歪な純真



 玄関戸を開くと、目の下に何日分だろうか、くっきりとした隈を作った土方が居た。
 「……邪魔するぞ」
 「おー、どうぞどうぞ」
 常のふてぶてしささえある声音にも力が無い。いやそもそも、ふてぶてしいと言うより余りに堂々とし過ぎて思わず気圧される質の声と言い種なのだ。それが『そう』は聞こえないと言う事は、疲労を由来とした原因ではないのではないかと、銀時は素早くそう察した。
 傲慢ささえ感じる自信を持った、強い筈の声はなりを潜め、なんだか酷く弱々しかった。
 草履を脱ぎ三和土から上がると銀時の横を通り抜けて、勝手知ったる我が家と言った足取りの土方は寝室の鴨居に羽織を掛け、刀を置くとソファにすとんと座った。澱みのない手つきで煙草をくわえると、電話を受けた銀時が予め用意しておいた灰皿を引き寄せる。
 消沈、とか。そんな言葉の似合いそうな声音と裏腹に、万事屋のソファで寛ぐ土方の態度も様子もまるで平時通りだ。
 「何か飲むか?」
 小さく左右に振られる黒髪の頭。
 土方が万事屋を訪って、水や茶を飲むのなど勤務中だけの話だ。そもそも勤務中に立ち寄る事自体滅多に無いが。だから銀時の問いに掛かる『何か』とはアルコールの事だ。土方はわざわざ電話でアポイントを取ってから訪ねて来ているのだから、普段通りならば飲んで戯れて埒を開けてヤる事をヤると言うのが流れなのだ。が。
 (……ンな調子悪そうにしてて、飲みてェとかシてぇとか、そう言う空気じゃねーよなコレ)
 然程旨くも無さそうに煙を深く吸っては重く吐き出している土方の横顔をちらちらと窺いながら、銀時はその隣に腰を下ろした。安普請のソファが軋む音を立てて土方の身を僅かに揺らしたが、それは別段何の反応を引き出すでもない。
 「……………」
 蛍光灯の白い灯りに照らされて際立つ顔色の悪さ。何処を見るでもなく、ただじっと目の前の灰皿の辺りを見下ろしている目元に翳る暗さ。無表情には近い筈の貌には、語られないだけの雄弁に過ぎる感情がきっと蟠って澱の様に沈んでいる。
 それは土方に時々見られる、酷く弱っている時の姿だ。そんな時の土方はいつも、真選組での体裁を保つのにも疲れて、『ここ』で弱る事を選ぶ。それだけの理由が『ここ』には在ると知っているから。
 「何かあったの」
 感情の水面を乱暴に蹴る心算はないが、ほんの少しだけ触れてみようかと思った銀時は、淀みなく直球でそう土方へと問いを投げた。
 「何も」
 果たして水面下の澱は銀時の言葉には何一つとして波立つ事も無かったのか。土方もまた澱みも迷いもない声できっぱりとそう答えて来る。
 その拒絶の色濃い気配に苛立ちを憶えなかったと言えば嘘になる。然し銀時は突っかかりそうになる反応を惰性と理性とで押しとどめた。
 別に、銀時が物分かりの良い男である事など土方には求められてはいないのだろうが。それでも子供じみた喧嘩を起こして何となく元通りに収まって仕舞うのは、何だか厭だった。ひととき互いに下らない事を言い合えば、それで土方の一過性の癇性など解消されるだろうとは今までの経験上解っている。解っているが、それはただ澱が水の中でぐしゃぐしゃに混じって一時だけ解らなくなるだけの事だ。
 また淀んで沈めば、澱は土方の心をいつか捕らえる。そしてこんな風に色々なものを溜め込んだ表情を見せるのだ。また。
 土方の日々抱える鬱屈は、政治的、或いは大人の社会と言う端的な言葉に留まらぬ程に深い不快感を伴った質のものである事が殆どだ。万事屋などと言う気侭な稼業を生き方に選んだ銀時には、そんな澱を掬って取り除いてやれるとは思えない。だが。それでも。
 或いは──、だから。それでも。
 「……じゃ、何かして欲しい事は?」
 「何も」
 少し考えて出した問いに返ったのは、先頃と全く同じトーンの言葉。
 ああ、ほんとうに何も求められてはいないのだろうな、と銀時は諦めと同時に強い疎外感を憶える。否、土方の態度や感情が拒絶を示したものであれど、今ここにわざわざ足を運んで来ている、と言う事自体が、既に土方に宛にされている、と言う事なのだから、そう感じるのはお門違いなのだとも、解ってはいた、が。
 (……わっかんねーんだもんな。解らせたくも無ェんだろうから当然か)
 傍に居るだけで安らいでいると言う風情でもない。埒を開けて楽になりたいと言う様子でもない。何をしたくて、何を求めてここに居るのか。つまらなそうに煙草なぞくわえているのか。
 何か言って欲しい。愚痴でも八つ当たりでも構わない。何も言わないのは、何も求めないのは、所詮お前には何も出来ないからと諦められている様で──実際そうなのだが──何だか酷く居た堪れなさを憶える。慣れていても、解っていても。
 (頼られても面倒くせェとか思うのに、まるきり頼られねェってのも案外腹立つ。あーもう面倒くせェな…)
 好意を抱く相手に良い格好を少しでも見せたいと言うのは下らない男の矜持だ。ひょっとしたら土方も同じ様な事を考えて頑なに何も口にしないのかも知れないが。
 土方の指の間に挟まれた、短くなった煙草が灰皿の上でぐしゃりと潰れる。
 潰したいのは煙草ではないのだろうと、そんな事を思わせる程の執拗な手つき。そんなのは錯覚で、いつも通りと言われればきっとその通りなのだろうけれど。
 傾き始めた己の心にうんざりとしながら、銀時はもう一度土方の横顔を見てみた。そこに全く感情の揺らぎの様なものが浮かんでいない事を確認すると、腰を浮かせる。やはりいつも通りだな、と静かに諦めと思考停止への免罪符を得ながら。
 「やっぱ酒取って来るわ」
 冷蔵庫には缶ビールが冷えているし、酒ならばつまみと称して食べ物を与える事も出来る。然し、立ち上がろうとした銀時の動きは何かに引っ張られて止まる。訝しんで見下ろせば、着流しの袂を土方の指が摘んでいた。
 「………」
 然程に強くもなさそうな指先。指が軽く引っ掛かっただけの様な。煙草を掴んだ侭だったら動かなかったのではないかと思わせる様な。そんな土方の指先に、ほんの小さな解り辛い願望を見て仕舞った気がした銀時は、袂を引かれた侭動きを止めた。
 「…………何」
 「……何も」
 矢張りか、返る言葉は今までと同じ、素知らぬ隔絶の短い言葉がひとつ。
 だが、指は離れてはいかない。力の無い人差し指と親指とが軽く摘んでいるだけの袂は、銀時が強く引けば容易く解けるだろう。
 未だこちらに向けられない土方の視線は、灰皿の中で煙を上げる燃え滓に向けられた侭。
 「……」
 銀時は浮かせていた腰をゆっくりと下ろした。袂から指が解ける事の無い様に身体を捻って、座る土方の方を見遣る。
 「何もして欲しくは無ェんだろ?」
 「ああ」
 「でも、離れては欲しく無ェ、と」
 「………そう言う訳じゃねェ」
 袂を掴んだ指を見て指摘してやれば、土方は鼻の頭に不快そうに皺を寄せた。
 だがそれでも、指が離れて行く事は無いものだから。
 「安心毛布が欲しいだけなら他を当たれよ、って俺が怒っても良い場面だよねコレ」
 思わず疎ましげに溜息混じりの調子でそう投げてやれば、土方の指先がほんの僅か躊躇う様に揺れて──然しそれでも、喧嘩腰の意地で離れて仕舞う様な事もなく、袂を今度は五指で掴み直した。
 「……嘘。こんぐれェでいちいち怒ってたら、お前と付き合うのなんざ身ィ保たねェわ」
 次には笑い飛ばす様な呆れ混じりの溜息を吐くと、銀時は有り体に表情を歪めてみせる土方の背を掴んで抱き寄せた。袂を掴む土方の指は、摘むとか可愛いものでは既に無く、ぐしゃりと布ごと拳を固めていたが。
 それでも矢張り解けていかない指に内心密かに安堵して、銀時は引き寄せた土方の背をそっと撫でてやった。
 「俺さぁ。お前が思うよりお前の事好きだから」
 喉に笑いを潜ませて、悪びれない調子で至近の耳に囁いてやれば、土方の背がびくりと震えた。
 ……恐らくは声音から聡く感じた嫌悪感に。
 「趣味、悪ィな」
 呻く様な土方の言葉には、きっと唾棄したくなるのを必死で堪えた感情が込もっている。
 その否定が、単なる照れではないとあからさまに示していた事に、銀時は小さくわらう。きっとそれは非難とか嫌悪とかそう言う質のものだ。
 それでも袂を掴んだ指が離れないのは、土方の裡に一定の後ろめたさの様なものが潜んでいるからである。
 何ひとつ自分自身の抱えた感情を共有する気がない癖に、互いに通じる好意の名をした解り易い感情だけが橋渡しされる、ただそれだけを求めているからだ。
 世の理想とする夫婦や恋人同士の様に、全ての善も悪も肯定も否定もお互い同じ様なベクトルで受け取り合う事なぞ、土方は端から誰にも求めてはいなかった。思いの外に厭世的な男には、其れが好意であると確信出来るその瞬間しか必要ではないのだ。情と欲とは端的にそれを最も解り易く教えてくれるものだと知れるから。土方はそこにしか安堵する事が出来ない。
 土方の世界では、身の内以外のものは全て疑心と裏切りと偽りとで出来ている。
 だから。
 何も頼られないし言われないし求められてはいないから。それを甘んじる事を選んだから。
 好意以外の干渉もそこから得る感傷も必要無いのだと知って仕舞ったから。
 土方は酷く弱った時に、己の弱い部分を晒け出す事に憚りのない、己を情欲で満ちた好意の目で見てくれる銀時の元を選ぶのだ。
 (……お前の、こう言う弱い部分が、好きだ)
 虚無感に浸されて懊悩さえ見せず溜め込んで堪える。水面で手を延べる銀時の方を見ようとはせず、ただ凝った澱を抱えて苦しむ。
 (俺にしか見せない、お前の弱った面も。甘えたい癖に吐き出せずに踏み留まる頑なさも。堪え難いのに嫌悪してるのに離す事ももう出来ない弱さを自覚した嫌悪感も)
 鬱屈の正体や解消方法を知りたいなどと思っていた、何かをしてやりたいなどと思っていた、上辺の優しさも自己満足も銀時の裡から疾うに消えて仕舞った今となっては。
 (……もっと弱って、俺がいねェと落ち着かねェくらい浸らせて、慣れさせて。それまでは、安心毛布にでも何でも甘んじてやるから)
 小さく嗤って、銀時は土方の額に口接けを落とす。髪の生え際に鼻先を埋めて嗤う吐息から、土方はそっと視線を逸らした。
 袂をぐしゃりと握る指の力が、また少し強くなった気がした。




六十五訓の所為で、愛と言うと土方には信用出来ないイメージが払拭出来ない。

無意識の依存が出来た頃には良心は既に無かったらしく。