だから愚かな恋はなつかしい / 10



 …
 
 時計を見上げて嘆息する。針の位置は既に約束をした筈の数字を通り過ぎていて、幾度見上げた所でその事実は変わりそうもない。それと同じく、目の前の机に積まれた仕事の量も変わりそうもない。今更どう見積もった所で、考えている時間内にそれらを片付けるのは不可能だ。
 (……また、か)
 解りきった事実に然して感情が揺らぐ事は無い。そうなる事もまた、解りきっていたのだが。
 携帯電話を探り出し、電話帳を開く。指は淀みなく慣れた動きで、万事屋、と表示された項目を選ぶ。いつの間にか慣れて仕舞った動作と、液晶に表示される見慣れて仕舞った番号の並び。
 「…………」
 だが、発信ボタンに添えた指を結局押す事は止めて、重たい指を除けた土方は携帯電話を閉じた。電話に出る者がどうせ留守である事は知っている。留守番電話も残せない旧型の電話など虚しくベルを鳴らし続ける器物にしかならないのだ。こんな時間では近所迷惑も良い所。つまりは、掛けるだけ無駄なのだと、それもまた解りきっている事だった。
 電話を掛けたい相手は、今頃きっと出掛けている。それに対しては九割以上の確信がある。何しろ行きつけの飲み屋で会う事を約束した日なのだ。彼が家に居て、土方の鳴らす電話に出る道理は無い。
 その約束の時刻もとうに過ぎている。だから、弁解の言葉ぐらいは伝えるべきなのだろうとは思う。『また』約束を破って済まないと、伝えなければならないとは思う。
 そうしたくとも、伝える手段が無い。だから仕方がない。鳴らす電話は無意味でしか無い。だから。
 幾度と無く行き着くその結論を『また』、決まり切った儀式の様に諳んじて、土方は目前の仕事に意識を集中させる。
 仕方がない。そうなる事は解りきっていた。だから──、そう、仕方がないのだ。
 破綻は最初から見越していた。寧ろ、自棄じみた考えでそうなれと願って、銀時の手を取り想いを告げたのだから。それでこの愚かな恋が死ぬなら良いと思って、あの男の裡に眠っていた感情を暴いて己のものにした。まずい、と思い一度は忌避した筈の恋情を、互いに手に入れた。
 そうして解りきっていた結果へと流れ着こうとしている。ただ、それだけの事だ。これは、それだけの事に至る過程の一つでしかないのだ。
 いつも通り流れる思考の波を無気力に泳ぎながら、『また』いつも通りに、土方は真選組を手放さずに仕事を優先させた。
 だが、恐らく銀時は約束をした店が閉まるまで待っている。土方が遅れて来るかも知れないからと、待っている。
 恐らく。そう、恐らく、だ。そうやって土方は一度も、仕事が嵩んで動けない時は約束そのものを諦め、身勝手に反故にして来た。だから実際に遅れて辿り着いて、店に一人待っている銀時の姿など見た事は一度も無い。
 だが、解るのだ。
 想いを告げて受け取って、手に入れて抱かれて愛されて執着されて、恋をされたその自覚こそが何よりも雄弁に、銀時の心を教えてくれた。
 あんなにも長い間、土方の事を見ながらも、裡なる己の想いをずっと隠し続けていた男と同一人物とは大凡思えない程に。土方へと明確な恋情を一度でも向けて仕舞えば男は大層解り易かった。
 (……でも、それもいい加減終わりだろうよ)
 資料のファイルを開いて、目的の書類を探しながらそっと煙草を噴かして土方は自嘲する。
 嘗て己が想像したその通りに、この関係は破綻する。遠からず、互いにこの虚しく愚かしい恋に飽いて、そして棄てるだろう。
 そうして見遣る時計の時刻はもう日付変更間近。きっと大して酔えぬ侭に銀時は店を後にして、あいつは今日も忙しいのか、とぼやきながら家路につく頃だ。帰り着いても電話は鳴らない侭、また破られたな、と腹ぐらい立てながら眠るだろう。
 それを想像すれば、悪い、とは無論思う。居た堪れなくもなる。どうあった所で土方にとって銀時は恋と言う感情の向く先に居る事に変わりは無いのだからそれは当然だ。
 だから後日になって、何かの拍子で遭遇した時には、会話の流れが良ければ土方もそれとなく謝る。そして、謝って『また』繰り返す。
 何日か何週間か前だったか、土方の多忙を理由に、折角叶った約束の席で喧嘩をした事がある。その時に土方は断固として、仕事や任務があればそれを優先させる、と正直にそう告げた。
 散々言い合って怒鳴り在って喧嘩をした、その後はよく憶えていないが、銀時は暫く憤っていた様で、その侭この恋人関係が自然消滅するのだろうかと土方は思ったのだが、後になって「悪かった」と理解を示す言葉を銀時の方から伝えて来たのだったと記憶している。
 土方もまたその時は、仕事が片付いて行ける時間ならば行く、と口にした。が、残念な事にその口約束が護られた事は現在の所一度も無いのだが。
 尤も、土方とて仕事が無いのに嘘をついて約束を破り続けている訳では無いし、徒に仕事を長引かせているなどと言う事も無い。残業の量から、『恋人』との約束を護る事が出来る時間かどうかを計った上で考えている。ただ、飽く迄選択の天秤の真選組側に錘が乗ると言うだけの話だ。
 そうなる事を知った恋だったのだから、これは、土方にとっては『仕方のない事』だ。今日も『また』。そして違う日にも、『また』。
 自分勝手な話だが、辛くない訳が無い。銀時がどんな想いで居るのか、待って居るのか、それが解るからこそ、辛い。こうなると解りきって始めた関係であったとしても、辛いし痛い事は堪え難いとは思う。
 (付き合って…、もう一ヶ月ぐらいになるか)
 完成させた書類をまとめて土方は背伸びをした。時計を見上げてみるが、もう電話をするにも非常識と呼べる時間帯になって仕舞っている。結局、何も伝える事が今日も『また』出来ない侭に、恋はその名をした鬱屈になって銀時と土方の裡に嵩を増して降り積む。
 一ヶ月以上の間、幾度同じ事を繰り返しただろうか。その都度、見え透いた結果だろうと思っては、侭ならぬ恋の痛みに悲鳴を上げる。銀時が怒るだろうか、諦めるだろうか、その終わりを想像しては、当然の筈のそれが苦しい。
 愚かな恋をした。本当に、愚かな者が、愚かしく狂おしいばかりの恋をしただけだったのだ。





〜この恋愛下手ども。