だから愚かな恋はなつかしい / 5 どうして、と。その光景にまず抱いたのはそんな感想だった。 問いではない。ただ茫然と、何故なのだろうと、そう思った。 土方の横には一人の男が居た。だがそれは土方が、己の身近に居る者としてまず真っ先に頭に浮かべる、友であり将でもある男では無かった。 次々思い浮かべる、己に近しい者たちの何れも異なるその男は、大凡土方が己の隣に想像する筈も無い様な存在であった。 隣り合って親しげに酒を酌み交わす、犬猿の仲の男。全く奇妙な配役だ。ならばこれは喜劇か何かか。或いはもっと別の何かなのか。 意の全く知れぬ侭、だが土方はそんな光景をごく自然に受け入れてそこに居た。何故なのかと言う迂遠に向ける様に掴み所の無い思いを胸に蟠らせたその癖に、まるで当たり前の様にそれをすんなりと受け止めている。 恐らく、土方が数回程度しか足を運んだ事しかない、万事屋の家の中だ。曖昧な風景のディティールからではなく感覚的にそう確信する。 座っているのは草臥れたソファ。座った憶えなどほぼ無い、色さえ憶えていない様なその座面に二人は並んで腰掛けて、卓に拡げた酒とつまみとを楽しんでいる。 男が癖だらけの銀髪を照れくさげに掻いて笑う。脳で理解する必要も無いそれは多分益体もない下らなくて尊い、日常の様な遣り取りであって風景。 だから土方も笑った。何故なのだろうと思う心を置き去りにして、ごくごく自然に。 懐かしい、と不意にそう思った。 何故だろう。またそんな言葉が浮かぶ。 きっと、あの田舎道場に居た頃のはにかむ様な記憶でも思い出したのだろう。ただ夢や理想をお互い語り合って、世に感じる鬱屈などこの剣一つで乗り越えて行けると純粋な青さ故にそんな事を思っていられた、そんな若くただ楽しかっただけの時間を。 確かな答えらしきものを手繰り寄せてみても、それでも土方の胸は奇妙にざわつく。それを知る何かと望む何かが、今にも叫び出しそうに苦しい。 男が、また笑った。 目を細めて土方の事を見つめて、ただやさしく。ゆったりと目の間から力を抜いて、目尻を下げて微笑んでいた。 ただ自然に涌き出るやさしさを湛えた、水面が柔く揺らぐ様に。それはまるで──、譬えるなら、そう。愛おしげに。 (…………──、) 知らぬ世界の知らぬ風景。知る人間の知らない姿。 漠然とし過ぎていて解けない糸の絡まりの様な風景と感覚との中。そう、何故だろうか。土方は胸の奥底で、脈打つ心の臓を冷たい手で撫でられる様な冽たさを憶えて、、 * 「副長、起きて下さい」 頭のすぐ後ろから聞こえた声に、土方はがばりと身を起こし振り返った。 目に飛び込む世界は見慣れた自室のそれ。そうと解っていても張り詰めた身体と意識は直ぐには鎮まらず、刺々しい警戒心が視線に乗って声の主を見遣る。 そこに居たのは聞き覚えのある声と見慣れのある部下の地味な面相。声を掛けて土方を眠りから起こしたのは山崎に相違なかった。彼は土方の、毛を逆立てんばかりの唐突な動きに少しばかり驚いた様に目を瞠ると、 「よくお休みだった様ですけど…、時間も時間なんで声掛けさせて貰いました。余計な世話だったらすいません」 そう、言い訳めいた事を口早に言って、頭を軽く掻きながら下げて来る。 「あー…、いや、」 顔が俯いた事で寸時見えなくなった地味顔に、土方は咄嗟に投げかけた悪態を引っ込めて片手で頭を抱えた。どう見た所で転た寝が行き過ぎていたのは自分の方で、山崎ははそれを起こしてくれただけの事だ。 沢山のメモや書類の積まれた机からほんの少しだけ離れて、折った座布団を枕に土方が軽く仮眠を取ろうと横になったのは恐らくは今から二時間以内程度の事だろう。然し勤務中と言う時間を考えると、仮眠と言うには少々長すぎる眠りになった様だ。 「…すまねェ。起こしてくれて助かった」 「そうだと思いましたよ。これ多分、起こさなかった方が怒られる奴だなって」 仕事中の転た寝、そしてまるで寝惚けた様な起き様。改めて思えばばつが悪くなって苦笑混じりに土方が言うのに、山崎は厭な質では無いが戯けた様にそう笑い返して来る。 気にしないで下さい、と言う山崎の言葉をそこから読み取った土方は、自嘲を浮かべかかる口元を意識して一度引き締めた。 地味な造作の作る笑みは、よく見慣れたものだ。笑いかけてみせる表情一つからでもそのぐらいは何となく解る。 近藤の豪快な笑顔や笑い声も、沖田の嫌味や腹黒さを湛えた笑みや年相応ではないシニカルな微笑みも、思い出そうと思えば直ぐに思い出せるし、よく知っている。声まで聞こえそうな程に鮮やかに、何度も、様々な場面で土方は彼らと共に過ごして来たし笑い合って来た。──だからだ。 同じ様に銀髪の男のやさしい微笑みを思い出そうとして、それがどうやっても上手く行かない事に気付いて、そこで土方は漸く合点がいった。 あの風景もあの笑顔も、何のことはない、ただの夢だ。知らぬ風景も知らぬ表情も、何のこともなく。ただの、夢だ。 どうしてそんな夢を見たのだ、などと言う問いは重ねるだけ馬鹿馬鹿しい。夢は人間の記憶を適当に継ぎ接ぎして作られる、言うなれば脳が勝手に記憶の海をあちらこちらへ飛び回る様なものだ。説明のつかない事など幾らでも起こり得る。 土方は、脳裏にともすれば蘇りそうになる淡く不快な味わいを喉奥へと押し込んで、戒める様に目を固く瞑った。そう、と結論を決めたのは己だ。だからもう悔いる程の心残りなど抱えていないつもりでいたのに。 相変わらず間断なく続く頭痛の合間を縫って、散歩から戻った土方は通常業務である机仕事に専念していた。机周りに貼られた、我ながらまめまめし過ぎるのではないかと思える程のメモ書きたちは、頭痛や怠さにともすれば薄らぎかける仕事への欲求と使命感とを上手にナビゲートし、土方を見事に机に縛り付ける機能を果たしてくれた。 あの案件はどうだったか…、と気怠い記憶を手繰るより先に、机の周囲を見回せばその答えが大概は記してある。成程これはこう言った具合の余り宜しく無い時には良い方法かも知れない、とそんな事を思いながら、自ら新しいメモを作っては貼って剥がして、書類仕事を進めては戻って、集中すること数時間ばかりか。きりの良い所まで片付いたからと、相変わらず続く頭痛に背を押される形で思わず横になったのだった。 そうして奇妙な夢を見て、目覚めてみればもう夜だ。部屋が真っ暗だったからか、山崎は物思いに沈んでいる土方を余所に、勝手に行灯を引っ張り出すと明かりを灯して、机の脇に置いてある完了したファイルを収めるボックスの中身を検分し始めていた。 「今日の分はもうほぼ片付いてますね。具合もよくないみたいですし、今日はもう休んだらどうです?」 ファイルをとんとんと叩いて揃えながら言う山崎の横顔をぼんやりと見つめながら、「そうだな…」と土方は考える素振りで頬杖をついた。言われた言葉には案ずる色こそあれど責める調子は全く無かったのだが、遠回しに仕事の進みが常ほどには良くなかった事を指摘されていると取って仕舞うのは、矢張り己が苛立っているからなのだろうと思う。それが図星だから尚更に。 絶え間ない頭痛と怠さと進みの悪い仕事と長くなって仕舞った仮眠と──意味の知れぬ夢と。 それらの何れもが土方へと、微細な棘で撫でる様な不快感をもたらして苛む。苛まれる原因は不甲斐なさか、刺さって抜けない悔いにも似た何か。 恐らく、散歩の中で遭遇した者を──記憶に新しいその姿を、浅い筈の眠りが勝手に手繰って描いたのだ。だからあの夢には何の意味も無い。よくよく考えてみなくともそれは当たり前の事だろう。醒めて仕舞えばどんな情景だったのかどんな表情だったのか、そもそも『誰』だったのかの記憶すら曖昧に消えて行くのが夢の例で、それに漏れず幾ら土方が首を捻ってみた所で、最早見た情景全ては掴み所の無い霞の中へと溶けて仕舞っている。 ただ、夢の醒める寸前に感じた、底冷えのする様な感覚だけは厭にはっきりと残っている気がして、土方は思わず掌で胸を撫でた。だがそこには寒さも痛さも、それらを齎した何かさえも残っている訳が無い。横になった所為で多少草臥れた気のする衣服の手触りがあるだけだ。昔何かを感じた憶えの名残さえ最早手には触れない。 「そう言えば副長、夕飯はどうします?そろそろ時間ですけど」 ファイルをひとまとめにして立ち上がった山崎が、腕時計を見遣る仕草を添えて言うのに、土方は己の意識が余所へと飛びかけていた事を知る。どうやら本調子では無い所に加えて、まだ眠りからも覚醒出来ていない様だ。 指の下に何の感触も残っていない事実に密かに感じた安堵を飲み込みながら、土方は不自然にならぬ程度にそっと息を吐くと態とらしく背伸びをした。凝っているらしい肩からじわりと気怠く重たい感覚が拡がっていく。 どうやら肉体的にも疲労が酷いらしい。ここは山崎の進言通りに、軽めで滋養の付く様な夕食を摂って、それから早々と休むべきなのだろう、が。 「…外に飲みに行って来る。ついでに夕食も軽く済ませちまおうと思う」 「え、大丈夫ですか?余り具合良くないんじゃあ…、」 「問題ねぇよ。却って酒でも飲んだ方がスッキリするかも知れねェ」 露骨に「平気なのか」と言いたげな視線を向けられて、土方は多少むっとしながらもそう、殊更に軽い口調を作って答えた。 「それなら良いんですけど…、余り遅くならない様にして下さいよ?」 「解ってる」 心配されているのだとは解ったが、それは己の矜持に障る。かと言って苛々と怒鳴り返す事で、部下からの気遣いも受け取れぬ狭量さを表すのも癪だったので、敢えて鬱陶しげな仕草を添えて軽く言いながら、土方は立ち上がると長押に掛けられた黒い着物の前に向かって釦を緩め始めた。 別に男同士だ、着替えを見るのがどうのこうの、と言うルールなど無いのだが、常識的にはまじまじと見る様なものでは無い。さっさと着替えを始めて仕舞う土方に、それ以上の言葉は無用と正直に取ったのだろう山崎は、はあ、と解り易い諦念の感情を込めた溜息を一つ残すと、 「余り飲み過ぎないで下さいね」 そう、まるで負け惜しみの様に、どこかやけくそな調子で釘を刺しつつ副長室から出て行く。 そこまで心配される程に『常』になっていないのか、と言う事実を遠回しに突きつけられた気がして、土方は眉間に皺を寄せながら着物に袖を通した。帯を締めて身なりを整えた所で、思い出した様に卓の上から煙草の箱を手に取って袂に放り込む。 温かい日だ。酒と食事も入れば、間違っても冷えると言う事はないだろう。縁側から夜の空を見上げてそう判断すると、土方は一度目を閉じて重たい頭痛をやり過ごしてから歩き出した。 夢の中で親しい誰かと楽しげに笑い合って酒なぞ飲み交わしていたから、久々にそんな旨い酒を飲んでみたいと、過ごしてみたいと、そんな事を思った訳ではない。 仕事に疲れた脳には煙草が心地よく、身体には酒が旨い。幾度もそう感じて来た憶えと経験との通りに、きっと心地の良い時間を過ごせる筈だと、そう思っただけだ。 。 ↑ |