だから愚かな恋はなつかしい / 6 歩きながら適当に選んだ店は、当たりか外れかで言えば大いに当たりだった。 赤提灯の連なる狭い路地に位置する一軒。屋号も特に奇抜なものではなく──店内に入ったらもう忘れて仕舞った──、また同じ店を訪ねられる保証は無いほどに目立たない所だ。お世辞にも広いとはとても言えない店内は殆どの席が埋まっていたが、一見さんを一瞥して追い返す様な真似も無く、カウンターの席を選んだ土方に店主は愛想良く話しかけて来て、お通しをそっとカウンターへ出してくれた。 愛想は良いが無駄に絡んでも来ない店主に、土方は取り敢えず酒を頼んだ。お通しの茄子の漬け物に多少遠慮がちにマヨネーズをかけて摘みつつ、酒をちまちま喉へと流し込んで行く。 空腹の胃に強いアルコールは効く。猪口を傾けて幾度目かで土方は早くなった血流に因る体温の上昇を感じていた。普段ならほろ酔いと感じる頃合いだが、同時に鈍い頭痛も存在感を増して行くのに辟易とさせられる。拍動の度に疼く様な重さのある頭痛は少なくとも今日一日はたっぷりと土方を苛むつもりらしい。 食欲は余り感じていなかったのだが、胃の平安の為には已む無し。カウンターの真正面の壁に貼られた手書きの品書きを見回した土方は、多少腹にまともに収められそうな料理を注文した。そうして料理が出て来る迄の間、猪口を持った侭で店内をそれとなく観察してみる。 テレビの野球中継を観ながら一人コップ酒を傾ける男たち、小さなテーブルを囲んで上司の愚痴を吐き出し合っている仕事仲間らしき四人組、何か辛い事でもあったのか勢いよく酒を煽る男とそれを宥めながら調理をしている店主。その他の客も概ね似た様なものだ。何処の酒場でも一度は見かける様なその有り様の中には、然して面白い光景がある訳ではない。 酒を不味くする頭痛に顔を顰めれば、猪口の中で罪のない酒がたぷんと揺れた。まだ飲み始めて間もないと言うのに、今から既に気が滅入るとはどう言う事なのか。 「はいよ、お待ち」 俯き加減で猪口を傾ける様子に気でも遣ってくれたのかも知れない、控えめな声と共に出された刺身の皿を受け取った土方は、気分を切り替えるつもりで醤油差しを小皿に傾けた。腹にまともなものが入る事で気分は幾分マシになるだろうか。 投げ遣りな予想と頭痛とに反して、一度食べ始めれば箸は皿と口とを淀みなく往復する。気分や具合はともかく、腹が減っていたのは間違い無かったらしい。 野菜の天ぷらを追加で注文し、先程よりは幾分かマシになった心地で猪口を傾けていると、からからと入り口の扉の開く音が聞こえた。どうやら新しい客が訪れたらしい。自然と目がそちらへと向くが、隣席の客が邪魔でよく見えない。かと言って露骨に首を伸ばして入り口を伺うのも妙に映るだろう。 別段気にする必要は無いかと、流し掛けた視線を手元の酒へと戻した土方の耳に、店主の愛想の良さそうな声が飛び込んで来る。 「やあ、銀さんいらっしゃい」 客の入って来た入り口に向けて店主が笑顔でそう言うのに、真逆にも土方の顔は盛大に顰められた。今は余り聞きたくはない名と、その呼び名に該当する心当たりがこの辺りには土方の知る限り一人しか居ない事と、その想像が違えなく事実だろう事とに、正解ですと言わんばかりに頭痛が増した気がした。 「よぉ。今日は繁盛してるねェ。結構結構」 「幾ら繁盛してたって、もうツケは増やせねェからな?」 入り口の方から聞こえる店主と銀さんとやらとの間では気易い会話が交わされている。土方はそちらからふいと目を逸らすと、醤油とマヨネーズの乗った刺身を口に放り込んだ。様子からして幾度も訪れた事のある馴染みの客らしい。そう思えばこの店を何となく選んだ己の軽い選択を土方は呪わずにいられない。 店には罪は無い。偶々ここを選んだ己が悪い。偶々今日ここに来た銀さんとやらが悪い。 「大丈夫だって、今日は一杯やるくらいの手持ちはあんだよ」 「ヘェ、そいつァ珍しいこった」 丁度良い事に土方の右隣には体格の良い男が座っていて、丁度その男の影に隠れる形になって土方から銀さんとやらの姿は見えない。と言う事はそいつからも土方の姿は見えない筈だ。この侭入り口に近い、土方からは離れたテーブル席にそいつが座ってくれれば顔を合わせる事なくやり過ごせるだろうか。 「おう親父、勘定な」 「はいよ。ほらてめぇはいつまでもそんな所に突っ立ってねェでとっとと座んな。邪魔になんだろ」 「へーへー。んじゃ取り敢えず生一つね」 と、そんな甘い目論みは、右隣の男が勘定を置いて立ち上がった事であっさりと崩れたのであった。己のツキの無さと頭痛との同時攻撃に土方は溜息を隠さず吐いて、空いたばかりのカウンター席に促された銀時が腰を下ろすのからそっと目を背けた。 そっと、と言うには無理のある、顔ごと露骨に余所を向いた隣席の客の姿が逆に目に留まったのか。木刀を立て掛けた侭の姿勢でこちらを向いた銀時の動きがぴたりと静止するのを、土方は気配で感じる。 土方は、まだ頼んだ天ぷらが来ていない。銀時は、席を下ろしたばかり。恐らく互いに動くには気の退けるタイミングだったのだろう。その隙にカウンターには銀時の分のお通しが置かれ、土方の前には注文した天ぷらが出て来る。これで両者共に完全に動けなくなった。 「……ンな嫌な面しねェでも、一杯飲んだら帰るわ」 やがて、先に口を開いた銀時はそんな事を小声で投げると箸を割った。まるで、悪い、とも取れるそのニュアンスに罪悪感を憶えそうになり、土方はお通しの茄子の漬け物を囓る銀時の横顔をちらりと見遣ると、痛む頭に目を瞑って猪口を一息に煽った。 犬猿の仲の男との並びなど、普通に考えれば最低の状況だ。銀時と土方が度々喧嘩をする事をここの店主は(当然だが)知らなかったから平然と隣になど通したが、普通水と油は混ぜてはいけないものなのだ。混ざりようが無いのだから、混ぜようとも思わない方が良い。否、寧ろ接触すれば爆発炎上するのだから、火と油とでも喩えた方が良いのか。 そう考えればこの隣り合いと言うのは一触即発とも言える状況だ。だが、昼間の短い邂逅の時もだったが、銀時は常の様に自ら何か絡んで来る様な真似はせず、そればかりか退くと言っているのだ。まるで土方との喧嘩を、接触を、自ら避けるかの様に。 戦闘の放棄。そうとも取れる銀時の態度に土方が驚かなかったと言えば嘘になる。何せ知る限り、坂田銀時と言うこの男は土方並に負けず嫌いの性質の筈だったからだ。まかり間違っても自分の方から謂われなく非を認めたり、敵を避けて歩いたりする質では無い。 だからなのか、何かすっきりとしないものを憶えた土方は、少し躊躇いはしたが昼間に残して気になっていた点を自ら引っ張り出す事にした。業腹ではあったが、これ以上すっきりとしないもやもやと残る事柄を増やしたくはない。 「…………別に。…その、昼間は悪かった」 「…………………別に。気にしちゃいねェよ。つーか何の事かと思ったわ」 心配してくれたのだと思しき手を振り払った。ただそれだけの事だが、自分だけが悪い事をして仕舞った様な嫌な後味を残して仕舞っていた事は、土方にとって単純に気分が良くなかった。 出た言葉は謝罪と言うには至らない、自分の気を済ませたいだけの一方的な礼儀の様なものだったが、銀時は然程に気にした風でも無くそれをさらりと受けてから流すと、そこで漸く土方の方へと顔を向けて来た。 「んで、調子はどうなの。…ま、悪かったら外で一人酒なんて飲んでねェか」 訊ねておきながら一人勝手に結論を出す銀時に乗っかる形で、土方は「ああ」と頷いて猪口を傾けてみせた。重量感のある頭痛は相変わらずついて離れようとはしてくれないと言うのが勿論本当の所なのだが、おくびにも出さない。 「ほらよ、生一丁」 会話の続きを探すべきか、と土方が考え始めた丁度その時、カウンターの向こうからジョッキになみなみと注がれた生ビールが出て来た。銀時の前に置かれたそれをちらと見、丁度良いと使う事にする。 「…その一杯は、昼間の詫びって事で奢る」 「いや良いわ、気にしねェでくれ」 然し返って来た言葉は、土方の想像した様な喜んで飛びつく類のものでは無かった。万事屋の困窮状態はそれとなく知っている。故に咄嗟に切った札だったと言うのに、銀時は喜びは疎か取り付く島もない様な切り返しを寄越してきた。昼間に続いて、またしても調子を一方的に崩された事に拍子抜けをする前に少し苛立つ。 その一言は、土方が済まないと本気で思った、悪い事をした様な悔いに似た心地にさせられた、すっきりしない侭残された己の感情に何らかの形で決着を付けたかった所から出た申し出だった。 だから土方は少しむきになった。こうもきっぱりと拒絶されると、益々に悪い事をしている様な心地が連なる。要は謝罪を聞いて貰えないのと同じだ。 ここは銀時の懐事情がどうだろうが、借りを作りたくなかろうが、単純に業腹であろうが、社交辞令として受け取っておくのが正しい筈だ。思えば少し強い調子の声が出る。 「滅多にねェ遠慮なんざすんな」 「遠慮じゃねェって」 「一杯ぐらいと思って受け取っとけや」 「だから俺ァ別に…、」 多少強引に追い縋った土方に、銀時はそこで初めて苛立ちの様なものを見せた。常の、喧嘩の始まる時の様なむっとした表情を浮かべかけ──、然しそこで留まると、苛々とした仕草で自らの頭を引っ掻き、それからやれやれと言った様子の溜息をひとつ。 「……わぁったよ、んじゃ一杯だけ頂くわ。これで貸し借り無しな」 貸したつもりも別に無かったのに、とぼやく銀時は、矢張り土方がどう言った意図で「詫び」などと申し出たのか、と言う事は察していたらしい。その癖受け取ろうとはしなかったその気持ちの表れなのか、少しばかり投げ遣りにジョッキを手に取ると、土方の持つ猪口に向けてお座なりに乾杯の様な仕草をしてから中身を煽った。 礼を。或いは借りを。ごくごくと数口飲み下した銀時の横顔を見遣り、土方は内心密かに安堵していた。募った、何かを誤りでもした様な昼間の失態をこれで漸く飲み込む事が出来そうだと思う。一方的であれ、不承不承であれ、これで互いに気が済むのだからそれで良い筈だ、と。 犬猿の仲の男の珍しい心配の言葉も態度も、珍しさこそあれど普通は受け入れる様なものでは無い。弱味を握られたと思ってほぞを噛む結果になるのは見え透いているのだ。 だから、構うなとそれを振り払った己は多分間違ってはいなかったと土方は思っている。少なくとも常の事であれば確実に。 それでも、時々悔いを感じる。関係などないと。気に病む必要がどこにあるのだと、己に言い聞かせながらも、どうしても刺さって抜けない──抜き方の解らなくなる様な棘は、在る。 それは大分昔に土方が気付いて、そして棄てる事を決めた感情だ。 淡く色づき仄かな存在感を未だに、思い出した様に折に触れて浮かべては平静の水面を悪戯に掻き乱す、自ら散らした恋情の花。それに気付いて乱暴に摘み取って棄てるのは二度目の事になる。だから容易く処理出来た。 坂田銀時への想いらしきものが明確に咲いて仕舞うその前に、土方はそれを自らに不要だから、無意味だからと断じて棄てる事を決めたのだ。 悔いを憶え刺さった棘は、未だに時折こうやって土方を不必要に苛んで嘲ろうとする。 それは例えば、肩すら触れる事のない『隣』で酒を飲む男の、時折見せる誰にでも分け隔ての無い優しさや親しさだとか、そう言った日常の他愛の無い数々の事柄にも潜んでいる。 恋と明確に言うには恐らくは足りなかったそれらも、幾ら棄てようが気付けば淡く不快な感情と化して、土方のそこに無遠慮に刺さってくるのだ。 夢で見る様な光景などある訳がない。土方の意地めいた感情を詰めたジョッキを傾け、店主と他愛のない世間話に興じる男は、土方が棄てた──棄て続けている厄介な心になどは気付かず、距離も慕わしさも縮めてくれる事は無く、ただそこに居た。 (もう諦めるにも棄てるにも、慣れたと思ったんだがな) 頭痛の合間に忍び笑うと、土方は喉を灼いて脳を叩く酒を勢いよく煽った。空になった猪口を置いて、気怠さに目を眇めていると、いつの間にか再びこちらを向いていた銀時と目が合う。 「…やっぱおめー、具合悪ィんじゃねェの?」 ことん、とジョッキを置いた銀時の手は、一瞬だけ何を思ってか彷徨い、それから行き場を探す様に焼き鳥の串を掴み上げた。 冷えたジョッキを掴んでいたその手は、彷徨わず己の額へと届いていたのならばきっと冽たかったのだろうと、想像しながら土方はちいさく笑う。 ──自嘲だった。 「……そうでもねェよ。が、早めに引き揚げる事にすらァ」 逃げる様に紡いだ言葉と鈍い頭痛とに押されて、土方はそっと席を立つと、自分の飲み食いした分と銀時に奢った分との代金とをカウンターの上へと置いた。 「………そうか。まぁ気ィつけて帰れよ。何なら地味な部下にでも迎えに来て貰え」 「は。歩けなくなった時にはそうするか」 言葉に、態度に、案ずる類のものを見出して仕舞う前に、そうと思い違えて仕舞う前に、土方は銀時の横を軽口を叩きながら通り過ぎて背を向けた。視線を痛いほどに感じながらもそれを振り切って。 恋情に至るその前に自ら想いを棄てたその本当の理由は、それが叶って仕舞うのではないかと感じたからだ。 恐らくは互いに、犬猿の仲、喧嘩相手と言う言葉を盾に、その距離を縮めて良いものかと伺い合っていたから。だから、そうなる前に棄てるべきだと決めたのだ。 この恋が叶って仕舞うより先に。殊更に仲の悪さを演じる、腐れ縁だけの繋ぐ顔見知り程度で止まれる様に。 重たいばかりの頭痛は、急激に気怠さを纏って両肩にのし掛かる様だ。酔いは気分を余計に悪くしただけだったのかも知れない。 或いは、酔い以上に心に満ちた、他の何かの仕業だったのか。 。 ↑ |