パブロフ てっきり、もう戻らないのではないかと思っていた。 だってそうだろう。投じた刃の如く飛んで行っては『敵』の喉笛を噛み千切って死ぬまで、吠えて戦うのが猟犬の仕事だ。 それとも、猟犬ではなく野生の犬でもなく、飼われる身だけに首輪の重さに苦しむ、自由を知る憐れな飼い狗だったのだろうか。 真っ黒なドーベルマンめいた狗は、今はぽつねんと項垂れて佇んでいる。都会の喧噪から置き去りにされた夜の街路で。ひとつの大きな建物の門扉の前で。 あるじを失った狗の首から下がった鎖は、その建物の中へと伸びている。そこに在ったものたちの中へと、伸ばされている。 町はずれの寺での話し合いの後、真っ先に応報を求める声から身を退いた狗は、重たい首輪をぶら下げた侭の重たい足取りで、真っ直ぐにここを目指してきた。 寺に残された栗色の子犬の方も気に掛かりはしたが、それでも黒い狗の後を銀時が思わず尾行して来たのは、もうこの狗が戻らないのではないかと言う予感がしたからだ。 以前にも偽悪めいた事をやらかして単身死地に、自分の筋を通すと言うだけの理由で出向いた狗の事だ。今回もひとりで何処かへ消えて、そうしてもう『戻らない』様な気がしたのだ。 狗は、あるじであり友である男から銀時へと託された意志を、多分違えず曲げず受け取ってくれた。そうでなければ今頃あの野良犬の集団は全員仲良く粛正されていた事だろう。 あの狗が、解り易い言葉と意の体現を自ら、臆病者の誹りを受ける事も覚悟して示す途を選ばなければ、今頃は彼らを止めようとしていた銀時も骸になっていたかも知れないのだ。 だが。そこまで確信がありながらも、銀時の裡から厭な感覚は消えてくれそうもなかった。夜の闇を装束に足下の影に引き連れて歩く狗の姿は。大凡見慣れた通りの尊大ささえ纏っている様にも見えたのに。 そして、門の前に辿り着いた狗は、そこで漸く尾を垂れた。黄色い立ち入り禁止のテープをこれでもかと張り巡らされた『家』の有り様に、何かを一つ折って仕舞ったかの様に。 迷子の子供めいた挙動で門を、そこに掲げられた、何度も誇りにしただろう役職の刻まれた看板を見上げて、そっと項垂れて立ち尽くす。 最早あの野良犬の群れがここを活動拠点とする事もないと高を括っているのか、門にもその周辺にも、白い番犬たちの気配は無い。狗と、家とを遮るものは無粋なテープだけだ。狗の首から下がる鎖を留める事など到底出来そうもない、脆く破れそうな『立ち入り禁止』そんな『命令』だけしかない。 それでも狗は、そこから一歩たりとも前へ進もうとはしなかった。破って、切って、斬って、あるじの元へとひとりでも走って行きそうな、狗は。 『家』の前にひとりきりで立ち尽くして、吠えるも哭くも出来ずに居る。進むも戻るも出来ない侭。それこそ本当の迷子や捨て犬の様に。 斬る事が叶わなければ、追い腹でも斬りかねない。そんな予感を未だ棄て切れずにいた銀時は、珍しくも少し長い事悩んで、それからやがて、ゆっくりとした足取りで狗の背へと近付いて行った。決意があった訳でもない。タイミングがあった訳でもない。ただ、寂しげで苦しげな狗の背をじっと見ている事に堪えかねただけだ。 通りすがりました、と言う風情にはどうやったって成り得ない。何しろまだ松葉杖も手放せない身だ。 今、斬りかかられたら死ぬかな。そんな事を、前方の無機質な気配を纏った背中に向けて思う。刀を奪って一太刀で苦しませずに殺してやれれば良いのだけれど。 殺される、ではなく、死ぬ。そんな己の冷えて冴えた想像に肩を竦めて、銀時は足を止めた。狗の背までの距離は二米もない。 「……大層な志なんざ抱いちゃいなかった。仕える将軍(あるじ)なんて誰でも多分構わなかった。手前ェの大将と共に歩める途なら何でも良かったんだ」 不意に、ぽつりと狗が鼻を鳴らした。 「警察だなんだと散々偉そうな事抜かして来たが、俺は元々手前ェの居場所が在れば良かっただけだったんだ。 だが、居心地が良くなって行くのに怯えながら、それでも手前ェの歩いて来た途をふと振り返った時、その僥倖を思い知った時、それを繋いでやらなきゃならねェと初めて思った。俺みてェに居場所の無ェ馬鹿な悪ガキ共に、俺があの人に貰ったものを教え正してやりてェと思った」 いつになく弱々しく響く狗の鳴き声に、頷きも促しもせず、銀時はただその小刻みに微動する背中を見つめていた。 「色々なものに恩はあるが、あの人がいなけりゃ『俺』は居なかった。てめぇに言わせる所の『それぞれの士道』なんてものを抱ける『侍』の俺は、居なかった」 「でも」、そう小さく繋いだ声は、小さな、余りに小さな鳴き声だった。 「………………………俺は、あの人の志と、あの人の願いを護らなきゃならねェ。俺が、俺の我侭だけで、あの人の護りてェもんを繋がず途切れさせる訳には行かねェ、それが、」 ああ。ひょっとしたら、哭きたかったのかも知れない。 俺が来たから、泣く事しか出来ないのかも知れない。 嗚咽の様な音に掠れた声に、銀時は松葉杖を引き摺る様にして、一歩、また一歩、と狗へと距離を詰めた。 「それが……、あの人を、見殺しにする事で、あっても」 「土方」 思わず、咎める様な調子の声が出た事に顔を顰めながら、銀時は狗の固く握り締められた拳を見つめた。触れるも、労りをかけるも、今は無意味なのだとよく知っている。 「………それが正しくとも、間違っていようとも。手前ェの信念裏切った、真選組には至れねェ男の欺瞞であったとしても、俺は手前ェ自身の有り様を、選んだ途を、貫き通さなきゃならねェ。それが俺が、アイツらに繋いでやれる、示してやれる唯一の途である以上」 そこまで吐き出し終えると、狗はゆっくりと時間を掛けて銀時を振り返った。苦しそうな泣き顔をこれ以上見ていたくなくて、銀時は無言で片腕を伸ばすと、狗の黒い頭を胸に押しつける様に抱き寄せた。 だが、嗚咽がそれ以上強くなる事は無かった。静かな涙が銀時の着物を無用に濡らす事も無かった。 強がり。思ったが口には出さず、ただ無言でその黒い装束の背をとんと優しく叩いてやる。 立派な黒い毛並み。大層な志もなく江戸に来て刀を手に取り、そうして己の士道を頑ななまでに貫き通して来た、勁くて優しい狗。 「まさか、俺が追い腹でも斬ると思ったのか?」 「……斬るとは思わなかったけど、斬りてェのかなとは思ったよ」 ぽつりと吐き出された問いに、銀時が一応は正直にそう答えると、 「…………………そうか」 見くびられたもんだ、と嘘くさい笑い声が喉を震わせて、それから突然に黙り込む。 「…………万事屋」 「…何」 暫しの間の後の呼びかけに、銀時は慎重な動きで土方の背を捕まえている力を強めた。 鳴き声には悲嘆も憤怒も無く、諦念や後悔もきっと無く。 だから、銀時はまたしても不安をそこに覚えた。桂の様に呑み込むか、或いは高杉の様に怒りを顕わにされた方がまだマシだと思える程の、余りに透徹とした声だったのだ。 「近藤さんの恃みを繋いでくれたのがお前で良かった」 安堵には似た──然し明確な感情の見えて来ない声と共に、狗は静かに続ける。 「アイツらにも、お前の言う事だから納得を示せたってのは大きいだろう。迷惑掛けたな」 俯いた狗から、とん、と胸を押される様な仕草を受けて、銀時は渋々と腕の力を緩めた。 「あの、気性の荒い部下たちを説得したのは、俺の伝言じゃなくて、お前の言葉と行動だろ」 「………………それが、副長だった人間の義務だからな」 銀時の言葉と腕とから一歩、距離を置く様に下がった狗の足は、先頃詰められなかった距離を容易く踏み越え、門の方へと近付く形となった。 そのことに気付いたのか、狗はもう一度背後の門を振り仰いで、憧憬の様に目をそっと細めてみせる。 「救うとか、導くとか、護るとか。そんな大層なものでいられなくても。 ただ、手前ェらが手前ェらに恥じる事なく『侍』として生きれる場所で在って欲しかった」 それは一番小さな、狗の本心。ささやかだが贅沢な世界。 他者を傷つけ自らを傷つけてしか生きる事の出来なかった野良狗の、漸く見出す事の出来た『士道』。 己の最も大事なものを斬り捨てる選択を取る事で、それを継ぎ接ぎにボロボロになっても繋ぎ留めようとしている狗が、自らと同じ様な痛みを抱える事が銀時には酷く憐れに思えた。それがこの気高い狗に対する冒涜であると解っていても、この狗なら乗り越えてくれるだろうと言う確信があったとしても、あの瞬間の痛みを思えば、どうしたって胸が膿んだ様に苦しい。 応報を。或いは死を。思えば酷く楽な事を知っているからこそ、それが苦界の生になるのだと。解っているから。 その侭、別れも告げずにそっと身を翻して夜の中へと消えていく狗の背を、銀時は無言で見送った。これ以上の手出しは無粋で無用で、冒涜でしかない。捕まえて、縋らせる事が出来たとしても、そんなものは一時の慰めにもなりはしないのだから。 抜く事の出来ない刀が、仲間のしがみつく茨の様な首輪が、酷く重そうに見えた。 原作の途中話ってリアタイでやるとオチに噴いたりするので本来やりたくない口なんですが…、脳内土方をなんとか励ましたかったと言うか……そんなかんじ。 …………アレ?全然励まされてない? 走れるだけ走り続けていよう あなたがくれた愛情の分まで |