だから愚かな恋はなつかしい / 14



 何処をどう歩いてきたのだろう。記憶にではなく実感として曖昧な意識の侭、何事に巻き込まれる事もなく夜道を正しく屯所まで一人歩いて戻って来れたのは果たして幸運だったのか奇跡だったのか。
 頭の中は大凡冷静とは言えない。思考は千々に乱れっぱなしで定まらず、目の前のあらゆる事柄も碌に頭に入って来ない。
 そんな為体であっても、家に帰り着く事ぐらいは出来るのだな、と土方は定まらない思考の合間にそんな事を考えながら正門を潜った。番の隊士らの挨拶に「ああ」とも「ご苦労」ともつかぬ曖昧な首肯を返しながら玄関を上がって自室へと向かおうとすれば、待ち構えていたかの様に廊下に佇んでいる山崎の姿に出会う。
 「あ、お帰りなさい、副長。遅いんで心配しましたよ」
 そろそろ連絡を入れようと思っていたのだと続ける彼の姿を具に見つめて、土方は事実を直感的に悟る。きっと『今まで』の間、この部下は土方の記憶の欠落を幾度となく案じて来たのだろうと。
 山崎の、今までであれば心配などと言う言葉は使わなかっただろう、ただ帰りが少し遅くなっただけのよくある事に対する態度や表情からも、その考えが正しいのだと言う肯定が伺えて、土方はこの、訳のわからぬ真実とやらを受け入れるほか無いのだろう現実に、激しい失望を憶えた。
 銀時の告げた真実を、荒唐無稽な嘘だ、法螺話だと反射的にそう思っていると言うのに、どうした訳かあの時、土方の口からは反論の一つも放たれる事は無かった。それはきっと心の何処かに──或いは記憶の何処かにか、思い当たる事や憶えている事があったからなのだと、確信は無い侭に理解する。
 「それで明日の会議での話なんですが──」
 ああだこうだと仕事の事を喋りながら後ろを付いて歩く山崎の言葉など半分も頭に入らない様な気がしていたのだが、仕事に向かう己の性質の賜物なのか、無意識に受け答えが口をついて出るのが何だかおかしかった。
 頭の中はもう憤慨と悲嘆と混乱とでぐちゃぐちゃだと言うのに、何処まで行っても己は真選組の副長で在ろうとし続けているらしい。全く冷静とは言えない思考をそこに結論付ければ、その瞬間にふと予感が過ぎった。
 こんな、銀時の言う様な、山崎の案じる様な、そんな現状に己が置かれたとしたら、何かもっと明確に己でそれを信じられる様な証拠を残すのでは無いだろうか──?
 「山崎」
 「はい?」
 それは己の気質を思えば恐らくは正しい事に違いないと確信し、土方は辿り着いた自室の戸を開け中に入りながらゆるりと、背後に付いて来ている部下を振り返った。
 「俺は──、『忘れ続ける』事を最初に知った俺は、何かを残さなかったか?」
 「……、」
 その問いに、仕事の事を話しながらも何処かのんびりと弛んでいた山崎の表情筋が引きつる様に固まったのを、土方は見た。
 「…………」
 言葉を失った様な沈黙。そして目を游がせながら、彼は何かを考える様にして一言。
 「……旦那ですか」
 そう、矢張り銀時の告げた真実を肯定する意味にしかならない言葉を、潜めた声で軋る様にこぼしたのだった。
 嘘としか思えない。信じられる訳がない。己が、記憶を一ヶ月ほどのスパンで繰り返し失っているなどと言う話が、有り得る訳がない──
 土方は咄嗟にそう思った。故に、きっと己の事だ、常に記憶を失って真実を告げられる度にそれを疑って混乱して認めて認められずに苦悩している筈だ。
 だから、何かを──自分にだけは信じられる何かを、きっと残している筈だ、と。
 土方からの答えが無い事に焦れた風でも無く、ただ俯き短く溜息をつくと山崎は重たげな口を開いて言う。
 「押し入れの中の蔵書、その一番読んだものの間にある、……そうです」
 恐らくは土方に──土方自身の憶えていない土方にそう伝えられたのだろう通りの事を告げると、山崎は小脇に抱えていた書類を室内の卓の上へと置き、それから口の動き同様に重たげに呟く。
 「いつかは、治るかも知れませんから。俺も、局長も、アンタが自ら根を上げる様な事になるまでは決して見放したりはしないつもりです」
 「…………」
 多分、それは望みの形であったのだと思う。本来は喜ぶべき事なのだと思う。だが山崎の言葉を気遣いか気休めかとも取る事が出来ず、土方は彼に無言の侭そっと背を向けた。押し入れの前へと向かうと戸に手を掛け小さく深呼吸する。
 己が役立たずになるかも知れないと言う事実を──或いは疾うに役立たずに成り果てていたのを誤魔化し続けていた事すら、それに気付かず過ごして来た事すら、無性に己に腹が立って堪らなかった。
 そんな土方の苦悩には慣れているのか、山崎はそれ以上を言い募る事も無く、「では」と小さく言い残すと足音も静かに去って行った。彼にとってはひょっとしたら、もう幾度目かの光景であって言葉だったのかも知れない。そう思えば己の愚昧さがより際立った気がして、唇を噛む。
 愚かである事は、無力である事よりも堪え難い。その愚かしさが繰り返されているのならば猶更。
 幾度かの息継ぎの後、意を決した土方は押し入れを開き、本をまとめて収納している段ボール箱へと手を掛けた。思い当たる限り書籍の類を仕舞っているのはこの箱ぐらいしかない。
 箱は、暫く動かした記憶が己に無かったにも拘わらずそれほど埃っぽくなっていなかった。その事もまた忌々しい事実を裏付けている要素の一つでしか無く、土方は誰に向ければ良いとも解らぬ苛立ちを噛み締めながら箱を乱暴に開いた。中から何冊かの書籍をまとめて取り出し、己の遺したメッセージ通りのタイトルを探し出す。
 目当ての本は、雑多な本の山の中に無造作に混ぜられていた。上京し立ての頃に近藤から贈られた兵法の心得の本だ。「古くさいかもしれんが、組織の上に立つなら役立つだろう」、と友が笑って言った言葉さえ、表情さえ記憶にあると言うのに、本を開いて程なくして見つかった一枚の紙の存在が全く己の記憶に無い事に、土方は嘆きとも諦めともつかぬ呻き声を思わず発していた。
 「……そうか。これか。こんなものか」
 真実となるかも知れない一枚の紙片。見てくれは何の変哲もない、机を探せば直ぐに出て来る様な和紙だ。縦四つに折り畳まれたそれを開くと、そこには見覚えのある己の筆跡が全く憶えの無い言葉たちを綴っていた。
 "信じられないと思うが、これを読んでいると言う事は、『お前』は信じるつもりで読んでいるんだろう"
 そんな書き出しで始まった、まるで己の日記帳の様な手紙にはただ簡潔に、
 "次に繋げたければとにかくこれから何でも、今日に至るまでの事を書き記して残せ"
 "自分が記憶を保持出来ない事実をこの手紙以外に残さない理由は、己は記憶を失った直後にそれを読んでも納得も信用も出来ないだろう性格だからだ"
 "仕事に支障が出て、自ら駄目だと思い知ったら、近藤さんたちの目から見て駄目だと認定されたら、その時は皆の判断で処理して欲しいと願い出てある"
 それらの事が箇条書きにしてあった。
 「………」
 どう見ても己の文字としか思えぬ言葉が、然し己にはまるで未知なる言葉を、事実を紡いでいる。銀時の伝えて寄越した訳の解らない話を、ただ肯定している。
 眩暈のしそうな虚脱感が全身を隈無く包んでいて、その中で土方は縋るべく安堵を求めて喘いだ。失意も絶望もこの数時間でもう十分だと言う程に味わって来ている。それだと言うのに、そんな事ですらきっと己は忘れて仕舞うのだ。また、あと三週間もすればこの記憶ですら無かった事になって仕舞うのだ。
 何も無い。何も遺らない。自ら記さねばならない記録以外には、この身にはきっとなにひとつ遺されない。それが真実であって事実であった。それが、銀時を今まで苦しめて来て、近藤や山崎を悩ませて来たに違いないと解っているのに。今はまだ、解っているのに。
 土方はゆっくりと机を振り返った。そこに無数に貼られたメモたちの存在を見回す。書けるものに、目に映る場所に、手に取る場所にそれらを用意したのだろう。カレンダーにもメモがびっしりと書かれていたし、手帳の中にも沢山の記録が残されていた。
 これが、前回の自分が、或いはそれより以前の自分が遺した、真選組で土方の負うべき役割を繋ぐ命綱。これだけが己を、『忘れた』己に今していた事と次するべき事、終わった事とを必死で伝えてくれた。
 (こんな紙切れだけに懸けて生きようとしたのか…?)
 前も、前の前も、土方はこの事実に屈して真選組を辞めると言う答えを出していない。近付く終わりの刻限に向けて、事実の記録を続けて繋げたのだ。
 「………」
 馬鹿馬鹿しくて、そして無謀だ。いつかは何かが破綻するし、ひょっとしたらもう既に幾つもミスを重ねてはそれをフォローされその場を凌いで、そしてそれすら忘れて『次』を始めていたのかも知れない。もう土方には思い出す事が出来ない、最初にこの事実を知った時の土方(じぶん)は、それでも真選組に、この役割の為に生きたかったのだろうか。
 (…当たり前だ、そんなの)
 ──生きたかったのだろう。きっと変わらない。それは土方の記憶ではない部分での決意だから。幾ら記憶を失ったとしても、その都度こうして苦悩しては、馬鹿馬鹿しい足手纏いの妄言であると失望しては、然し真選組の為に生きたいと言う渇望を棄てきれないのだ。
 胸に刺さり続ける事となった、役立たずの恋情と同じ様に。
 そっと目を閉じ息を吐くと、土方は手紙を元通り綺麗に折り畳み直し、開いた適当な頁の間へと挟んだ。万一まだ事実の一片を知らぬ己が間違ってこれを目にする事が無い様にと、本の間に混ぜて元通りに箱へと仕舞い込む。
 蓋をして押し入れに放り込んで仕舞えばもう、これが事実であると言う己にとっての確たる証拠は、また暫くの間目にされる事なくそこで出番を待ち続けるばかりになる。
 卓の前へと自然と座した土方は、一度目を閉じて深く息を吐き出した。
 答えは、事故に遭う半年前には既に決していた。
 故にこれが虚しい悪足掻きでしか無くとも、己は繋げるしか無いのだ。続ける為に、繋げ続けるしか無いのだ。
 土方はペンを取ると、ここ暫くの間で起こった事を紙片に記し始めた。仕事をする上で支障が出ない様に、重要な事だけを簡潔に書き記し、刻まれない記憶に代わって記録しなければならない。
 それが、次もまた真選組副長の土方十四郎である為に、必要な事だった。
 
 *
 
 それから土方は毎日仕事をしては記録を残して過ごした。
 山崎は銀時に何かを問い詰めたものの一蹴されたのか、今回の土方がこんな早い内に事実をどうして知り得たのかを問う様な事を幾度か口にしたが、それに土方が答えを呉れてやる事はなかった。愚かな恋の末の結果だなどと、到底言えたものではない。
 そうして普段通りにしか見えない筈の日々が過ぎて行く中、土方はもう近い内訪れるだろうリセットの時までにと、最後まで必死に記録を残し続けていた。
 思えば今回のリセットの後も、こんな風にして記録を残しながら仕事をしていたのかも知れない。山崎が妙に気にする態度を取っていたのも、『忘れ』たのか否かを確かめようとしていたのだろうと、今になってみれば何となくだが知れる。
 知った所でどうせ直ぐに忘れるのだが。ひねた思考を流してから、きりのよい所まで書き上げたメモを壁に貼り。
 そこで土方は最後に卓上に一枚残っていた真っ白な紙片を見下ろした。
 もう仕事に関しての事は粗方記録した。今取りかかっている事件や案件であれば困る事は無いだろう。また『次』に仕事は繋がって続いていく。
 だが、あと一つだけ。土方には繋ぐべきなのかを迷っている事柄があった。
 これは事実であって、事実では最早無いとも言える。厳密には記録するには正しくない事なのかも知れない。
 少なくとも今までの土方はたったの一言もこれには触れていなかった。それよりも仕事を優先させた。銀時との関係にあった、いつもの様に。
 (………万事屋は、怒るだろうか)
 その時の男の顔を想像した土方は思わず小さく笑った。驚くだろう。最初は怒るかも知れないが、それが『事実であった』のならば、無碍にはすまい。
 それはきっと、銀時の本来求めていた『続き』でも、結実でもない。だが、事実として繋がっていく。
 (まあ、万事屋の前に俺の方が驚くだろうが)
 だがそれでも、記憶をリセットされて寸時生まれる空隙にきっとこの『事実』はすんなりと己の裡へと入り込むだろう。そうやって土方は無意識の内に起こる記憶のずれを違和感の生じぬ様に自分で整え、記録の中から拾い上げた事実を受け入れて来ているのだから。
 やがて土方の手にしたペンは、記憶を繋ぐ一枚の薄ぺらい紙にその想いを刻んで行く。
 一度は已めて仕舞おうと己が思った筈の関係。最早それが何を由来として思った事なのかさえ己は思い出す事も出来ない。
 だが、幾度繰り返しても己が『そう』無意識に願って、想う事を続けて仕舞うと言うのであれば。銀時に望まれた『続き』を得て与えられるのであれば。
 
 "坂田銀時とは恋仲にある"
 
 その『事実』を記した記録を、土方は手帳に大事に挟むと、一瞬先で待つ銀時の事を想った。
 己がそれを、今度こそ、この記録を縁にしてでも辿って巡り会える様にと願いながら。
 途切れる、その瞬間を待っ──、





そうして最初のエピローグへ戻る。重度のヘタレ銀の反動でか、土方も開き直らざるを得なかった。
愚かなのは恋であって恋を選んだ人たちでした。とさ。

 
 









































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いったりきたりしちゃったので蛇足。
説明…なのか解らないですが言い訳故に黙って回れ右でも。

某短時間しか記憶を保持出来ない洋画のリスペクトをしようとして破綻した説。数字の並び通りに読んで頂いても問題無いのですが、銀パートが早々にネタバレをしてくれちゃってたので更新順では後から合間に挟む感じになっ…たのですが、更新通りお読み頂いてる場合には問題無くても後からまとめて目を通して頂く場合には見事にわけがわからないよ状態になったと言う訳ですほんと変な事しようとするもんじゃないですね猛省します…。

健忘し易い(…)土方ですが、全く無では無い、どこかで事実を俯瞰している意識はあるのかも知れません…?

懐かしいものには無意識に惹かれる。