、そして二人だけの不幸 連日連夜、蝉の大合唱だ。 蝉時雨、などと言う聞こえの良いものではない。ちょっとしたコンサートホールの様な音は、暴力的な迄に凶悪な音量を以て土方の鼓膜を──と言うより脳髄を──容赦なく叩いて来ている。最早騒音と言って良い。 じわじわじわと音を奏でる、アブラゼミの名の由来はその侭ずばり『油を熱する時の音』、つまりは揚げ物をしている時の音に似ているからだと言う。今日は偶々なのか揚げ物屋が大盛況の様だ。聞いているだけでまるでこちらが油の満たされた鍋に放り込まれた様な心地になる。 最近では年々上昇する暑さや町の明るさで時間を勘違いするとかなんとかで、夜になっても鳴く蝉もいるから、ただでさえ睡眠時間の削られる事の多い土方には堪ったものではない。 そこに来て、真選組の屯所に庭木が多いのも災いした。中庭に面した副長室は、時には蝉の音波攻撃に延々曝され続ける羽目になるのだ。 (……眠れやしねぇ) 二つに折り畳んだ座布団を枕代わりに、書類山をキリの良い所まで片付けた土方は仮眠を摂るべく隊服の上着を脱いだだけの姿で横になっていた。ちなみに山は途方もない標高だった。険しい上に、休まずいられない程の疲労感を伴う。 だ、と言うのに、横になって三十分近く。土方は未だに眠りの世界へ落ちて行く事が叶っていない。十分を過ぎた辺りから最早諦め混じりに、困難な案件の思索をしたり、隊内のスケジュールを組み立ててみたり、或いは単に寝返りを打ってみたりと、『眠る』事は半ば放棄していた。眠れはしないが身体を休ませられるだけでも上等かも知れないと、半ば自棄の様に思いながら。 蝉の鳴き声の合間に軒先で、きん、と、山崎が夏の初め頃に下げていった江戸風鈴の揺れる音がする。職人の手作業で作られた、ほんの少し歪なところもある透明な硝子は、時折陽光をかちりと弾いて少し眩しい。 ごろりと寝返りを打ってほんの僅かだけ瞼を持ち上げてみれば、丁度西日の強くなる時間帯の室内は眩しい茜色に染められていた。くるくると、風鈴から下がった無色の短冊が揺れる度、影が壁の上を踊っている。 縁側に掛けられた簾の隙間から差し込む斜めの陽光は、畳の上と、そこに寝そべる土方の上とに複雑な紋様の影を描いている。 陽光がとても強くて、紅くて、影の色がとても黒くて。そのコントラストにくらくらしながら、土方は目をゆっくりと閉じた。 皮膚をじりじりと焙る様な日差しは眼球の奥の脳にまで乱暴な様だ。目を閉じた事で、再び土方の世界はじゅわじゅわと大合唱する煩い油の鍋の中へと戻される。 揚げ物、と思った瞬間、胃の底が重たくなった。ひょっとしたらこれが所謂夏バテと言う奴なのだろうか、夕刻に差し掛かる時間帯だと言うのに、空腹感を感じるどころか逆に嘔吐感が沸き起こるとは。 そう言えば昼に、鉄之助が食堂にいつまで経っても現れる様子のない土方を心配して部屋まで差し入れてくれた握り飯の二つと冷茶一杯を胃に入れたきりだ。それ以降胃の中には茶菓子ひとつさえ入れてはいない。 つまり軽く四時間以上の間、土方は煙草以外のものを何も口にしていない、と言う事なのだが。 暑いが特に汗はかいていない。空腹も感じない。眠ろうとしても眠れない。 もう一度薄目を開いて苦笑する。どうやら仕事のし過ぎで、本当に自分は執務だけをする機械(からくり)にでもなって仕舞ったのやも知れない。 刀をちゃんと扱えるのであればそれでも特に文句はないのだが。思って、刀架には置かず身体の右横に転がしてある愛刀に手探りで指をかけた。鞘の感触が、どこかひやりとして落ち着く。裡の刃の存在が落ち着くのだと言えば、大丈夫かと熱を計られるだろうか。 血にも似た錆色。そんな鮮やかな色彩になりつつある部屋と裏腹に、見上げた天井板は酷く薄暗い。山の様で、波の様で、誰かの顔の様で、或いはもっと抽象的な正体不明のものにも見える木目の模様を視線だけでゆるゆるとなぞっているうち、眠気とは少し赴の異なる、だが意識をどこか不明瞭なところに引き込む闇を土方はふと感じた。 (……これは) 吐き出そうとした溜息が、中途半端に熱い吐息を残して熄む。 どうやら、本当に熱でも出て来たらしい。 鮮明な癖に不定形な意識が、ぐらぐらと残照の形作る紅い部屋の中を一人歩きしていく。 蝉の大合唱。風鈴の控えめな音。影と光が刻む前衛的な芸術。壊れた絡繰人形の様にぐたりと動かない身体。その様を客観的に俯瞰して溜息をつくほかない己の意識。 途切れる前に土方が思ったのは、一日の終わりの見廻りぐらいは行きたかった、と言ういつも通りの実用的なものだった。 * 真選組屯所は平時そんなに人員が満杯に詰めている訳ではない。分担で見廻りに出ている隊や任務に就いている隊を除いた、屯所内の居残りになる隊の者は各々、装備の整備をしたり稽古をつけたり慣れない書類仕事に奮闘したり雑務をこなしたり自由時間を満喫したりしている。 夏や冬と言った気候面での変化の激しい時は特に、そんな居残り組の隊士たちは温度調整の効く一部の場所に己の仕事をしがてら集いがちになる。 土方の主に執務に使っている副長室は、普通のオフィスで言えば業務区画に当たる。一応『詰め所』と言った体を成す部屋の数々には主にデスクワークの用途が与えられるのだが、日頃からここにかっちりと詰めて書類に向き合っているのなど土方当人ぐらいのものだ。 屯所の大部分を占める、役割の定められていない──所謂『使われていない』部屋は、区画外に出ない限りはその何処に卓や筆記用具、ノートPC等を持ち込んで仕事をしても良い事になっている。 と、なると、成る可く風通しの良い部屋、或いはエアコンのある大部屋に人は自然と集中して仕舞う。 そうでなくとも『鬼』の副長の近くで仕事をしたいと言う酔狂な者がそう居る訳もないのだ。夏ならば暑さ、冬ならば寒さと言う環境に追われて副長室の周囲は人が寄りつかない静謐の空間になる。 書類関係の集まる先である副長の居所が定まっていないのは効率が悪いからと、土方は他の隊士らと異なり、見廻りシフト以外の業務時間中はこの区画から──主に自室から──動かない事が殆どだ。自然とほぼ単独で黙々と書類の山を片付けて行く形になる。 それをして、寺子屋の居残り勉強の様だと評したのは沖田だ。寺子屋など殆どサボって近藤の道場に出入りしていた奴が解った風によく言うものだと、指摘された土方は腹が立つより何より先にそう思ったものだった。 部屋に面した庭には不用心にも他の建物の類はない。外壁に近い、広大な屯所内では副長室は比較的端の方の立地なのだ。 その為必然的に人も余り通らず、聞こえるのは蝉や風鈴の音くらいしかない。どこかよそよそしく、何かを拒むのにも似た、『人』の気配の無さに特有の石の様な静けさがそこにはある。 「別に何処で仕事しようが、ちゃんとやってる限りは構わねぇよ」 この辺りは結構静かですが、不便はないんですか?と訊かれた時に土方はそう答えた。確か部屋割りが決まった頃に山崎の口にした問いだ。あの時も確か盛夏だった。書類一枚を片付けるのにも勝手や効率がよく解らずに、屑籠をはみ出して書き損じのゴミが畳の上に乱雑に転がっていたのを憶えている。 きりん、と、風鈴が澄んだ音を立てて、温い風を送り込んで来る。そう言えばそんな会話以来、山崎は毎年この季節になると部屋の軒先に風鈴を吊して行く様になった。風鈴市にでも足を運んでわざわざ買ってくるのか、毎年音も形も柄も違う。 ひとりきりの部屋で淡々と職務に勤める土方の姿が、あの男には寂しくでも見えたのかもしれない。 * 目を瞑っても蝉の声はもう大きくはならない。慣れすぎて気にならなくなって仕舞ったのだろうか。それにしては眠れないと言うのは実に理不尽な話だ。 あれだけ脳と耳とを煩わせていた油たっぷりの鍋は気付けば何処にも無く、ただ脳髄の奥に一定のリズムで残響だけが落ちては拡がっていっている。それが静寂なのか、それとも本当は騒音なのか。最早判然ともしない。 硝子のぶつかるかちかちと言う音が、時折天上の楽にも似た涼やかな音を響かせてくるのだけが耳の奥底まで浸して心地がよい。じっとりとした暑さを悪戯に攪拌するだけの風が清涼な音を伴う、ただそれだけの事なのに。 生物が発汗するのは体温を冷やす為だと言うが、既に水分の絞り尽くされた身体からは放散に苦しむ熱しか出て来ない。外気温と合わせて混じって仕舞えば、自分が熱いのか世界が暑いのかすらもうよく解らなくなってくる。 (水……いや、薬?それとも着替えが先か) 水分を摂った方が良いと言うのは理屈と言うより本能で解っている。どうせ水を飲むなら解熱の薬にも一緒に世話になった方が良いのだろうか。とは言え土方は生まれてこの方真っ当な医薬品の類など鎮痛剤程度しか口にした事は無かったのだが。 (後で山崎に言やァ、なんか適当な漢方薬的なもんでも持って来るかもな。ってアイツは今任務中じゃねーか。総悟…に言うと逆に寿命縮めそうなもん持って来そうだし、近藤さんに言うと心配を掛けさせるだろうし、自分でお匙の所に出向きかねねぇし…) つらつらとそこまで考えて土方の至った結論は、『寝ていれば治るだろう』だった。 仕事の立て込んでいる時期であれば多少の無理をしても堪えていた。病は気から、だ。 こんな風にだらだらと横になっているだけでも益々に具合が悪化していく様な気分になるものだ。だから早く起き上がって、何でも無い様に見廻りにでも出て行けば良い。どうせこればかりは業務のシフトではなく半ば趣味の様なものなのだから、いつもより遅い時間だとして誰に迷惑を掛けるでもない。 ……だ、と言うのに。己を奮い立たせる様に繰り返してみても、土方の身体は畳と一体化して仕舞った様にぴくりとも動こうとはしてくれなかった。自分の身ながらなんたる様だろう。思うが最早溜息さえも出ては来なかった。 (……寝てりゃ治る、だから今も寝てんだろ) 仕方なしにそこに結論を置いて、土方は枕代わりの座布団を頭の下に抱えて寝返りを打った。一番楽な態勢を取ろうと思って無意識に横向きに丸まって仕舞うのは、人間が母親の胎に居た時からの本能なのかも知れない。 育ちが育ちだ。自分の身が頑丈な事ぐらい知っているし、まだそれなり齢も若いのだ。自己治癒力に任せているだけでも何とかなるだろう。 (暑いし、煩いし、眠れもしねぇ…) そう思ったのは果たしていつの事だったか。今の事だったのかも知れない。 * 強い甘い匂いがした。熱せられた果糖の、甘すぎるにおい。 土方は常食したい程甘味の類が好きではないが、自分の割と近くには、定期的に糖分を摂らないと死ぬと言って憚らない変な男が一人、居る。 嗅いだ事は確かにある、熟して強い果糖の匂い。咄嗟には何だったか思い出せない。あの男だったら、この強い匂いを嗅いだだけでその正体を直ぐさま看破するだろうか。それこそ麻薬を嗅ぎ分ける警察犬の様に。 漏れ出た笑みのその侭に思わず喉を鳴らすと、畳の上をざりりと踏む裸足の足音がした。瞼の向こうが少し暗くなる。誰か立っているのだろうか。 襲撃者?いや、こんな時刻の。こんな暑い盛りの。真選組の屯所の。鬼の副長が常に目をぎらぎらとさせて書類と格闘している部屋になど、どんな死にたがりの攘夷浪士だって飛び込んでなど来るまい。 眠っていないから意識は酷く鮮明だ。ぺたり、と、暫くその場に立ち尽くして、貼り付いた足の裏が畳から剥がれる音。 ふわりと空気の揺れる気配がして、続け様ひいやりとした感触が頬をなぞって行くとそれは額に到達したところで止まる。濡れた手拭いか何かだろうか。 (……ん?) たちまちに熱に揺らいでいた意識を覚醒させて、土方はぎょっとなった。人の寄りつかぬ副長室に来て、ご丁寧にも濡れ手拭いなぞを額に置いてくれている、これは一体誰だ。 近藤は夕前に松平に呼ばれて出て行った。土方はそのスケジュールを把握していないし、私服で行ったから恐らく任務の類ではなく個人的な付き合いだろう。と、なると夜になって散々酔っぱらうまで帰って来る筈がない。 沖田は通常の職務中だ。午前中は道場で年嵩の隊士らを虐めていた様だが、午後は見廻りに出ている。と、なると夕飯の時間までサボったりふらふらとして帰って来る筈がない。 山崎は任務中だ。帰ってくる筈がない、と言うより、任務を放棄して帰って来ていたら叩き斬ってやる所だ。 (鉄、はこの時間なら道場だろ。原田……はこんな繊細な事が出来る質じゃねぇし…、) 幾つか思い当たる名前を脳内で列挙してみるが、何れでも可能性は低そうだ。況して一般の隊士がわざわざ好んで鬼の住処に近付く筈もない。 いや、それ以前に。『鬼の副長』が熱を出して部屋で転がっていました、などと言う情けない姿など隊の誰にも晒す訳には行かないものだ。 絶望的な気分で覚悟に似たものを固めながら、土方は恐る恐る瞼を持ち上げてみた。まだ橙色の残照の影濃い室内には、鮮やかに照り返す朱銀の耿りが。 「……………何してんだ?」 「開口一番そう来るか」 問いに、はぁ、と降ってくる溜息の音。好き放題の角度に跳ね回っている銀髪が視界の端で揺れた。 「そりゃ訊くだろ不法侵入者。で、何してた」 探るまでもなく、先程一度は掴んだ刀はまだ身体の脇に置いてあった。柄に触れた右手で苛々と鍔を叩けば、無粋な音にか銀時は二度目の露骨な溜息をついた。今度はわざわざ「はぁ」と音声にして。 「ったく、お前とか神楽みてーに自分事にマイペースな奴ってのァ、本当看病のし甲斐ねぇな」 こぼす言葉には、投げ遣りな調子はあれども本気で呆れた色はない。 「看病?」 だが、そのさらりと紡いだ内容には聞き捨てならない単語が混じっていた。聞き咎めた土方がそれを取り出すと、「そ」と頷きが一つ返り、ほんの少しの間に温まった手拭いが額から退かされる。 「何でだ」 「何で、も何も。おめーな、ちょっと覗いてみりゃ部屋ん中で隊服着た侭ばったり倒れてるしこの暑さだってのに汗ひとつかいてねーし周り誰もいねーし、取り敢えず触ってみりゃ熱あってスゲー熱いしで。流石に銀さんも吃驚だよ、何の我慢大会だよコレ。ま、吃驚した以上に呆れたんだけどな」 半袖姿の両肩を態とらしく竦めたところに、真剣な表情ひとつを乗せてそんな事を宣うものだから。土方は思わず、拗ねた子供の様に唇を尖らせている銀時の方へと手を伸ばしていた。 僅かの距離だと言うのに、まるで深い水の底で藻掻いている様だ。己の腕だと言うのに矢鱈と重たい。空気抵抗とは暑さでこんなにも変動するものだろうか。そんな事を考えていたら、不意に腕から力が抜けて、あと少しへ辿り着けずにばたりと畳に腕が落下した。 「……疲れた。つーか怠ィ」 「おいィィ!なんでそこで諦めんの!」 あとちょっとだったじゃん、とぶちぶち言いながら、畳に落ちた土方の腕を銀時は丁寧に拾い上げた。脱力しきった腕を無理のない様に戻しながら、きゅ、と子供の様に掌を合わせて握りしめて来る。 しっとりとした体温の掌。真夏だから暑苦しいことこの上ない筈だと言うのに、触れた手と手の間には温かくて柔らかいなにかが挟まれている様でなんだか心地がよい。 自分の身体は熱くて、銀時のてのひらは温かい。違う温度だ。──安堵する。 襟元にスカーフはなく、ボタンが二つばかり開けられて、ベストの前も開かれている。と、思ったらベルトまで外されていた。まあ確かに隊服の侭ではゆるりと休める気はしない。本当は着替えさせたかったのかも知れないが、意識の遠くなっている土方に気を遣ってくれたのだろうか。 ふと見れば胸の辺りから、男のいつも羽織っている白い着流しが足先までを覆う様に掛けられていた。枕元には、どこから探し出して来たのか、水の張られた手桶。 「…………悪ィ。世話、かけたみてェだな」 それらの要素が先頃耳を疑った『看病』の二文字に漸く正しく結びつき、土方は繋がれた指先に少しだけ力を込めた。手と手の間の何かが潰れて仕舞わない様にやんわりと。 これが消えたら、きっと融けて仕舞う。 ここから、境目が解らなくなるほどに、熱に浸されて、融けて仕舞う。 「……別にィ?」 ふっと笑う気配がして、絡んだ人差し指がとんとんと土方の手の甲を叩いた。子供をあやす様なリズムに、こちらも釣られて笑う。 「つーかよ、何でこの辺誰もいねぇ訳?いつもなら誰かしらうろうろしてたり、ゴリラだのドS王子だのが居るだろ?留守番?はじめてのおるすばん的なイベントか何か?」 「違ェよ」 少し苛ついた面持ちで辺りを見回す素振りをしてみせる銀時の手を、軽く引っ張って止める。 大方、お前が過労で熱出して倒れてんのに他の連中は遊んだりストーカーに勤しんでたりするのか、とでも怒りたいのだろうが、それは誤解だ。 「近藤さんは上司の接待的な何か。山崎は任務中。総悟は……寧ろこんな状態の時に見つかりでもしたら地獄行きのフリーパスが発行されちまわァ」 「他の連中は?部下とか一杯居んだろ」 「定休のアテにならねェ警察稼業の、しかも日中だぞ。大半は出払ってる。残りは、暑いからな、殆どがクーラーのある大部屋に避難中だ。……つー訳だからテメェが怒んな」 苦笑から始まった言葉の最後には、笑みは笑みで無くなっていた。銀時はそんな土方の様子を間近で具に見下ろしていたが、やがて諦めた様に手以外の力をすとんと抜く。 「怒ってねぇよ?お前も、お前の仲間にも」 銀時のそう口にする通り、声にも態度にも怒りや苛立ちの類はもう見えない。だが、曲がったカーブの先に何が潜んでいるかは解らない、そんな少し不安定なものをどこか感じさせる。 ひょっとしたら、ひねくれてはいるが性根は優しいこの男の事だ、自分自身にでも怒っているのかも知れない。 もっと早く来ていたら、とか。もしも来ていなかった今頃、とか。それが相手の生死を分ける重要な岐路で無くとも。 「………別に、来てくれ、とか言った訳じゃねぇんだしな。結果論だが、テメェが来てくれて今俺は…まあそれなり助かってんだ」 「それなり」 鸚鵡返しにする銀時に、ああ、と頷いて返す。 「どうせ、放ったらかしといた所で死にやしねェよ。そんな柔に出来ても無ぇ。俺を誰だと思ってやがんだ」 俯いてこちらを見下ろしている銀時へと、視線は合わせず怠さに任せて言うと、土方は全身からゆるりと力を抜こうとした。と、指にぐっと力を込められ引き戻される。 「ちょい待てや。寝る前にコレ、」 座って片手を繋いだ侭、銀時は器用に半身を振り返らせて、そこに置いてあったペットボトルを手に取った。青いラベルには憶えがある。スポーツドリンクの類だ。 「飲めるか?」 これもやはりどこから持って来たのやら。薄く汗をかいたボトルをぺたりと頬に押しつけられる。飲みたいか飲みたくないか、ではなく、一人で飲めるか、と言う意味だろう。頷けば、背中に手を差し入れられて腕を引かれ起こされる。 上体が起き上がった所で、手指が少し名残惜しげに離れて行った。代わりに、冷たいペットボトルを押しつけられる。温まったてのひらの内が、じわりと温度を失って。ぬるい。 「水分足りてねぇと、寝たのが永遠の眠りになっちまうかも知んねェから。まずちゃんとソレ飲め」 「ああ」 「にしてもお前一体どんだけ水分摂ってねぇんだよ、こんだけ暑いのに茹だった顔して汗ひとつ掻いてねェとかソレもう熱中症だからね?」 尚も続く呆れの色濃い言葉を聞き流して、少し苦労しながら力の入り辛い手でなんとかキャップを捻り開けると、たちまちに漂い出す少し甘い水の匂いにそっと唇を付けた。ごく、と一口喉に流し込んだだけで胃が痙攣する様な感触がして、思わずペットボトルを傾けていた手を戻して仕舞う土方に、呆れた声で、銀時。 「一気に飲もうとすっから胃が驚くんだよ。まだ冷てぇんだからなソレ。口ん中で温まらせてから飲め。──そうそうゆっくりな」 反論する気力も無かったので、言われた傍から従って、今度は慎重に喉を鳴らした。温くなった甘い水は余り美味しいと言えるものでは無かったが、喉を通っただけで身体の中にじわりと染み渡る心地がした。 乾いた砂に水を流し込む様に。じわじわと浸みて、ゆっくりと溜まる。 何度か同じ動作を繰り返してペットボトルの中身が半分以下になった頃、漸く潤った身体が、もういい、と訴えて来たので、元通り蓋をしてその辺りに適当に置く。 「落ち着いたか?」 無言で頷きを返す。ようやっと人心地がつくのと同時。項の辺りがじわりと熱くなるのを感じたのを皮切りに、節々や喉や頭が痛くなり、全身が先程よりも余程怠くなった事に気付かされる。 「暑ィ」 と言うより『熱い』。 座った侭、立てた両膝にぐたりと横頬を乗せて呻けば、銀時はくつくつと喉を鳴らして笑い、ぽん、と軽く背中を叩いてくる。 「こりゃァ、鬼の霍乱だな。言葉通りの」 「…………るせぇ」 返す言葉にも力がない。喧しい蝉に汗ばむ程の暑さにまだ沈む気配の無い陽。 「ついでだし、布団敷くからよ。ちゃんと着替えて休めや」 言って、銀時がついと離れると、途端に周囲の風景を土方は思い出した。蝉の大合唱は先程よりは控えめだがやはり盛況で、ぐらぐらと揺れる頭に反響して煩い。 そこに、水を差す様な涼やかな音。風が吹いたのだろう。硝子のぶつかる音と、強過ぎる甘い匂い。 誘われて頭を巡らせてみれば、縁側に見覚えのないものがあるのに気付く。新聞紙が敷かれたその上に、スーパーの白いビニール袋から半分無惨な姿を覗かせている、薄赤と濃緑のコントラスト。 「……スイカ割り大会でもあったのか?」 端的に得た事実をぼそりと述べれば、押し入れを開けた途端漂う凝った空気へと「うお暑!」とか叫んでいた銀時が振り返った。両手に抱え持った敷き布団を部屋の中に拡げながら、少しばつが悪そうに、 「ああ、それな。ちょっと仕事?的なもんで沢山手に入ったから土産の心算だったんだけどな、お前が倒れてんの見た時驚いて落としちまって」 続けて夏用の薄い掛け布団を引っ張り出して、敷き布団の足下に畳んで置いて言う。 半分、どころか大分歪にバラバラに。砕けた頭蓋(と言う喩えは些か無粋で物騒だが)の様な有り様を袋の隙間から晒しているスイカは、サッカーボール程の大きさがあった。その侭井戸で冷やして割れば皆さぞ喜んだだろうに。 意図も知れず土方の落とした溜息へと、被せる様に銀時が辺りをきょろりと見回す。 「着替えどこにあるんだ?」 「隣の続き間の、長押に掛けてある」 「どれどれ……っとこれだな」 襖を開いて隣へ入った銀時は直ぐに衣紋掛けから藍色の浴衣を取って来ると、それも布団の上に適当に拡げ置いた。 そうする内にも、砕けた断面を暑い大気中に惜しげも無く晒して、スイカは熟しきった強い甘い匂いを辺りに漂わせ続けていた。その腐敗に近い臭気に誘われたのか、縁側を小蠅が旋回しているのが見える。 「ってもう蟻たかって来てんじゃねぇか。あー勿体無ぇなあ」 そうは言いつつも棄てる気は無い様だ。踵を返して縁側に膝をついた銀時は、蟻を指で払う様な仕草をしつつ、割れた破片の一つを掴み上げた。熟しすぎて、触れるそばから柔らかく崩れて行く果肉をしゃくりと啜る様に口にして「温ィなァ」とこぼす。 ふわりと、気紛れな風が風鈴を鳴らしながら、土方の鼻腔をひといきに甘い臭気で満たす。 強い腐敗臭に、酩酊したのか。しゃくりとスイカを食む銀時の唇に、歯列に、舌に、果実の、血にも似た紅さに、土方の脳髄はぐらりと揺れた。 「おい」 「ん?」 「土産ったろ。俺にも少し寄越せ」 縁側にしゃがみ込んでスイカ(の残骸)を物色していた銀時へと力の入らない手をなんとか伸ばしてみれば、少し驚いた様な顔をされた。何が驚く所だったと言うのだろうか。心外な。 「や。でも温いスイカほど微妙なもん無ぇし……第一コレ落としちまった奴だし。こんだけ熟れて甘いとお前の好みにゃちょっとどうかと思うし?勿論マヨ掛けんのは論外な」 「なんでマヨだけ全力で否定すんだよ。良いから寄越せ」 銀時はどうしたもんかと言いたげに眉を寄せていたが、寄越せ、と言う要求、それが一応この『土産』に対する土方の遠回しな礼の様なものであるとは気付いたらしい。ほんと可愛気ねぇよなあと小声でこぼしながらも、スイカの破片たちの中から比較的に形の残ったきれいなものを選んで、妙に恭しい仕草で持ってくる。 「どうぞ?お姫ィ様」 「誰がひー様だ。……手ェ汚れんだろ」 傲然と笑って言って、「ん」と半分開いた口を差し出せば、銀時の顔から面白い程すとんと表情が消えた。 然しそれも一瞬のことで、直ぐさま銀時はにやりと笑い、首を軽く傾げた。 「俺の手なら汚れても良いとか酷くね?」 「スイカ取って来た時点でもう汚れてんだろーが」 「……布巾、そこにあんだけど?」 言って水桶の縁に掛かった手拭いを指される。それでも良いのか?と言う誘いと笑いとの乗った声音に、土方も喉を鳴らして笑いながら、もう一度、今度は擡げた頭ごとはっきりとそちらへ差し出してやった。 どうぞ、とばかりに唇に押し当てられる紅い果肉を啜る様に囓れば、忽ちに舌の上で崩れた。確かに熟し過ぎだ。強く立ち上る甘い匂いにくらくらしながら目をそっと細めて、常温になってより甘さが下品な程に感じられる果糖を喉の奥へと流し込む。 「甘ェ」 「だから言ったろ」 文句に返る苦笑。それでも土方は、食べ易い様に角度を変えながら差し出されている、甘くて温かいスイカを黙々と舌で味わった。 つ、と唇の端を濡らしながら顎へと辿った果汁は、畳に垂れ落ちる前にそっと銀時の指先に掬い取られて、今度はスイカの果肉の代わりに、甘くなった指が唇をなぞって来た。応えて指先を甘噛みして、甘くなった指に控えめに舌を這わせて吸い付く。 口に拡がる甘さ、縁側で熱せられて揺蕩う甘さよりも、余程濃密に煮詰まった西瓜糖の様な空気がじわじわと拡がって行くのに、背筋が違う熱で熱くなった。 また風が吹いて、簾が揺れた。黒々とした影と橙色した残照とがきらきらと入り乱れる。煩雑に過ぎる図柄たちの正体は熱にぐらぐらとした頭ではよく掴めそうもない。 銀時の指を噛んだり吸ったり舐めたりするのにひととき専心してると、喉奥の笑いが降って来た。 「どこで憶えたの、こんなヤらしいやり方」 からかう様な言葉の裡には熱い気配が潜んでいて、土方は少し安心した。どうやら自分がこの熱と甘さにイカレて仕舞った訳ではない様だ。 「テメェだろ」 少し憮然と答える。この頭の腐りきった銀髪天然パーマ以外に、誰が好きこのんでこんな『鬼』の男に性的な悪戯など仕掛けて来ると言うのか。この頭の湧ききった銀髪天然パーマ以外に、誰が好きこのんでこんな浅ましく媚びるのにも似た真似を仕掛けてやると言うのか。 「そ。俺な。俺だけ、な」 忍び笑う気配には確信の色。ふんと鼻を鳴らす土方の眼前に、今度は紅い果肉を手で皮からさくりとすくった男の手が差し出される。 「スイカ食いたかったんだろ?早く食わねェと駄目になっちまわァ」 先程握り合わせていたてのひらにも、指先にも、砕けたスイカの紅い果肉と果汁とが満遍なく散りばめられている。甘くて、べたついて、血肉の様な原始的な艶が、──誘う。 まるで犬だなと思いながら、土方は銀時の差し出した掌に大人しく舌を這わせてしゃぶりついた。手から餌を貰う動物の様に、一心不乱に甘過ぎる果汁と果肉とを鼻先で、口唇で探る。 「……なァ。なんかさ、ものすごーく、嗜虐心湧いちゃうんですけどこの光景」 項の上から降って来る、溜息としか言い様のない声には、がり、と歯の間で指を擦り潰してやる事で応えてやる。どうせ碌な事を考えていないに違いないのだ。 いてて、と呻きながらも笑い声を上げて、銀時は手に持った侭だったスイカの残骸を近くにあった屑籠へとぽいと放った。重たい皮に、書類の書き損じたちがぐしゃりと潰される乾いた音。 「お前病人なんだしさぁ、本当は俺も手なんて出したく…いや出してぇんだけど、出せないつーかやっぱ出したくねェっつーか。まあ色々葛藤はあるんですけどね?」 出さざるを得ねぇだろこんなんされると。 最後は早口にそう言うと、銀時は果汁と土方の唾液とに濡れた手でそっと頤を辿って、いとおしくて堪らないのだと言う表情をしながら口を合わせて来た。 「ま、病人に無体はそう強いねぇから」 「心配すんな。伝染してやらァ」 口接けの合間に睦言みたいに囁き交わして、額をこつりと合わせて笑う。 重たい腕を苦労して持ち上げて、銀時の首の後ろへと絡ませてみれば、そこは土方と同じ様に熱を持って熱い。腕の皮膚に触れる耳の後ろでは血流の音。 互いに熱を持って融けて仕舞えば良いのに。てのひらを合わせるだけでは混じらなかった、深い交合の様にして。 ぶら下がる様に体重をかける迄もなく、銀時の方が土方の背に手を回して、そっと肩を押して来た。ゆるりと重なり合って倒れた先には、お誂え向きに敷き立ての布団。 熱があって、気温は高くて、蝉は煩くて、風は多くなくて、甘くて、貼り付いて、乾いて。 その上、『鬼』の住処の周りに近付くこうとする物好きもいない。 それを良いことに、常では自分で顔を顰めただろう程に、あからさまに男の情欲を煽って、誘いに応じる侭に熱い身体を投げ出した。 外もまだ明るいと言うのに、明け透けに全てを晒して、当たり前の様に男の与えてくれるものを受け入れる。 熱い。ひたすらに、熱い。 飲んだ水分が全て果糖と共に放散して行く様な、熱量に堪らなくなって喘ぐ。腫れた喉がかさついて酷く痛んだ。水分が欲しくなって、身体を弄り回している銀時の頭を掴んで口接けを必死に強請れば、直ぐに察して応えが返る。 寸前にスイカを食べたりしていた所為なのか──恒常的に甘味の摂りすぎと言う事はあるまい──銀時の唇も舌も唾液も酷く甘く、土方は胸焼けを起こしそうになりながら喉を必死で鳴らした。 否。自分だってきっと甘い筈だ。果糖を摂取した咥内から、熱くて、熟されて、内臓の隅々まできっと甘い。砕けたスイカの様に腑をぶち撒けて死んでも、今なら立ち上る血の臭気はきっと甘いだろう。 物騒で不穏な想像に密かに笑えば、「熱で朦朧としてる事にしてやるから」と囁かれた。 うん?と問い返せば、 「存分に狂って良いって事」 などと、臆面もなく言われて、笑って誤魔化した頭が益々熱くなった。 ああ、蝉がまだ、煩い。 上げた声も淫らな音も、何一つ聞こえない程に。──混じって、煩い。 * あれだけ眠れそうもなかったのに、意識がひとたび飛べばあっさりと眠りに落とされていた。 縁側にはもう残照の色は残っていない。暮れなずむのを疾うに通り越して、空の頂点から徐々に深い藍色に呑まれて行く空を、土方は布団に横たわった侭ぼんやりと見つめた。 記憶の断絶はそう長い時間ではない。時間の経過もそう長い空隙を生んだ訳でもない。ただ、運動をして汗を掻いた所為なのか、熱由来の症状以上に身体が酷く怠くて重たかった。 縁側に置き去りにされたスイカの残骸が、最早熟すのを通り過ぎて腐臭に近い甘さを放っている。小蠅が飛んでいるのは余り衛生的には宜しくないと思って土方は顔を顰めるが、この調子だと蟻も長い行列を作っているに違いない。畳から布団に至るまでの間に果汁や果肉が落ちていなければ良いのだが、と、どこか投げ遣りに思って、再び額に乗せられていた濡れ手拭いにそっと手をやってみる。 温度は大分温い。水分も飛んで少し固い。怠い節々を叱咤して横倒しに転がってみれば、ぱさりと萎びた様な手拭いが布団の上に落ちた。拾い上げて、水桶へと落とす。 酷使して汗に濡れていた筈の身体は、ちゃんと拭っていってくれたのだろうか、さっぱりとしているし、用意してあった藍色の浴衣にも着替えさせられている。帯も緩く寝苦しい事はない。障子は半分だけ閉じられており、夜風が直接臥す土方の身体に障らない様にされている。 そこにはもう、先頃までの熱に満たされて爛れた、あの情景は認められそうもない。室内はいつもの副長室の様相で、書類の山も片付けた後から増えた様子もない。 「……ァ、」 声を何か出そうとしたら、喉が本気で痛かった。辟易しながらも皮膚の上から喉仏の辺りをさすって、苦労して乾いた息を吐き出してみる。 (野郎はもう、家に着いただろうか) 何気のない裡の疑問が、今は熄んで久しい蝉の声以上に、脳の中に不快感の漣を立てて拡がって行った事に直ぐさま気付き、土方は少なからず狼狽する。 アフターケアも片付けも、それ以上の事もしっかりとやっていってくれた。スイカの残骸を置いて行かれたのだけは──最早生ゴミ同然だけに──正直迷惑だと思ったが、今はこの腐爛した甘い匂いだけが先程までの現実を実感出来る証だった。 そこでぱちりと瞬きをして、土方は口の端を皮肉気に持ち上げた。 あの男の残したものに縋って、この誰もいない静かな世界の寂しさに堪えようなどと。 どれだけ頭が熱せられて脳が溶け出せば、そんな怯懦な考えに至れるのだろうか。この『鬼』が。 (それこそ、鬼の霍乱って奴かね) 熱の所為だ。屯所の静けさの所為だ。甘い匂いひとつ引き連れてやって来た男の所為だ。 らしくもない事に人肌を、その欠落を埋める様に夢中の体で欲した。浅ましく手を伸ばして、重ねられた指に安堵して、揺さぶられる肚の中に、自分ではないものの熱が吐き出されるのを求めて、みっともなく泣いて啼きながら縋り付いた。 快楽よりも、充足よりも、寂しさをただ埋めたくて。融けてしまいたくなる様な、その正体も解らない内に手を伸ばした。 (……みっともねぇ事だ) 身体的な、と言うよりは、精神的な無様さに居た堪れない。自嘲に呻く土方に、きりん、と風鈴が頷く様に音を鳴らして行く。 蝉が鳴いていないから、音は酷くよく響いた。音が響くだけ、静かである事をこれ以上は無い程に雄弁に示しながら。 溜息をついて息を吸えば、鼻をつく甘い腐爛の香り。水が欲しい、と反射的に思って布団の周囲を見回すが、スポーツドリンクのペットボトルは持ち去られたらしく見当たらない。 水桶の水は流石に口にする気になれないので、土方はぎしぎしと、油の切れた絡繰の様に軋んで怠い上体を起こして、笑いそうになる膝を叱咤しながら立ち上がった。 縁側に向かって歩けば、伸びる自分の影が長くて薄い。低い空にはもう月が出ている。 寸時スイカの残骸を見下ろすが、流石にその選択肢は論外だ。これを食して腹を下したりしたら笑えない。いや寧ろ笑える。 手洗い場で良いか、と思いながら顔を起こしたら、途端にぐらりと眩暈がした。頭にズキリと鈍痛が走ってその場で呻く。全く以てこれ以上はない程の霍乱。 (鬼だって偶には具合ぐらい悪くなんだろ、文句あんのか畜生) 土方がそんな、誰宛とも知れぬ悪態をついたその時、思い切り柱に肩をぶつけた。蹌踉めいたその侭数歩下がって、べたりと畳に座り込んで仕舞う。 (情け、) 「……何してんだお前」 背後から突然思いもよらぬ声が、奇しくも土方が最初に放ったものと似た言葉を紡いで寄越すのに。 「……………まだ、居たのか」 心臓が跳ね上がる程に驚いて仕舞った内心を隠して、土方は出来るだけ平坦に、掠れた声でそんな言葉を投げつける。 これが、熱で魘された己の見ているの幻ではないとは、まだ言い切れない。のだ。 「そりゃ居んだろ。看病してんだし」 当たり前の事の様にそう投げて来る男を、「看病」と声にならぬ声で呻いて振り仰げば、その場にしゃがみ込んで来る銀時の姿が在る。 「オラ、布団戻んぞ。寝てなきゃ治るもんも治らねェし」 これもまたやっぱり当然の様に、手を繋がれ軽く促す様に引っ張られた。 手と、手の間に在った温度。一度はくしゃりと握り潰されて融けて消えたそれが、今はまたふわふわとそこに揺蕩っている。 まあ幻でももう良いかな、と思いながら──後でこれもまた猛烈に自己嫌悪したが──、土方は大人しく促される侭に布団の中へと戻された。 「あーあ。すっかり傷んじまったなぁ」 手拭いを濡らして乗せ直してから、再び縁側に膝をついて。元・スイカの入っているビニール袋を覗き込んた銀時は露骨に肩を落として見せた。 まあそれよりもっと甘いもん喰えたから良いけどな、と余計に付け足す一言が鬱陶しくて、土方は取り敢えず手に触れた箱ティッシュを掴むと、夜の群青色を映すその銀色の後頭部に向かって投げつけた。 ぱこん、と紙箱の中で響く安っぽい音。「……ドメスティックバイオレンス反対」などと、直撃を食らった後頭部をさすって吐息を一つ中庭に向けて落とすと、銀時は土方の伏している枕元へと戻って来た。 文句を言っていた割には何処か楽しそうな表情をしているのが気になって、何だと土方が問いかけてみれば、 「真選組の屯所に居るってのに、こんな風にお前の事独占出来るのって、何か新鮮だろ?」 などと、よく解らない事へと軽薄そうな笑いを添えて言われた。 「誰も好んでは寄りつかないってだけで、無人な訳じゃねぇんだぞ」 「それは解ぁってるけど」 不埒な行為や言動は一応もう控えろよ、と渋面になった土方が暗に釘を刺せば、銀時は一度曖昧に頷いて、それから。 「お前にとっても。今は周りに気負わなきゃなんねぇ連中もいねェ訳だ」 差し出されたなぞなぞの様な男の言い種に、土方はことりと首を傾げる。 「お前も、甘えたい放題」 布団端で無意味に両腕を拡げて、カムヒア、的なポーズを取ってみせる銀時の事を見上げながら、寸時瞬いた土方はやがてうんざりした様に疲れた息を吐いた。満更でもなく。 「甘えて欲しいのか、テメェは」 「ま、偶には良いんじゃねぇの?そう言うのも」 と言う訳で思う存分甘えやがれ。そんな事をにやにやと言うのに、 「治ったらな。……眠ィ」 「え」 銀時がぎょっと顔を起こすのが見えたし、狼狽や驚きの感情は一音に充分過ぎる程に乗っていたけれど。取り敢えず目に映る世界をシャットアウトすべく、土方は瞼をぱたりと閉ざした。 後はもう、どうでも良い。目を醒ましたら考えよう。 静かで。暑くて。てのひらの裡が熱くて。 ……そして、益々に強くなる、甘い匂い。腐爛して融けた残滓の様な。 なんだ、眠れそうじゃないか。 思って、土方は息を吐き出しがてら身体から力を抜いた。 夢も見ない様な、ひとり、とろけるばかりの眠りの訪いは、早かった。 本当に熱が出てる時に書きましt。一度も煙草を吸わせない禁煙デーなのもその所為。 熱の間に間に漂う意識。 |