は身軽になった銀時は、自分の武士道(ルール)を護る事を己の魂を護る事としている。その護るものの中には、かぶき町に出来た知己や、万事屋そのものも勿論含む。それらを護ることが銀時の定めた士道でもある。自分のそんな信念や感情に嘘をつかないのも、士道だ。
 土方にも同じ様に背負うものがある。自分だけの武士道(ルール)を守る事だけに専念する訳にはいかない、真選組と言う組織を支える為のヤリカタも、或いは士道の一つだろうが、時には己の感情や信念よりも真選組(なかま)を優先しなければならないこともある。
 そうやって絡め取られるジレンマを、その都度感じる無力感を、恐らく銀時は苦い思い出の中に持っているのだろう。
 「…おい、万事屋、」
 「俺はさ」
 互いの停止の長さに狼狽えた様な土方の声に押され、銀時が目を開く。
 至近距離で合った視線に、銀時は目を細めて微笑み、土方はびくりと僅かだけ震えた。
 「真選組じゃねェし、お前の仲間でも部下でもねェんだから、俺の前でくらい土方くんは素直に甘えても良いと思ってんだよな」
 「──、」
 「痛ェ?」
 息を呑んだ土方に続けて問いを重ねる銀時。
 「……痛くねぇって……」
 「痛ェ?」
 「………………、あのな、」
 「痛ェ?」
 「〜〜っ」
 諦める様子なく繰り返す銀時に、土方は奥歯を噛んだ。実際痛くて堪らない訳ではないし、ここまで来て「やっぱり痛い」とは到底言えない。
 「………もっとデケェ傷負って、そん時てめぇが目の前に居たら頷いてやるかもしれねェ」
 最大限の譲歩で土方が目を逸らしつつそう言うと、待っていましたと言う様に、銀時の唇が額に落ちて来た。
 「俺じゃあ真選組(お前ら)の内側には入れねぇからな、せめてお前が手ェ余所に伸ばす場所が欲しくなった時に思いつける様なさ。そう言うのになれんじゃねェかなって」
 だから、いつでも甘えておいで、と囁く銀時を、土方は赤面した侭見上げた。
 「……それも、てめェの士道って奴か?」
 「って言うより希望?土方くんに甘えて貰えたら嬉しいと思います…ってアレ、作文?」
 「…………〜勝手に言ってろ」
 いつもの、死んだ魚の目とは違う、明確な笑みの乗った銀時の顔からぷいと目を逸らし、土方はついぞ癖で、左腕で銀時の体を除けた。
 (…痛て)
 走った小さな痛みが何故か甘く感じられた気がして、土方は結局言葉を呑んだ。得ていたのか、銀時が小さく嘆息し、元通りの距離に離れて座る。
 「まだ必要無ェの」
 「……今の所はな」
 吸ってもいないのにフィルターを噛み潰して仕舞った煙草を灰皿にぽいと投げ入れ、土方は再び万年筆を握り直した。
 ──いつ、必要になるのか。
 その時、手を伸ばせるのか。
 此奴はちゃんと振り返ってくれるのか。
 暗雲の様な思考を振り払う様に土方が小さくかぶりを振った瞬間、横から伸びて来た銀時の両腕が頭を捉えていた。
 ぼす、と横向きに倒れた土方の頭を胸に抱き込んで、銀時の手が頭をわしわしと撫でている。
 「よ──、てめェ、なに、」
 「好きだ」
 「……へ?」
 答えにならない答えに、土方は瞬きを繰り返した。抱き込まれた形になっているから銀時の表情は見えない。
 数瞬遅れて、頭に一気に血が昇る。何か今、とんでもない事を宣われた様な気が。
 「だからさァ……、好きだって言ってんだよ土方コノヤロー」
 沖田の様な言い種でそう言いながら、銀時は労る様に、子供にする様に、土方の頭を撫でている。
 伝わっていない訳ではないのに、見えない答えを恐れて手を引っ込めて仕舞う己が酷く不器用で、もどかしいと思えて、土方は無言で俯いた。銀時の言いたい事は解る。こっ恥ずかしい言葉の裏で何を思っているのかは、黙って頭を撫でている手の動きからも解る。
 絶対に、幾ら乞われた所で土方が銀時の元に手折れ、傷口を晒して泣く事など無いのだと解っていて、それでも猶『そうする』事を望むのを已めてはくれない。銀時の信念が確かなものであると知るからこそ、それが不変だと知る。
 お互いに、その信念に嘘はないのだと知っている。だから、一番には選べないと解っていても、それでも、お互いを信じてみたいと思った。
 自分のいない所で斃れる事などないだろう、強さも。魂の深い所で惹かれて止まないのだろう、思いも。
 「お前の答えなんざ解ってるが、俺も存外諦めは悪ィんだよ」
 「──………っ」
 銀時の背に手を回した土方の身が一瞬震えた。罪悪感には足りない、偽ですらない、ただの真正直な己の心は愚かだろうかと思う。どれだけあやされても宥められても労られても、それでも己の選べないものに対しての苦しさが募る。
 「解ってるからさ。偶にで良いから、もうちょい俺に譲歩してみねェ?」
 「〜ッ、俺は、例えばお前が辻斬りの時みてェに死にかけてたとしても、駆けつける事なんざ、出来ねェかもしんねェんだぞ…?!」
 そんな奴が、厚顔に自分だけはお前に頼りたいのだなどと、言えた義理か。
 人斬り似蔵と一戦交えたのだと言う、あの時の。土方が見たのは辻斬り未満の現場に残った侭の血溜まりだけだった。その後山崎から受けた報告だけだった。
 「知らない所で、俺の及ばない様な所で、死にかけてるテメェに……、そもそもテメェは呼びもしねェだろが、俺は、それを知ってやる事すら出来ねェんだ」
 (なのにテメェは、俺のこんな小さな腕の怪我にさえ目敏く気付きやがる)
 「不公平だろ、そんなの…」
 絞り出す様な土方の言葉の間も、銀時はその頭を撫でていた。
 「それでも俺は、お前の事が好きだ」
 「──、ッなんで、テメェは…」
 三度目の繰り返しに、土方は苛立ちながら体を引き剥がそうとするが、銀時の腕は益々強くなった。黒髪をさらりと撫で、抱き締めた頭に鼻を押しつけて呼吸する。
 「こんな思い、利己的だって解ってるさ。でも俺は例えば何も返らなかったとしても、お前が好きだし、護りてェ」
 それは余りに一方的な。残酷なぐらいに甘さの無い優しさ。選ぶものと選びたいものの齟齬の牙に噛み砕かれて、無惨に崩れた感情たちの中にただひとつ伸べられた、一方的過ぎる想い。
 「多分お前も俺と同じ様に思ってくれてると思う。俺にはそれだけで充分だ」
 「……ッ、ぎん、」
 ぎゅ、と抱き込まれ、呼びかけた声が掠れて消えた。
 「俺は、真選組って言う、護るものを抱えて折れねェ、お前の魂に惚れちまったんだ」
 土方のそれは、信念の為ならば手を汚すことさえなにひとつ躊躇わず厭わない、突き抜けたストイックな感情だ。いっそ病的に過ぎる程に、己の全てを其処に砕く事に迷いの無い心。
 「…痛ェよ」
 溢れそうな涙を堪えて、震える声が土方の喉から漏れた。己を強く抱き込んだ銀時の背を引き寄せ、縋り付く様に。強く目を瞑った。
 「……痛ェんだよ…」
 疵を負った腕も。それを隠し立つ責も。それを棄ててここでは甘えろと囁く声も。全てが、痛い。
 思うものと想うものとの狭間では、いつだって何もかもが苦しくて痛い。
 「痛くなくなるまで、傍に居てやるから」
 優しさより辛辣さの潜む筈の声音に、土方は唇も強く噛んだ。
 真選組が、近藤が、自分の全てだと思っていたそこに入り込んだ、小さな銀色の輝きが眩しくて、今はただ目を閉じて誤魔化そうと、そう思った。




二番目以降ってェのは、辛辣な序列でもあるし、信頼のなせるワザ的な意味でもあるんです。…多分。

引き換えに得た物は、狂おしくも不可侵の空洞の中。自分でも自分に入れない。