だから愚かな恋はなつかしい / 11



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 育たぬ恋の芽は、何一つ花も結実も生まないのに銀時の裡に根を張り居座り続けていた。
 いい加減な暮らしに刹那的な性情。そんな己が『誰か』と共に生きるなどと言う想像は、幼い頃こそした事ぐらいあったかも知れないが、大人になるにつれて段々と薄らいで仕舞った。願望でさえ抱けぬ程に諦め尽くして仕舞っていた。
 そんな、誰かの為ではなく誰の為にでも生きられる様な、決定的な結論の無い根無し草の心に、どうしてこんな恋が宿ったのか。幾ら考えてもその答えは得られそうも無い侭、ただ恋と言う現象だけを漠然と理解して仕舞った銀時は、まず最初にそれを忘れようとした。こんな想いは無意味で不毛で虚しいだけだと考える迄もなく解っていたからだ。
 ……結果から言えばそれは無理だった。何しろ、その恋をした相手もどうやら己と同じ想いを抱いているらしいと、何となく解って仕舞ったのだ。
 そうしたら次には、その相手がどうやらこの恋──両思いに否定的だと気付いて仕舞った。だから銀時もそれに倣おうとした。好かれたくなどないと思っているなら、関わらずに居てやるべきだと、自らの恋心を棚に上げてそう思い、そして。
 自棄っぱちに伸ばされた手だと何処かで解っていながら、その想いを無理矢理引き寄せ手に入れて仕舞った時から、銀時はこの迂遠の恋に負けたのだ。
 
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 今日も矢張り、銀時の隣の席が埋まる事は無かった。待てど、暮らせど、そこに待ち人が座る事は無いのだとは、とうに解っていた。
 一人の酒は──本来一人では無かった酒だと知っているからか、淡泊な味わいを舌先に乗せては、酩酊の代わりに憂い気持ちを募らせて行く。
 最初から一人で飲んでいたのならこんな想いはしないで済んだ筈だ。そう思えば、この約束を反故にした相手を恨むに似た心地も涌くが、それも直ぐに消える。酔えない心地でも解る、待ちぼうけしながらしみったれた感情で酒に呑まれるのは余りにみっともないし惨めなものだ。
 約束は多くが破られた。だがそれを『また』かと鬱屈すら感じぬ程に一種の諦念を得ていたのも確かだった。
 確かに銀時は土方十四郎と言う男の事を好いていたし、その逆も疑うのが馬鹿らしく思える程度には確信を得ていた。そうして互いに想い合う関係であればどんな状態であれど幸福と言えるのかどうかは、人それぞれの感性の違いだろう。少なくとも銀時はそうとだけ解っていればそれで良いのだろうと思える方であった。
 元より、互いに寄り添って将来を語り合って共に並んで歩んで行くと言う類の関係には成り得ないのだろうとは思っていた。老成した頃であればともかく若い内では、土方の心が他者を思い遣る様な恋愛よりも己の生き方を選ぶ事など解り切っている。
 女であったら「私と仕事とどっちが大事なの」と修羅場に至る文句の一つでも吐く類だろうが、その点では銀時は柔軟であった。土方の生き方に対する理解も共感もあった。
 故に、約束を破られる回数が嵩んで行こうが、そこまで酷い鬱屈を溜める事も無かった。諦念を得るのも容易かった。そもそもにしてそんな、絵に描いた様な恋愛事を演じられる様な男では互いに無かったのだ。
 恐らく互いに愚かな恋をしたのだと思う。だからこそ感情が浮いて沈む事に対する痛痒もそんなに酷くは銀時の裡を苛む事は無かった。それこそが誤りだったのだと気付く事さえも長いこと無かった。
 約束を破られた翌日に偶然を装って姿を現し、土方の確かに抱いている後ろめたさや罪悪感を感じ取れればそれで良かった。約束ではない、密かな触れ合いが互いを疼かせては性急に求め合う、そんな爛れて無様な為体であっても。
 空いた侭の空席に少しづつ心が摩耗して行くのを、それがこの恋と言う執着の形を変えて仕舞うのを恐れて声を荒らげても、次の瞬間にはそれよりもっと大きな恐れに気付いて立ち竦む。
 恋と言うのは、己のそれを肯定される事で叶う想いと言うのは、こんなにも恐ろしいものなのかと己に呆れさえ抱いた。
 きっと、互いに段々と疲れていったのだと思う。
 些細なすれ違いが段々と深い溝を刻もうとしている事に気付いてはいても、銀時にはそれを埋める術が解らなかった。痛みにも落胆にも極力気付かぬ素振りを決め込んで、擦り抜けて行きそうな手を必死で留めようとし続けた。
 
 ……結局、その恋に終止符を打ったのは土方の方だった。それが今から半年ほど前の事。
 「お前を忘れる」
 目も合わせずに告げられたそんな言葉を聞いた時、銀時が思ったのは、やっぱり、と言う納得と、解っていた、と言う諦めと、これで終わるのか、と言う安堵とが入り交じった、大凡冷静とは言えない様な感情であった。
 そんな感情の渦巻いた中で「そうか」、と平坦な答えしか出せない侭に、銀時は土方の手を放した。離れて去って行く背を追い掛けようとすら思わなかった。
 苦しかったが、終わって仕舞えば何とかなる。それが銀時が今までの生で憶えた事の一つだった。だから、この時点では悔やむ事も無く、ただこんな愚かな恋は直ぐに忘れられると、そう思っていたのだ。
 
 土方が事故に遭ったと聞く事になったのは、その少し後の事だった。
 
 *
 
 思えば、これは何の皮肉なのだろう。当然の帰結だとは到底思えない、質の悪い何かの悪意の所業としか言い様が無いと、あれから半年以上も経過した今でもそう、思う。
 背後で膝をつきへたり込んだ男は、理解出来ない、と言った気配を漂わせながらも茫然とその場に留まっていた。きっと今、『また』同じ様にして何か大事な事を告げようとしていた筈の唇は戦慄いて、怒りには満たない困惑を、然し表す言葉を見つけられずに噛み締められている筈だ。
 その困惑に罪悪感を憶えた事もあった。或いは胸が多少は空いた事もあったか。何れも『今』は遠い、『また』の事であったが。
 それがフェアでは無いのは承知の上。銀時は何も見えない夜空から視線を落とすと、僅かだけ首を動かして背後の男を振り返った。
 「……半年ぐらい前だった。おめーはさ、俺の事を『忘れる』って言って寄越したんだよ」
 独り言の様に力なくこぼせば、黒い着物の肩がぴくりと震え、弾かれた様に男が振り返った。
 普段は鋭い眼差しがただただ理解を通り越した泥沼で溺れているのを見れば、これは確かに──確かに、銀時にそう別れの言葉を告げて寄越した土方とは『別』なのだと思い知る。
 困惑に揺れる眼差しが苦しげに彷徨う。恐らくは銀時の言葉を嘘か、それとも誠か、何の意味を持つものなのかと斟酌しているのだろう。
 素面であれば笑い飛ばすか或いは怒れば良いだけの様な話を、然しそう出来ないのは、きっと土方の何処かにそれを否定出来ない様な何かが残されているからなのだろう。
 だが、その残滓はどう集めた所で銀時の望む形にはきっと成り得ない。その程度のものでしかない。失われた以上はそれが元通り綺麗に結われる事など無いのだから。そんな都合の良い話などある訳が無いのだから。
 それは寧ろ己にとって好都合だった筈なのに、と自嘲するのも何度目か。銀時はそこで一度大きく息を吐くと、理解の追いつかぬ感情に責め苛まれている土方に、余り意識はせずに笑いかけた。
 力無く、皮肉しかない笑みだった。
 「まあ、それまで何度も約束を反故にされたり喧嘩したりして、俺もそろそろ辛ェかなって思ってた頃だったし、お前もきっとそうなんだろうって思ったから、俺も大人の対応をした訳だよ。ああそう、って了承して、別れた。……でも」
 強張った侭の土方の表情はただただ理解の無さを示して、茫然とするばかりでいる。それを見て心が痛むと思ったのは、気の毒だと思ったのは最初の一度だけだった。
 あとはただ、繰り返すばかりの、ただの作業のひとつの様に。平淡で、そして虚しい。
 その感情を見るのも、これでもう幾度目になるのだろう。こんな思いをするのも、これでもう幾度目になって仕舞うのだろうか。
 「それが、言葉通りの意味になっちまうなんて、きっとお前は思ってもいなかっただろうし、俺も思っても無かった。でも、その通りになったんだよ。──土方、」
 今にも蒙昧な言葉を吐き散らそうと戦慄く土方の唇が開かれるより先に、銀時は。
 「その後直ぐにお前は不幸な事故に遭った。そしてそれを忘れちまった。忘れちまう様になったんだ」
 幾度も伝えて来たその真実を、今回も『また』口にした。