愛の実験 窓を吹き抜けて来る風が卓の上の書類をカサカサと揺らしていく。 強い力も暑さも寒さも運んで来ない風は、丁度良い塩梅に船を漕ぎかかっていた土方の頬を撫でながら通り抜けて、手つかずの書類たちの抗議めいた囁きをひととき残して行く。 「……」 眠ィ、と声には出さない響きが溜息となってこぼれ落ちる中、蚯蚓の様な文字がのたくっている手の下の紙面を土方は乱暴に抜き取って破いた。 病室とは言え、デスクワークぐらいは出来る様に取り計らう様望んだのはそこの住人である土方自身だ。食事用の卓の上には今日も今日とて、副長不在で歯止めの効き辛い部下達からの激励と言わんばかりの始末書が積まれている。 これが屯所の執務室であったら別だ。苛々としながら煙草を吸うより寧ろ囓って仕事をこなして行くのに問題はない。書類の内容以外には不満も無い。 だが、のんびりと風なぞ吹かせる穏やかな天候下にある病院と言う環境は、思った以上に伏した人間の意識と気力とを散漫にするものらしい。 座すのが硬い畳や薄い座布団ではないと言う事もそれに拍車をかけている。パイプで設えた簡素な作りとは言え、これは病人の眠る為の寝台だ。幾ら座面をほぼ垂直に起こした所でそれは変わらない。布団は飽く迄眠る為のものであって、仕事をする為の場では無いのだ。 そこに来て『院内禁煙』と山崎が筆書きし貼り付けていった半紙があちらこちらに目立つ。その様はまるでお札を貼りつけまくった呪いの部屋の様だ。なれば呪いは山崎由来のものだろうか。土方が隠れて喫煙をする度、看護婦に頭を下げていたのはあの損な役回りばかり目立つ部下だった。 そんな呪詛に何らか威力がある訳ではない筈だが、べたべたと貼られた禁煙を促す呪いもとい懇願の群れ達は、禁煙と言う現状を更に居心地の悪いものへと変えている。 そうしながらも、空調の整えられた室内は外の気候と共に穏やかな秋晴れ続きで。隙間の作られた窓からは眠気を誘発する様な陽光と、眠気を留める様な風とが交互に行き来するのだ。堪らない。 手にした侭だったボールペンの尻で瞼を軽く突き、重たい眼球が転がる感触で眠気をなんとか押し遣って。土方は目を離す度に嵩を増している気がしないでもない書類の山達をうんざりと見た。 いっそ風に吹き散らされて仕舞えなどと何の解決にもならない事を思うのだが、重量と言う実用性以外の何の役にも立ちそうにない、クリスタルの立方体の文鎮はどうやらきちんと仕事をしているらしい。 デスクワークそのものが嫌いで堪らないと言う訳ではないのだが、病室と言う他に何も気の逸らし所の無い所で無心に熱中出来る程に好きだなどとは当然思えたものではない。土方が日頃ワーカーホリックだのと称されるのは単に、面倒な事ほど集中して終わらせたいきらいがあるからだ。そして何より屯所であれば、仕事が終われば風呂でも飯でも稽古でも酒でも煙草でも、終わった後の愉しみがある。 ご褒美が無ければ仕事も出来ない、などと宣う心算は無いが、負傷と不自由と禁煙と禁マヨと言う何重もの我慢の責め苦に置かれているのだ。ただでさえ余り好ましく無い書類との戦いを更に厭う事になる理由としては寧ろ真っ当な言い分だと思う。 (思う。が、) いつの間にか卓の上にだらりと上体を倒していた事に気付きながらも、土方の身体は本人の意に反して起き上がってくれそうもない。 横頬に真新しい紙の感触が冷たい。不自然に折られた身体は傷の具合も相俟って痛むし、温かな陽を遮る様にして標高高い書類山が直ぐ横で聳えている。 鎮痛剤の効果もあって、眠くなるのは仕方のない事だ、とは言われている。だが果たしてその眠気とやらは、視界の端に山積みの書類を見ながらも仕事に関してはなんでかんで生真面目な真選組の副長を怠惰な眠りに引き込む程に凶悪なものなのだろうか。 少なくとも、船を漕ぎかかった理由についてさえも己に言い訳ぐらいはしたいのが、土方も自身で認識している『生真面目』さだ。転た寝一つさえ不当だと感じれば納得が行くだけの理由が欲しい。仮にも仕事中と定めた時間内なのだから余計にだ。 うつらうつら、としかかる意識がぼんやりと思考の狭間をすり抜けて行く。 ああ、そもそも負傷で入院などと言う失態を犯さなければ良かったのだ。そうすれば今頃は屯所でデスクワーク以外の職務にも励めていた筈だ。こんな病室で眠気と戦いながら、埒もない無駄な思考を連ねる様な事もなかった。 (たァ、言っても……ありゃァ相手が悪いと言わざるを得ねぇ状況だった。いけ好かねぇエリート面した三天の怪物、それと……、) 最早留まってくれる気もないらしい微睡みに、掴みかけた鈍色の影の様なものがするりと解け落ちた。ここ数日程度の脳内の反芻ですら、億劫になった意識はしてくれそうもない。 あれだけ意固地になって眠気に逆らおうとしていたのが馬鹿馬鹿しくなる程に、土方の意識は容易く眠りの中へと融けて行く。まるで子供を寝かしつける様な優しい乱暴さの様に。唐突に。その癖逆らえない程に強く。 完全に融けかかっていた意識と全身の神経が、ふわりと空気が動くのを不意に捉える。 「なんだ。折角人が見舞いに来てやったってのに、寝てるのか」 くす、と苦笑めいた響きの声が耳朶を風と共に心地よく擽って行くのに、土方は侵入者の存在に気付いていながらも動けずに──動かずに居た。 これを侵入者などと分類する事も、そもそも正しくはないのだと。安堵と言う感情や記憶しか孕まない声色がそう告げて来ている。 微笑みの気配と共に、長い指の背が土方の喉元を擽る様に悪戯に触れていく。耳に掛かった髪を指先が弄んで、耳の輪郭を辿る様に優しくなぞられて、「ん、」と思わず喉が鳴った。 未だ眠気を払う程の戯れでは無く、寧ろ触れて行く指に心地よさすら感じて、土方はむずがる様に首を捩った。一瞬後には、頬の下に敷いていた紙の何枚かがぱさぱさと床に落ちる音。 指の主が笑いを噛み殺す様な気配。 眠ィんだから邪魔をするな。ああでも、起こさねぇ程度なら気持ちが良いから触ってろ。 怠惰な脳が眠りの淵からそんな事を囁いて来るのに、不思議と羞恥は湧かない。 何故なら、この男は。 思った時、かさ、と床に散った紙を踏みつける音と共に、男の気配が接近した。 きしりと寝台のクッションが沈み、卓に置いた腕に上体を伏せている土方の横から覆い被さる様にそれが触れて来た。途端に広くなった接触面から温度が流れ込んで来る。 笑い混じりの吐息が耳朶を甘く擽り、音を立てて食まれる。唇と舌とが遊ぶ様に土方の耳から、先程身体を捩った事で晒された首筋までをそっと辿り。 「、く…」 擽ったい様なもどかしい様なその感触に思わず口元に力が籠もるのと同時に、土方の意識は急激に覚醒していた。 「……っにしてんだ、テメェは」 視界の端に映り込んでいる、毎度鮮やかな金髪を思わず掴めば、 「おやまァ。起きちまったか?」 癖のない真っ直ぐな髪は土方の指をするりと抜けて落ちるが、耳に心地よい男の声は捕まえておらずとも降って来る。 「起こす心算以外の何があるってんだ。……ったく、」 赤くなった耳を照れ隠しに擦りながら土方が不機嫌も露わににこぼすのに、金時は降参を示す様に両手を挙げながら、寝台へと乗り上げていた片膝を大人しく下ろした。 「良いじゃねぇか別に。何せこちとら、久々に恋人に会えた身なんだ。寝てたからお預け、じゃあ堪らねーよ」 真顔で、実に雄らしい顔で笑う金時を、土方は熱が上がって真っ赤になっているだろう顔なのは承知でむすりと睨み返した。 鬼などと日頃呼ばれる男のそんな表情は、金時にとっては可愛らしさだの愛しさだのと言う感情を刺激するものでしかない。それも半ば解っていたが──否、解っていたからこそ、土方は恨めしげな眼差しで金時を見上げ、金時はそれに得た様な風情でひとつ、蝋燭を吹き消す様な吐息をこぼして笑うと、もう一度身を乗り出して来た。寝台の軋む音に思わず身を竦ませる土方の頭を片手で抱え込む様にして、耳の後ろに甘く口接けてくる。 「愛してるよ、土方。……お前は?」 至近距離の甘い囁きに、土方は思わず目を見開いた。びく、と強張る肩を強く押さえられ、金時の唇が動くのにも、言葉を紡ぐのにも、制止一つかけられない。 「なァ」 さらり、と、真っ直ぐで滑らかな金色の髪が首筋を擽る感触にぞくりと肌が粟立った。 恋人、と。そう呼ばれた時から、心の底を灼く様な甘すぎる歓喜が己が裡を満たして行くのに、土方は溺れる寸前の様な吐息を思わず漏らす。 呑まれて行く様だ。 この金髪の男が元攘夷志士だと知ってからも、漣の様に土方の心を疼かせるある種の感情は引く事を知らなかった。元より、真選組の隊士、沖田や近藤までも一目置く様な男だ。誰にでも優しく、誰にでも平等で、誰にでも好かれて尊敬を抱かれる。その上甲斐性もあるし何より人格者だ。これだけの善い男は他にいないぞと、近藤もいつかそんな風に言っていた。 だからこそ、この眩しく優しい金色の光に自分が特別に包まれても良いのだと言う事実が、歓喜以上の歓喜を以て土方の心を震わせる。盲目に何かに恋い焦がれる様に。雛鳥が絶対の親鳥だけを見上げる様に。 「土方」 強請る様な雄の声が皮膚の上をぞくぞくと走り抜けるのに、我知らず土方は身体を震わせ、汗ばんだ掌の下のシーツを強く掴んだ。 「ぁ…」 顎までの輪郭を辿る唇と指の動きに思わず顎を反らせば、浮いた喉仏の近くを舌がぬるりと辿り、顎の裏側の柔らかい部分に押し当てられた歯がやわくそこを甘噛みする。 「言ってくれよ」 「〜ッん、待っ、、きん、…、!」 強制力のある響きと同時に、唇の当てられていた部分を強く吸い上げられ、柔らかい皮膚を食まれる感触にぴりぴりとした痛みが走る。急所である喉元を晒され触れられているだけでも身が反射的に竦むと言うのに、金時は仰け反った土方の頤を捉えて身じろぐ事さえ許してはくれない。 制止なぞ聞く気もなかったのだろう、金時の舌先が、つきつきと痛むそこを優しく一度舐め上げ、そうして離れていく。 「…てめ、痕はつけんなって…!」 しかもこんな位置では仮に隊服姿だったとしても隠せない。痣になる様な怪我を負う場所でもない。咄嗟に引いた手でそこを覆って抗議するが、土方の覆う手の下に恐らくくっきりと赤茶色の痕を残した男は可笑しそうに笑うのみだ。 「何で。お前は俺のものなのに、何を誰に憚るんだ?」 余りに直接的で簡潔な、さも当然の事の様に紡がれた金時の応えに、真っ当な反論を失った土方は熱の残る頭をぷいと逸らした。少しはこちらの立場と言うものを考えて貰いたいと思うのと同時に、『俺のもの』などと断じられた事に確かな喜びがあるのが、恥ずかしい以上に──何故だろうか、酷く忌々しい。 確かに、この男であれば誰も何とも思うまいと。確信はある。一応恋人同士と言う形らしきものを経ている事を近藤辺りが知ったとして、顔を顰めるどころか手放しで喜んで祝福してくれるだろうとも。 だが、この忌々しさはそう言った懸念とはどうも趣を異にする様だ。 「土方。なぁ」 そっぽを向いた土方の、顎の裏に刻まれた痕を隠す様にしていた手に、金時の手がそっと重ねられる。機嫌を伺う様な甘い声色は恋人ごっこの体現の様で、心がざわりと揺すられる。 「お前もそれで良いんだろう?」 俺のものだ、と断言したのと同じ調子で囁く声が、笑んだ目が、ぐ、と唇を引き結んだ土方の顔を真っ向から見据えた。 否、などと返るとはこれっぽっちも思っていない、自信と才気と確かな強さに因って形作られた、眩しい程に魅力的な男だ。 「なら言ってくれよ。俺を愛しているって。俺のもので良いって」 金色の声音が、土方の裡を歓喜の疼きに揺らす。背筋を駆け上がる様な感情の迸りに、喉がこくりと鳴る。 「っ…きん、と、」 目映さに思わず目を眇めそうになった時、笑みを刻んだ金時の顔が近付いてきた。 硬直した侭の土方の唇に、そこから紡がれる言葉とは違う、鉄の匂いのする吐息が触れる。 そうして唇の重なる寸前── 「………」 ひたり、と。金時と土方の間の僅かな空気が冷えた。 僅か目を眇めた金時が土方の顔をじっと見つめて、それからゆっくりと視線は下方へと移動していく。先程まで満ちていた甘い空気を無粋に切り裂いた、己の喉元に突きつけられた刃へと。 「……………これは何のつもりだ?」 未だ、飽く迄優しげな金時の声が、粗相をした子供に語りかける様な響きでそっと問いを落として来るのを、土方は小太刀を握りしめた右の手に縋る様にして睨み上げる。 耳の後ろでどくどくと血流の音がする。 何を言っているのか。どうしたのか。何故。 そんな、脳髄をガンガンと叩く様に酷い己の狼狽と抗議の声に、然し土方はかぶりを振った。 咄嗟に枕の下から抜き放った小太刀の、血にも似た鉄の匂いと、眼前の金色の男の甘い微笑みとが。余りにも相容れず、ひととき混乱しそうになる。 「土方。お前は何をしてるんだ?」 口接けする寸前にも思えた彼我の距離は、逆手に向けた刃一つ分。 その鈍い輝きを縋る様に見据えて、銀の刃越しに、土方は金髪の男へと剣呑に言う。 「……生憎、金髪ストパーで甲斐性までありやがる、そんな高スペックな野郎に憶えなんざ無ぇんだよ」 軋る様に紡ぐ自らの言葉は、痛烈な違和感を以て飛び出している。 何かがおかしいのに、何かが繋がらない。微睡みと頭痛の狭間に在って、何かが歪にそこに差し込まれたかの様な。 読みかけだった本の栞を挟み間違えて仕舞った時の感覚に、よく似た違和感。 「……へぇ」 違和感、と名付けたものの正体が然し何一つ知れず、土方は再びぐちゃぐちゃと崩れかかった意識を何とか掻き集めて踏ん張った。それを、子供の我侭を叱る親の様な声一つで笑う、眼前の、金色の男。 焦がれた筈だった男の。然し何かが正しくないのだと、本能かそれとも気の迷いかも知れないものが警鐘を鳴らす。 覚えがない。否、ずっと前から知っている。 惚れている。お前が好きなのだと言われた筈の。 「どうしたんだよ、土方。確か頭は打って無かったよなァ?」 酷く優しい男の声が、首元に今にも食い込みそうな刃など気にする様子無く、案じたり労ったりするものでしかない手つきで、土方の後頭部にそっと沿わされた。 金時の手指の触れた場所から、安堵や歓喜に似たものが流れ込んでくる。快楽にも似た感覚が背筋を伝い落ちれば、それはたちまちに全身に伝わり、刃に縋ろうとする土方の心を陥落させようとする。 それは何かを犯される様な焦燥を生んだ。そう、子供を寝かしつける親の、強制力を持った手にも似た。 お前が間違っているのだと。お前がどうかしているのだと。痛烈に、正しさなどないと突きつけて来る。乱暴な程の輝き。 「やめろ、触んじゃ、」 「土方」 シーツについて姿勢を保っていた左手を土方が振り上げた瞬間、金時が己の首に触れていた刃をそっと掴んだ。その行動に土方は狼狽するが、刃を引く事も、手を離す事も出来ない。 甘い、血にも似た鉄の匂い。囁く吐息は、どこまでも深く土方の裡へと入り込もうとする。 「俺は坂田金時。お前を愛している男だ。……解るよな?」 当たり前の事を紡ぐ様な囁きが、金色の眩しい輝きが、混乱に浸されそうになっている土方の意識を引っ張り上げる。引っ張り上げながら、優しい微睡みへと誘おうとしてくる。 「お前を愛して、お前に恋して、お前の為だけに生きてやる。お前がそう望むなら。お前が俺だけのもので在る限りは」 金髪の男が本心から囁いて寄越した、それは間違いなく甘い響きだった。 望んでも得られないものだった。 望まれても与えられないものだった。 ──気付いた瞬間、背筋が静かに冷えた。 「……………テメェは、誰だ……?」 『誰』と比べたのか。『誰』と間違えたのか。解らない。 だが、土方の信じるべきものはただ一つのシンプルな己の意志だった。 目の前の、たった一本の銀色の刃だけ。それだけで良い。己が『これ』を否定した、その事実だけで良い。 「………」 答えの明確ではない侭、それでも目の前の金色の目映さが正しくないものである事だけを理解し、土方は刃を握る手に力を込めた。 その土方の様に付け入る様な揺らぎの無い事を見て取ったのか、金時はふっと嘲りにも似た笑みを浮かべると刃を掴んでいた手を離した。 「何処で、気付いた?」 嘲笑う様な質なのに、言葉は矢張り何処までも優しい色を灯した侭の、男の開いた掌に血の筋一つ付いていないのを見てから、土方は小さく息を吐いた。おかしな話だが、それでも相手の、剣を握るのだろう手指に傷がなくて良かったなどと、そんな馬鹿な事を考えていたらしい。 「その問いは、テメェがどこかの腐れ野郎の模倣をした、どこかの腐れ野郎に似た誰かさんだと言う肯定で良いんだな?」 「回り諄いな。まァその事自体は間違っちゃいないんだがね、俺としては、どうしてお前がそれに気付いたんだと、寧ろそれを知りたい所だな」 胸が悪くなると言うより、簡単に『誰かの模倣』としてここに入り込もうとした金時へ感じた危機感と、模倣対象である、腐れ野郎に違い無い者への怒りがあって、土方は苛々とした調子で問いを上げた。 対する金時は、土方の苛立ちそのものの様な刃からほんの少し距離を取って、態とらしい仕草で肩を竦めてみせる。 「俺の催眠波は完璧の筈だ。現に最初は効いていただろう?一体『何』が原因で逃れた?」 「…は。催眠たァ随分とセコい事しやがる。『何』が、だなんだと言われても俺にゃサッパリ解りゃしねェんだがな、ただ、」 自尊心でも損なう事だったのか、心底の疑問の様に再度問うた金時を、土方は胡乱な表情でじっと見返しながら、己がこの金色の記憶へと感じた違和感の正体として、尤もらしい理由めいたものを探りかけ。 「…………ただ」 繰り返したそこで解らなくなって口を噤んだ。違和感の正体は未だに解らない。幾ら記憶を探れど、そこには金時が当たり前の様に居て、それは間違っていないのだと感じる筈だと言うのに、確かにそれは違うのだと知っている。 この歪さの正体は、金時の言う『催眠波』とやらの仕業なのだろうと思う。だから、金時がそれを止めない限りは恐らく土方の記憶に整合性は戻りはしない。 だと言うのに、土方には何故か焦燥感に類するものは一切湧いて来そうもない。これは違うと確かに知っているのに、何故かそれを是正する事に重要性を見いだせない。 金色に塗り潰される前の色は、何色だっただろうか。 何色でも構わないものだったのだろうか。 「……解らねぇ」 沈黙の果てにぽつりとそうこぼす。何に対する答えなのかは自分でも解らない侭。 金時は暫しの間眉を寄せていたが、不意に右手を伸ばすと、刃を掴んだ侭でいた土方の腕を捉えた。 「離せ。斬られてェのか」 これが間違えたものだと解っている以上、向こうから挑んで来る者へと躊躇いは無い。そんな土方の本気の込もった殺意に晒され、然し金時は再び笑った。あの嘲る様な形に。 (……いや、これは──) 土方の見上げる先で、金時は歪な笑みに口元を緩めた。 「……俺は確かに、お前の言うどこぞの腐れ野郎の模倣品だ。野郎をベースに生まれて、野郎を越えて、完璧な野郎そのものになる事が俺の生きる意義で──意味だ」 (自嘲、か) 握りしめられている腕が痛い。金時の縋る様な無意識を孕んだ力が、感情の行き先の正体も思い出せ無い侭で刃をただ信じ縋る土方の腕を捉えて、びくともしない。 金時の左手がゆるりと持ち上がり、土方の片頬を包み込む様に触れた。これもまた、縋る様に。 「俺は野郎の模倣品だ。今や野郎を上回っているのは確かだが、所詮原形は野郎のものだ。野郎の侭、変えようのねぇものがある。……それが手前ェらの言う所の、感情って奴だ」 指先が擽る様に土方の目の縁を漂う。その仕草から嘘の気配は感じられない。 先頃甘く囁いて寄越した通りの、愛おしさや執着のほかには何もない。 この金色の男がそうだと言うのであれば、原形となった男もまた、同じ想いを抱いている筈なのだろうと不意に思い出し、土方は片方の眼だけを眇めた。 憐れんだ訳ではない。況して、惹かれた訳でもない。 「思い出せねぇんなら好都合だ。あの野郎なんぞじゃなくて、俺にする気は無いか?」 いつでも愛してやる。お前だけを想ってやる。血にも似た匂いを纏わせた甘い声色が紡ぐ誘惑に、然し土方は逡巡一つせずに鼻を鳴らした。 ああ、きっとこの嘲りも、自嘲なのだ。 「テメェの所為で思い出せやしねェってのに、それでもテメェを選ばなかった俺に、どうやりゃその選択肢の可能性があるってんだ?」 金色に塗り潰された甘過ぎる記憶の下のそれに、一体どれだけ心を奪われているのか。一体どれだけ満たされているのか。 嘲うほかない。腑抜けた心に──それを確かな歓喜として受け取っていた事に、笑うしかない。 塗り潰されていた筈のものの、失われない存在感や愛着には、焦燥感などこれっぽっちもある筈無い。 躊躇い一つない断定に金時の顔が苦々しい笑みを刻み、それからゆっくりと身体を起こし、土方からそっと離れる。 「…どうやら、完膚無き迄にフられちまったらしいな。お前も何でまた、全てがあんなのに勝るモノを選ばねぇのか…、俺には理解出来そうも無ぇが、」 そこまで言って金時は口を噤んだ。胸の辺りを押さえる様な仕草をしてから、持て余した風に肩を竦める。 (…まるで、失恋した野郎のそれだな) 思う土方の視線の先で金時は盛大な溜息をつくと、やがて諦めた風に、最初に見せていた様な尊大で自信に溢れた姿を繕った。 「今度は、野郎を殺してから来る事にするぜ。その時、お前の心が未だ変わらねぇってんなら…──」 その侭踵を返す様に思われた金時は、ぐいと手を伸ばすと土方の顎先を指先に乗せた。 持ち上げられた頤には、金時の刻んだ痕がくっきりと、暫くは消えない程に濃く刻まれている筈だ。 戯れの手管か。それとも本気の願望か。元より、所有権の主張などと言う巫山戯た言い分なを赦す心算は、金色の男にも、そこに居た筈の男に対しても、ありはしなかったのだが。 「っは。手篭めにでもしてみるか?贋物。やってみろよ、どうせその様じゃァ、テメェはその腐れ野郎にも勝てやしねぇんだ」 「……言うねぇ」 苦笑と共に、するりと指先が離れて行き、どこか諦念を持て余した風情の金時は軽く手を挙げると病室を後にした。 現実味の未だ無い、ひょっとしたら微睡みのついでに見た夢かも知れない感覚の遊離感の中で、顎の裏側の皮膚だけがひりつく様な痛みを以て、現実感を知らしめて来ている。 ち、と舌打ちをしながら、内出血の痣を刻まれた箇所を指で擦って、それから土方は小太刀を鞘へと収めた。元通りに枕の下へと潜ませると、疲労感に重たくなった後頭部をぼすりとそこに落とす。 「…模倣だから勝てやしねぇんだろうが。碌でも無ェ腐れ野郎の模倣の癖、不釣り合いに豪華に輝き過ぎてんだよ」 だから見えて仕舞った。気付きたくも無かった、野郎の注ぎ込む愛や情だのの大きさと深さとに。 眠気など疾うに吹き飛んだ頭で、土方は目蓋を静かに下ろす。その内側で輝くのは金色ではない光だった。 いつから鏡花水月を使っていないと錯覚していた?リスペクト。 |