だから愚かな恋はなつかしい / 2



 ペンの動きが止まっている。
 見下ろした己の手の先、指が掴んでいるのは何の変哲もないただのボールペンだ。それが刻む文字は見慣れた形式通りの書類の上に並んでいる。その手が、忙しなく動いていた筈の手が、気付けば動きを停止させている。
 「……」
 文字を少し前まで追って、記憶と意識の繋がらなさに土方は暫し首を傾げてから嘆息した。仕事中だと言うのにうとうとと舟でも漕いでいたらしい結論に、気が緩んでるぞ、と己に言い聞かせながら額を揉む。
 眠気はもう無くなっている様だが、単純な動作や反芻する思考の一つにも怠さが付きまとっている気がして、様々な事が億劫に感じられた。現実が遠ざかった様なふわふわとした虚脱感だ。
 土方は怠い心地で手を伸ばすと、書類の積まれたボックスに貼られた付箋を剥がして読み、仕事の進捗を手元と見比べて確認する。続けて机の前に貼ってあるカレンダーを見上げ、過ぎた日の×印を追って行き今日の日付まで辿り、手帳を開くと間に挟んであるメモを読み直した。
 (進みが良くねェな…。疲れでも溜まってんのか)
 怠さと重さとを振り払う様にぱたんと勢いよく手帳を閉じ懐に仕舞って、土方は一度凝り固まった肩を軽く回して解した。良い音がする辺り気付かぬ間に根を詰めていたらしい。石の様に固まった筋肉を労る様に撫でてから伸びをする。
 部屋の角に置かれた文机の周囲の壁には様々な書き付けのメモや付箋が貼られている。机上はいつも通りに書類や資料の山で埋められており、判子は仕舞うのも億劫だったのか朱肉の上で器用にも立っていた。当て紙にしたと思しき書き損じの汚れた紙や筆記用具も如何にも仕事中と言った風情で適当に散らばっているし、灰皿の中には吸い殻が溜まっている。眠気にうとうとする前に無意識で煙草を灰皿に突っ込んでいたのか、燻った吸い殻からは細い煙が立ち上っていた。くわえた侭眠って仕舞わないで良かったと心底に思う。何しろ眼下は紙だらけだ。小火を起こすのも拙いが、仕事が台無しになるのはもっと宜しくない。
 今片付けている仕事には見た限りそこまで急ぎのものは無い。今日〆切のものは既に片付いてボックスの中だ。そう脳で二度反芻し、少し休憩をするかと言う思いつきに異論が特に出ない事を確認すると、土方は怠さの残る頭を軽く左右に振って立ち上がった。途端に襲う眩暈にも似た感覚を目を閉じてやり過ごす。矢張りこれは疲れか眠気か。
 「あれ、副長、お出かけですか?」
 長押に掛けられていた上着を手にした所で、背後からそんな声。視線だけを振り返らせた土方は、地味な顔が部屋の入り口を丁度開けた所に出会う。
 ノックもお伺いも無しか、と浮かんだ悪態も何だか億劫だったので口にはせず、土方は肩を竦める事できょとんとした顔の山崎へと用向きを促した。
 「今日は一日机仕事に励むとか何とか…、言ってませんでしたっけ」
 「……言ってたか?」
 「…まあ俺の気の所為ですねきっと」
 曖昧な記憶を怠い頭の中で探るのも面倒になって、態とらしく首を傾げた土方に、山崎の方が先に白旗を上げた。何分処世術には長けた男だ、下手に問答になって言葉が愚痴か拳骨かそれに類した行為に転じるのが厭だったのだろう。上げた白旗をさっさと仕舞った彼はへらりと笑うとその場に膝を付いて、手にしていたファイルを畳の上へと滑らせて来る。
 「今日は特に詰まった予定も無いですしね、息抜きも大事ですよ。これ、帰ってからで構わないので目を通しといて下さいね。先日の違法風俗店のガサ入れ…、もとい捜査の報告書ですから」
 「ああ。その辺に置いといてくれ」
 捜査と言われて思い当たるものはごまんとあったが、個別にどんな事件だったのかは深くは追求しない。どうせ後から報告書(それ)を読めば解るのだ。
 脳が水にでも沈んでいる様な、思考の怠さと重さとが煩わしい。身体の方にはそれ程の怠さは無く、ただ疲れているのだろうなと言う強張りしかない。
 今までの土方の経験上では、こう言った疲労時は大人しく休んで仕舞うか、気分転換をして紛らわして仕舞うかのどちらかに限る。少しの疲労程度で参る程柔な鍛え方はしていないのだから、少し経てば調子も元に戻るだろう。
 「で、どちらに行かれるんです?」
 真選組の副長の行き先は、大概の場合把握されている必要がある。今は携帯電話と言う文明の利器があるお陰で厳密に居所まで伝え置いておかずとも連絡を取る事、呼び出す事は簡単だ。だがそれでも、連絡がつかぬ様な万一の事があってはいけない。故に土方は多少のプライバシーは犠牲にして、外出時には大体何処へどんな用事で赴くのかを言い残して行く事にしている。携帯電話と言う連絡手段への信頼もあって多少フェイクを混ぜる事もあるが、それもいざと言う時にGPSから辿れば特定は容易に叶う。
 「………決めてねぇ」
 それもあって言い淀む様な事は何も無かったのだが、土方は彼にしては少々長い時間考えた挙げ句に結局そう正直にこぼした。実際特に何かしたい事があった訳では無いし、何か目的も思い当たらない。
 そんな土方の答えが予想外だったのか、山崎は呆気に取られた様に口を丸く開いて、それから困った様に笑う。
 「まぁ、昼過ぎの夕前って一番持て余す時間ですしね。食事にも見廻りにも早い。丁度良いのって、散歩、ですかね?」
 立てた人差し指をお辞儀でもする様に折ったり曲げたりしながら言う山崎の寄越す、行き先、或いは理由の提案を受けて、土方は採用を迷って「ん」と曖昧に頷きながら上着に袖を通した。シャツの襟元の釦をきちんと閉じてからスカーフを手早く巻く。
 「散歩…、いや、見廻りって事にしとけ。夕食前には戻る」
 「はいよ。…お気を付けて」
 「何かあったら連絡入れろ。電波の届かない所には行かねェ」
 懐の携帯電話の所在を確認しながらそう言えば、山崎は深々と頷きながら、部屋を横切り廊下を歩き出す土方の背を送り出した。
 後ろ髪を引かれた、と言う訳ではないのだが、何となく振り返ってみれば、まだこちらを見ている山崎と目が合った。彼は気まずそうな苦笑いと共にひらりと手を振ると、そそくさ、と言った様子で上司から顔を背けて廊下を反対方向へと歩いて行く。
 「……?」
 何となく違和感の様なものをそこに憶えはしたが、その正体までは掴めそうもない。怠く重たい思考の紗幕に目隠しでもされている様な心地を憶えながらも、土方はゆるりとした動きで歩き出す。
 違和感も一時の虚脱に似た疲労感もどうでも良い事だし、どうせどうでも良くなる。