だから愚かな恋はなつかしい / 3



 江戸市中は今日も平和な様だった。少なくとも武装警察の副長が嘴を突っ込む様な事件は何も起きていそうもない。
 それでも土方がきっちりと纏った隊服で江戸の町を歩くのは、自分たちが江戸の番犬であると自負しているからである。遠くから見ても直ぐに解るその姿を目にすれば、目の前で堂々と悪事を働く輩もいないし、いつでも町には警察の目があるのだと言う抑止力にもなる。
 見廻りではないから部下は伴っていない。山崎に提案された通りの、息抜きの『散歩』のつもりでゆったりとした速度を保って歩く土方は、怠さの消えない頭を無意識で巡らせて仕舞いそうになる度に「見廻りじゃない」、と己に言い聞かせた。何しろ今の土方の頭は控えめに言っても冴えているとは言えない。重たい気のする身体を引き摺る怠く鈍った脳で職務になど励める気などしない。
 (情けねェ話だ。何とも知れねェ疲労の一つや二つで)
 吐き出した煙の中へと溜息を混ぜて密かに肩を落とす。急にその場に立ち止まって仕舞いたくなる程の虚脱感を憶えながらも、腰の得物が揺れる度我に返って足を進める。『これ』が、この役割を背負う限りは、己は未だ立ち止まる訳には行かないのだ。ただの疲労如きで、その気持ちを挫かれて仕舞いそうになる事こそが最も腹立たしい。
 (何処かで一度休むか…)
 体力が無い訳ではないのだから、足下が憶束ないなどと言う事は無い。多分顔色も平時の侭だ。それでも身体の裡の何処かが、或いは何かが、背を這い上って脳を気怠い淵へと引き摺り込もうとしている。
 今襲撃など受けたら果たしてまともに戦えるのだろうか。苦々しいそんな疑問を抱えながらも、土方の足は淀まぬ足取りで町の中心部から離れて行く。
 脳に漂っていた怠さは今や、普段滅多に憶える事の無い頭痛へと転じていた。脳の何処かが、鼓動の度に痛みに似た重さを訴え土方を煩わせていた。それは土方の知る、例えば寝不足の時などに感じるそれとは全く違っていて、上手くやり過ごす事も出来ない。
 賑わう繁華街を離れ、人通りの少ない住宅地へと向かう。煙草は途中で灰皿に棄てて、それから吸っていない。ヤニで脳を活性化させると益々頭痛が酷くなる気がしたからだ。
 そんな、頭痛に苛立ちを更に上乗せした頭で拡げた脳内地図を頼りに、やがて土方が辿り着いたのは住宅地にぽつりと開けた高台にある神社だった。緩やかな石段を登り終えると、鳥居の向こうには祭りも行事も何も執り行われていないらしい静かな境内が拡がっている。
 そう大きくはない天祖だ。特に常駐している宮司も居ないので、祭りの時以外は静かで人気も無い。そんな、脳内地図に書き込まれていたデータが初めて役立ちそうだと、土方がほっと安堵に息をこぼしかけたその時、古びた社の横手の方からそれは突然現れた。
 「あ…、」
 人の気配を悟れなかった。鈍った脳の働きに己に罵声を浴びせながらも、反射的に手をやった刀が抜き放たれるその寸前で動きを停止させたのは、現れた男の姿が土方の見知ったものであったからだけでは無かった。
 ぎくり、と。擬音にするならばそんな態度で、若干引きつり加減の顔の中で口をぽかりと開いて、茫然と無意味な一音を吐き出す男の様子を土方は面食らって見ていた。
 正直に言って驚いていた。一瞬見知らぬよく似た誰かと間違えているのでは無いかと思うぐらいに。だが、黒の洋装の上に白い着流しを合わせて纏う、そんな姿形の人物には土方の知る限り一人しか思い当たりが無い。
 そうなると、この男らしからぬ表情も態度も、紛う事なく本人のものだと言う事になるのだが。
 その男とは、かぶき町で万事屋を営む、坂田銀時と言う不審者一歩手前の成人男性。土方を含めた真選組とも何だかんだ腐れ縁を続ける事になっている、そんな人物だ。
 「あー……、えっと…、奇遇?」
 目を游がせながら、やがて銀時が切り出す様にぽつりとそう、挨拶にしては間の抜けた言葉を放って寄越して来て、土方はそこで漸く我に返った。
 銀時らしからぬ様子に思わず面食らって仕舞ったが、何の事はない、目の前に現れたそれはいつものだらけた万事屋稼業の男だ。
 「奇遇ってか…、何だ、賽銭泥棒にでも励んでやがったのか?」
 ひとけの無い神社の境内+いつも困窮している万事屋の男、と言う組み合わせに浮かんだ幾つかの考えの中から、敢えて土方は小馬鹿にする質のものを選んで口にする事にした。
 それは『らしからぬ』様子の銀時を、いつもの彼だと思いたかった故の咄嗟の考えだった。何しろ喧嘩口調の言葉にそうと解っていて乗って仕舞うのはお互いよく知る性質なのだから。
 尤も、沸点が低いのは土方の方だから、大概は銀時の方が投げる態とらしい挑発を棄ておけない土方がむきになる、と言うのが流れであったが。
 「アァ?仕事サボってる公僕風情が馬鹿にすんなよお前、こんな儲かってなさそうな神社の賽銭ドロするぐれェなら自販機の下の小銭集めた方がマシだわ」──そんな感じだろう、憤慨する銀時の返しを期待していた土方は然し、
 「……いや。迷子の…、猫探し。仕事だよ」
 続いた言葉に──それを紡いだ銀時の表情とに再度面食らって、否、それ以上に茫然とさせられた。何処かやけっぱちな仕草で頭を掻いて、それからゆっくりと土方の方へと向けて来た表情筋は草臥れた様に、刻む表情は憤慨どころか無に漂白されている。
 無表情。否、無を形作った表情。普段この男が土方と相対する時によく見せる様な、やる気のないだらけた態度とも違う。永きを生き飽き老成した人間の見せる様な、感情の空白の顕れに似た。
 そう、それは大凡土方の知る坂田銀時と言う男の形作った表情とは思えない様な、まるで、ほの昏い絶望の淵に佇む死者の様相じみた質であった。
 ずきりと頭が痛む。鼓動の都度響く痛みの中に、不意に冷えた棘が差し挟まれる様な心地を憶え、土方は我知らず乾いた喉で息を飲んだ。
 「それよりおめーはこんな所で何してんの。まさか居もしねぇ賽銭ドロを捕まえに来た、って訳でもねェんだろ?」
 「え。…あ、……、」
 問いを投げるなり、先程までの憂い空気を振り払った銀時は極めて平時の様に表情を緩めてみせた。だらけた、目と眉との距離の離れた覇気のない表情。
 見慣れた筈のそれに、何故か気圧された様に言葉が出なかった。問いの答えを探すべきなのか、銀時の様子についてを問うべきなのか。ありもしない筈の選択肢に寸時迷って竦む土方に、銀時はへらりと笑いかけて来た。
 「何、それとも副長さんが賽銭ドロご本人だったとか?煙草もマヨも値上がりしてるしな、気持ちは解るよ?解るけどさぁ、人間やって良い事と悪い事があるからね?」
 それは、恐らく先頃の土方の目論んだ事と同じだった。銀時は態と土方を憤慨させる事で、いつもの調子を取り戻させてくれようとしたのだ。
 痛む頭の狭間であってもそうと気付いたから──或いはそう解って仕舞ったからこそ、土方は差し出されたその救いに躊躇う事無く飛びついた。大袈裟に眉を寄せて不快を示す表情を形作る。
 「あ?誰が賽銭ドロだ。俺ァただ一服しようかと思って立ち寄っただけだ」
 思惑に乗った筈の土方に、然し銀時が返したのは何処か投げ遣りな笑みがひとつ。
 「……あっそ。そうだよな」
 「何にしてもてめぇにゃ関係ねェだろ」
 何となく、銀時の表情をそれ以上見ていたくなくなり、土方はついとその場から目を逸らした。酷い頭痛と隣り合わせに涌いた不快なのかも知れない感覚にも同時に蓋をする。
 煙草を、と思って動かした筈の手は然し、早くなった気のする鼓動に合わせて苛む脳の怠さと痛みとに堪える様に前髪越しに額を探っていた。触れたぐらいで痛みは無くなりなどしないが、人間は無意識に傷や痛みのある箇所を庇おうとして仕舞うのだ。
 そんな土方の動作を聡く目に留めた銀時は「どうした?」と直ぐ様に投げて来る。何か絡むとっかかりでも見つけたいのか、不審そうな顔を無遠慮に向けて来る銀時に土方は「構うな」と仕草で拒絶を示した。
 半歩ほど下がって手を払う、そんな土方の露骨な拒絶の態度に余計に興でも引かれたのか、銀時は頬を軽く引っ掻いて考える様な態度を見せながらもすたすたと歩いて忽ちに距離を詰めて仕舞う。思う通りにならなかった結果に土方は舌を打って顔を背けた。銀時のこう言う、時々出て来る傍若無人な親切心が今は恨めしい。
 「ひょっとして具合でも悪ィのか?」
 言って覗き込む様な動きで顔を近づけて来る銀時に何故か無性に腹が立った。普段は犬猿の仲の相手だからと辛辣且つドライな癖に、どうして人が本当に参っている時や困っている時にはそれを聡く嗅ぎ取って仕舞うのか。
 「何でもねぇよ」
 「ってもお前…、」
 近付いた顔に心配の色と、揺れた手に労りの気配とを無意識に感じ取った土方は、一層激しさを増して来ている気のする頭痛に顔を顰めた。
 「ッ、何でもねェって言ってんだろうが!」
 何かを払いたくて咄嗟に振った腕は、伸ばされようとしていた銀時の手を払い除け、乾いた音を静かな境内に虚しく響かせた。
 「……ぁ」
 払われた手を茫然と見ている銀時の姿を、思いの外強く払い除ける動作をしていた己の手越しに見て仕舞った土方は、続く言葉も言い訳も失って硬直した。
 (いや、何の言い訳の必要があるってんだ、)
 直ぐ様に浮かぶ反論に、小さく呻いて開きかけていた口を閉じる土方に、果たして銀時も同じ様な思考に至ったのか、
 「………だな。関係ねぇわな。悪かった」
 そう、彼にしては珍しくあっさりと手も言葉も引っ込めると、「じゃ、次の迷子でも探しに戻るわ」と、いつも通りに戻ったへらりとした笑いと声音とで言って、銀時は土方の横を通り過ぎて石段を下りて行く。
 その背を目で追うとも無しに追ってから、土方はひとりきりの深閑な空気を取り戻した境内にぼんやりと立ち尽くした。
 何だか自分だけが悪い事でもして仕舞った様な、気まずさに似た不快感が胸の奥に残留している。重たい頭痛に追加されたその、解消しようの無い感覚へと舌を打って、土方は「クソ」と言葉にして吐き出しながら呻いた。
 境内から降りる道は石段一つ。これで少なくとも、銀時が遠くへ離れるぐらいの時間をここで過ごさねばならなくなった。
 散歩か、それとも休憩か。これではどちらも果たせているとは言い難い。痛む頭に片手を添えると、土方は社の柱に背を預けて、襲い来る虚脱感の侭に目を固く瞑った。