だから愚かな恋はなつかしい / 12 … 愚かな恋をした。叶うと知れていて、破綻するとも知れていた、愚かな恋を。 だが土方が諦めようと、薄めようとしたその想いとは裏腹に、銀時の眸は常に焦がれた想いを湛えて見つめて来ているのだ。 叶う。然し終わる。棄てたい。諦めたい。その理由が欲しい。真選組に尽くす為だとか色々と大義名分を連ねては振り捨てようと土方がどれだけ苦心しても、銀時の眸も語る感情も何一つ変わろうとはしない。 そしてその癖そこから一歩も進もうとはしてくれない。諦めてもくれない。諦めさせてもくれない。 まずい、と幾度も思った感情の過ちはいつしかそうして飽和して、土方に積極的な諦めの──破綻の選択肢を取らせた。 この想いを手にして、そして壊れたら棄てようと。終わりを前提として諦めと一瞬の満足とを得た。 ……多分、それでも幸せだったのだ。通じ合った一瞬は、隣り合って酒を飲み交わすだけの日常で笑い合った事は、益体もなく下らなくて、然し尊い記憶だった。 だがそんな幸福よりも数多く、幾つもの約束を反故にし存在を蔑ろにしては銀時を傷つけたし苛立たせた。 それでもそんな土方に対し銀時が悲しい理解を寄越した時から、この終わりを前提とした愚かな恋は苦しくて狂おしいばかりの後悔へと変わりつつあると思い知り。そして。 「お前を、忘れる」 遂に、迫る破綻を待つ事なく、土方は自らそう切り出す事にしたのだった。 … 銀時は、恐らく気にするだろう。言葉ではあっさりと納得を寄越しはしたものの、あの男の事はよく解っている。気にしない、引き擦らない、諦め時だと自らに言い聞かせて感情に蓋をしてそうしてやり過ごして生きて行くのだろうと断言が容易く出来る程には、解っている。 銀時の裡で土方十四郎と言う男に与えた、恋情と言う役割がそうやって風化して行く事を悲しいし苦しいとは思う。それでも、彼と真選組と言う存在とを天秤に掛けては一度も彼を選ぶ事の無かった土方には、それは到底言えたものではない。 縋る資格も思い遣る義理さえも自ら棄てる事を望んだのだから、後は土方自身が自らの放った言葉を──分かれの言葉を履行する番だ。 長い時間を掛けて銀時が土方へと向けた情愛を忘れて行くのと同じ様に、土方も銀時を想い続けていた時間を忘れる必要がある。それで漸く、この愚かな恋たちは終わる。終わって、消える。 別れの後は一度も振り返らずに、揺らがぬ調子で歩いて来た。…つもりでいた。然し感情は土方の想像していた以上に己を裡から揺さぶっていたらしい。真選組の屯所へ後は戻るだけであった筈の足は、気付けば迷子の子供の様に繁華街の周りをぐるぐると無意味に巡っていた。 そうして土方は余り意識せぬ間に、隊服姿では到底一人歩きなどしない様ないかがわしい界隈へと足を踏み入れて仕舞っていた。 「………」 普段は強引に立ち回るのだろう客引きたちの恨めしげな目がちらちらと突き刺さる。街頭に立つ女達もそそくさと物陰に身を隠し目立たぬ様に振る舞っている。けばけばしいネオンに彩られた狭い通りは、黒服の男が一人歩を進めるだけでほんのりとその闇を増す。明るく派手なネオンサインたちとは裏腹のそんな姿こそがこの辺りの本当の顔なのだと、知ってはいるが皮肉に思えて土方は重たい隊服の下でそっと肩を竦めた。 取り締まる理由もないし、一応は勤務時間外だ。景気の悪い顔は恐らくしているだろうが、だからと言って誰かや何かに八つ当たりが出来る程に気力が有り余っている訳でも無い。 見廻りとは大凡言えない様な状況で歩くには相応しくない場所は、恋の痛みに打ち拉がれて自棄っぱちに歩くにも無論相応しい訳が無い。襲撃だの憂さ晴らしだのと言った厄介事が起きる前にとっとと立ち去った方が良さそうだ。 どうやら思いの外に己は、自ら切り出した筈の別れに──予想していた筈の帰結に、愁いているらしい。千々に巡る感情は自らの足取りさえまともにはしてくれず、職務と言う逃げ道も与えてはくれそうもない。 皮肉に笑む顔を隠す為にそっと俯き、土方は賑わう繁華街を、物騒な癖に無気力な気配を引き摺りながら早足で、適当に道を選んでさっさと通り抜ける。 そうして漸く『普通』の──先程までの街並みと比べれば大凡普通の賑わいを見せる夜の町に出た頃、少し考えてから土方は携帯電話を取り出し発信した。 《はい》 「山崎、悪ィが迎えを寄越してくれ。ああ、別に酔ってる訳じゃねェから心配すんな」 藪から棒な土方の言い種に、電話の向こうで地味顔の部下がやや鼻白む気配。だが直ぐに返答は返ってくる。 《了解です。直ぐに車出しますよ》 土方の、箇所箇所を省略した物言いにも、いちいち無駄な事を訊かないのが山崎の良点だ。察しが良いのか、訊き出すのが無駄だと解っているのか。何れにせよ思考一つすら億劫な時には間怠っこしく無くて良い。 酔い潰れた近藤を連れ帰る時や、自らが不覚にも飲み過ぎたとか、そう言った不測の事でも無い限り基本的に勤務外の土方が迎えを要求する事は無い。だからなのか、普段は余計な事を余り訊かない山崎は珍しくも一言、付け足した。 《何か心配事でも?》 「……いや」 断じるには少し不自然になる間が生じた。土方は懐から煙草をまさぐり出すと唇に挟んで息を吐いた。誤魔化すのも面倒だから出来れば気にしないで欲しいと思っている筈だと言うのに、煙草をくわえて緩く開いて仕舞った唇は勝手な一言をそこに付け足して仕舞う。 「迷子になっちまいそうな気がした。それだけだ」 《………はぁ》 「良いから早く来い。大通り沿い、駅の近くだ」 《交差点の所で良いですかね?十分以内には着きます》 「ああ」 はい、とも、はい?ともつかぬ返事を寄越す山崎は、本当は土方が酔っているのではないかと疑いぐらいはしたかも知れない。まあそれも良いだろうか。隊服で酒を入れるのは余り主義ではないが、いっそ酔っていると思われた方が、おかしな態度を取っても流して貰えるかも知れない。自分の足や感情の向かう先が不安になった、などとはどうしたって口が裂けても言えないのだ。 携帯電話を畳んで元通り仕舞い込むと、土方は煙草に火を点けた。まだ夜もそう深くない時刻、繁華街は雑多な賑わいを見せながら蠢いている。 酒と食べ物と享楽とに溢れた空気にこそ酔いそうになり、土方は待ち合わせに指定した場所に向かってふらりと歩き出した。 彷徨い歩いた挙げ句に急ぎ足で適当に道を選んだからだろう、この辺りは土方が普段は余り通らない道だった。何しろここいら一帯はかぶき町でも中心に程近い、最も物騒で最も賑わい、そして最も治安の『良い』場所だ。かぶき町四天王の一部が目を光らせるこの界隈で彼らの法を破る命知らずなどまずいない。 武装警察がわざわざ見廻りなど行わなくとも、この辺りにはこの辺りに慣れた同心たちが居る。街の治安を自ら護る自警団めいた働きをする者らも居る。いわゆる、縄張り、とでも言うべきものがあるのだ。彼らがテロリスト取り締り法などに触れぬ限りは真選組も無用に嘴を突っ込んでトラブルを起こす気は無い。平和な街には物騒な黒服も刀も取り敢えず必要では無いのだ。 だからなのか。 気持ちが弱っていた、と言う言い訳を添えずとも、土方が常よりも気を抜く要因は幾つも在った。 そしてその空隙に、それは突然飛び込んできた。 近くの車道を往く、光る目玉の様なヘッドライトの群れたちの一つが、突如進路を乱した。 けたたましいクラクションが周囲の車たちから発生される、その異音に土方も、彼と同じ様に道を歩いていた人々もそちらに自然と目を向けた。 彼らが、土方がその瞬間に見たものは、迫るライトの近さだった。 それが道を外れ猛スピードで突っ込んで来る車輌だと、何処か客観的な意識がそう気付く。 その接近をどうしたって回避出来ないと脳が判断するより先に、土方を含めた幾人もの人間たちは暴走車輌に撥ねられ、轢かれ、吹き飛ばされて、その衝撃に悲鳴一つ上げる事も出来ない侭に、その事故の被害者となっていた。 誰かが上げる悲鳴。衝突音。気を違えそうに鳴り響くクラクションの騒音。ざわめく群衆。救助に動き出す足音。声。 死ぬのか、と土方は不幸にも瞬間的に失えなかった意識の下でそうぼんやりと考えていた。 身体は動かず、頭が酷く痛かった。腕が動いたとして、触ってみたら脳味噌が地面にこぼれて仕舞っていると知るだけかも知れないと思って、動けなくて良かったと場違いにも笑いが漏れた。 死ぬのだとしたら、刀を握り刀に向かい刀に殺されるのだとずっと思っていた。まさかこんな、車輌が暴走した交通事故と言っても良い出来事で死ぬなどとは、思ってもみなかった。 報いだろうか。そんな言葉がふと浮かんで、然し直ぐに忘れて仕舞った。 攘夷浪士や犯罪者たちを散々殺して来た己が、恋を殺して殺されるなど、馬鹿馬鹿しい。 ただ。銀時に別れを告げた後で良かった、と。そう思う。 お前を忘れると。恋人であったお前との関係を忘れると、そう告げた後で、良かった。 これで銀時は恋い焦がれる人間を喪うと言う、最悪の悲しみからはきっと逃れられた。だから。 (今際の際まで、結局考えてるのは、このことか) 矢張り己は相当に腑抜けて仕舞っていたらしい。 この愚かな恋は、きっといつか土方十四郎を駄目にしていただろう。その前に、そうなる前に棄てる事が出来たのはやっぱり正しかったのだ。 (だから早く、手前ェは忘れちまえ。俺も、直ぐに忘れるから) 死ぬのならば忘れる必要も無いのだろうかと思い直して、土方は痛みと共に薄らいで遠ざかる意識からゆっくりと手を放した。 これできっと恋は死ぬ。愚かな、終わる事さえ愚かしく感じる程に苦しいばかりの、恋は。 かぶき町の一番物騒と言うか雑多な所で真選組ってあんま見かける事ないよね、と言う疑問から。 ↑ |