M&D



 熱の冷めない肌に、ひいやりと触れて通る夜風が心地よい。
 寄り掛かった窓の細くひらけた隙間からは淡い月明かりが差し込んで来ており、畳張りの室内も、少々寝乱れた布団の有り様も薄らと伺える。
 窓辺には月見酒を楽しんでいた名残の御猪口がふたつ。なんとなく銚子を持ってみれば、中にはまだ酒が残っていた。
 そう言えば喉が少し乾いていたし、何より勿体ないと思って傾ければ、丁度御猪口一杯分くらいの量を注ぐ事が出来た。
 高い月を下から見上げて、幾分温まって仕舞っている日本酒をちびりと含むと、どこかで咲いているのだろう、金木犀の香りが鼻孔を悪戯に擽っていくのに目を細める。
 「…ん、」
 もぞ、と布団の塊が動くのに意識をふと戻せば、枕に沈んだ黒髪の頭が布団に半分ばかり潜って行くのが見えた。寒かっただろうかと思い、銀時は我知らず口元を少しだけ緩め、そっと窓を閉ざした。
 煽る様に残りを干した猪口を戻し、音を立てない様に布団端に座ると、乱された布団を直してやる。素っ気なくも、布団のもう一人分の空きに背を向ける様にして眠っている土方が目を醒ます様子は無く、銀時は落胆とも安堵とも取れる息を密かに吐いた。
 障子紙の向こうの夜空も、衝立の影と布団とに隠れた土方の寝顔も、今の銀時の心地からは遠い。
 「……」
 顔を覗き込んでみようかと片手をついて、覆い被さる様に近付いた所で、然し止める。
 暑い程ではないが、未だ熱い。夜風や、流れる汗で冷却出来るかもよく解らない熱の正体は、単なる欲求不満なのか、或いは情熱とか虜とか言うものなのか。思って苦く力もなく笑う。
 果たしてこうして夢中になっているのは自分だけなのではないかと。時折そんな心地になる。熱のいつまで経っても引かない様な、こんな日には特に。
 (此奴にとって、俺はどんな存在なのか、と)
 らしくもなくそんな事を考えてみたのは、一度や二度の事ではない。
 そして、深く考える前に馬鹿らしくなるのも、一度や二度の事ではない。
 土方の自尊心の高さや、生真面目さは今更思い返す迄もない程に知っている心算だ。ついでに言えば自らの弁えを必要以上に良く知るのだと言う事も。
 そんな土方が、伊達や酔狂や興味でこんな事を許す筈など無い。それは確信している。
 周囲にも自他共にも「嫌いだ」と公言して憚らない坂田銀時の手を、冗談事で取る筈など無い。…それも確信している。
 故に、『これ』──この状況に至るべき経緯は、疑うべくもない土方の本心なのだとは、思う。
 それが、好きとか嫌いと言う単純な分類なのか、他に何か理由があるのかまでは伺い知れなかったが。
 (…確か、何気なくそこに居る様なもんだって言ってたっけ?……つまり?どっちかっつーと、道端の石ころ的な?)
 少し前に土方に訊いてみた事を思い出しつつ、自らの喩えに銀時は苦く呻いた。
 (…………気付かぬ内に、その石ころに躓き転ばされる事もあるかも、知れねェ)
 らしくもない。もう一度そう諳んじて、銀時はぐしゃぐしゃと自らの頭髪に手を突っ込んだ。項垂れる。
 (棲む場所が違うだの何だの、今更そんなの気にする程、覚悟が無ェ訳でも怖じ気づいてみてる訳でも無ぇんだよ……。ただ、)
 何も欲しがりもしねぇし、何も与えられもしねぇ。
 それは恐らくお互い様なのだとは思うが、それでは果たして、掴んだ手に一体どんな根拠があったと言えるのだろうか。
 土方をいつか転ばせるかも知れない様な危険要素でありながら──恐らくは土方自身とてそれを何処かで確信しながら──それでも。
 泡沫の夢かはたまた茶番でしかないのかも知れないと邪推しながらも、銀時は手を伸ばす事を、土方はそれを取る事を、互いに選び取って仕舞った。
 (……此奴を…、此奴の立場をいつか追い詰める事になっちまうかも知れねぇ、ってのに…)
 昔の自分はこうではなかった。得難いものを抱えて手放せなくなる様な、そんな事は無かった筈だ。
 (手を、離す気になんざ…、とてもなれねェ)
 それこそ「らしくもなく」そう考えてから、銀時は大きく息を吐き出した。
 アルコールの匂いがした。
 
 *

 剣戟、怒号、悲鳴。それらの混じり合った喧噪が夜を揺るがして響き渡る様は、戦場の空気にも似ている。違うのはそこに血の匂いが含まれない事ぐらいだろうか。
 そんな事を思いながら銀時は廃ビルの中を急ぎ足で歩いていた。少し遠くなった喧噪に耳を澄ませる。
 (騒ぎ、デカくなって来たな。そろそろ潮時かね…)
 江戸の一角に位置する、嘗て工業地帯を整備し入植者を多く募って作られた地域。その起源は天人来訪の初期に至る。
 ターミナルを含め江戸の町が近代化し戦場になっていた郊外が沈静化する内に、地方に工業地帯を置く方が効率的とされていった為、建設中だったものも含む多くのビル群はその侭放逐され、朽ちるに任されていった。
 今では、崩落の危険故の立ち入り禁止区域とされている場所だ。人を住まわせぬカラの住居跡の立ち並ぶ威容。そこに漂う退廃的な空気。一帯は隠れ蓑に便利な迷宮の様な地理もあって、暴れ遊ぶ若者や攘夷浪士らの潜む格好の場所となっている。
 普段ならば面倒事は御免だと近づきたくもない場所だが、見廻組局長である佐々木異三郎の依頼を受けたのだから致し方ない。思い出して銀時は露骨に溜息をついた。
 (ったく。佐々木のヤローめ、結局これタダ働きになりそうじゃねぇか)
 真選組と見廻組とが、知恵空党とか言う頭の悪そうな名前の攘夷党に呼び出された、所までは別に良いとして。結果的に両者の衝突は銀時にとって余り面白くも無さそうな結果になりそうで──ついつい手が出て仕舞った。
 とは言えその時点では誰にも犠牲を出す気はなかっただけで、名乗る心算までは無かった、のは間違い無い。
 だが、突如現れた銀時の目的や立ち位置が知れず、鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をした土方の様子を見て、ふと興味が湧いたのだ。
 今し方人質に斬りかかった見廻組を蹴散らしておきながら、佐々木と電話で会話をする銀時を見て、確かに土方はほんの刹那の空隙で考えていただろう、そんな確信だってある。
 銀時を斬るか斬らないか。
 間違いなく。それを選択肢の中に含めていた。あの一瞬の驚きの中に潜んでいた惑いと共に。
 だから、答えをくれてやる事にしたのだ。土方の注意を引くと言う目的以上に、どこかで期待せずにはいられなかった。
 斬るか斬らないか、ではなく、斬れるか斬れないか、と、迷いはしてくれないだろうか、と。
 ……どうだろうか。
 笑い声を上げ、進み出て来て刃をすらりと抜いた、その時の『鬼の副長』の顔にはもう既に迷いなど無かった様に見えた。呼ばれた通りの『鬼』の冷徹な判断を下す以外の機能など、その様からはもう見受けられなかった。
 最初に池田屋で相対した時と同じ様な獰猛な笑みを浮かべた土方の顔からは、恣意的な何かは伺えなかった。銀時にとって酷く見慣れた、無惨な迄にひとつしか見据えていない、刃に映る横顔と全く同じだった。
 落胆はしない。寧ろ安心した。期待していたのはどっちだったのかと、そう錯覚する程に。
 躊躇わせる材料に、枷となる可能性に置かれなかった事は、端から銀時にとって問題では無かったからだ。寧ろそんな状況は僥倖とさえ言えるだろう。
 必要だったのはその事実だけだ。白夜叉と言う『敵』に相対した時の土方の意志。あっさりと離れて消えていく関係性。
 (真選組(アイツら)から礼ふんだくる、ったって、それも……難しいだろ、もう)
 感傷にも似た物思いを切り替えてそうぼやき、いつの間にか止まって仕舞っていた歩みを再開させる。
 「それこそ……潮時だ」
 口にすると、思いの外ずしりと己の言葉が響き渡った事に気付き、銀時は苦々しく笑った。
 「これ以上関わるのも御免だし、とっととケツ捲った方が懸命だな」
 それっぽい変装の為に頭頂に着けている結わえた髷ごと頭髪を軽く掻き回し、銀時は砂を噛んで不快な音を立てる草履の先に視線を落とした。重い足は自覚している。
 (……そう。潮時、か)
 護ろうとしたものを失ったかも知れない、その喪失をどう見据えようかと躊躇った表情。
 だがそこに銀時の姿を見つけ、驚きを見せながらも、斬る相手かどうかを判断しようとした表情。
 そして、顔色ひとつ変えず、ただ笑っただけの答え。
 それら全てが銀時が伸べた手を取る前の土方と何ひとつ変わらなかった。
 だからこれは、安堵だ。
 「大体、元攘夷志士とお巡りが仲良くしてるのなんざ、それこそ見廻組(アイツら)に付け入って下さいって言ってる様なもんだろ」
 言い聞かせる様に銀時が声を上げるのとほぼ同時に、背後に人の足音が現れる。じゃり、と靴底で擦れる砂利の音。そして抜き身の刃の冴え冴えとした気配。
 「待てよ」
 聞き慣れた声が、研ぎ澄まされた刃に似た気配を纏って近付いて来るのに、銀時が少しだけ気まずさを込めた気怠い表情を振り返らせれば、そこで射抜く様な瞳に出会う。
 「白夜叉」
 聞き慣れた声の紡ぐ聞き慣れない響きに、銀時は我知らず表情を歪めた。笑いたかったのか落ち込みたかったのかはよく解らない。
 ただ、刀をこちらへ迷い無く向けた土方が間合いまで近付いて来るのを、炯々と光るその眼差しばかりを見つめて待っていた。
 「今、てめぇを逃がす訳には行かねェんだよ」
 そう宣言する、彼我の距離は伸ばした腕と刀の一本分。銀時へと刃先が触れるか触れないかの位置で土方は足を止めた。血に彩られた顔は色も悪く、その青白さを真っ赤な血化粧に彩られただただ凄絶だった。
 (多分、この戦場でほぼ唯一の重傷者だな)
 大小様々な怪我を負って血を流している身はそう長くは保つまい。
 その傷の数々は、自らを茨に刻まれてまで護る事を、小綺麗に上手く立ち回るより不器用に足掻いてのたうつ事を選んだ、土方と言う人間の生き様の証の様だ。
 揺らがぬ意志に雁字搦めにされたその魂は綺麗なものだと思う。──いっそ憐れな程に。
 「お仕事熱心なのは感心するけどな。今それどころじゃねぇんじゃねーの、お前ら」
 向けられた刃の気配に寸分の迷いもない事を嗅ぎ取り、銀時は無抵抗を示す様に両手を軽く挙げた。
 そうする間にも、耳を澄ませればまだ聴こえて来ている乱戦の有り様。喧噪は火の様に燃え上がっていく最中にある筈だ。騒ぎの中心人物がこんな所で、事件にさして関わり合いもない一人の攘夷志士を追っていて良い筈などない。
 「仕込みが終わる迄にはまだ時間がある。……てめぇを逃げられねぇ様にしておくぐれェはな」
 銀時の疑問に然し土方はあっさりとそう返すと、ポケットからライターを取り出した。くわえた侭火を点けていなかった煙草に火を点け、何処か疲れた様な息を煙と共に吐き出す。
 そうしてじっと銀時を見据えた侭の、常よりも顔色が悪いだけの表情は相も変わらず、睨む様な挑む様な鋭さでそこに居る。
 「そんな熱心に追ってくれんのは嬉しいけどな、俺ァ追われる恋より追う恋のが良いから。んじゃ、お仕事頑張ってくれや、真選組の副長さん」
 注視に耐えきれなくなった訳ではないが、態と茶化す様にそう言って歩きだそうとする銀時の背後で、土方の気配がかっと怒りに染まるのが解る。
 「待ちやがれ!」
 怒りその侭の声と共に、銀時の肩上、首にぴたりと刀が触れた。皮膚を薄紙一枚程度の距離をおいて空気を叩いた刃は、躊躇いもなく内側を向いている。
 「逃がさねェって、言っただろうが」
 軋る様な、押し殺した声。ここに来て初めて土方から明確な感情を引き出せた様な気がして、銀時は、困った、と言う態度を隠さず口元を下げた。
 首の傍に刃物の気配があるのは落ち着かない。どこか暢気にそう考えながら銀時が手の甲で、居心地悪くも向けられた刃を押し退けようとすると、土方はあからさまな狼狽と共に刀を持った手をその場から引く。
 (………なんだよ。斬る斬らないに躊躇いが無ェ癖に、俺が自分で傷作るのは厭だって?)
 刃は離れたが、銀時の手の甲にはじわりと血の一本線が浮かんだ。それを見てか、土方が舌打ちをするのを、ゆっくりと振り返る。
 恐ろしい程に熱が無い。両者の間に佇むのは緊張でも敵対でも、況して甘い気配でもなく、ただ淡々とした空気だ。
 「…お前さ。あんま夢中になってっと、また佐々木の野郎に足下掬われるぞ」
 身に覚えが無ェ訳じゃねぇんだし。
 自らは取り敢えず棚上げしておいて、小さく続けた揶揄する様な言葉に土方の表情が強張る。
 揶揄と言う行為にか、単に内容にか、それとも足下を掬われると指摘した事にか。失血で色を失った顔色が、怒りで益々白い。
 「それに攘夷志士ったって、元だしな。もう時効みてぇなもんだろ、何せ戦時下の事だし?銀さん、今は害のない一般市民、」
 「呆けた事抜かしてんじゃねぇ…ッ!」
 刀の転がる音に銀時が気付くよりも早く、一歩で距離を詰めて接近した土方は、噛む様にくわえていた煙草も取り落として銀時の胸倉を掴み上げて来ていた。
 窓の無い壁の孔から差し込む月灯りが、鋭すぎる眼差しを仄紅く染めて耿る。
 「一般市民だァ…?巫山戯んのも大概にしておけよ、」
 ぐ、と銀時の着物を掴む手に力が籠もり、息を必死で継ぐ土方の呼吸は血の匂いを纏って荒い。
 「──あんな風に嗤えるのは、鬼だけだ」
 挑む様にか、それとも縋る様にか、血に濡れた口元が嗤う。
 鬼の副長へと名乗りを上げ挑んで寄越した、銀髪の鬼を見据えているぞっとする程の強い眼光。
 (なんて顔、してやがるんだよ)
 見返した銀時の口元に思わず苦笑が浮かぶ。
 鬼退治に来た桃太郎どころか、これではどちらが鬼なのか。解りもしない。
 応える様に、土方の強張った気配が少し和らいだ。胸倉はまだ掴んだ侭、銀時の肩に額を落とす。
 「てめぇの事だ。どうせその場の勢いでホザいたんだろーが……残念だったな。一時のテンションに流される奴ァ、身ィ滅ぼすんだよ」
 く、と肩を振るわせ笑いを隠さない土方の後頭部を見下ろし、銀時はどこかで聞いた様な皮肉に顔を歪める。そんな一時のテンションで転落したとある男は、未だに人生坂道を延々闇に向かって転げ落ち続けている筈だ。
 「〜ああ、うん。そうな。……解ってんなら滅ぼさないでくんない?」
 「駄目だ」
 おずおずと切り返せば、素っ気ないと言うよりとりつく島もない調子でぴしゃりと言い切られる。
 思わずまじまじと見下ろすが、銀時の胸倉を掴んだ侭、土方は失血にか傷の痛みにか俯いて呼吸を繰り返しているばかりで、その表情は伺い知れない。
 「今…、捕まえねーと……てめぇは、逃げるだろ」
 荒く断続的な呼吸音の中で、やがてぽつりとそんな言葉が返るのに、銀時は少し目を逸らした。今し方正にとっととケツを捲ろうとしていた身には、どこか切実な色を秘めた土方の言い様が痛い。
 「い、いや……逃げはしねェよ?多分?」
 説得力の無さは己でも自覚済みだ。俯いた侭だと言うのに、目を逸らした銀時の不誠実さでも感じ取ったのか、土方の手指に力が更に籠もる。
 縋る様な強さだと、直感的に思った。
 「鬼なら捕まれ。鬼じゃねェなら……逃げんな」
 呻く音にも似た声の寄越した選択肢に、銀時は思わず声を荒らげる。捕まれ、も、逃げるな、も、どう考えたって意味は同じだ。
 「何ソレどっちも同じじゃねぇ?!」
 「同じじゃねェ」
 然し銀時の喚く声に鋭い否定を返し、ぐ、と足腰に力を込めた、土方が顔を上げる。
 噎せ返りそうな血の匂いが、苦しそうな笑みを彩っているのに銀時は思わず凝固した。
 「鬼のツラして、鬼じゃねぇと抜かしやがる──てめェは、どっちだ」
 鬼か、それとも鬼ではないものなのか。
 そう問いかけてくる声が、鋭いばかりの眼差しが、じっと見つめて来る。問いと言うより懇願であると錯覚して仕舞いそうな、目が離せなくなるほど切実な色を伴ったそれは、
 どっちで、居てくれる?──と、そんな風に聞こえた気がした。
 問いながら、疑いながら、選択を乞いながらも訴える言葉に込もっている意味に、気付かないふりが出来る程銀時は潔くはなれなかった。
 だが、それを応えるより前に土方の手がずるりと解けて落ちた。凭れかかる様に倒れて来る身体を銀時は慌てて受け止める。
 「お前、そう言や怪我して…」
 崩れかけた膝で留まった土方の背を支えようと手を回した所で、銀時はぬるりとした感触が己の手を濡らす事に気付いた。思わず見遣れば、目に眩しい程に飛び込んで来るのは鮮やかな血の色。途端、濃くなった気さえする血臭に喉が鳴った。
 土方が負傷しているのは勿論解っていたが、背を袈裟に割られた傷の程度は軽いものでは決して無い。幾らアドレナリン全開だったと言え、よくも此処まで保っているものだ。感心より寧ろ呆れた。
 「取り敢えず今お前こんな事やってる場合じゃねェだろ?!手当でも連中との決着でも何でも良いから早く、」
 「っ、俺に!」
 支える銀時の背を掴んだ土方が、遮る様に声を上げた。
 「テメェが攘夷志士の白夜叉だって宣って……、どれだけ清々したよ?」
 笑みを孕んだ声が、喘ぐ様な弱く掠れた音で囁く。
 こんな時ではなかったら、まるで愛を囁く様な声に聞こえたかも知れない。
 「てめぇが、真選組の内情探ろうと俺を利用したとか……そんな疑いや失望の目ェ、向けられたかったんだろうが。そうして俺にも誰にも諦めさせて、真選組の副長が元攘夷志士と通じてた、なんて言う事実ごと清算して、」
 ぐ、と銀時の背で、土方の腕に強く力が込められた。
 「…そうすりゃもう、佐々木の野郎にも誰にも足下掬われる事も無ェだろ、なんて──呆けた手前ェの自己満足じゃねぇか。頼んで無ェんだよ、そんなもんは」
 先頃上げた声には確かに警告の意図は含ませていた。
 誰あろう己がまず、土方の足下を危うくする石ころかも知れない、といつか思ったその通りに。
 元一級の戦争犯罪人である身を明かした銀時には、警察である土方の背に回した腕に力を込める事さえ躊躇われる理由がある。幾ら韜晦した所で変わらないその事実には違えようもなく、強く抱き返してやりたくともそれこそが仇になるかも知れない可能性がある。
 らしくもない、と、普段ならば笑い飛ばした様なそれが、今は心の中にじわりと底なし沼の様に不吉に拡がっていく。
 悪ガキが罪人(悪ガキ)見捨てたらシメーだろ。そう透ける様に笑った土方の表情はその場に不釣り合いな程に鮮やかで、徹底して貫く意志を嘘も偽りもなく見せてくれていた。
 それは、銀時が何者であったとして、石ころや落とし穴だったとして、変わりなどしないと言う答えだ。
 (ずっと信じて変わりもしねェ、だなんて──救われねぇな)
 だが、その憐れみは何と尊いものかと思い、浸される様な感情は間違いようもなく喜びを孕んでいて、沼の底から逃がすまいとばかりに捕らえて来る。
 「……てめぇは、どっちだ」
 もう一度、平坦な声音でそう問われる。鬼か、そうでないものなのか。
 攘夷志士だからと真選組に捕まって逃げないのか。
 鬼でもなんでもない一般市民だから、真選組の副長と一緒に居ても問題無いから逃げないのか。
 どっちで居てくれる?と、問う様な、苦しそうな息遣いと強張った腕とが、実際に口を衝いて出た平らな声音とは違い、まるで縋る様に銀時の目前でただ、立ち尽くしている。
 (此奴にとってどんな存在だったか、だなんて……、考えるだけやっぱ無意味だったな)
 例えば好きだとか嫌いだとか、そう言う明確な区分けばかりに理由が存在する訳でもない。
 ただ、此処に留めようとするこの手だけが真実だ。
 捕まえようと必死で縋り付き、その癖、鬼を見定めようとする眼差しは鋭く炯々と。向ける刃はただ真っ直ぐに。此処まで『追われ』た。
 (こんなの……、離せる訳が無ェだろ……?)
 欲しがるものも、与えるものも、ただこれだけ。手を伸べ、応えた、ただそれだけ。
 愛の確認でも、指輪の交換でも、口接けでも、情交でも何でもない。ただそれだけの事が、何よりも深く根を張った何よりもシンプルな契約。離せなかった。離されなかった。たったひとつ、それだけの。
 突き動かされる様に銀時は土方の背に手を回した。掻き抱き強く引き寄せれば、縋る様な手に更に力が込められるのが解る。
 血の匂いに浸されて満身創痍になりながらも、変わらない意志ひとつで此処に立とうとする土方の思いを深く実感しながら、いとおしむ様に耳朶の後ろに唇を押し当てて息を吐く。
 根負けした、とでも言えばいいのか。もう逃がした方が良いと思っていたのは自分の方だったと言うのに、気付いた時にはもう逃げられなくなっていた。
 「……解ったから。逃げねェから。後でカツ丼挟んで仲良く対話でもなんでもしてやるから」
 取り調べ室だろうが獄だろうが、こうなりゃ付き合ってやろうと思ってから銀時は苦笑する。元犯罪者と警察にはそんな形も相応しいのかも知れない。
 少し肩を押して体を離せば、妙な表情を浮かべた土方の顔に出会う。余りにも『不審』を絵に描いた様なじっとりとした眼差しを見て仕舞えば、こっそりしようと思った口接けも躊躇われる。
 「そんな信用ねェの、俺…」
 「ああ。悪ィが全く」
 呻けば間髪入れない首肯が返り、銀時は思わず途方もない落胆と共に溜息をついた。土方の、こういう所に遠慮がまるで無い所は常ならば好ましくさえ感じるものなのだが。ぼやきながら諦め混じりに言う。
 「なんなら手錠とか掛けときゃ良いだろ。横で見張ってりゃ流石に逃げられやしねぇし、」
 何の気なしにそう口にした途端、がちゃん。と、突如そんな音が耳に入った。はて、と銀時が視線を落としてみれば、自らの両腕が手錠に拘束されているのが見える。
 (え?)
 思わず手元を左、右、と見遣れば、頑丈な金属の二つの輪っかが、銀時の両腕を鎖で繋いでいる。何度見返したところで変わらない。
 「ちょっと待てェェ!!俺にだけ掛けてどーすんだてめぇェ!!?」
 俺はこう言うのを想像していた、と、犯罪者と警官とで片腕ずつ手錠を嵌めている姿をジェスチャーで訴えながら喚く銀時を煩いとばかりに払う仕草をして、土方は刀を拾い上げる。その足下はもう既にしっかりとしたもので、揺らぐ気配など全く無い。ついでに、可愛げとかそういう類のものも。
 「俺ァこれから連中と片ァ付けなきゃなんねェんだ、それこそてめぇなんざ引き摺って行けるか」
 つーか邪魔。ときっぱりと言い切る土方の様子は、顔色こそ未だ悪い侭だったが、いつも通りの風情で平然としたものだった。
 「副長!」
 外れない手錠を前に銀時が呻いていると、そこに山崎が駆け込んで来る。何故かいつもの黒い制服ではなく、見廻組の白い制服を着ており、小脇にはもう一揃えの白服を抱えている。
 「アレ、ただでさえ地味なのが更に色褪せてねぇ?」
 「仕込み完了したか?」
 「はいバッチリ。これ副長の分です」
 何の仮装だと、思わず突っ込む銀時を綺麗に黙殺し、山崎は土方に白い制服を手渡した。
 これが曰くの「仕込み」なのだろうとは察する。だがそんな事よりも、完全に置いてけぼりを食った形になった銀時は、口を曲げて土方を見遣り説明或いは釈明を求めるが、部下と打ち合わせを交わす土方はこちらを振り返りもしない。
 「解った。──ああ、山崎」
 「はい?」
 ベストを脱ごうと手を掛けた所で、ふと思い出した様に土方は声を上げ、手錠で戒められた両腕を前に不服な表情を隠さないでいる銀時を顎で示した。山崎がそれを追ってぱちくりと瞬きをする。
 「この野郎は取り敢えずパトカーにブチ込んどけ。何せ伝説の白夜叉殿だそうだからな、VIP扱いしてやれよ」
 そんな人の悪い土方の言い種に、銀時は手錠とそれを掛けた当人とを睨みながら表情筋を引き攣らせて笑った。笑顔と言うよりは凄絶な表情であったが、向けられた土方には何か意に介した様子さえ無い。この騙し討ちは一体何なのかと、銀時は最早呻くほかない。鬼であったとして、なかったとして。
 こんな時まで何やってんですかアンタら、と言いたげな地味顔が銀時と土方とを交互に見て、何かを察しでもしたのか、小さな溜息をつく。
 「…はぁ。解りました。んじゃ旦那、行きますよ。あんまり時間ないんで」
 しかめっ面にも似た、呆れた様な顔を隠さない山崎に促され、銀時は溜息混じりにその後を歩き出した。手錠を掛けられた以上この侭とんずらこいて終わり、とは言えなくなった。脅して外させるにせよ、平和的に外して貰うにせよ、警察ないし鍵の持ち主と話し合いをする必要がある。
 これはいよいよ本当に取調室でカツ丼コースだろうか。どうせ薄黄色の山が付属してくるだろう事は想像に易く、決して楽しい光景ではないなとは思ったが。肩を落としつつ銀時は、血の色を白い制服で覆い隠そうとしている土方をちらと振り返った。
 「〜後で憶えとけや、鬼の副長さんよ」
 銀時にそう凄まれた土方は、ほんの一瞬だけ目を瞠って、それから喉を鳴らした。小さく笑う。
 「てめぇも」
 「ああ。もう逃げろったって逃げてやんねェし、てめぇももう逃がさねェからな」
 精々覚悟しやがれ、と銀時が──それこそ鬼の様にだろうか──物憂げに目を細めてみれば、返事の代わりに拾い上げた刃を鞘に収める音が返る。軽い金属音の後に向けられた表情は、是、どころか、酷く挑戦的にさえ聞こえる、就中、自信と自尊心とに囲われた、土方の常のものだ。
 「上等だ。誰が逃げるって?」
 やっぱり。もう一度そう思って、銀時は安堵する。
 こうでなくてはいけない。彼奴は変わらない彼奴の侭で、突き抜けて見えない感情の正体や、互いがどんな望まれ方をするか、などと言う面倒な儀式も確認も必要無いものだけで出来ているのだから。




第三百六十九訓の、お着替えしてるだろうコマの隙間的な。台詞だけ考えてたやつを無理矢理テキストで挟んだのでちょっと色々残念な感じ。
「悪ガキが罪人見捨てたらシメーだろ」を「犯罪者だろーが俺ァ気にしません」、とエキサイト先生も真っ青な深読み翻訳をしたくて堪らなかった訳です。

マニック&デプレッシブ。 ちょっと不安な感じやら、杞憂に胸撫で下ろしたりして。