帰途 空の縁がゆっくりと白み始め、陽光に縁取られた雲が菫色の軌跡を引いて流れて行く。 五月に入って日の出は随分と早くなったが、街はまだ薄暗い影をそこかしこに残している。そんな夜明けの街の片隅で、忙しなく動く影が二つ。一つは未だ騒音を憚ってかエンジンをかけていない原付を通りに引っ張り出す銀髪の男。もう一つは煙草を燻らせてその様子を見つめている黒服の男。 「ちょっと待ってろ」 場所は大江戸かぶき町。そこにひっそり佇む、古びたスナックの二階で万事屋なるものを経営している坂田銀時は、通りに出した原付のハンドルに引っかけてあるヘルメットを被ってそう言うと、愛車の様子を確認する様に軽く点検を始めた。 「ガス欠だけは起こすなよ。後が面倒臭ぇ」 そんな銀時の姿を横目に、煙草を唇の間で器用に上下させているのは土方十四郎。その纏う黒い装束は武装警察として有名な真選組のものだ。 その腰には仰々しい得物が一振り。それに加えて今は、片手に少々年期の入った革製の手提げトランクの持ち手を握って肩に担いでいる。 「忘れもんは無ぇな?」 「無ぇよ。つーかさっきから何回目だその台詞」 「ねぇな?」 「………」 重ねてじとりと問う銀時に圧され、土方はその場にしゃがみ込むと手の中のトランクを膝上に乗せてぱかりと蓋を開いた。簡単に中身を検分してから元通りに閉じる。 「……無いです。多分」 「…………貸してみ」 自信の無さの表れなのか不自然に飛び出した敬語に、銀時は溜息を一つつくとそんな土方へと掌を向けた。土方は今にも頬を膨らませそうな仏頂面を隠さず浮かべつつも、大人しくトランクの持ち手を銀時に向けて差し出してくる。一言も反論が無い辺り、矢張り自信は今ひとつらしい。 トランクの中は意外と綺麗に片付いていた。幅60糎、高さ40糎、深さ20糎程度の小振りの鞄だ。鍵穴はついておらず、ダイヤル錠が代わりについているが壊れていて使えないらしく、ダイヤル部分にはテープがべたりと貼ってある。中身は幾つかの小袋に分けて収納されていて、下手に広げたら元に戻すのに苦労しそうだ。たかだか二日三日程度の旅にしては大袈裟でもある。 尤もこれはトランクの持ち主たる土方の仕事ではなく、主にその部下の山崎の仕事だ。放っておいたら荷物など何も持ちそうもない大雑把な所のある上司の為にと、気を遣って用意されたものである想像は易く、そうなると忘れ物と言う可能性もそもそも無いのだが、土方に荷物を大事なものだと思わせる為には必要な手順である。何しろ鞄の隙間には銀時の分の荷物もお邪魔させて貰っているのだ。 「よし」 銀時は大儀そうに頷くと、トランクの蓋を閉じて土方に手渡してやる。「煙草入ってたか?」受け取った土方が短くなりつつある口元の煙草を見ながらそんな事を問いて来るのに、「移動中は吸おうとか思うなよ、危ねぇから」と釘を刺しておく。走行中に後ろで鞄の中身をぶち撒けられたりしたら堪ったものではない。 一応、トランクの持ち手を通して、土方の体に斜めがけに密着させる様な形の紐を使って、移動中でも荷物をしっかりと落とさない様に固定出来る様にはしてある。昨晩余り布などを使って銀時が即興で作った紐だ。端布で繋いだ紐は少々不格好だったが、土方は特に気にしていない様で何より。 続けて銀時は原付の座席の中から予備のヘルメットを取り出すと、それを土方の頭に被せてやった。風圧で飛ばない様にきっちり顎でベルトを締めてやってから再びの「よし」。 粗方の確認を終えた銀時が原付に跨ると、土方もその後部席に乗って来る。 「荷物は絶対に落とすなよ?」 「あぁ」 「走行中は鞄の蓋は絶対に開けようとすんなよ?」 「解った」 「煙草吸いたいとか喉渇いたとかトイレ行きてぇとかあったら、我慢出来なくなる三十分前には申告しろよ?」 「了解」 お登勢辺りがそろそろ出て来て、「いつまでやってんだい、アンタら」と呆れて言いそうな程の時間は経っただろうか。夜明けの道の端がじわじわと明るくなり始めるその先を見遣って、銀時は原付のエンジンをかけた。未だ静かな時間帯の町には、小さなエンジンの音は大きすぎる騒音だ。 「じゃあ最後。しっかり捕まってろよ?」 「……おう」 小さな頷きと共に、おずおずと土方の手が銀時の腹にしがみつく様に回される。 出発進行。小さく口の中で呟くと、銀時はゴーグルを目元に下ろして、原付を発進させた。 * 地方の視察に行かなきゃならなくなった、と土方が言い出したのはそう前の話でもない。当初は銀時も「ああそう、行ってらっしゃい。お土産よろしく〜」程度の軽く送り出す対応であったのだが、詳しく話を聞く内その認識を改めざるを得なくなった。 目的地はそう距離的には遠くないが、インフラ整備も侭ならない田舎を越えないと辿りつけない様な場所である事、最も雑事に頼れそうな山崎が多忙中で供になれない事、護衛など必要ない程平和な場所である事。基本情報はその程度だ。 そこまでは別に良い。問題は、護衛も要らねェなら一人で良いだろ、と土方が言い張ったらしいと言う所に始まった。 そこで何となく嫌な予感と言う方面への勘働きがして、銀時が目的地までの路線図とルートとを土方に尋ねてみたところ、実に適当且つ大雑把な答えが返って来た。何しろ、「●●方面ってのにとにかく向えば良いんだろ」の、妙に自信たっぷりな一言のみである。 全く己の旅程に疑いなど抱かぬその堂々たる様子はまるで、磁石一つで旅をする冒険家か何かの様であった。然し無論だが土方十四郎は武装警察ナンバー2のポジションであって冒険家でも探検家でも無い。 「土方くんや、君は時刻表とか路線図とか言うものをご存知ですか?」 結局震える声で銀時がそう問いたのを皮切りに、「駄目だこの子無事に帰ってこれる訳がない」と言う、いわゆる土方十四郎の「はじめてのおつかい」的な風潮は、流石に危ぶんだ銀時経由で真選組内部に瞬く間に拡がった。 一昔前ならばともかく、今は交通網も発達して来ている。新幹線の様な一本直通の交通手段があれば楽だったのだが、目的地の場所柄どうしたって乗り換えや乗り継ぎが必要になる。 「Suicaが使えりゃ大丈夫だろ。何とかなるさ」 と。当の張本人である土方は、自分を馬鹿にする様な周囲の心配に対して開き直って仕舞い、その一言だけで切り抜けようとする始末だ。ローカル線も経由するからICカードだけあっても駄目だと幾ら言っても聞き入れず、終いには護衛なんて絶対に不要だと臍をすっかりと曲げて仕舞った彼に、近藤や山崎を初めとする真選組の面々が額を突き合わせて悩んだ結果。 「万事屋は護衛でも案内人でもなくて、移動の足だから。な?」 と言う近藤の依頼──もとい提案を受けて、銀時がこうして原付に土方を乗せて運ぶに至ったと言う次第である。 正直陸路を全て原付で、と言うのは長距離にも程があるのだが、ローカル線やバスに土方を単身で乗せるよりは断然マシだ。所用時間は公共交通機関より圧倒的に増すが、確実に、断然、マシなのだ。 何しろこの男は変な所が江戸っ子気質なもので、せっかちな所がある。その上で行動力と決断力もある。乗り継ぎの時間が勿体ないと一人で適当に歩き出したり、取り敢えず目に付いた車輌に乗って仕舞ったりと言った、迷子の典型的な条件を容易に満たしかねない。 そんな大きな迷子に、場所も解らない山奥までの救助を要請されるのも困るし、予定日数を大きく上回っても帰って来ない様な事になって、事件性を臭わせるおおごとにされるのも困る。 そんな真選組の切なる願いを受けた銀時であったが、内心では得たりと言った所である。土方の世話を任せられた事はやぶさかでないし、大っぴらに二人きりで遠出が出来ると言うのも望んだり叶ったりの事だ。移動時間をかなり食う為、道中泊も既に決定している。つまりはちょっとした旅行気分だ。 銀時の原付では高速には乗れないので、日中は混み合う幹線道路を使う事を選んだ。未だ夜明け──早朝頃の道路は空いており、緩やかに走り出した原付はあっと言う間に江戸市街の喧噪を離れ、人家の少ない郊外へと二人を連れ出した。 ターミナルを中心とした江戸市中の発展は目覚ましいものがあるが、少し郊外に出れば忽ちに風景は一昔前のそれに戻る。道路だけはそれなりに整備されているのだが──車輌通行の為である──、行き交う車や人は疎らで、酷く静かだ。 田畑の間に平坦な道がただただ続くだけの農村の風景はどことなく郷愁を誘う。二人乗りの原付が走り抜ける音に、農作業に勤しむ人々が時折顔を上げるのを、土方は遠目にきょろきょろと見ている様だ。 (そう言や、江戸近郊の農村生まれってたっけか) ひょっとしたら懐かしさでも感じているのかも知れない。今でこそ土方が鍬など握って畑を耕している姿など想像もつかないが、平和の世が続いていればそう言った未来もあり得ていたのだろうか。つまりは天人など来なかったとか、戦無しにあっさりと開国していたとか、そう言った『もしも』の話だが。 「あんま動いてると危ねぇぞ」 「ん?あぁ…、」 一応注意を呼びかけると、まるきり上の空と言った返事が返って来た。銀時は苦笑するとほんの少しだけ速度を落としてやった。まだ予定の半分の道のりも来てはいないのだが、そう急がねばならない旅でもない。 山の合間では野の藤が余り鮮やかではない色の花をあちらこちらの樹上からぶら下げており、その隙間を縫う様にして鉄線が大輪の花弁を開いていた。野放図にも見える有り様だが、近付いて見たら綺麗なのかも知れない。 土方は猶も暫く風景を見つめている様だったが、やがて道が山間部に分け入って行くと最早興味を失ったのか、銀時の背にことりとヘルメット越しに額が押しつけられるのと同時にその動きを止めた。 「眠い?疲れたか?」 「いや」 問えば思いの外明瞭な返事が返って来る。銀時とて土方が本当に眠そうだと思った訳では無いが、出来るだけ軽い調子で続ける。 「間違ってもその侭寝んなよ、大事故起きるから」 「するか馬鹿」 すれば小さな笑い声と共にそう返される。背後で眠りこけた土方を必死で起こす銀時の、泡を食った姿でも想像したのかも知れない。 何かを思い出していたのか、それとも珍しく里心でもついただけなのか。土方がどんな気持ちで農村の風景を見回していたのかは銀時には知れないが、何処か物寂しげな気のする気配は遠のいた。 「ちょっと急ぐか。そろそろ腹も減って来たろ」 「ああ」 「この山を越えた所にある宿場町で、昼飯と燃料補給すっから。何でも、蕎麦が旨ェらしい」 風圧に負けない様な大声で言うと、「へぇ」と感心する様な声。 「随分詳しいな」 「予め調べたんだよ、感謝しろや」 背後にいる土方には見えはしないだろうが、口が自然とへの字に歪む。旅行プランを立てる様なつもりで少しうきうきしながらやっていたとは、口が裂けても言えない。 そんな銀時の複雑な心境を知ってか知らずしてか、土方はまた小さく笑う。 「お前意外とマメだよな」 への字に下がった口端がひくひくと持ち上がるのを感じて、誤魔化す様に銀時は大きく溜息をついた。両手が空いていたら頭でも抱えたかった所だ。 「誰の為だと思ってんの」 「はいはい、感謝してるよ」 軽口と共に、一旦離れた頭が再び銀時の背に軽く当てられる。ヘルメットが邪魔だなと思いながら、銀時は丸めかけていた背をそっと正した。 * 古くから続く宿場町はちょっとした観光地になっており、ローカルだが電車も走っていた。もしも土方が電車をきちんと乗り継いで目的地まで向かえる状況であったのならば、この宿場など特に記憶にも留める事も無く通り過ぎて仕舞っていた事だろう。 「日程は多く取る羽目にはなったが、まぁこう言うのも悪くは無ぇのかもな」 と、土方はそう大儀そうに言って、またしても銀時の頬を引き攣らせてくれた。情けないにやけ面は浮かべないで済んだものの、当初銀時がお付き──もとい足になる事に「てめーがガキ扱いするから面倒な事になった」と悪態をついていた土方が、回りくどいだけのこの旅を少しでも楽しめている様なら、苦労のし甲斐もあると言うものだ。 「日帰り温泉とか、観光名所っぽいもんが幾つかあるみてーだけど、寄ってくか?」 食後、蕎麦屋の待ち時間の間に見つけたパンフレットを片手に言う銀時に、土方は寸時興を惹かれた様に首を伸ばしはしたが、結局「やめておく」と断って寄越した。 「じゃあまた今度な」 言ってパンフレットを懐に仕舞い込もうとする銀時を見て土方は、いい気なもんだと言いたげな顔であからさまな溜息を吐いてみせる。そうして顔を余所へと向かせる彼が、その身に纏う黒い装束へとあちらこちらから向けられている視線を気にしているのは解った。 幾ら江戸を遠く離れたとは言っても、洋装の形式張ったつくりや腰の刀とで、土方が幕府の役人である事は一目で知れる。一体何の用向きだろうと言った好奇の目を避けられる筈もない。 視察とは言え旅程の間は普段着で、隊服は仕舞って行けば良いのにと言ったのだが、皺になるだろうがと一蹴されている。 ひょっとしたら、旅行の様にして浮かれない様にと、土方は態と身を引き締めるつもりでお固い格好の侭で来たのかも知れないと思って、銀時は仕舞いかけたパンフレットをもう一度取り出すと、土方の横に置いてあったトランクの中へとそれをそっと仕舞った。 「また今度、それ着てない時な」 何をしているんだ、と言いたげな顔を形作った土方にそう言い添えてやれば、彼は不機嫌になり損ねた時の様な微妙な表情を浮かべて、供された温かい蕎麦茶を無言で啜った。 それから名物の蕎麦を腹に収めて、原付にも燃料を入れて、午後。休憩を挟みながらも幾つか山を越えて、陽のすっかり落ちる頃には予定していた次の宿場町に到着した。旅籠の予約は既に取ってある。ここで一晩投宿し、また朝早くの出立で、昼前には目的地に到着する手筈だ。 旅籠は字面から想像出来る様な古風な建物ではなく、比較的に近代風の宿だった。ビジネスホテルと旅館との中間と言った所か。地方では未だ珍しい事に、電話やネットで予約を取っているぐらいなだけあって、歴史は古くなく設備は新しそうである。 「温泉とかはねぇのか」 「残念ながら、普通の風呂だってよ」 案内された部屋に入るなり、部屋と建物の構造を確認して回ると言う、いつもの警察らしい癖を発揮しながら言う土方に、銀時は肩を竦めて返す。この国の温泉率は確かに高いが、そうは言っても宿場町や観光地の全てに温泉宿がある訳では無いのだ。 「別に保養って訳じゃねぇが、ずっとバイクの後部席ってのも身体が痛くなっていけねぇな」 「おめーな、それ俺に言う?」 風呂で体ぐらいゆっくりと伸ばしたかったと言うのであれば、銀時の方が余程である。何しろ陽の出ている間ほぼ一日中原付に跨ってとろとろと走っていたのだ。しかも江戸市中と違って綺麗に真っ平らに舗装されていると言う訳にもいかない道をだ。どれだけ神経と体力とを使ったかは推して知るべし。 「風呂上がりに暇だったらマッサージぐらいしてやらァ」 窓辺で、道中余り吸えなかった煙草をじっくりと味わいつつだからか、そんな珍しい優しさ(?)らしきものを見せる土方に、銀時は余り期待はしないで頷いておいた。 夕食の前に二人して大浴場──諄いが温泉ではなくただの大きな風呂だ──に浸かってから、近くの飲食店に繰り出してすっかり減った腹に飯と酒とを流し込む。 明日も長時間運転の控えている為に、地元の銘酒を軽く舐める程度に味わうのみにしておいた銀時は、流石に今は上着を脱いでスカーフも解いた土方にも手酌で酒を勧めた。 飽く迄仕事の空気を、完全には脱ぎ捨てようとはしない土方と少ない酒を飲み交わしているのは、江戸の居酒屋でぐだぐだになるまで二人して酔っぱらったり騒いだりしている日常行事よりも妙な距離感がある気がしてならなかった。 程良く腹と気分を満たして宿に戻って、内風呂のシャワーで軽く汗を流してさっぱりした銀時が部屋へと戻れば、二枚敷かれた布団の片方を捲った土方が手招きを寄越して来る。どうやら先頃の口約束は忘れられていなかったらしい。 「悪いねェ、副長さんにマッサージ嬢みてーな真似させて」 銀時が冗談めかしてそう言いながら、備え付けの浴衣を襷掛けにした土方の前へと俯せに横たわれば、「当店ではそう言ったサービスは行っておりません」と鼻で笑う声と同時に肩胛骨の辺りを拳骨でぐりぐりと押されて、潰れた蛙の様な悲鳴が肺から漏れた。 「見様見真似で悪ィが」 「ぐぇ、」 嫌な予感のするそんな宣言とほぼ同時に、銀時の背を跨ぐ形になった土方の手が、腰に思い切り手刀を叩き込んで来た。かと思ったら次には親指がコリだかツボだか全く解らない肉にめり込んで来て、容赦なくぐりぐりと更にねじ込まれる。 「っ痛、痛ェ痛ェって!」 「ん?痛ぇってのは効いてる証拠だろ」 「いや効いてない、効くどころか寧ろ破壊してるやつだからそれ!」 マッサージと言うよりただの暴力としか言い様のない土方の手から逃れようと、銀時はその場で無理矢理体を横向きに転がした。仰向けになった所でぱっと上体を起こして、猶も自称『効いてる』マッサージを続けようとしていた土方の両手をがっちりと捕まえる事で、それ以上の暴挙を何とか止める。 「参考までに訊こうか、お前それ誰に教わっ…、いや、誰の見様見真似でやってんの?」 「山崎。あいつのマッサージは結構効くんだよ」 だからお前にもしてやりたくて、と、もごもごと言う土方の、口調だけはしおらしかったので、銀時は思わず項垂れて仕舞う。これが見様見真似ではなくまともなマッサージだったら最高だったのだが。 「……仕事が終わったら銀さんがお手本にマッサージしてやるから。あと、あんま他の野郎にべたべた触らせてんじゃないの」 掴んで止めた筈の両手は、気付けばいつの間にか掌同士を合わせて繋いだ形になっていた。大の大人が二人、畳の上で向かい合って両掌を合わせていると言う間の抜けた画に、気付いた土方がぱっと手を開くが、逃がさず腕を引いて身を寄せた。 「…………そこ、妬く所か?」 銀時の胸に倒れ込む様な状態になった土方は、ややしてからそう呆れた様に呟いた。「普通は妬きますぅ」と口を尖らせた銀時は、その侭眼下の黒髪の間に鼻を埋める様にして口接けた。普段嗅ぐ匂いとは違う石鹸の香りがふわりと鼻孔を擽るのに目を細める。 その侭暫くの間、銀時が何だか久方ぶりに腕に抱いた気のする恋人の体温や体臭を楽しんでいると、突然土方が腕を突っ張った。離せと言う解り易いジェスチャーに腕の力を緩めてやれば、今一度の呆れ声。 「言っとくが、ヤらねぇぞ」 「わーってるって。て言うかここでハッスルしちまったらもう俺、明日早起きで運転なんて出来る気がしねェわ」 「じゃ、とっとと寝るぞ。明日にはやる事済ませて、早い所江戸に帰りてェ」 つい癖の様にそう言ってから、はっと気付いた様に土方は自らの口に手を当てた。決まり悪げに游いだ目を見て、「どしたの」と銀時が問うのに、 「いや、別にその、つまらねぇから早く帰りてェとかそう言う訳じゃなくて、」 と蚊の鳴くような声で何やらぼそぼそと呟いたかと思えば、「寝る」と素っ気なく宣言して、土方は布団の中に頭まですっぽりと潜り込んで仕舞った。 「………」 何だか酷く微笑ましいものを目の当たりにして仕舞った気がして、銀時は横を思い切り向いて、密かなにやけ笑いを窓の外の夜空へと逃がした。 ぽん、と寝る体勢だか籠城の体勢だか知らないが、照れた土方十四郎を内包して丸くなった布団山を軽く叩いてやりながら「おやすみ」と囁いて、銀時は部屋の電気を消した。 * 早朝、まだ陽も昇りきらぬ内に宿を出た二人は、昨日と同じ様にして銀時の運転する原付に乗って出発した。 程なくして到着した目的地の町は、江戸とは比べものにはならない程の規模だったが、地方都市としてはそれなりに発展している様だった。その町の、電車の走る駅前に、土方にとっての終着地点となる役場がある。 その近くにあった、目に付いたコンビニに停車すると、まずそこで遅い朝食を腹に詰め込む。何処に居ても大して味の変わらないおにぎりとお茶とで人心地がついた所で、土方は身に纏う隊服に汚れや変な皺の無い事を銀時に確認させた。 「大丈夫、今日も別嬪で男前だから」 「面の問題じゃねぇだろうが、阿呆か」 投げた冗談は辛辣に叩き落とされたが、まあ概ねいつもの事である。土方は落ち込んだ素振りを態としてみせる銀時には構わず、移動中ずっと掴まっていた銀時の体との間に挟み抱えていた例のトランクを開けると、その中から抹茶色をした袱紗を──何か箱の様な物体を包んでいるものを取り出した。 「何それ」 「ん?届け物に決まってんだろ」 問えばあっけらかんとした返事が一つ。そこから特に説明が続きそうな様子もなく、土方はトランクの蓋を閉めると銀時に手渡し、「ここらで待ってろ。昼までには戻る」と一人で歩き出して仕舞う。 「…や、ちょっと待て。視察だろ?確か。そう言ってたよな?」 思わず土方の首根を掴んでそう訊けば、「襟が乱れるから止めろ馬鹿」と鋭い左フックと共に返って来た。辛うじて避けた銀時の耳の横を、ひゅんと風を切る音。 「視察ってのは名目みてェなもんで、実際はこの通りの届け物だ。とっつぁんの昔世話になったって言う元幕臣のジーさんでな、間違いがあっちゃいけねぇから直接渡してくれって言われたんだよ」 まあ実際は、真選組の存在と顔を売っとけって所だろうが。襟元を正しつつそう小声且つ早口で説明すると、土方は袱紗に包まれた箱の様なものを慎重に抱え持ち、近くにある役場の建物へと入って行った。 「…………まぁ、届け物だろうが視察だろうが、別に変わりゃしねーけども」 銀時は土方の移動手段として雇われただけなので、依頼内容さえ正しければ、依頼人の目的が少々違う事ぐらいは何と言う事も無い。のだが、何となく拍子抜けした様な心地になって、原付に腰かけた侭トランクの上に頬杖をついた。 (だから往復二泊程度だってのに、こんな鞄持たされたって訳か。てっきりジミーの過保護だとばかり思ってたわ) ぶっちゃけて仕舞えば銀時も土方も男なので、一日二日同じ下着を穿いた所で別段困る事は無い。多少は嫌だが。それに最近の宿にはアメニティグッズも完備されている事が多いから、洗面道具を持ち歩く必要も無い。つまりは、精々二泊三日程度の旅程なら手荷物程度でも十分だとは思っていたのだ。精々、持つとしても土方の命綱である煙草を包んだ風呂敷程度で。 「旦那の下着の替え程度なら入ると思いますんで、良ければ一緒にどうぞ」などと言って、土方とその手にしたトランクとを一昨日の夜に万事屋へと運んで来た地味顔も、荷物の大事さはそれとなく伝えて来ていたものの、土方の負った『視察』任務についての本質をわざわざ言いはしなかった。 (確かに、何か入ってんなとは思いはしたんだよ) 思いこそしたが、銀時にはわざわざ他人の鞄を漁る趣味は無いから、中身の確認も外側からしかしていない。箱だから、煙草のカートンでも入っているのかも知れないと思った程度だ。 帰りはこの『荷物』も随分軽くなりそうだ、と思った銀時は何となくトランクの蓋を開けてみた。他に予想外のものが入ってやしないだろうなと疑った訳では無いのだが、こうなればチェックするのは寧ろ正しい行為なのではないかとすら思えていた。 野郎二人の二泊程度の旅程にしては大袈裟に思える鞄に、何か他に余計な──或いは大事な荷物が紛れているのかも知れないと。 「……お、」 と、鞄の底に密やかに仕舞われていた、何やら黒い布地を発見した銀時は、思わず目を瞠ってからそれに気付いて、そっと笑いを噛み殺す。 あの地味顔もなかなか粋な事をするものだと思って見たそのすぐ横には、偶然にも昨日銀時の放り込んだ観光パンフレットが、まるで出番を待ち詫びる様に入っていた。 * これで仕事は終わった。遠いところをわざわざご苦労と、労って寄越した相手方の機嫌も上々で、土方は己が最低限の仕事は果たせたと言う実感を成果として得つつ、役場を後にした。 古くから幕府に仕えている様な人間は何かと役には立つ。人脈としても、支援者としても。松平の取りなしあっての事とは言え、真選組の存在と名前とを憶えて貰う為には、こう言った地道な『頼まれ事』も重要なのだ。 三階建ての小振りな建造物の敷地の前方は、土地の余り易い田舎特有のだだっ広い駐車場になっている。わざわざ植えたのか、壁や仕切りの代わりの様に躑躅の茂みがそこかしこにあって、鮮やかな紅色の花を咲かせていた。 駐車場は原付一台ぐらい停まっていても全く問題など無いぐらいに広々としているのだが、見るからに浪人風体の怪しい男と原付に2ケツして来る、と言うのも何だか印象が良くないかも知れないと思って、銀時と原付とは近くのコンビニの駐車場に待たせてある。 依頼だ何だと言いながらも、長時間労働も良い所な荷運び運転手役を買ってくれた銀時が、この短いようで長い旅程を土方にも楽しませようと、らしくもなく気遣ってくれていたのは解っていたが、意味あって纏っている自らの装束を思えば、土方がその役割を忘れる訳にはいかないのだ。残念な事だとは少々思わないでもないが、公私はきちんと分けた方が良い。 道路を渡ってコンビニの駐車場へと戻れば、何やらにやにやと上機嫌そうに笑っている銀時の姿は直ぐに目に入った。 「何だ、変なもんでも食ったのか?」 「オメーが銀さんを何だと思ってんのか、今度じっくり話し合おうか」 「面倒だから要らねぇ。で、どうしたんだ」 不満を申し立てながらもその口端から笑みの気配が消える様子は無かったので、土方はその侭続ける事にした。銀時との会話の端々に悪態やら文句を投げ合う事など日常茶飯事だ。いちいち一個づつ取り上げていたらキリがない。 「じゃーん。これなーんだ?」 銀時も慣れたもので、土方に流された事は頓着せず、そう言って芝居がかった調子で蓋を開いたトランクを差し出して来た。それは言う迄もなく、この旅路の間土方が肩紐を命綱に膝上に抱えて来た旅行鞄である。 元々真選組の幹部が任務で長期の旅程に就く時にと経費で購入したものなので、革製で内側は布張りのそれなりに良い代物だ。原田辺りだっただろうか、昔誰かが乱暴に扱った所為で錠前が壊れて仕舞ってはいるが、滅多に使われない備品なので買い換えられたり修理したりはされずにその侭でいる。 言われて覗き込んだトランクの中には、山崎が小分けに纏めて入れた下着類や煙草と言った簡単な荷物が収まっている。一番重量と幅を占めていた『届け物』が無くなった今は、随分と軽くなっているだろうし、中身もすっきりとしている。 「………」 その一番上に乗せられていたのは、一言で言えば黒い布地だった。白襟の縫い付けられた、見慣れたそれに思わず土方の口元に苦笑が浮かんだ。 土方には私服を荷物に入れた憶えは無いので、これを入れたのは多分に、荷物の準備をした山崎だろう。ただの予備の着替えのつもりだったのか、それとも、終わったら気を抜いて良いと言う意味なのかは解らないが、そんなものを密かに忍ばせた部下の余計な気遣いに向けて、他に向ける表情が解らなかった。 「ほれ、コンビニのトイレでもそこらの茂みでも良いから、とっとと着替えて来いよ。時間が勿体ねぇから」 言って、銀時が何処か見覚えのある紙切れをひらりと振ってみせた。それは恐らく行きに立ち寄った宿場町に置いてあった観光パンフレットだ。 「…あぁ」 トランクを引ったくる様にして受け取ると、土方はコンビニの裏手にある躑躅の茂みへと身を隠し、着物を先に羽織りながらさっさと着替えて仕舞う。周囲に人の姿もないし、コンビニのトイレでもたもた着替えるよりもこの方が余程に早い。 銀時がそんな土方を見て、「せっかちだねェ」と笑って寄越す。やれやれとでも言いたげな表情を浮かべてはいるが、観光パンフレットを懐に大事そうに仕舞い込む、その顔は隠しきれない程度には弛んでいた。 「観光地を見物して、宿探して、温泉入って、それからマッサージだったか?して貰うからな。時短出来る所はするに決まってんだろ。 それと、観光案内にも期待させて貰うとするよ、なァ、万事屋さん?」 刀を帯に差して、トランクの持ち手を掴んで肩に担ぐ。そうしてすっかり支度の調った土方にヘルメットを放ると、銀時は原付のエンジンをかけてゴーグルを目元まで下ろした。白い歯を見せて笑う彼に釣られて目を細めながら、土方は後部席に座った。鞄の持ち手に通された紐を肩に掛けて、重たい隊服を仕舞った隙間だらけのトランクが落ちないように整える。 「荷物は絶対に落とすなよ?」 「あぁ」 「走行中は鞄の蓋は絶対に開けようとすんなよ?」 「解ってる」 「煙草吸いたいとか喉渇いたとかトイレ行きてぇとかあったら、我慢出来なくなる三十分前には申告しろよ?」 「了ー解」 「ちょっと風景見てぇとかあったらそっちは直ぐ言う事」 「……そうさせて貰う」 「じゃあ最後。…しっかり掴まってろよ?」 「おう」 頷くと、土方はトランクを落とさない様にしながら、銀時の腰に手を回し、腹に抱きつく様にして掴まる。 出発進行。二人同時にそう声を上げると、原付は軽快なエンジン音を響かせながら走り出した。 誕生日要素またしても見当たらないんですが、五月だし誕生日の前後辺りだしで山崎が気を遣ったんだよと言う事で。 家に着くまでが旅行です。 |