不可視と不触



 風呂から上がった時にはもう時計の針は12の位置に大分近付いていた。あともう一回り近い時間で、二つの針は重なって日付が変わる。
 濡れた侭の頭髪をタオルで拭うと、手早くドライヤーを掛けていく。深夜だがどうせ押し入れの中の同居人は疾うに夢の世界だ。あの娘がこんな音ぐらいで睡眠を阻害される事など無いとは知っている。
 櫛を使って慎重に髪を整えてみるが、どうせ少し動いたり眠ったりして汗でもかけば、あっと言う間に元通りの天パ頭になって仕舞う。解ってはいても、それでも髪は大事に整えたい。急にサラサラストレートヘアーになる事なぞ起きずともほんの僅かの希望ぐらいあるかも知れないのだし。
 少しの間鏡──自前で取り付けたものであり、鏡の裏に変なストーカーが潜んでいる様な事はない──と睨めっこし、一通りの納得が行くと銀時は欠伸を噛み殺して居間へと戻り、寝間着代わりの作務衣に袖を通すと今度は軽くくしゃみをする。幾ら風呂上がりで暑かったとは言え、いつまでも下着一枚で歩き回るには少しばかり冷える季節になって来た様だ。
 また何となく時計に目を遣れば、短針の方はもう12の数字の上に入り込んでいる。長針はゆっくりとそれを追い掛けて徐々に翌日へと向かって行く。毎日続く不毛な追い掛けっこは今宵とていつもと変わりはしない。何度見上げた所で変わりもしない。
 神妙になりかかる表情を意識して緩めて穏やかさを取り直すと、銀時は近くのソファではなく机に向かう社長椅子に腰を下ろした。深く背を沈めた状態で少しの間唸ると、ふと思い出して自らの指先を見下ろしてみる。先頃風呂の中で見た時、爪を切らなければと思ったのだ。
 溜息をひとつついて、銀時は机の抽斗から爪切りを取り出した。もう意味も無いけれど、と過ぎるひねた思考に無理矢理蓋をして、少しだけ白い部分の目立ち始めていた爪を、ぱちり、と音を立てて切って行く。
 見遣った爪先はそう鋭い訳でも長い訳でもない。木刀の取り回しにも爪の手入れなぞ必要ない。だがついそんな事を考えて仕舞うのは──何と言うか、習慣の様なものだ。
 それを言ってみた所で、赤面するか下世話だと顔を顰めるだろう相手は生憎と傍には居ない。本来今日のこの時間には居る筈だったのだが、居ない。
 尤も、そうだとしたら今更思い出した様に爪など切ってはいない。どこか外の連れ込み宿で今頃しっぽりと決め込んでいた所だっただろう。
 「………」
 落ち込んで居る訳ではないし、自分ではその心算だったのだが──どうやら少しばかり、淋しげ、の様な感覚を覚えているらしい。らしくもない、と己に苦笑して、銀時は鑢を掛ける爪先にふっと軽く息を吹きかけた。目には見えない微細な削り滓が空気の中へと散っていく。人の肉体の行き着く先、無駄に生じる老廃物たちは何にも混じらず沈殿して落ちる。
 無駄な作業の生む無駄な塵を深い溜息と共に吹き散らして、銀時はふんと鼻を鳴らして見せた。今更落ち込む事もないし訳でもないと言うのにみっともない、と目を細めて自らを嘲る。
 じりりりり、と、不意に沈黙を裂いた物音に銀時の意識ははっと引き戻される。見遣るまでもない、机の上の黒電話が立てる音だ。本体を微細に振動させる騒音に、銀時は少し考えてから受話器を取った。こんな深夜の電話になぞ本当は余り出たくはないが、逆にこんな時間だからこその緊急連絡と言う可能性はある。何の『緊急』かなど知れないが。
 何にしてもこんな日付変更数分前の深夜に電話を鳴らす輩など普通ではない。銀時は取れ取れと騒ぎ立てていた受話器に向けてお座なりに口を開いた。
 「はいもしもし、万事屋銀ちゃんです。この電話は現在使われておりませn」
 《俺だ》
 最後まで言い終えるより先に尖った鋭い声音に遮られて、銀時はぱちくりと瞬きをした。聞き覚えのありすぎる、聞きたかった筈の声の紡ぐらしすぎる言い種に喜ぶより寧ろ逆に眉が寄る。
 「……え。土方くん?何これ新手のオレオレ詐欺か何か?いや待て銀さんは騙されねーから。ある訳ないから」
 言いながら顔を顰めて、銀時は頭を巡らせてカレンダーを見た。日めくりの日付には9日の文字。上には10月の表記。十月九日。あと数分で終わる今日の日付だ。
 《誰が詐欺だボケが。大体テメーなんぞ騙した所で出て来る金も無ェだろうが》
 「イヤそれ金あったら騙し取る気満々の台詞に聞こえんだけど。やめてくんない、そんな男に貢がせる悪い女みたいな台詞。
……〜じゃなくて!…つーかお前確か昨日から出張だとか言ってただろ。俺にスゲー念押ししてっただろ。忙しいから構うなとかそう言うニュアンスで」
 《ああ。向こう五日は留守にするっつったな。間違っても電話なんざすんじゃねェとも言った》
 「おう、それ。そう聞いた」
 つい乗って仕舞う棘の篭もった声を律儀に肯定する、電話の向こうの土方の声は携帯電話からなのか微細なノイズが混じっている様でよく聞き取れない。否、言葉も内容も聞き取れているのだが、それを口にしている表情や感情がよく見えないのだ。
 出張+忙しい、と言う現状から、どうやっても回答が『深夜電話を掛けてくる』に結びつかない。
 「……??じゃあ何。何かあった?」
 この奇妙な行動と共に。解り易い筈の男の解り辛い態度を探るべきだろう。電話越しのもどかしさを憶えながら、銀時は肩に挟んだ受話器を逆の手で掴んだ。余り苛立ちが顕わになると言うのも解り易く拗ねている様で恥ずかしいと思ったのもあって、極力声から棘を抜いて問いかける。
 確か二週間ばかり前の話だ。急な出張で江戸を離れなければならなくなったと、逢瀬の後の気怠い空気の中で突然そんな点火済みの爆弾を投げつけられた事は銀時の記憶に鮮やか過ぎる。
 10月10日には帰れそうもねェ。
 布団の中で俯せに伏した侭渋い表情でそう告げる土方の言には、打算と誠意とが入り交じっていた。事後ならそれを理由に銀時の申し出る無体や我侭を躱す事が出来るだろうと言う賢しさは純粋に卑怯だと思うのだが、それ以上に純粋に、本当に申し訳なさを感じているからこその正直な物言いなのである。何日頃出張に出る、のではなく、10月10日には帰れない、と言う言い方がそんな土方の居た堪まれなさを雄弁に表していて、銀時は追い縋る事に一種の惨めさの様なものを憶えずにいられなくなる。恋人に寛容になれぬ男の矜持とか客観的な情けなさとか、そう言ったもの以上に。
 土方が何か、約束や予定を反故にしなければならない事態が起きた時は、いつもこうだ。土方は心底に申し訳がないと感じる己を正直に表して告げてくる。いつもの口喧嘩で出て来る意地の張り合いが嘘の様に素直に。
 そんな土方を前にすれば銀時もまた、常の様な嫌味な調子の棘や、言い返しの応酬もする気にはなれなくなる。勿論それに便乗をして『次』の打診をする事は忘れないのだが。
 或いは銀時のそんな心情をも土方は見抜いて口にしているのではないか、と嘗ては疑った事もあったものだが、生憎と土方と言う男はことこう言った問題に対しては無駄に律儀で、誠意を欠くと言った事はない。他人の居た堪れなさに付け込み嘲笑う程器用な悪態なぞ吐けないのだ。チンピラ警察の名の相応しい普段の様子を見ていると、到底頭なぞ下げそうもない尊大な男と言った印象の筈なのだが、よくよく見てみるとそうでもないのだと気付かされたのはもうずっと前の話だ。
 《……っあー…、》
 そんな風に、『10月10日は留守にする』、9日から翌日までの夜を二人で過ごすと言う、約束と言う約束はしていないが(何しろ互いに気恥ずかしいので)、例年通りそうなるのだろうと自然と思っていただけのスケジュールが、今年はこなせそうもないと予め謝って寄越した土方は、受話器の向こうで歯切れの悪そうな呻き声を上げている。迷う様に、躊躇う様に、酷く言い辛そうな様子だ。
 《だから、っつーか…、その、》
 その調子に悲嘆や焦りの気配はない。だから銀時は最悪の想像を取り敢えず振り払った。今際の際に声が聞きたくなったとか言う可愛い──もとい、悲壮な話ではなさそうだ。
 《……、》
 「?」
 雑音混じりの沈黙の中で何か小さな声が聞こえている様な気がして、銀時は受話器を耳に押しつけた。地獄耳とも言われる聴力を済ませてじっと、その向こうに居る土方の声と感情とを聞き取ろうと集中する。
 《えっと…、だ…、な。今日、つか明日、つか…、の、内に…》
 言っておこうかと。
 もごもごと、不明瞭な中からそう聞き取れる言葉に、銀時は軽く眉を跳ね上げた。
 「………あァ」
 その先の解答に思い至った瞬間、銀時は苦笑に似た表情を浮かべるが、次の瞬間にはそれは口の端をにやりと吊り上げると言う──見えていたのなら──人の悪そうな質へと変わった。
 受話器を耳に挟んだ侭、椅子の背もたれに思い切り寄り掛かると、空いた手に爪切りを取った。未だ切っていないもう片方の爪先をぱちりと切る。
 電話の向こうの土方にこの光景が見えていないのが残念だが、さも片手間の様な気配ぐらいは感じ取れるだろう。
 「ん?何?今日??今日が何だって?」
 笑んだ口元の侭にそっと時計を見れば、長針が丁度短針に重なった時だった。10月10日が一秒一秒、始まって進んで行く。
 《………っ、》
 ぐ、と息を呑む音が聞こえる。恐らく土方は銀時に気付かれた事を悟り、真っ赤になって歯噛みでもしているのだろう。追い打ちをかける様に銀時は謳う様に続ける。
 「何。言ってみ?」
 《………………》
 ノイズに混じって低い呪いの声が聞こえた様な気もしたがきっと気の所為だろう。上機嫌に喉を鳴らして忍び笑いながら、銀時は爪を切り続ける。今日は無駄になったかも知れないが、帰って来てからなら無駄にはなるまい。きっと直ぐの話だ。
 《……た、》
 「ん〜?」
 一分以上の長い沈黙を挟んで漸く決心でも固まったのか、呻く様な音を発する土方に、銀時は更に続きを促してやる。
 《…………………》
 また長い沈黙。それからどこか投げ遣りな溜息が一つ。うん?と思って銀時は耳を澄ませた。10月10日に入って既に二分以上が過ぎている。だが、その間や躊躇いも、もどかしいよりは微笑ましいと感じて仕舞えるぐらいには、気分は不思議と上向きになっていた。予定が変わって、一人でこうして深夜ぼんやりと爪なぞ切っている現状には何ひとつ変わりなどないと言うのに。
 《……誕生日。帰ったら祝ってやるよ、腐れ天パが。その時までその気色悪ィにやけ面は取っておきやがれ》
 え、と思わず銀時は瞠目した。人が悪く笑んでいた心算の口元はいつの間にかだらしなく笑みかけていて、その事実に気付いた途端、見えもしていないのに羞じを憶えてかっと頭に血が昇る。
 《そんだけだ。じゃあな》
 「えっ、オイちょっと待てって!何だよお前、結局言う気無ェのに何なのこの仕打ち!」
 《んだよ。今すぐおめでとう、って言って欲しいのかよ?オアズケってんだろ。今度こそ、じゃあな》
 思わず背もたれから背を浮かせて声を上げる銀時に、ふん、と土方はまるきりいつも通りの調子でそう一方的に言い終えると、電話を切った。
 真っ赤になった銀時の耳に、ツー、ツー、と言う切断音だけが響いている。
 耳から引き剥がした受話器を見つめて、もう繋がりもなく物も言わなくなった器物を投げ捨てる様に電話機へと戻し、銀時は切り揃えた爪で整えた頭髪をぐしゃりと混ぜた。
 「……ちくしょ」
 やられた、と呻きながら、椅子にぐたりと沈み込んで熱い溜息を吐き出す。
 「帰って来たら憶えてやがれ、あんにゃろうめ」
 きっと顔を真っ赤にして、どんな顔をしたら良いか解らない状態で(見えてもいないのに)、この日だからと電話を鳴らしたのだろう。仕事で忙しいと言う建前はあっても、全く律儀な土方らしい誠意の顕れと言うか。
 そんな土方の葛藤や様子を想像して忍び笑って、銀時はせめてこの不意打ちの溜飲をどう下げたものかと、彼の帰って来た時の算段を考えるのだった。
 気恥ずかしさを誤魔化す為にも。
 
 *
 
 おまけ。
 
 「あれ副長、こんな所で何しとるんですか?明日は早いので早く寝た方g」
 「うがあああああああああああああ!!!」
 「ちょ、何か知らないけど何ですか!何携帯投げ棄てて踏んづけてんですか!?物に当たるのはやめて下さ、って俺に当たるのも止めてくださ、ぎゃあああああ」




……今年もなにこの人たち…。土方がおめでとう言おうと試行錯誤するシリーズ、みたいな…?

つたえにいきます。