血となり肉となれ



 
 家デートしねぇ?と、坂田銀時からそう投げられた言葉を、土方十四郎はこれ以上無い程に冷めた感情で聞いた。
 「……なんて?」
 「だから、家デートだよ。おうちデート。おめー今年の連休はどの日でも半休ぐらいなら取れそうだって言ってたじゃん?そしたらもう飯食いに行くとか飲みに行くぐらいしかねェじゃん?そこで家デートだよ。余計な金もかからねーし時間に追われる事もねーし、うちでゆっくりしませんかって」
 思わず問えば、土方を言いくるめる為の想定ぐらいは予めしていたのか、すらすらと澱みのない返事もとい、問いの本質である理由が返って来る。酒の勢いで滑りの易くなった喉を通って口早に吐き出されて行く言葉を前に、土方は考える様な素振りで煙草をくわえた。手で覆った唇から紫煙に紛れた溜息がひとつ。
 いえでーと。つまりは、おうちでーと。噛み砕いて言われた所で、何だか凄く頭の悪そうな単語である事に変わりはない。少なくとも、三十路近いオッさん同士が居酒屋で肩を並べている最中に出す言葉としては少々不適切と言うか不釣り合いな気がする。
 (要するに、家飲みしようって事だよな?デートって何だ、アイツの家に映画鑑賞だのが出来る様な真っ当な娯楽道具はねェだろ。大分前だが、ビデオデッキにAV絡ませたとか言ってたか?精々そんなもんだろうが)
 普通に、家で一緒に飲もうとか解り易く誘えば良いものを、何でわざわざ若い者の使う様な単語を使ったりするのか。ただでさえ、デートとか浮ついた単語は余り好まない、少々古風な所のある土方である。誘われる言葉からハードルを上げられては堪ったものではない。
 故の冷めた眼差しからの渋面であったのだが、確かに銀時の指摘した通りに今年の連休は、大江戸防疫ウィークとか言う突発的な事例に因って、警察業務にも例年より少々余裕がある。半ドンで暇をどうせ持て余すぐらいならば、情人の家で酒を飲んでゆっくり過ごすと言うプラン自体は悪いものではない。
 だが、おうちデートなどと言う誘い文句に普通に乗ったりしたら、それこそ銀時の思うつぼである。食って飲んで夜の時間にさっさと突入するどころか、甘ったるいお戯れが合間合間に差し挟まれて仕舞う事請け合いだ。わざわざ日頃では使わない様なそんな言葉をチョイスして来たのだから、それっぽい事を企んでいるのは間違いない。
 家飲みと言うプランに異論は無いが、それに付属していちゃいちゃする時間が生じるのは少々勘弁願いたい。それならいっそ半日閨で過ごす様な、即物的な時間を過ごした方が未だマシだ。土方は無論銀時の事を好いてはいるのだが、恋愛に夢中な子供の様にいちゃいちゃべたべたとスキンシップに興じるのは余り好む所ではないのだ。良い歳をこいて、と言う意味での羞恥心の様なものである。別に誰が見る訳でも評する訳でもないのだが、どうしても客観的な己の理性と言うものが悲鳴をあげずにいられなくなって仕舞う。
 一方で銀時はと言えば日頃から何かと、セクハラめいた所作を土方に対して行う悪癖がある。すれ違い様に太腿を指でなぞったり、何でも無い様に歩きながら尻を触って来たりと言った狼藉を挨拶代わりにして来るのだ。制裁をと土方の固める握り拳も大体の場合はひょいと軽く回避されるので、余計に腹立たしい。
 そんな風に、放っておけば憚りなく過剰なスキンシップを行おうとする男である、閨事の後も前もとにかくしつこい。ねちっこい。いっそ大型犬に懐かれている様なもんだと思う方が土方の精神衛生上は良いだろう。
 そんな訳で、土方としては極力甘ったるい展開は避けたいのである。食うのも飲むのもセックスするのも構わないが、デートと言う言葉から連想出来る危険要素は出来るだけ排除しておきたい。
 つまりてめぇん家で飲むって事だな。解った、酒とつまみを買って訪ねる。──その辺りが無難だろうか。デートと言うイメージを連想したり増長させたりする、手料理とかそう言ったものを避ける必要がまずはありそうだ。男同士の色気もない飲み会の様なものだと、そう言うスタンスで行こう。
 果たして、仮にも情人を相手に、何故こんな駆け引きが必要なのか。若干そう惑いを憶えつつも煙草を灰皿に戻した土方が、脳内で何とか組み立てた返答の書き付けを読み直そうとした時だった。不意に銀時がこぼした一言に、土方のまとまりつつあった思考はぱらりと解けた。
 「五月五日」
 「……ん?」
 ごがついつか、と反芻する。日付。言うまでもなく春の大型連休の中の一日。休むならその日を指定すると言う事だろうか。そこまで考えた所で、土方は「あ」と声をあげた。恐る恐る、きっと目を細めてにやにやと笑っているのだろう銀髪の情人の方へと、頭を巡らせる。
 「おめーの誕生祝い、今年こそはしてやりてェなと思いましてね?」
 「………」
 何と言う事だろうかと、土方は想像の中で頭を抱えた。己があれこれと無駄な抵抗を考えている間、この性格と頭髪のねじ曲がったドSは既に勝利を確信しつつも、それをいつ突きつけようかと考えては楽しんでいたのだ。
 誕生祝いをしてやりたいなどと建前を作られて仕舞えば、それを断れる程に土方は鬼にはなれない。繰り返すが、銀時とは恋人同士と言う関係にあるし、土方も銀時を好いている。想い合う相手からの一見好意としか聞こえない提案には否やと唱えられる隙などある筈もない。それこそ仕事だとか明確な理由でもあれば別だが、生憎と連休中のいつでも、半休は取れるとは既に知れている。
 そんな、土方の性質さえも見抜いて放たれていた回避不能の重たい一撃に、敗北を感じた心ががくりと項垂れる。
 良い歳をこいたオッさんが二人きり、家でいちゃいちゃと過ごすと言う恥ずかしい想像図を避けるルートなど、土方が酔った脳味噌での浅知恵を総動員した所で見当たらない。見事なまでの敗北であった。
 「飯と、あとケーキもな。おめーがちゃんと食える様に、マヨに合う様なもん工夫してやるから」
 過剰なスキンシップに対して土方の反撃が大概報われないのと同様に、こう言った言葉の遣り取りでもいちいち、銀時は正論で何の瑕疵もない様な勝利をしたがる節がある。
 とは言えそれも元はと言えば、土方が負けず嫌いである為にすぐむきになり、ちょっとした口論がすぐ喧嘩に発展しがちだったと言う惨憺たる背景があった所為なのだが。土方がぐうの音も出ない程に理詰めや真っ当な言い分で負かせると言う手法を銀時が選ぶ様になるのも致し方のない流れだったのかも知れない。
 「……馬鹿か、マヨは何にでも合うんだよ」
 それでも、言葉尻を捕まえた捨て台詞がついこぼれて仕舞う。銀時もその土方からの、ただでは揚げるつもりのない白旗を解っているのか、「はいはい」と反撃にもならないへろへろな攻撃を軽くいなしたのみだった。
 五月五日、午後。万事屋にて家デート。
 この決定は最早、それこそ突発的なテロでも起きて警察が駆り出される様な事態にでもならない限りは、覆りようのない事実となるのだろう。
 
 *
 
 朝から入念に新聞や情報筋を確認したが、生憎とテロや大きな犯罪の気配は見当たりそうもなかった。大江戸防疫ウィークと言うキャンペーンのお陰で人出も少なく、テロ活動もやり甲斐が無いのだろうとは山崎の弁だ。
 尤も、実際に事件が舞い込んだらそれはそれで、土方がこの日を楽しみにしていただろう銀時に対して罪悪感を抱く事になるのは必至なのだが。
 ともあれ、頗る平和な夕前の、人通りの目立たない街路を歩く土方は、程なくして何の支障もなく万事屋に到着していた。
 階下のスナックの暖簾は上がっておらず、人の気配の疎らな町と相俟って何処か家屋の佇まいは余所余所しく感じられる。誰にも会ったり絡まれたりする事も無く、二階の万事屋の玄関へと続く外階段をゆっくりと上がった土方は、一度大きな息を吐いた。
 万事屋の従業員である神楽と新八と飼い犬の定春は、一体どう言い訳をつけたものかは知らないが、家にはいないと言う話なので、実質銀時と土方の二人だけと言う事になる。そして銀時の提案して寄越した通りの家デートだかおうちデートだかと言うお膳立てもしっかりばっちり整っている筈だ。
 だが、ここまで来たらいい加減に腹も決まっている。土方は戸に手をかけるとがらがらと勢いよく横に引いた。銀時一人しかいないのが解っている場合は、呼び鈴などいちいち鳴らさない。
 「邪魔するぞ」
 一応そう声を掛ければ、台所から銀時の頭がひょいと覗いた。
 「来たぞ」
 お前の多分に目論見通りな、とは心の中でだけ続けて戸を閉めると、鍵を掛ける。自ら退路を断ってみせる事で虚勢を張ろうとしているのだと思えば、実に子供じみているが。
 「仕事お疲れさん。勝手に上がっちまっててくれや、今ちと手が離せねェんだ」
 軽く顎先をしゃくる様な仕草をしつつ、銀時の姿はそそくさと再び台所に消えていく。てっきり玄関先からお迎えのちゅー(※銀時談)の洗礼ぐらいはと覚悟していた土方は、何となく拍子抜けしつつも頷いた。
 草履を脱いで玄関から上がると、台所の方をちらと見る。黒いインナーだけの姿で忙しそうに動き回る彼はどうやら料理の最中の様で、邪魔をしたら悪いと思った土方は廊下をその侭素通りして居間へと入った。流石にまだ飲み食いするには早いからかテーブルの上は片付いており、普段は見ない灰皿が置かれている事だけが、土方を客として迎える準備を示す全てだった。
 ソファに腰を下ろすと、ここまで吸っていた煙草をさっそく灰皿で消して、新しい一本をくわえる。窓から差し込んで頬に当たる日差しは既に夕方のそれに近いが、春先の今はまだ辺りは白くて明るい。少し暑ささえ感じる、初夏の陽気になる事も珍しくない頃だが、今日はまだ爽やかな方だった。
 寝室の襖は開けっ放しになっていて、そちらの窓が少しだけ開かれているのが見える。布団が敷きっぱなしになった万年床は、土方のイメージでは不健康な記憶ばかりに直結するものなのだが、爽やかな陽気を受けている今は余りそうは見えない。
 (…まぁそれは夜の話か)
 ふう、とゆっくりと一服を楽しんだ土方は、穏やかな陽気に誘われる侭にやがてゆっくりと目を閉じた。手が無意識に動いて、煙草を灰皿へと置く。
 閉ざされた視界の中、台所から水音や包丁の音が聞こえて来る。何て平和で穏やかな時間だと思えば、疲れている事を思い出した体の底から眠気がじわりと涌きだす。
 いちゃいちゃだかべたべただかの襲撃も無く、眠気を妨げる様な狼藉の気配もない。土方がうたた寝に陥るには実に良い環境であった。
 そうして暫しの間舟を漕いでいた土方の肩が、やがてとんとんと叩かれる。本気で寝入るつもりは無かったのだが、薄く瞼を持ち上げてみれば、先頃までよりも部屋の中は暗くなっている様だ。目を擦って、開きの悪い瞼を叱咤しながら両腕を上に伸ばせば、自然とあくびが出た。
 「余程疲れてたみてーだな。まぁいつもの事だけど」
 土方をやんわりと叩き起こした張本人だろう家主は、テーブルの上に皿を並べながらそう、呆れた風にも取れる調子で言うと、土方の額を指でぴんと弾いた。
 「てっ」
 「そろそろ飯出来っから起きろよ。何なら顔でも洗うか?」
 「いや…起きた」
 弾かれた前髪越しの額をさすって言うと、土方は座った侭と言う不自然な姿勢で眠っていた事が原因と思われる体の凝りをほぐそうと首をぐるりと回す。そのついでに目の前のテーブルを見遣れば、そこにはあれやこれやと料理が並べられていた。皿の一つ一つを見れば、何れも特別手の込んだものと言う訳では無さそうだが、土方の好きなものばかりだ。空腹を思い出した腹が今にも鳴りそうになって、思わず腹部に手をやって仕舞う。
 「旨そうだな」
 思わず正直な感想がこぼれる。銀時が曰くの家デートとやらの一環なのだろう、手作りである事は間違いの無い料理たちは、空腹も手伝って酷く食欲をそそる見た目をしていた。
 「まあ待てって。前に階下のバーさんから貰った良い酒があるんだよ。それ開けて乾杯してェ」
 土方の素直な称賛が嬉しかったのか、銀時は目を細めてそう笑って言うと、そそくさと再び台所へと戻って行った。その背を見送るよりも、土方の視線はどうしたって目の前の料理へと向いて仕舞う。
 (情人の家で手料理を振る舞われるなんざ、望む展開じゃねェと思っていたが…)
 銀時の提案して寄越した、家デートだかおうちデートだか言う単語の所為で必要以上に身構えて仕舞っていたが、誕生祝いと言って土方の好物を手ずから作ってくれた彼の、誕生日を祝ってやりたいと言う気持ち自体はきっと本物だったのだろうと、土方は少し反省した。さも甘ったるくこそばゆい時間になるものだと決めつけ、今日と言う日に気鬱ささえ憶えていた事を正直に恥じて、申し訳なく重う。
 (思えば毎年この季節は忙しくて、まともに誕生日がどうとか、そう言う事も無かったか)
 何しろ五月五日とは大型連休の真っ最中である。各地の賑わいに乗じた物騒な事件があれこれ起きたり、羽目を外す者が現れたりと、警察としては繁忙期としか言い様のないこの頃に、暢気に半休だの全休だのを取って祝われに興じる事など出来る筈も無かった。
 勝手の違う今年のスケジュール事情でこうして半休を取れても、座るなり直ぐ寝入って仕舞ったと言うのに、銀時は責める類の言葉は口にしなかった。料理に励んでいたとしても、一度ぐらいは居間で静かに座っている土方の様子を見に来た筈である。
 (例年を思えば、最初っから大人しく、野郎のしたい様にさせてやるべきだったかな。……少しぐらいなら)
 気を遣われていたのだと言う事実をもう一つ土方が噛み締めていると、やがて銀時が一升瓶と綺麗な切り子のグラスとを持って戻って来た。「これも、バーさんの私物を頼んで借りて来た」と、グラスを指してわざわざそう言い添えながら、銀時は土方の向かいへと腰を下ろした。
 一升瓶を傾けると、透明な日本酒が青い切り子のグラスにへと注がれてきらきらと光を反射した。揃いのそれの片方を手渡され、
 「誕生日おめでとさん」
 と言う言葉と共に、軽く打ち合わせた硝子がキンと澄んだ音を鳴らした。
 「ん」
 態と鷹揚な仕草で頷いてやれば、銀時はおかしそうに笑ってグラスを傾けた。土方も続いて軽く一口を煽れば、少々辛口だが爽やかな香りが鼻を擽る。空腹の胃にじんと染みるアルコールの強さに、くらりと来そうになる。
 「さ。んじゃ冷めちまう前に食おうや」
 「頂きます」
 勧められる侭に箸を手に取った土方は、まず目についたほうれん草の胡麻和えを選んだ。
 「旨ェ」
 口の中と鼻を通る胡麻の香りとほのかな甘みにうんうんと頷くと、また酒で少し喉を湿らせてから、次にだし巻き卵に箸を伸ばす。銀時は卵焼きは甘い派だと言っていたが、今日のそれはだし醤油のよく効いた和風の味がした。卵だけではなく、細かくした桜海老が入っていて、これもまた美味しい。初めから皿の隅にマヨネーズが出してあって、好きに付けられる様になっているのも良い。
 マヨネーズをかければ更に美味しい料理たちなのだが、作る側の銀時としては、元の味もマヨ一色になっちまうだろうがと常々(土方には理解し難い)苦言を呈していた。そこで出来た妥協案が、予めこのぐらいのマヨネーズで取り敢えず食ってみろと言う、今回の様な盛りつけ方法である。追いマヨをする事もあるが、用意されているだけのマヨで食べてみるのも、少々物足りないがなかなか美味しい塩梅なのだ。
 「ほら、こっちも食ってみ?」
 「おう」
 銀時に次々言われる侭に、二人して更に盛られたささやかなご馳走に舌鼓を打つ。合間に飲む酒で気分もふわふわと心地が良い。
 だから、銀時が隣にそっと自然な動作で移動して来た時も、土方は上機嫌も手伝って、気付きはしたが特に何も言わなかった。さりげなく腰に手を回されもしたが、まぁ少しぐらいは良いかと黙っている事にする。
 「飲み終わったら、ケーキ用意してあるから」
 「ケーキぃ…?ああ、何か工夫するとか言ってたやつか」
 「そ。おめーの為の特注…って言うか銀さんのお手製ケーキな」
 「ケーキ、ねぇ」
 酒をちびりとやりながら土方は片眉を持ち上げた。ケーキと言えば言わずもがな、甘党の銀時の好物で、世の女子供なら大概が好むアレの事であろう。最近では専門の店に行ったりせずとも、コンビニでそう言ったものも買えるご時世だ。
 とは言っても土方は実のところケーキと言うものを余り好んでいはいない。食べられないと言う程ではないが、わざわざ好き好んで食べたいと思う様なものではないのだ。
 そもそもにして余り甘いものを積極的に嗜好する質では無いし、食したとしても精々が、茶に合いそうな甘さ控えめにしてある和菓子の類ぐらいだ。山崎が時々お茶請けにと持って来るので、その程度ならばなんとかなる。
 だがケーキと言うのは、土方としては、存在そのものが苦手の塊に近い存在である。スポンジ部分はカステラの様なものだと思えば食べられるが、全体をコーティングしている生クリームだけはどうにかなる気がしない。甘い上に舌に脂分が残ってぬるりとするし、どうしたって牛乳の様な匂いがするのも苦手だ。
 マヨを大量にかければ誤魔化して食べられるだろうが、銀時が手ずから作ってくれたものを、マヨネーズで完全に打ち消して食べると言うのもばつが悪い。無理に食べますと言っている様なものだ。食事中は予めマヨが添えてあったのでそれで充分だったが、恐らくは一般的な観念でのケーキと言う代物ではそれも考え難い。
 「大丈夫、」
 「!」
 酔った頭でのゆっくりとした思考に邪魔されていて、銀時の動きを注視し損ねていた。ちゅ、と音を立てて耳の付近に口接けられて、驚いた体がびくりと大袈裟な程に跳ねて仕舞う。
 「あ」
 その拍子に、手にしていたグラスの中の日本酒がぼたぼたと腕を伝って滴り落ちる。慌ててグラスをテーブルへと戻すが、アルコールは膚上をひやりとさせながら二の腕を伝って仕舞っている。
 「勿体ねぇなぁ。着物は大丈夫か?」
 銀時はすかさず拡げた布巾で床を拭き、土方は慌ててティッシュを何枚かまとめて取ると、濡れた腕を拭った。他に被害は無いかと頭を巡らせるが、銀時の拭いている床以外には無さそうだ。
 「多分大丈夫だが…、その、悪ィ…」
 「ん?ああ、別に良いって。飯も粗方食い終わったし、そろそろ片付け時だったしな」
 言って、布巾を畳み直した銀時が立ち上がり、何枚かの空の皿もついでに持って台所へと移動していく。土方は足裏や裾やら、自分が歩き回ってもこれ以上被害を広める事は無いと言う事をしっかりと確認してから、少しでも銀時を手伝った方が良いかと思って、箸や皿を持って台所へと向かった。
 「洗い物はその辺置いといてくれて良いから、おめーは先に風呂入っちまえよ。その間にケーキの仕上げしとくから」
 酒をこぼされ、いちゃいちゃと手を出しかかった事を挫かれた割には、銀時の様子は先程までと変わらず上機嫌そうなそれであった。躊躇いつつも土方が皿を流しへと置くと、銀時は冷蔵庫を開き、中から皿に載った長方形の小さなスポンジケーキらしきものを取り出してみせる。
 「水分吸っちまうから、クリームとかはこれから乗せるんだよ」
 土方の観察の視線から疑問を想像したのか、そう一方的に答えた銀時は「風呂行って来いって」と今一度土方にそう勧めて来た。
 「……あぁ。じゃあ先に風呂を借りる」
 いちゃいちゃなどしたくはないと思ってはいた土方だが、酒を溢した後始末をさせて仕舞ったりと、ばつの悪さがどうにも残っていた。かと言って、先に掃除をさせろとか、洗い物を手伝うとか、頼まれてもいないのに言い出すのも妙な気がして、仕方無しに風呂へと向かう事にした。
 
 *

 台所の隣にある脱衣所には既に、湯揚げタオルと、着替えに使って良いと言う事なのか、銀時のいつも着ている白い着流しが用意されていた。
 「………」
 少々思う所はあったが、まあいいかと思い直して、土方は自らの着物を脱いだ。念のために酒がどこかに染み込んではいないかと今一度確認して、被害がゼロと判断すると、壁に下げられている衣紋掛けに袖を通しておく。
 土方の入浴時間は短い。多忙な職務と言う理由を除いても、元よりさっと体を洗って、さっと湯船に浸かって出て仕舞う。別に風呂が嫌いだとかそう言う話ではなく、単に習慣的なものだ。
 温泉や、余程疲れている時などはゆったり湯船に体を沈める事もあるが、今日は酒が入っている事もあるので早めに上がっておく。これからまた眠くなって仕舞うと言うのは流石に銀時に悪い。
 そうして程良く暖まった体で脱衣所を出れば、台所に銀時の姿は無かった。洗い物はまだ流しに置いた侭で、先頃冷蔵庫から出したスポンジケーキが上下二つに切られている事ぐらいしか、土方が風呂に入る前との違いは無い。
 「……」
 調理中(或いは片付け中)に中断して姿を消すとは果たしてどう言う事なのか。それともこれも手順の一つなのか。料理に疎い土方には詳しい事は解りそうもない。
 肩に下げたタオルの片端を持って頭髪の水分を拭いながら、土方は居間へと戻った。いつの間にか外は暗くなっていて、電気が灯されている。食事中から点いていた様な気もしたがよく思い出せない。
 居間にも果たして銀時の姿は無かった。自然と土方の視線は寝室に続く襖へ向く。先程まで開いていた襖は閉じられている。銀時が居るのだとすれば恐らくここしかあるまい。
 よく見れば襖にはほんの僅かだけ隙間が空いていた。閉め損ねて反動で少し開いて仕舞う程度の細い隙間だ。
 「……」
 先程までは食事と酒とで華やいだ雰囲気のあった居間の、打って変わった水の様な静けさに、憚られる様に足がゆっくりと動いた。襖に空いた細い隙間に、土方はそっと視線を差し込む。
 予想通り、そこに銀時の姿はあった。出かけるとは言っていないし、家主なのだから居るのは当然だ。当然なのだ、が。
 「──、」
 銀時はこちらに背を向けて布団の上に座っていた。少し前屈みに背を丸めて、何かをしているのか、小刻みに微動している。
 「ひじかた、」
 「!」
 一瞬、呼ばれたと思ってどきりと土方の心臓は跳ね上がるが、程なくしてそれがただの銀時の独り言だと気付く。
 ひじかた、と繰り返し呼ぶ、土方十四郎と言う名前を意味する言葉の羅列。ふうふうと響く荒い息。機械的に揺れる背。腕。
 「──!」
 その瞬間、銀時の行動の意味に気付いた土方は襖から飛び退く様にして一歩後ずさっていた。反射的な急制動に、然し足音も物音も辛うじて立たないでいてくれた。その事に気付く間も無い程に心臓がばくばくと騒音を上げながら土方の全身に血と酸素とを送り出す。
 (なん、)
 咄嗟に手を口で押さえた土方は、足音を、今度こそ意識して殺しながら数歩下がり、それから廊下を早足に戻って、脱衣所に飛び込む勢いで逃げ込んでいた。
 どくどくどくどくと耳元で血流が流れる音が煩わしい程に響いて、血を急激に上らせた頭と脳味噌とは、明晰になりすぎた思考をぐるぐると無意味に回す。なんで、とか、何してんだ、とか、殆ど意味を成さない感想めいた言葉が次々浮かんでは消えていく。
 脱衣所の戸に寄りかかった侭、土方はずるずると床に座り込んだ。何だかとんでもないものを見て仕舞った気がする驚きと、疑問と、拙い事をした気のする後悔と、思いの外の己の動揺とに、まだ早い血流も相俟って熱い顔を両手で覆う。
 銀時がしていたのは言うまでもない、アレだ。土方にだって当然憶えはある。銀時と付き合う様になってからも、仕事の嵩んだ時や長い期間まともに触れ合えていない時などに、生理現象だからと致し方なく行う事ぐらいある。
 つまりは、いわゆる所の自慰行為だ。
 「………」
 銀時がそんな事をしないと思っていた訳ではない。寧ろ土方より性欲が余程に旺盛な男だし、男同士の下ネタ的な会話でも度々冗談の様に軽々しく口にするぐらいだから、それ程に意外性のある行為では無い筈だ。
 それでも、だからと言って、親友や恋人のそれを目の辺りにする事など滅多に無い事だ。と言うか出来れば目撃は避けたい。他人の排泄行為を目撃して仕舞うのに似たものがあるし、何より居た堪れない。
 (〜っっっ!)
 ひじかた、と荒い呼気の合間に響いた声が脳裏に蘇って、土方はぶんぶんとかぶりを振った。居た堪れない理由の多くは、それが性処理を行う上で必要な、いわゆるオカズを──引いては妄想の助けになる性癖を同時に知る事になるだろう事実にある。
 銀時が繰り返し名を紡いでいたと言う事は、間違いなく彼の、少なくとも今のオカズは土方十四郎と言う事で、当然だがその土方十四郎とは今、情人の自慰行為を目撃して仕舞った衝撃に頭を茹だらせて万事屋の脱衣所に座り込んでいる、この土方十四郎の事に他ならない。
 再認識した途端、ぶわっと再び頭に血が上るのを感じて、土方は頭を抱えた。思わず耳を塞ぐが、先頃聞いて仕舞った音声が、呼び名が、閨で聞くそれよりも余程に熱を孕んでいた様な錯覚を覚えて残響し続けているのを止める事が出来ない。
 (って言うか何で、これからヤるってのに抜いてんだよ…!何でこれからヤる相手をわざわざ妄想しながら抜いてんだ!?そんなに、辛抱効かないぐらい溜めてたとしたって、どうせヤる事はいつも通りかそれ以上にヤる気だろうに…!)
 段々と衝撃から怒りやら疑問やらに矛先が向いて行き、土方はともすれば妙な気分になりそうな体を引き摺ってなんとか立ち上がった。自分までもがうっかり欲情した挙げ句に風呂場で抜く様な事態は流石に避けたい。と言うか体力が保たなくなる。
 白い着流しの裾をたくし上げてそっと風呂場に入ると、流水を桶に溜めて顔を二度、三度と乱暴に洗う。
 (つーか、俺のどんな姿を妄想して、)
 また一周回って蘇りそうになる思考を、四度目の流水で無理矢理に停止させる。顔面を桶に張った水につけて五秒。水を滴らせながらのろのろと顔を起こした土方は、漸く僅かに落ち着いた心地で深く息を吐き出した。
 (……忘れよう)
 ぽたぽたと水の滴る顔をタオルで乱暴に拭うと、土方は虚無にも似た心地でそう決心した。他人の秘密を覗き見るなど、偶然で悪気も無かったとは言え、幾ら恋人同士だろうが何だろうがマナー違反だ。
 一度そうと決め込んで仕舞えば切り替えの早さには自信がある。土方は流しっぱなしだったカランをひねり、水を止めてから一度深呼吸をした。
 「おーい土方ぁ」
 「!」
 そこに脱衣所の外から声をかけられ、びくりと背が跳ねる。「湯加減大丈夫か?」そう続ける声は、先頃の熱の片鱗も残さぬ、いつも通りのだらりとしたもので。土方はぎくしゃくと頷いてから、外から見える訳はないと気付いた。どうやら相当に思考能力が飛んで仕舞っていたらしい。
 「あ、あぁ、問題無かった。もう出る所だ」
 浴室からそそくさと出た土方は、もう冷めて曇っていない浴室の鏡を見ながら軽く全身を見回した。何も異常は無いし、動揺も出さない。何度かそう言い聞かせてから、そっと脱衣所の戸を開ける。
 今度こそ、銀時は台所に立っていた。洗い物をしながら、脱衣所から出て来た土方を振り返って苦笑しながら言う。
 「おめーまだ十分くらいしか経ってねェだろ。相変わらず烏の行水だねェ。体冷えんだろーが」
 変な所江戸っ子気質だよなぁと笑われて、土方はふんと鼻を鳴らした。
 「ガキじゃあるめェし、肩まで浸かって百数えろってか?」
 「おめーの場合十秒ぐらい?まぁ良いけど、風邪引いちまわねェようにしろよ?」
 洗い物を終えた銀時は手の水気を軽く振って落とすと、手ぬぐいで拭いた。切り分けてあるスポンジケーキの様なものの乗った皿を引き寄せると、いつの間にか置いてあったボウルを取り上げる。どうやら中身は生クリームか何かの様だ。
 「……パーツだけ見るとまるきりケーキみてェだが、本当に俺にでも食えんのか?」
 「パーツ言うなよ、仮にも食うもんに対して。せめて材料とか言ってお願い。大丈夫、おめーの大好物を材料にして作ってるから」
 「マヨとか?」
 「そんな所」
 首を傾げる土方にそう、安心させる様な調子で言うと、銀時はボウルの中身をゴムで出来たへらの様なもので丁寧に混ぜ始める。よくTVなどで見る、洋菓子職人のやっている様な手つきに、結構本格的なのかなと土方は思う。
 「おめーの為だけのケーキだからね、楽しみなのは解るけど、先に髪乾かして待ってろよ。湿気った侭だと変な癖つくぞ」
 「……そうする」
 別に楽しみって訳じゃ、とか、頭が爆発するのはてめぇだけだ、とか、浮かんだ反論は何となく呑み込んで、土方は頭髪にタオルで触れながら廊下へと出た。正直、動揺したり何やらあった所為で髪の水分自体は大分飛んで仕舞っている。びっしょりと濡れているのは顔を洗った時に巻き添えを食った前髪ぐらいだ。
 (……何とか、誤魔化せたな)
 ふぅ、と正直な疲労感の侭に息をついてソファに腰掛ける。寝室の襖は今はまた開け放たれていて、万年床の布団が見えた。
 先頃まで銀時があそこで、自分をオカズに自慰をしていた事を思い出して仕舞えば顔が自然とまた熱くなりそうになるが、何とか途中で留める。折角普通に振る舞えたのだから、この侭さっぱり流して仕舞わなければ。
 ソファの上に用意されていたドライヤーを手に取って髪を乾かしていると、皿とフォークを持った銀時が戻って来る。テーブルの上にそれらを置いた彼は、ドライヤーのスイッチを切った土方に手を伸ばして、髪をさらりと撫でた。
 「よしよし、ちゃんと乾いてんな」
 まるで子供にする様な言い種に、土方の眉間に小さな山脈が出来るが、テーブルの上のケーキとやらをちらと見れば唇は自然と動かなくなって仕舞う。家デートとやらに否定的だった己を思えば矢張り、どうにも弱くなる。
 ドライヤーを片付けた銀時はその侭土方の隣へと腰を下ろした。二人の前のテーブルの上には、一本だけのフォークと、一つだけの皿。一つだけのケーキ。
 「お前の分は?」
 極度の甘党の銀時には、ケーキを食する様な用意が無さそうだ。思わず投げた問いに対して、銀時は目を細めてそっと笑う。
 「これは、土方くんの好物だけで作った、おめーの為だけのものだから、俺は良いんだよ」
 「………」
 そうか、とも、ありがとう、とも言い難くて、ソファの上で居住まいを思わず正して仕舞う土方を前に、銀時は皿を手に取り自らの膝の上へと乗せた。
 小さな皿だ。昨今は食べ易い小サイズのケーキをよく見るが、丁度そのぐらいの大きさだろうか。恐らくは先頃に冷蔵庫から出したスポンジケーキに、手際よく混ぜていたあのクリームを塗ったのだろう。シンプルに過ぎる、一見小さな豆腐の様にも見える白い見た目をしたケーキだ。
 土方はマヨネーズを至高の調味料だと思っている。何しろどんなものでもマヨネーズをかければ更に美味しくなるのだ。だが同時に、苦手な味もマヨネーズで覆い隠して問題なく食して仕舞う癖がある。銀時はそれをして、元の料理とマヨネーズとが調和する方がもっと旨く食えるだろ、とこぼしたものだが、このケーキもそう言った味の調節になっているのだろうか。
 「甘さも控えめだし、おめーの好きなものだから、絶対大丈夫だって」
 黙り込んだ土方を、ケーキを甘いものと警戒したのだろうと解釈したらしい銀時はそう言うと、フォークで白い塊をそっと崩した。生クリームはホイップしてある様だが、余り固くはない様で、とろりと皿の上に垂れる。断面は二段に切り分け重ねたスポンジ生地で、その間にも同じクリームが塗られている。
 切り崩したケーキのひとかけらを、銀時はそっと土方へと差し出した。あーん、とでも言いたげな笑みに、ケーキは甘くなくとも空気の甘さを感じた気がして、土方は鼻白みながらもそれを見返した。
 (マヨとケーキってのは合うのか?まぁ好物って言ってたし…、)
 お前の好物。お前の為だけの。重ねられた言葉と、目の前の笑みと、白いクリームが滴りそうなケーキ。
 甘党の男だ、土方には甘さ控えめに作ったとして、自分の為の甘ったるい分ぐらいは別に作っていると思ったのだが。それもしない程に徹底して、土方の為『だけ』に作ったのだと言う、目の前のそれ。マヨネーズと、何か、で作ったもの。
 ケーキを刺したフォークを差し出している、銀時がゆったりと笑う。口の両端を吊り上げて。細めた双つの眼は──笑っていない。笑っているが、いない。
 「────」
 ぽたりと白いクリームが滴って、ソファの上へと置かれていた土方の手の甲へ落ちた。
 その瞬間に今までの光景がフラッシュバックし、唐突な理解に土方の背は総毛立った。見開いた目に飛び込んで来る銀時の笑み。向けた背、土方の名を呼びながらの自慰行為、大好物、お前の為だけの。
 二度目の滴りが、今度は土方の鎖骨の窪みに落ちた。粟立つ背筋と、当たり前の様な嫌悪や忌避感。構わず向ける笑み。善意の。或いは強制力の。

 「食べて」

 薄ら笑って言う銀時は、きっと土方が先頃それを見た事に気付いている。知っていて、そして、それでもそれを食べろと、承知の上で頂けと、優しく言うのだ。
 「──、」
 風呂でさっぱりしたばかりの背がじとりと厭な汗を伝わせるのを感じながら、土方はからからに乾いた口を引き結んだ侭にごくりと喉を鳴らした。早鐘の様に打つ心臓の音と、握りしめた侭動かない拳。差し出される手作りの、土方の為だけと言うケーキが、忙しなく揺れる眼球の中にじっと映し出されている。
 唇につく程近くへと寄せられたケーキの、白い、滴り。これがただの連想である筈などない。答えは全て揃っていた。

 「…………」

 やがて土方は震える唇を開いた。ぬる、と白いクリームを唇から口腔までの粘膜に塗りつける様にして、ケーキが入ってくる。
 唇を閉じれば、フォークがするりと抜けて出た。舌の上のそれの味など解らなかったが、その中にはほんの少し、銀時曰くの土方の好物が、土方の為にと用意したものが、きっと確かに含まれている。
 歯でそれを磨り潰して、喉へ送り込む。嚥下の音。土方を生かし動かす栄養として分解すべく、食物が体内へとゆっくりと下っていく感触が厭にはっきりと感じられた気がした。
 笑んだ侭の銀時の指が、唇にまとわりついたクリームをそっと撫でて行くのに、土方は舌を這わせてそれを舐め取った。
 「おいしい?」
 柔和な表情と共に訊かれるのに、土方はゆっくりと首を上下させ、それから二口目を求める様に唇を開いた。




そのものを飲むより食べ物として摂取する方が何かえろいかなって…。などと訳の解らぬ事を申しており。
へ、変態だーー!