黙って目を閉じる事にした。



 どうしてこうなったのだろう。
 徐々にアルコールの抜け始めた頭でぼんやりと考える。ふわりと脳から浮いた思考は立ち上る湯気と共にもやもやと土方の周囲を漂っては消えるばかりで形にはまるでならない。
 駄目だ、まだどうにも思考が定まらない。
 酔っているから。きっと。酔っているからに違いない。
 掴んだ疑問の尾先はいっそ不可解な程に脳を疑問符で埋め尽くして行くと言うのに、肝心のそれを思考している筈の土方自身は既に答えを探す事を半ば放棄して仕舞っていた。
 何と言うか。
 (……考えても仕方ないだろこんなん)
 思わず吐いた溜息がぽこぽこと泡になって水面に浮かんで弾ける。胸の裡のこのもやもやとした疑問やそれを探す思考もこうして弾けて仕舞えば良いのにと思いながら、土方は温かな湯気で霞む視界の中で目蓋を下ろした。
 と。
 「オイ、寝るなって。溺れて死んでも知らねーぞ」
 ぐ、と髪の根元を少し力を込めて掴まれて、土方は閉じたばかりの目蓋を不承不承持ち上げた。眠るつもりなぞさらさら無かったのだが、確かに目など閉じたら眠くはなりそうだと、先頃より重くなった気のする目元を軽く揉む。
 髪を掴む銀時の手を見上げようと顎を持ち上げれば、すかさず元の位置に戻される。動くな、と言いたいらしい。仕方なしに土方はもう一度鼻下までを水面に沈めた。溜息を吐く代わりに肩を竦めて、余り広いとは言えない浴槽の中でだらりと力を抜く。
 土方に眠る気配も文句や抵抗の気配も無いと確認してから、頭の上の手は再び動き出した。ぐしゃぐしゃと適当に泡と髪とを引っ張り混ぜている様で、銀時の時折発揮する器用さの賜物なのか、時折指の程良い力で頭皮をマッサージする様に揉み込んでいくものだから、正直な所気持ちが良くて目が細くなるのは否めない。
 どうして人は頭を触られていると落ち着くのだろうと、土方はぼんやりと定まらない思考の矛先を余所に流した。子供が良い例だ。あとは犬猫とか動物の類。本能的に護らねばならない箇所だからこそ、そこを無防備に触られると言うのは無条件の安堵に繋がるのかも知れない。
 推論は正解とは知れなかったが、別に己の想像の侭でも或いは全くの見当違いでも良いかと思ってから土方は、それでは今自分は無防備なのかと思って苦笑した。
 確かに風呂に入る時と言うのは基本的に警戒状態にでも無い限りは人間誰しも無防備になる所だが、この状況でもその例にどうやら『これ』は漏れないらしい。
 「…まあ酔狂ではあるな」
 「? 何か言ったか?」
 吐息に似た呟きに頭上から問いが返るが、「いや」と頭が揺れぬくらいに小さくかぶりを振って返す。
 どうしてこうなったのだろうか。
 繰り返し思うが最早どうでも良い。浴槽の縁に腰掛け片足を湯の中に沈めて、土方の髪を泡立てている男が酔狂なのはどう考えた所で間違い無いのだ。
 どうしてだっただろうか、と言えば、珍しく結構に酔った土方に、風呂に入って少し醒ませと先に言い出した銀時の方にまず最初の原因があっただろう。
 ……で、憶束ない足取りの土方を案じたのか、銀時が浴室までご丁寧にエスコートしてくれたものだから、つい面倒になったのかそれとも普段は出ない甘えの様なものが首を擡げて仕舞ったのか「どうせなら洗え」とか、何だかそんな類の事を口にした。様な記憶がある。
 それでその後どんな遣り取りがあったかは定かではないが、取り敢えず今こうして、銀時に髪を洗われている土方、と言う画が出来ている訳だ。
 己の精神安定の為にもっとソフトな表現にするならば、万事屋に髪を洗わせている真選組の副長と言った所か。いや何処がソフトなのかは解らないが。
 「お痒い所はございませんかァ」
 「無ェけど全部」
 「……どっちだよ」
 戯けた声で訊いて来る銀時に、似た様な調子で返せばくつくつと笑い声が降って来る。それでも、全部、と言う要望を聞こうと言うのか、髪ごと頭皮を揉む手指が強弱をつけて再び最初から丹念な動きを始めた。
 鏡が近くにないから解らないのだが、頭髪を揉みほぐす泡の量は普段己の憶えにある感触ではなさそうな気がする。余程泡立てているのかそれともシャンプーの量が多いのか、汚れた湯や小さな泡が土方の項を伝って浴槽の中身を汚していっているのだが、銀時の手にそれを気にする様子はない。それどころか下手くそな鼻歌まで奏でている始末だ。
 その恰好はいつもの白い着流しを脱いだきりの黒の上下。裾は捲り上げているが、片足は膝下までたっぷりと湯に浸かってしまっているし、湯気に散々晒されているしで、干さないととても着ていられなさそうだったが、矢張りそれにも気にする様子は見られなかった。
 一方湯に肩まで浸かっている土方の方は当然素っ裸なのだが、湯の中と言う事もあるし、酒の入った今なら別に今更羞恥が涌くでもない。素面だったら流石に躊躇っていたのだろうが。
 万事屋の浴室はお世辞にも広々としているとは言えない。手狭な浴槽は、土方だけではなく家主である銀時もだろうが、成人男性の身体が一人分収まって仕舞えばもう殆ど身動きが取れなくなる程度の大きさしかない。足も伸ばせないから膝を軽く曲げている。幅には本来ならば余裕があるのかも知れないが、今は間近に銀時の片足が入り込んでいるから、土方はなんとなく両肩を窄めて仕舞っている。
 入り心地、と言う意味ではこの上無い程に宜しくはないのだが、頭髪をじっくりと時間を掛けて洗う丁寧な手つきが心地よいので、自然と力も気も抜けて仕舞う。そりゃあ目蓋を降ろせば眠くもなろうものだ。
 仕事が立て込んだりでもしない限りは土方は毎日風呂に入る。己を特別綺麗好きとは思わないが、恐らく今のこの江戸ではそう珍しい生活習慣でもあるまいとは思う。そもそも不潔だったり生活に明かな乱れがある姿など警察としてあるまじき様は大衆にも部下にも晒せないのだから、綺麗好きだの風呂好きだのと言った嗜好云々はさておいて、土方にとって入浴の習慣は欠かせないものである。
 つまり日頃小綺麗に身なりに気を遣う人間であるところの土方の髪ならば、こんなにも丁寧にじっくりとたっぷりのシャンプーで泡立てられる必要など無い筈なのだが、鼻歌を歌いながら手を動かす銀時の動きが止まる様子は未だ無い。
 髪の生え際を揉み押しながら移動する指が、なんだかマッサージでもしている様で気持ち良い。いい加減に指先からふやけそうなぐらい湯に浸かっているが、もう良いだろう、と切り出す事も何だか出来ず、かと言って酔いの後の眠気に身を任せる事も出来ず、土方はただただ目を細めて息を吐く事しか出来なくなって仕舞うのだ。
 (やっぱり酔狂以外の何でもねェな)
 結局は銀時の所為にして、土方は湯に沈めた口元だけで忍び笑う。
 なんだか知らないが銀時は楽しそうにしているし、土方は心地が良い。だからまあ、肩先が少し湯から出て冷えている事や、湯に泡が浮かんでいる事ぐらい何と言う事もない。
 「じゃ、そろそろ流すから首乗せな」
 やがて、銀時がそう切り出すのを聞いた時には思わず落胆の声を漏らしそうになって、土方はばつの悪い感覚を己に感じながら密かに苦笑した。「おう」と頷きを返して、浴槽の縁に項を乗せて洗い場に頭を出す様にする。それを待ってから銀時はシャワーを取って掌に当てて湯の温度を調節し始めた。
 幾ら気を遣った所でこんな体勢で流せば水と泡とが浴槽に流れ込みそうだが、もうこの際だろう。どうせ既に湯は汚れているのだ。
 「目閉じてろよ」
 「ああ」
 水量を落としたシャワーが土方の額の辺りに当てられて、下に流れ落ちる水と泡とが髪に沿って項の方へと伝って行く。湯を流しながらも空いたもう片方の指は髪の隙間に汚れが残らない様にと丁寧に洗い流してくれている。泡やシャンプーのぬるついた感触が消えて行けば、濡らされるばかりの髪はすっかりと重たくて、項に疲れを感じた土方は小さく呻きながら身じろいだ。
 「……」
 薄く目を開いて見上げれば銀時の顔とそこでばたりと出会って、至近であってもさっぱり行き交わない意思の疎通に土方が瞬きをするより先に、銀時の唇がそこに降って来る。
 啄む様な寸時の口接けに咄嗟に眉を寄せる土方を見下ろして、銀時は何やら楽しげに笑いながらシャワーを止めた。首を元に戻した土方がぐっしょりと濡れた前髪を憮然としながら掻き上げれば、
 「ま、酔狂なのはお互い様ってこった」
 銀時はそう、からかう様に言って、置いたシャワーヘッドの代わりに、浴室に掛けてあったタオルを手に取る。
 ぽんぽん、と水分を軽く吸う様に髪に当てられた布で目線を隠されたのを良い事に、土方はじわりと朱の差し掛かった目元を細めて、殊更不機嫌そうにふんと溜息をついてやった。
 それでも、手の動きが何だか酷く心地よかったから、




シャンプーはヴィダルが良いとか言われて椿の良さを反論してる内に本格的に洗ってやる事になったんじゃないかな多分。

 から、黙って目を閉じる事にした。