だから愚かな恋はなつかしい / 13 … 違和感を感じたのは再会した直後だった。 交通事故に遭って暫く入院していたと言う男は、その直前に別れを告げた筈の元恋人に対して、焦がれを呑み込んで諦めようと振る舞って寄越した。いつもの様に。今までの、様に。 だから銀時は困惑した。分かれたと、諦めるほか無かった筈の恋しい人が、まるでそんな事など無かった様に『戻って』来たのだから。 その解答は直ぐに知れた。傍らの地味顔の部下の口にした、「記憶障害」と言う言葉で。 「大体一ヶ月分ぐらいの記憶が飛んで仕舞った様で、色々仕事に支障が出て大変ですよ」。そう山崎は苦笑いを浮かべていたものの、その裡には確かに、その程度で済んで良かった、と言う本音が潜んでいた。 件の交通事故は、テレビでも連日ニュースを報道し続けていたので、銀時も知っている。運転手が運転中に突如錯乱して、人の往来する歩道にアクセル全開で突っ込んだのだ。死者三名、重軽傷者が合計十二名。その中の一人に見廻り中の警官が居て、それが土方だと知ったのはそれから随分後の話だったが。 建物の外壁に全速力で突っ込んだ運転手は即死。司法解剖の結果、運転する直前まで違法薬物を摂取していた事が判明し、薬物の入手経路などから幾つかの小さな組織が摘発された。世論に動かされる様に取り締まる法の草案も幾つか議論されるに至った。 再発防止、と言うには至らぬ様な些細な進歩ではあるが、宇宙産の無粋な違法薬物に対する世間の風当たりは大分強くなったと言える。 ともあれ、土方は重症を負ったものの無事生還出来たのだ。直近一ヶ月程度の記憶が飛んだ事ぐらい何て事も無いと、そう思いたくもなるのだろう。 だが銀時はそうでは無かった。無論土方が無事であった事は単純に嬉しいとは思う。が、消えた一ヶ月、と言うその奇妙な符号の様な期間に薄ら寒さを憶えずにいられなかった。偶然であってもそれは余りに皮肉で、残酷なものと言わざるを得ない。 土方の裡に生じたその空白の期間は、彼が銀時に想いを告げて来て、銀時も開き直って自らの想いを受け入れてから、分かれるまでの時間と全く同じだったのだ。 つまり、今の土方は銀時に告白するより以前の土方なのだ。銀時との関係性についてだけを取り出して見ればそれは、告白して付き合ったが結局別れた、と言う期間を除かれただけに過ぎない。 その事実を実感した時、銀時の裡に涌いたのは思い起こせば酷く不快で醜悪な考えだった。 やり直せるのではないか。 そのたったの一言の思いつきは想像以上に甘美な味わいを想起させて銀時の躊躇いを、罪悪感を薄めて満たした。 今度は自分から想いを告げて、初めからずっと彼の多忙さを許容して、理解者として振る舞えばどうだろうか。土方が諦めを得て別れなどを告げる事が出来ぬ様にしてやればどうだろうか…? だが、銀時は結局その衝動を堪えた。どうせまた己は辛いし、土方だってきっと辛い。やり直したい気持ちに嘘は無いけれど、どうせ『また』同じ結果になるのだと、そう思ったからだ。 だから、土方からあの恋の記憶が消えて仕舞ったのを寧ろ好都合と思い、自分も本格的に諦めきって、そうして葬ろうと決めた。 きっとその方が土方も楽だ。……そう思ったのに。 土方は、記憶が消えたのならば当然だろう、銀時へと今まで通りに喧嘩や言い合いを引き連れ相対して来る。気易く、親しく。それをいなすだけでも恋を引き摺る銀時には辛いと言うのに、その眸の奥に確かに己に対する恋慕を──依然変わらず存在していたそれを見つけて仕舞えば、遣る瀬無く、苦しくなった。 記憶が消えたと言う事はそう言う事だ。恋の破綻を忘れたのだから、その結果を知らずに恋を宿し続けていると言う事だ。土方の裡には確かに銀時に寄せる想いがあって、然しそれを押し込めながら焦がしながらまた、その時をきっと待っていた。 失われた時間は戻らない。記憶は、戻れるけど足りない。──それなのに。 三週間ほどが経過した頃、土方はあの時と同じ様に銀時へと想いを告げ、そして。 そして『また』それを忘れた。 最初は誰もが混乱した。土方自身も理解が及ばず困惑していたと言う。 怪我の後遺症だと診断されたらしい。治す具体的な方法など何ひとつ誰にさえも解らない。そんな地獄の様な症状。 一種の前向性健忘の繰り返し。 土方が『また』忘れたのはこの一ヶ月ほどの間。事故に遭い事故を忘れ快復した、丁度その頃へと、『また』戻って仕舞ったのだ。そしてそれは幾度か知らぬが、恐らくまた繰り返されるだろうと。 近藤も沖田も山崎も、土方にその事実を伝えた。土方がその時感じた絶望は如何ばかりだったのかは、銀時には想像しかねる。 記憶が最長一ヶ月程度でリセットされる様になった。その事実を前に土方の選んだ対処法は、仕事に纏わるあらゆる事柄を、得た記憶をメモに書いて残し、仕事に支障が出ない様に努める事だった。 リセットされた後の己が困らぬ様に、違和感を憶えぬ様に、真選組の足手纏いにだけはならぬ様にと。 それだけならばただの涙ぐましい努力と言うだけで済んだ。 銀時にとって問題だったのは、定期的に銀時の事を忘れる癖に、消えて仕舞う迄の時の中で、土方はいつも決まって銀時への好意を確信し深めて行くのだ。 そうしてまた忘れる。そうしてまた出会って想いを募らせる。土方は幾度忘れても、銀時の元へ戻って来ようとでもしているかの様に、この半年の間それをずっと繰り返した。 * (どうせ、また──『また』、こうなっちまった) 予定調和の様に繰り返して来た『また』。銀時がどれだけ避けようとしても、土方の想いは向いて離れない。己の裡で根付き続けた恋は枯れる事も忘れる事も許されずに、それを受け取りたいと言う本音を淀ませた侭、もう清濁も欲も醜悪さも全部混じって、今では形さえよく解らない。望みでさえ見えては来ない。 理解も納得も意味も呑み込めぬ侭、然し返す言葉を生む事も出来ずにいる土方の唇が、その裡の困惑と混乱とを示す様に戦慄きながら上下している。虚脱に漂白された眸は明瞭で苛烈な、彼の常の意志の強さを失い果ててただ茫漠と昏い。矢張り記憶が消えて仕舞ったとは言え、否定を紡げる様な強烈な確信は涌いて来ないのだろう。消えた空隙に無ばかりがあるのだったら、幾ら記憶の途中経過を筆で書き記し残し続けたとして、それだけで保つのは難しい筈だ。 だが、もしそうなのだとしたら、それこそ繰り返す事実を変えられないと言う事になる。銀時を想った心が、想われた心が土方の何処かに残り続けているのであれば、それは消えて仕舞う記憶とは何か別に存在する様なものだからだ。 では、打って変わって全てを憶えている銀時の憶えるこの感情は何だろうか。棄てきれぬ感情に引き擦られて、この繰り返しをただ後悔を噛み締め待つだけの、この思いは。 どうせ忘れるのだからと、この場で、力なくへたり込む哀れな男を暴力でただ踏みにじってやりたくなる、そんな仄暗く乱暴な衝動を寸時憶える。恐らくはこの理不尽さに怒りと絶望を憶えずにいられないからだ。忘れられないのに忘れられる事は、銀時にとっては苦悩以外の何も生まない。 力なく震える土方の姿は、頼りない迷子の子供の様だった。今は、言い聞かせれば殊勝にものを考えて銀時に申し訳無さを伝える事も出来る。実際それはやられた事がある。だがそれでも、その後何事も無かった様にそれをリセットして仕舞う。反省もなく後悔も無いから繰り返す。感情だけがあるから、繰り返す。 土方に対して苛立ちを憶えても仕様がない。それもまた解っているのだ。銀時は密かに握る拳から力を抜くと、土方の目前にそっと膝をついた。手を伸ばし──かけ、それを留めて出来るだけ無表情を形作る。 「何度も忘れられてはまた恋される。多分、根っこがそうだから変えようもない事なんだろうな。だが、俺にとっちゃ酷ェ話でしかねぇんだよ。俺はおめーを忘れようとしてんのに、その都度またそこに呼び戻されちまう。未来も続きもねェのに。やり直せもしねェのに」 言って、銀時は長々と嘆息してから、目前で力なくこちらを見つめている男へと伸ばしかけて中途で止まっていた腕を引き戻した。殴りたかったのか、それとも触れたかっただけなのか。それすらもうはっきりとしない。 知って欲しかったのかも知れないと、愚かしくも思う。知った所で忘れられるのに。これだけ何度も変わらず想うのならば、二度と忘れないで欲しいと、事実になって仕舞えと。 「……俺、は…、何を、何かを、忘れてるのか…?」 やがて弱々しく吐かれたのは、茫然とした唇の紡ぐ意味の無い問い。答えを呉れてやっても消えるばかりの、泡沫の言葉。 震える土方の怖れを、気の毒だと思う。哀れだと思う。きっと土方に責任は無い。そんな事は解っている。それでも。 虚しく愚かな問いを契機に銀時は立ち上がると、今度こそ土方に背を向けた。 「良いから、忘れちまえ。いつもみてぇに、手前ェの住処に戻って、そんで忘れちまえ。それが一番だ」 きっとそれが一番、互いにとって痛みのない事になる。『今回』の結末はそれで良い。 ……今回も、それで、良い。 。 ↑ |