鬼の目 土方十四郎は真選組の副長である。 真選組とは江戸でも指折りの評判の悪さ…もとい勇猛さを誇る警察組織であり、その頂点に程近い立場に置かれる土方もまた、その位に恥じぬだけの能力を持った勁い侍だ。 指揮官として思考は常に冷静であれ。 武人として能力も技倆も常に磨き続けるべし。 真顔でそんな事を宣う『侍』はお堅くいっそ古めかしいと言っても良い。だが、その古くシンプルな考えとそれを実践する行動とが、土方と言う人間の為人を何よりも雄弁に表す。そしてそれが概ね、真選組と言う組織の中では必要とされ良い方向に向いているのも事実なのだ。 そんな古式ゆかしいお堅さを地で行く様な男は、そうやって絵に描いた『侍』を体現している訳では決して無い。単純に、土方の生き様こそが、他者から見て解り易い『侍』像に合致していただけの事だ。詰まる所、生まれついての『侍』らしい人間なのである。 彼の下に付く部下達はその姿に、厳しさや強さに、畏れを抱くと同時に憧れと尊崇とを抱いた。 そこで、土方は組織として部下をまとめる為に、己の理想とする『侍』の有り様を規範とした掟の遵守を徹底した。 それはつまり、土方には常に部下からの『目』が付き纏うと言う事でもある。規則とは、それを唱えた者が遵守し体現してこその説得力を持つものだからだ。 そして土方は長年、自らを律して部下を統制するだけの──他者の納得し得る規範であり続けた。いっそ厳しい程の掟や罰を課したとて、誰もがそれに諾を示さざるを得ない程の説得力を持ち続けた。 土方は他者に厳しいが、それ以上に己に厳しい。彼を知る者のほぼ全員が、事実としてそう認識しているだろう。それは窮屈な生活に相違ない筈だが、土方を、真選組を縛る鉄の掟とはそれだけ絶対的な意味と説得力とを持っている。 繰り返そう。土方十四郎は真選組の副長である。 常に他者の目に曝されていたとして、誰もがそこに誤りや異を見出す事など不可能なまでに、彼は堂々と何を恥じる事もなく在った。 絶対的な掟の体現者として。時に行き過ぎた羨望が呆れ混じりの質に転じたとしてもそれは何ら変わらず。 掟と言う手段を真選組と言う集まりの結束の鎖と選んだ以上、そこには絶対的な強者か或いは土方の様な愚直な迄の管理者が必要なのだ。 ………その道理は解る。意味も勿論解る。解る、が。 「…………」 今、目の前で繰り広げられている光景は大凡、銀時や他の多くの人間の認識するところの土方十四郎像とは掛け離れていた。侍と言う言葉から出る想像からも掛け離れていた。 咄嗟に、フォローしてやらないとまずいのではないかと考えてから、いやでも多分今、土方が土方らしからぬ事になっているのはきっと八割以上は銀時の責任なので、そんな心配はお門違いと言うかズレていると言うか…、──兎に角、己の手に負える事でも負って良い事でも無いのではないかな、と、そんな結論に何とか不時着して。 「……あのー、土方サン?」 なんで恋人の名を呼ぶのに敬称がついて仕舞うのだろう。そんな矢張りズレた思考を流しながら、取り敢えず銀時は、己が覆い被さる様にして見下ろしている人間の名を呼んでみた。 「………」 天井にぶら下がる電灯の下。その灯りを銀時に遮られている形になっているのだから眩しいなんて事は無い筈なのだが、やわく拳を作った手で自らの目元を覆っている土方は、銀時のそんな呼びかけに全く反応しなかった。 その背中には布団。清潔なシーツがよれて作った皺の中に、土方の身体が沈み込んでいる。いや沈み込むって程高級な布団ではないけれど。ともあれそんな土方の上に、両手と膝とをついた銀時が覆い被さる図だ。 有り体に言えば『押し倒して』いる様にしか見えない画だし、事実その通りなのだがそれはともかく。 「………」 沈黙を続ける土方の表情は、その目元を隠している拳に隠されて伺えない。見えている口元は『へ』の字に歪んでいて、時折強く唇を歯で噛んでいる。ぐず、と拳の下で鼻の鳴る音。そして喉からは「え」に濁点のついた様な声だか音だかを断続的に鳴らす音と痙攣する様に跳ねる動き。 土方は。真選組の副長は。常に他者の前で凛とあらねばならぬ厳しい鬼は。 泣いていた。 それはもう、子供もドン引きするぐらいの勢いで。ぐずぐずぐしゃぐしゃと泣いていた。 訳の解らない映画を見て嗚咽を漏らすとか言う可愛いレベルじゃない。ガン泣きだ。音声にすれば「うえええん」と言うぐらいのマジな泣き方だった。 「……ひじかたー……」 流石に途方に暮れた銀時が何度、呼び方を変えて呼んでみても、土方はぐずぐずと泣き続けている。諄い様だが、常に部下の規範たらんとする男が、である。 何をしたか、と言えば、まあ見た侭の状況であると、恐らくは原因なのだろう銀時としてはそう釈明するほかない。それ以上に何も言い様がないのだから仕方あるまい。 乱暴したとか暴力を振るったとか無理強いをしたとか。そう言う訳ではない。寧ろそうなる以前の段階なのだから。銀時としては釈明と言うよりも寧ろ逆に「なんでこうなったんでしょうか」と問いたい心情であった。もちろん土方当人に。或いはこの状況の意味が解る第三者にでも。 お付き合い──と言って良いかは微妙なラインかも知れないが、告白と諾とを経た、言って仕舞えば互いに想い合う段を確認し合った事実に疑い無し、の二人、しかも両者共に三十路の見えている年頃の男なのだ。 それが、明日は休日でお互い予定無し。家には自分たち以外の誰もいない。お泊まりが決定していて、夜に酒を酌み交わし合ったおとな二人。 酒を飲んでいたのは居間で、寝室の襖は用意周到にも開けておいた。そこにきちんと整えられた布団が一組あった事で、土方も──否、どんな慎み深くお堅い人間や箱入り娘だったとしても、その晩に『何』を期待しているかぐらいは察せただろう。 適度に酒の量も空いた頃、ソファの上で口接けをした時も土方は特に拒絶らしい動きは見せなかった。だからもうこれは諾以外の何でもないだろうと判断し、銀時はその侭土方の手を引いて寝室に向かって。そして。 断じて言うが乱暴に押し倒した訳ではない。布団に座らせる様にして口接けをして、その侭ゆっくりと背中を支えて布団へと土方の身体を横たえただけである。それに何より、ほぼ同じ体格の銀時の腕に然程負担が無かったのは、土方も理解し協力した動きをした証拠だと思う。のだが。 布団に背を預け、銀時がその上に覆い被さる様にのし掛かった途端、土方の目元がぐしゃりと歪んだかと思えば、え、と疑問を浮かべる暇もなく、彼はまるで子供の様に泣き出したのであった。 これが、びっくりして涙目になった、とか、混乱して怒って泣いた、ぐらいだったら、銀時のSっ気は寧ろ活性化していた所だろう。そして今頃はそのSっ気の命じる侭に──いや命じなくともめくるめく大人の官能的な行為に突入していた筈だった。 然し実際はこうである。涙目どころではない。キレて喚いている訳でもない。ぐずる子供の様な泣き方をされては、銀時の精神も息子も大ダメージを受けているし、とてもではないがセックスなぞに持ち込める空気は微塵も無くなっている。 例えば、意地悪なプレイを強いて泣かせたのであれば、これだけぐしゃぐしゃに泣かれても興奮していたかも知れないが、残念ながらキス以上の何もまだ致していない。寧ろしたかったのに。 「ひじかたぁ…」 呼ぶ銀時の声も段々と脱力と疲労感が濃くなっている。泣き始めて優に十分近くは経過しているだろうか。土方は当初の様に喚く様なわんわんとした泣き方はもうしていないが、未だ泣きやめていないのは、ひぐひぐとしゃくり上げる声や仕草からも明かであった。 アレ、俺なんで子供をあやせない親みたいな感じになってるの?俺たち確かさっきまで、恋人同士の週末みたいな感じになったよね?あとちょっとで初セックスに漕ぎ着けそうだったよね? 疑問と抗議はとめどなく銀時の脳裏を流れるが、対する土方は相変わらず自らの拳で、真っ赤になっているのだろう目元をぐしゃりと押さえて、時々擦っては泣いているのだからどうしようもない。 (マジ泣きされると萎える、と) 出来れば知る機会なぞ欲しくもなかった、己の性欲に対する感想を心のメモの隅っこに書き殴りながら、銀時は土方の顔の横辺りについていた手を離し、上体を持ち上げると布団の上に膝立ちになって天を仰いだ。 何しろ男同士の行為だし、拒否られるぐらいは想像しないでもなかったから、それを言いくるめる方法ならシミュレートした事もあった。が、流石にこれは想定外だった。 かくりと頭を戻せば、眼下には足を開かせその間に膝をついて陣取った己の陰から漸く解放されて、然し相変わらず目元を覆う拳は退けない土方の顔があった。その頬から耳元に掛けてのラインが未だ濡れているのが、蛍光灯の明かりの下ではっきりと解って、何故か負う必要もない筈の罪悪感が銀時の胸に去来する。 どうしたの、とか、何で、とか、泣きやんで、とか。そんな言葉は疾うに出し尽くしていたし、それに対する土方の答えも無かった。かと言って自分に明かな非があるでもないのに謝るのは何か違うだろうし、宥めるにも何と言葉を掛けて良いのか解らない。 もっと行為が進んだ所でだったら、痛くしねぇから大丈夫、とか、そう言う解り易い言葉も出せただろうに。 溜息をひとつ吐いて、銀時は土方の足の間から退いた。乱れた着物の裾を直してやるべきかと一瞬考えたが、なんだか触ったら余計泣かれそうな気がしたので止めておく。懸命な判断だろうと思いたい。この状況では。 そうして布団端に胡座を掻いて土方の顔を覗き込んでみれば、その頭が僅かにこちらへと動いた。 「……、」 土方、と呼ぼうとして止める。漸く少し動いた天の岩戸をまた閉ざされては堪ったものではない。 その侭暫くの間無言で見つめ続ければ、土方はひっくひっくと喉を鳴らしながら、ぐしゃぐしゃと拳で目元を擦り始めた。嗚咽を堪えて、涙を拭って取り繕おうとしているのだろうとは何となく解ったが、手を出すのは矢張り憚られたので、取り敢えずこっそり後ろ手にティッシュの箱を近付けておく。土方がその存在に気付いて自分で手を出すかも知れないと期待しつつ。そうすれば暫く頑なに閉ざされた侭のその眼が、表情が見えるかも知れないと思って。 そんな擦ると眼ェ紅くなるぞ、と喉から飛び出しそうになる衝動を堪えていると、やがて手の甲も掌もぐしゃぐしゃに濡らした土方の眼が、拳の陰からおずおずと覗いた。案の定真っ赤になってぐしゃりと湿った眼球が銀時の姿を捉えて、またじわりとその淵に涙を浮かべる。 土方自身、これ以上泣いていても仕方がないと思っているのかいないのか──或いは単に恥ずかしいだけなのか、あふれかかった涙はぐしりと乱暴に擦って拭われ、眼球だけではなく真っ赤になった目元を更にふやかせる。 「………なぁ…、土方」 そろそろ泣き止んでくれない?と胸中で続けながら、また目元をぐしぐしと擦っている土方に思わず声を上げて仕舞ってから、銀時は己が思いの外に落ち込んでいる事に気付いた。 目の前で泣かれて驚いたとか脱力したとか慌てたとか、折角のチャンスが、とかよりも先に、自分は落ち込んでいたのか、と、己の悄然とした声に今更の様に思う。 泣く、と言う行為がネガティブなものを連想させるからなのだろう。いや、なのだとしても、驚いた、のだとしても。常々クールで素っ気ない態度しか見せない土方が、そこまで拒絶の感情を顕わにするとは。 それ程までに、銀時に押し倒されセックスと言う行為に繋がりそうになった事に、忌避感を抱いたのか。 (そう言う空気でも無ェし、萎えちまったのは確かだが…、落ち込んで萎える他無いってのも確かだよなあ…) 思った銀時が肩を落とせば、ぐずぐずとむずがっていた土方の手が、涙をまだごしごしと拭い──と言うより最早拡げているだけでしかなかったのだが──ながら、濡れて酷い有り様になった顔を漸く晒した。 真っ赤な目と、涙と鼻水とで濡れた面相は、日頃の凛と怜悧な顔立ちを台無し──にはしていなかったが、少なくとも他人に見せられたものではなくして仕舞っていた。 何度目になるか。繰り返そう。土方十四郎は真選組の副長である。掟の鎖を絡め厳しく己を律する彼は、常にその有り様を保っていなければならぬ立場の人間なのだ。 そんな土方が、身も世もなく泣きじゃくったのだ。幼子の様に。 単純に「嫌だ」と暴れるでもなく文句を言うでもなく。ただ泣き崩れた。 それは銀時には、何よりも明確な拒絶の様に感じられるものだった。否、銀時ではなくともそう思うだろう。 「……そんな嫌だった……?」 萎れた息子と期待感以上に落ち込みながら銀時がそう問えば、土方は涙で重たそうに湿った睫毛をぱたりと上下させた。ひぐ、とまた喉と鼻とが音を立てる。 見たことも、見せられた事もない泣き顔は、みっともないと評すに恐らくは正しいものであったが、それこそが銀時の胸を締め付け痛める。 だが、次の瞬間。 「…………なにが?」 嗚咽の残滓を絡ませた声がそうきょとんと紡ぐのに、銀時の目は点になった。 「…………………………………や。だから」 嫌だから泣いたんだろう、と今更問うのも、己の胸にそれを再認識させてダメージを負うのも嫌で、銀時が語尾をもごりと濁せば、土方はぐしゃぐしゃの泣き顔に疑問の様なものを浮かべながら、またひくひくと嗚咽を再開する。 (イヤこれ俺が悪い奴だよね。俺が悪い感じなんだよね??) 土方の涙や泣き顔を見れば心が痛む。それは己が原因なのだろうと、悪いかどうかはともかくとして思っているのだから当然である。だがはっきりと己が悪いとも言えない状況に居た銀時は、ここに来て更に混乱した。 (だって、押し倒したら泣き出したんだから、押し倒した事が原因だって普通思うよな?) しかもあの土方が嘘泣きや怯え泣きどころか、ぴいぴいと子供の様に泣き出したのだから。理由なくそんな事が起きる訳がない。と、なるとその直前の行為が原因に決まっている。誰だってそう考える筈である。実際銀時はそう考えた。 「………」 取り敢えず銀時はティッシュ箱からティッシュを二、三枚矢継ぎ早に引っ張り出した。真っ赤な拳の動いている顔に手を──と言うかティッシュを近付けたら思いの外に大人しくその手を退けたので、濡れて真っ赤になった目元や頬を拭ってやって、最後に鼻に押し当ててみた。 すると土方は、厭がるか怒るか、と思いきや、ずび、と大人しく鼻をかんだ。 「…………………」 ここまで来て漸く銀時は確信を抱いた。 こいつ、酔ってるだけだろ。 ぐっしょりと濡れたティッシュを屑籠に放りながら、銀時は口元を引きつらせた。そしてそれが原因ではないだろうが、土方はまたしゃくり上げたかと思えば目元に涙をじわりと浮かべて、折角拭ってやった顔を忽ちに台無しにして仕舞う。 「……お前、泣き上戸だったの?つーか普通は泣き上戸って愚痴りながら泣く感じだよね。そんなひたすらぴーぴー泣く感じじゃないよね」 「もんくあんのか」 しゃっくりの様にしゃくりあげながら、舌足らずな声で、再び涙にふやけた目でこちらを見上げながらそう土方が紡ぐのに、銀時はもう一度天を思い切り仰いでから、ティッシュ箱を膝の上に移して、新しいティッシュを引っ張り出した。 この酔っ払いは泣きやむ頃には眠って仕舞っているのだろうなと諦め混じりに思いながらも、取り敢えず明日泣き腫らした顔をしていたら色々と大変そうだ。土方も、自分も。 酔い潰れる程呑ませてはいない──何しろ潰れたら何も致せなくなる──のが仇になったのかはたまた滅多に無い、大家から貰った良い酒なぞ引っ張り出したのが悪かったのか。 と言うか狼狽える前にもっと早く涙の理由を探るべきだったのだろうか。 横たえた途端に何かのスイッチでも入ったかの様にみっともなく泣き出した土方の、その涙の原因が単なる酔いの所為なのだろうと言う点、そして不覚にも落ち込んで仕舞った愚息と気分とについた溜息には、然し嫌われていた訳ではなくて良かったと言う安堵が篭もっていた。 同時に。 今度機会があったら、泣こうが何だろうが強気で行ってやろうと、銀時は気持ちでだけはそんな事を考えながら、また目元を新たな涙に濡らし始めた土方の頬を拭ってやる。 「……つぅか…、」 大人しくされるが侭に顔を拭われて、ぐず、と鼻をすすりながら土方がぽつりと呟くのに。「何」と問い返しながら銀時は、これって何プレイなんだろうかとぼんやりと考えていた。ここまで無様に泣かれては最早、日頃とのギャップがかわいいとか言える段を越えている。 「しねぇのか?」 心底不思議そうに投げられた土方のそんな言葉に、銀時は三度目になるだろう、天を仰いだ。 誰の所為だ馬鹿野郎、と叫びたいのをぐっと堪えて。 蔵出しして来たヘタレなお馬鹿系。なおこの後笑い上戸になる。 理性の歯止めがなくなるまで酔えたって事なんて慰めにもならないけれど。 |