だから愚かな恋はなつかしい / 8



 気付いた時にまず土方が思ったのは、まずい、と言う事だった。
 最初は小さな誤り。その次は些細な思い違え。その次には嘘にならない本心。気付いて仕舞えば実に虚しくて業腹で、悔いるべき感情だと解っていつつも、その男は土方の裡にどっしりと根を張って存在を主張していたし、それは、まずい、としか言い様の無い類の感情(もの)であった。
 端的に言えば、憧れ、だ。尊敬、と言い切るに至らなかったのは、恐らくは己の子供じみた感情がそうさせたのだろう。その感情を向けるべき相手は単純に、好ましい質の男では無かったからだ。……その筈だった。
 それは憧れであるのと同時に反発をも抱かずにはいられない、ある種の興味であって、倣いたいと思う様な感情だった。好ましくない相手に向けるには大凡相応しく無い様な──近付いてみたい、などとさえ仕舞いには思えて来て、土方は困惑の末に、まずい、と、そう思ったのだ。
 これは宜しくない事だ。己の大将では無いその男に、大将と同じ様に付いて行ってみたいなどと、思って仕舞った。
 例えば土方にとっての近藤の様に、その人の好い所も悪い所も概ねが肯定出来て仕舞う、そんな対象には決して足り得ないのだが、逆に言えばその程度しか否定する要素を見つける事が出来なかった。
 この、まずい、としか言い様の無い感情に対して土方の取った対処法は、忘れる事だった。最早気の迷いと言う言葉では誤魔化せない、己の裡の何処か無防備な部分に芽生えそうになった感情を、無いものとして扱って流して仕舞う事だった。
 憧れでも、それ故の反発心でも、並んでみたいと言う望みでも、その背を護ってみたいと言う願いでも、何でも構わない。それはどう言い訳を並べた所で、どう不満を積み重ねてみた所で、好意に類する感情以外の何にもならなかったからだ。
 そしてその感情は己には不要だと、土方は、まずい、と思った瞬間にも即座に至った結論へと再び行き着いて、そこに蓋をし忘れる事に決めた。
 そうして、その埒もなく意味もなく役立たずの感情を、段々と己の裡で上手く飼い慣らす事に土方が漸く慣れ始めたその頃だった。
 ある時余りにあっさりと、忘れる事にした筈の好意は確実な恋情へと変化して仕舞った。
 見れば、話せば、腹しか立たない筈の男が。ある時不意に己を見た、その一瞬の空隙に気付いて仕舞ったから。
 あの男が己を見つめていた、その眸の奥に潜む、同じ感情に気付いて仕舞ったから。
 あれが恋情と言う感情であるのならば、己の裡でしつこく存在を続けるこれもまた恋情としか言い様のないものだろうと納得を得た土方の裡で、然し返った答えは最初と何ら変わらず、まずい、の一言であった。
 この侭では取り戻しがつかない事になるのではないか。そんな畏れの中、男の方もまた手を伸ばそうとしたり、不用意に裡に秘めたる激情を顕わにはしようとしなかったから、均衡は危うい所で保たれていたのだと思う。
 互いに互いを探り合いつつも踏み込まない。想いなぞ既に悟られているだろうに、互いに決して動こうとはしない。まるで我慢比べか何かの様に。
 だがそれは土方にとっては感情を希釈し再び裡へと押し流せる猶予でもあった。曖昧な関係に「どう」とも思わぬ事で、自然とそれを、根付いた感情も存在感も忘れて、諦めて、手放して、薄めて仕舞える、最後の機会だった。
 殊更に嫌悪感を形作って逃れようとした、逃れたいとすら思った、男からの縮まらぬ、然し明確に過ぎる想いのその先に何があるのかなど──考えたくもなかった。
 
 きっと解っていたのだ。
 答えは破綻のひとつしか無いのだと。
 叶って、通じて、その先には傷以外の何一つも残りはしないのだと。
 
 ならばいっそそうなって仕舞えば良い。それが諦めるに、愚かな恋を已めるのにはきっと良い方法だと、そう思った土方は、伸ばせず躊躇っていた男の手を取る事にしたのだ。
 そうして忍び寄る破綻を畏れずただ待って、自ら終わりを──、
 
 …
 
 うんざりとした表情は隠さず、然しそれは退く理由にもならず。
 頭が痛いからだ、と言い訳にもならない言い訳を胸中で唱えながら、土方はカウンター席の椅子を引いてそこに腰を下ろした。隣席に座っていた銀時が苦虫を噛み潰した様な顔を背けて嘆息するのには気付かない素振りで酒を注文する。
 「……何、おめーの所は局長だけじゃなくて副長までストーカーかなんか始めたの?」
 「誰がするか。偶然に決まってんだろうがこんなん」
 苦虫を咀嚼したかったのは土方の方とて同意であった。適当な飲み屋の暖簾を潜って、期せず銀時に遭遇したのはつい昨晩の事だ。相変わらず頭痛も気分も今ひとつ晴れなかったからと、今日も夕刻ふらりと出歩いて、また適当な店に入った途端にこれだ。
 カウンター席しか無い様な、屋台とほぼ変わらぬ小さな店を選んだのは、昨晩と同じでただの気紛れだ。店内が繁盛していて、端の席に座っていた銀時の隣の椅子しか空いていなかったのはただの偶然としか言い様が無い。
 「自意識過剰なのはその頭だけにしとけ」
 「あ?誰が過剰な天パだって?!」
 「天パとは一言も言ってねェが、まァ自覚はある様で結構な事だな」
 土方が店を訪れる前にそれなり盃を重ねて多少酔っていたのか、昨日の様な素っ気ない態度を見せる事も無く、銀時は酒臭い息をふんと吐いて、土方の悪態に応じて来る。
 「全ッ然過剰じゃねーから。寧ろ控えめだからねこれ」
 「ああそうかい。今度から毎朝鏡で三時間は見つめてみる事をお勧めする。真実が映ってるから」
 カウンターに置かれたコップ酒を傾けながら、口角が自然と上がるのを土方は感じていた。全く下らない、どうでも良い酔客の遣り取りに、顔を顰める者はいない。当事者である銀時と土方とを含めて。酔っ払いなどそんなものだ。戯言で終わる内は誰も何も気にしない。
 アルコールで浮ついた心にふわりと弾ける、喧嘩未満の言葉の投げ合いは何だか酷く久し振りな気がして、それに、楽しい、などとつい思いそうになる。
 「なん──、」
 然し、興の乗りかけてきていた土方とは異なり、乱暴に返しかけた銀時はそこで不意にはっとなって口を噤んだ。何か失態でもやらかした時の様に盛大に顔を顰めると、攻撃の矛先にされていた頭髪をぐしゃりと掻き乱して俯く。
 「……おい、」
 「違うだろ、そうじゃねェだろ…、何勘違いしてんだ、」
 思わず声を掛けるが、掌に顔を埋めてまるで酔い潰れた人の様に俯いた銀時は、小声でぶつぶつと何やらぼやいて、それから酷く力なく、一言、これははっきりと。
 「…何で、近付いちまうんだよ」
 そう苦しげな溜息と共に吐き出すと、ゆっくりとカウンターに突っ伏していた顔を起こした。懐かしい言い合いの気配はもう失せて何処にも無い。焦がれた男の形作る、苛立ちと切なさとの入り交じった不思議な表情だけがそこには残されていて、土方は己の裡の何かが上げた悲嘆の声を聞いて仕舞った気がした。
 「何で、って…、だから偶然だって言ってんだろうが」
 跳ねる鼓動に合わせて頭痛の鈍い痛みが思い出した様に蘇るその中で、何故か非道く乾いた口を漸く動かしそう返せば、
 「解ってる」
 と思いの外に強い調子で言い切られる。何を、どう解っていると言うのか。意味も意図も知れぬ、ただ己の行動か言動か何かが銀時の危うい琴線に触れたと言う事だけは確かで、土方は狼狽した。それさえも何故なのかははっきりとしなかったが。
 「……解ってんだよ。おめーが自分から近付いて来てる訳じゃねェんだろうって。でも、そんなんにどう堪えろって言うんだよ」
 少しの間を置いてから、銀時は小声で、少し早口でそう言うと突然席を立った。カウンターの上に自分の分の勘定を置くと、別れの言葉一つ残さず店を後にして行って仕舞う。
 「…………」
 これも酔っ払いの一幕なのか。誰も、何も特に頓着しない。店主は他の客と世間話。今の言い合い未満の遣り取りなど、他の誰かにとっては全く意味も関わりも無いものでしかない。
 だが、当事者の土方にとってはそうも行かない。棄てようと、諦めるにも慣れた筈の感情が憶え深い情動に動かされ震えているのを感じる。切ない痛みに胸が引き絞られそうに苦しい。
 恐らく、銀時は己からは距離を詰めてくれる気は無いのだ。ギリギリの均衡の淵に立って、それでもあの男は最後の手を伸ばす事は無い。
 それは土方にとって本来は望ましい事の筈だった。諦めるのに、枯らすのに、丁度良いとさえ思っていた筈の事だった。
 だがそれが、今日は妙に腹立たしかった。苦しかった。断続的な頭の痛みの後ろで、それを悔いと言うのだと何かが叫んでいる。
 己は諦めたかった。銀時は諦めようとはしていないのに近付こうともして来ない。その癖に酷く切ない様な苛立つ様な目で土方の事を見ては、遠い何かの光景でも見つめる様に、彼岸の死者の様に、寂しげに苦しげに笑うのだ。
 戻らぬ何かでも、追い求めているかの様に。土方には知れぬ何かに焦がれて。
 「親父、勘定置いとくぞ」
 その時、胸に涌いて背を押したこの衝動が何と言うものなのか、土方は上手く気が付く事が出来なかった。ただ、きっとこれは悔いで、この恋情を棄てる事が出来ないだけは何処かで解っていた。それだと言うのに。
 カウンターに、釣りなど気にせず紙幣を置くと、土方は立ち上がって店の外へと飛び出した。夜の繁華街の路地裏、小さな飲み屋の軒を連ねる複雑な界隈の地図を脳内で描ききらぬ内に、半ば勘任せで走り出す。
 
 果たして、望んでいた背中は直ぐに見つかった。





…続きものにするには向かなかった形式だなと今更の様に。