サクラメント



 酒は飲んでも呑まれるな、とは果たして如何な先人の云った智慧だろうか。
 成程、実際呑まれてみればよく解る、「呑まれてはいけない」その理由。飲める物の癖してヒトを呑み込むとは、アルコールとは実に質の悪い成分である。
 「オイ次はァ……、もんじゃ早食い大会でもするかァ?」
 「上ォ〜等だ…」
 散々飲んで散々吐いて、アルコールが思考も感覚も行動もどろどろに溶かした夜は、余り気の合いそうもない相手を前にしていてもどこかふわふわと、現実感を無くして仕舞っている。
 自販機の前に仰向けに倒れた銀時は、空を遮る天蓋の様な桜の枝を茫と見遣りながら、今日一日もずっと前もずっと先もがごちゃごちゃに混じった思考を、適当に口を衝いて出て来る言葉と同じ様にとりとめもなく流していた。
 何処かに自分たちか或いは他の酔っ払いが撒き散らした吐瀉物でもあるのか、それともまだ嘔吐感が抜けきらないだけなのか、どこか饐えた様なにおいがして不快で、その不快さをその侭、愚痴やら攻撃やらにしてみる。
 「大体オメーらは善良な一般市民に対してなんですか、チンピラ警察24時ですか、ススキノ交番人情物語見習えよコノヤロー」
 呂律も思考も冴えなく半端だが、客観的に半端であると認識出来る程度には酔いが冷めて来ているのだろう。元より飲酒量の多い銀時だ、今日は偶々テキーラだの日本酒だのを競ってチャンポンに飲み争ったから悪酔いして仕舞っただけで、本来ここまで早く酒に呑まれる質ではない。
 「上等、だこるァ…」
 先程から同じ言葉しか返して来ない相手の方が寧ろ心配になる。そいつは銀時の寄りかかった自販機の上に何故か俯せに乗っかって、完全に我を無くして酩酊していた。
 「何の恨みがあんだかしらねーけど、銀さんこう見えて善良な一般市民だし?税金納めてないけど家賃はちゃんと払ってるし?あれ、払ってないって?まあいいや、ともかく仕事の内容選べる程余裕ある訳でもねーけど悪事には荷担しねーし?」
 言いながら銀時はよれよれと立ち上がり、自販機の上の警察官の腰を掴んで地面に引き摺り下ろした。「上等だァああ」相変わらず同じ文句を返しながら倒れて来たそいつと、もんどりうつ様に地面に転がる。
 「痛ッてェェ足踏むんじゃねーよバカヤロー!なに、いい加減勝負つける?今度こそつける?真剣でつける?」
 まだ酔いの残るテンションで言えば、相手はすっかり据わった目で「ひっく」と喉を鳴らしながら上体を起こした。刀をぶんぶん振り回す銀時を見上げ、自らも腰に手をやって刀の手応えを探しているが見つからないらしい。
 「上等ォだァア!この間の借り返してやんよ、利子たっぷりつけてやるよ領収書欲しいなら切ってやるよ、宛名は上様か?天パー将軍様かァ?!」
 すかすか、と柄の本来ある部分を手が切る動作を何度か繰り返し、やがて、あれ?と首を傾げた彼は困った様に銀時を見上げてくる。どうして無いの?と言いたげな顔だ。
 当然だ。彼の得物は腰にではなく、何故か自販機の横のゴミ箱に突き刺さっていた。
 「刀がなきゃァ話になんねーよ多串くんよォォォ…。これに懲りたらもう銀さんの邪魔しないで下さいお願いします、あれなんで俺謝ってんの?俺が悪いの?」
 刀を振り回した事で再び頭がアルコールに攪拌されたのか、銀時は思考の流れの不明瞭さに首を傾げる。水でも飲めばすっきりするのだろうが、生憎近くには自販機しかない。小銭は持っていただろうか。憶束ない手つきで懐をまさぐる。
 地面に座った侭、その懐を引っ張ろうとする腕は回避。すると、空を切った手を見つめ、そいつは声を荒らげた。
 「上等だ多串ィ!」
 「多串くんはテメーだろォ!?」
 「違ェェェ!人の名前くらいいー加減覚えろ、俺は真選組のふくちょー、土方ァ、とーしろォ」
 土方十四郎。品行方正ではない一般人にとっては震えの来る名前だろう。──真選組の鬼の副長などと呼ばれる男の名だ。
 だがそれも今は只の酔っ払いの名前でしかない。銀時と同じく。……苦笑すら出て来ない。
 「オイそこどけとーしろー君、飲むモン買うから」
 「あァ?自販機ってのはなァ…」
 どこっ、と轟音がした。自販機に凭れ掛かって辛うじて座っていた土方が、後ろ手に思い切り自販機を殴った音だった。
 「………」
 どんな膂力の一撃なのか。凄まじい陥没の出来たそこから、次の瞬間がらがらと様々な飲み物が転がりだした。それと同時に火がついた様に警報機が鳴り出す。
 「ほォら上等だ、これは俺の奢りだ」
 「馬鹿ですかテメーは!それでも警察!?警察官が犯罪犯す瞬間見ちゃったよ!」
 酔いの残った頭でも、何故か爽やかににやりと笑っている土方が完全に飛んで仕舞っているのは明かで、この侭ここにいたら警報を聞きつけた同心が駆けつけるのはそれより更に確実な未来だ。
 銀時は土方の腕を掴んで立ち上がらせると、ゴミ箱から刀を抜いて、肩を貸す様にしながら引き摺って歩き出す。
 酔っ払いが器物損壊で連行されるのなんてみっともなくてやってられない。だから当然の様に、逃げる、以外の選択肢は無かった。
 
 *

 まだ酔客の多く花見の続いている夜桜の下に、ずるずると土方を引き摺って銀時は歩いていた。人が多い所に逃げ込めばなんとなるだろう。仮に自販機から土方の指紋なりなんなりが出た所で知った事ではないが、少なくとも二人して悪酔いして転がっている無様は余り晒してはいいものではない気がしていた。……人として。
 土方は猶も「上等だ」と呂律の回らない言葉でぶつぶつボヤいていたが銀時は気にせず、桜の木の近くにあるベンチに辿り着くとそんな酔っ払いをそこに投げ出す。
 ベンチの横には水飲み場があったので、銀時は取り敢えず自分の喉を潤した。顔を洗うと幾分酔いや意識もマシになる。気がする。
 「おーい、大丈夫か土方くん」
 「上ォ等…だ」
 「おいおいなにこの子上等だマシーン?なんか上等なの?上等になりたいの?」
 どうやら銀時と違い土方は、飲めない訳ではないが定量が余り高くなかったらしい。目は据わっているし、顔面が赤い以外は素面の様な物騒を絵に描いた様な表情でいるが、意識は明らかに余所へお出かけ中の侭だ。
 「てめー、刃物ブラブラ振り回してんじゃねー、って言ってた癖に、自分は振り回してんじゃねーよ、あぶねーだろォ!」
 「いつの話!お前と俺との間にどんだけ時差あんの!」
 先程言葉通りぶんぶん刀を振り回していた銀時に対して今更文句らしきものを零す土方の目の焦点は微妙に合っていない。本当に過去でも見ているのかも知れない。
 (俺がコイツの介抱しなきゃいけねーって訳でもねーが、結構俺も調子乗って飲んだしな…)
 暫く休むか、と思った銀時は、土方を放り出したベンチに自分も腰掛けた。
 「しかも、刃ァ手前ェの方に向けて、峰打ちたァ……、余裕じゃねーか、上等だァ…」
 (まだ言ってるよ…)
 然しそれでも銀時が酔っ払いつつも無意識のうちに刃を逆に持っていた事にはちゃんと気付いていたらしい。土方は猶もぶつぶつとぼやいている。全く、何が気に入らないのか。解る気はするが別に解ってやる必要性も特にはない。肩を竦める。
 「喧嘩で真剣振り回すなんざ、余程の事がなきゃしたかねーよ。命獲らねェ喧嘩だから、猶更だ」
 「喧嘩も、殺し合いも、似た様なもんだろうが。どっちかが命、賭けりゃあ、もう片方も懸けるのが、筋ってもんだろォ…?」
 ベンチに転がっている土方の目が剣呑な色を帯びた。瞳孔が開きっぱなしの目が、酔って尚凄みを乗せて耿る。
 そんな表情を見なくとも、土方の言いたい事は、銀時も理解を置く部分として解っている。そして恐らくは、土方とて銀時の躱す意図も解っている。だからこそむきになるのだとも、解っている。
 「宴席(こんなとこ)で命なんざ賭けてどうすんですかてめーは。他にもっと懸けなきゃなんねーところがあんだろ?特にお前らみてーなのには」
 酔っ払い相手には何を云っても無駄だろうが、それでも一応会話を成立させようと銀時が試みた時。
 「てめーはァ…、」
 ぐい、といきなり胸倉を掴まれる。ベンチから立ち上がった土方が銀時の胸倉を掴んで、ふらふらと憶束ない足で立っている。当然手にも力が入っていないから、銀時には服をひっぱられるている程度でしかない。
 胸倉を掴んで寄せている筈の銀時との距離が近付かない事に苛立ったのか、土方の方が身を屈めてずい、と至近距離に顔を向けて来た。端正な造作に乗った目は──相変わらず瞳孔全開で遠くに据わっている。
 「そこらの攘夷浪士や、桂みてーな連中とは、違ェんだよ……」
 「?」
 疑問符に答える様に、酒臭い息をひとつ吐いて土方は銀時の足の間に片膝をついた。胸倉は掴んだ侭、まるで説教をする様に続ける。
 「アイツらは、今の世の中が気にくわねー、つまんねー、間違ってる、、…そんな面して思想だの刀だの、振り回してんだよ。刀ひとつじゃ何も変わらねェの解って、それでも刀(それ)が信念の寄り所みてェに…、血ィだの命だの撒き散らしながら、声高に訴えてきやがんだ。『こんな世の中はおかしい』ってなァ」
 「……」
 侍なんて。信念をその手に置き、刀に未だ縋る者なんて、みんな攘夷志士の様なものだ。安穏とした間違った世界が怖くて堪らないから、自分たちが自分達であった頃の魂を必死で守ろうとする。
 無論その中には、幕府のお墨付きで佩刀を許されている、真選組も含まれている筈だ。
 単なる、権能だけ高く設定されたチンピラじみた侍だと思っていた真選組副長のそんな言葉を、銀時は思わず反芻していた。
 自分とて、流し流される血の量を見て来たからこそ、『それ』を呑み込む事にしたのだ。だが、未だ木刀を手放せないのは、そこにも魂の置き場所があると自負していたからである。守る為に必要な『何か』を置く寄る辺であると、理解していたからである。
 ぽかんとした銀時の胸倉をがくがくと振って、土方は続ける。
 「でも、手前ェは違う。てめーは、世の中を碌でもねぇって思いながらそこを悠然と、猫みてェに達観して見てやがる。平然と、楽しんで歩いてやがんだ。全部、てめぇの住処だって顔しながら」
 「ちょ、揺するな、戻る、戻る。つーか何ヒトの上に座ってやがんの!重いんだよ退けよなんかヤバイ姿勢だし!これ絶対入ってるよね的な!」
 銀時の膝の上にすっかりと乗り上げて正座している土方は、抗議を受けると手を離した。据わった目がじーっと至近距離で見つめてくる。というより睨みつけてきている。
 (……相変わらず瞳孔開いてやがるけど。存外良く見てんだな此奴)
 「、、、、、?」
 「え?」
 土方が何かを呟いた。聞き損ねた銀時が返すと、土方は首をことりと傾げた。目は笑ってない侭、口元だけがにこおっと笑う。
 「正解ィ?」
 (……怖いんだけど)
 酔っていてもいなくても凄味がある有り様だった。
 「はいはいファイナルアンサー。ていうかいい加減退けってばマジで」
 ぐい、と両肩を押し返すが、逆に土方はだらんと力が抜けた人形の様に銀時の方に倒れて来た。
 「おいィィィ!いい加減にしろよお前!馬ッ鹿、寝るなら一人で寝てパトラッシュに迎えに来て貰え!重い!重い!!」
 結局銀時は倒れ込んできた土方の体をなんとかずらし、ベンチの端にずりずりと移動した。ごとん、と膝上にすっかり脱力した黒髪の頭が転がって来たが、全身で押しつぶされているよりはマシかと思って諦める。
 「……なんなんだよ土方くんさぁ…。絡み酒にも程があんだろ?言うだけ言って寝ちゃうとか、女に嫌われる奴だよ?」
 膝に頭の重みを感じながらも銀時はベンチに思い切り背を預け、はあ、と酒の臭いの濃い溜息を夜空に向けて吐き出した。
 桜は殆ど灯りの遠いここではぼんやり霞みがかった白色で、丁度今の銀時の気分に似ていた。
 (……悠然と、平然と、ねぇ)
 しっくりはこなかったが、指摘はあながち間違いでもない。少なくとも、ただの酔っ払いの戯言と聞き流すには勿体ない重みはあった。
 (コイツも同類なのかもな)
 ぼんやりとそんなことを思う。廃刀令の時勢にあって、刀で他者を傷つける事で法を守る事を責務として与えられている権能。幕府の狗だ、無法者の警察だと陰口をたたかれながらも、刃を手放さないその理由は。それが自らの信念を護る為の魂に他ならないのだと、理解しているからこそなのだろうか。
 平時ならばそれなりの使い手だろうとは伺えた。足場の慣れなさと、銀時への挑戦的な態度、そして真剣でさえなければ、そこそこに愉しい喧嘩が出来た相手だろうとは。喧嘩を売られたあの時に既に評価していた。廃刀令の出た昨今では珍しい、型の剣術ではなく、実戦的な体術や地の利を活かす、喧嘩めいた剣術。
 殺すのを躊躇わない死合いだったからこそ、銀時は全力で獲りに行った。命を。そして土方の命ではなく刀を折って無理矢理に終わらせた。土方の抱いていただろう仇討ちに対してのプライドを折ったからこそ、そこで彼の戦意を完全に途切れさせる事に成功した。
 もしも銀時があそこで土方の命を獲りに行っていたとしたら、致命傷を負いながらも土方は血塗れの牙を突き立ててきていた筈だ。それこそ、狂犬じみた執念で。
 (こうして寝てりゃあ、可愛げもあんのに)
 すう、と真っ直ぐな黒髪を頬にかけて眠っている姿は何処か子供の様な顔に見えた。
 (……っておいおいおいおい)
 前髪をさらりと撫でた所で我に返った銀時はかぶりを振る。なんだろう、まだ酔いが残っているのだろうか。同じ年頃の男に対して抱く感想では到底ない。
 造作は綺麗と言えるだろう。女には困らない様な容姿で、天然パーマでもない滑らかな黒髪。体はしなやかに鍛えらえた侍のそれで、無駄のまるでない野生の動物の様な印象。
 魂は。
 その向けて来た刀の様に解り易く真っ直ぐだった。触れたら斬るぞと言わんばかりの瑞々しさがあった。
 ゴリラだろうが俺らの大将なんだよ。そう言って寄越した声は、静かだったが確かな怒りに満ちたものだった。少なくとも、それを理由に死合いを──自らの命を懸けられる程の感情は孕んでいた筈だ。
 (信念がはっきりした奴は、嫌いじゃァねェ)
 手前の魂は真っ直ぐに。そう抱いた自らの信念に恥じぬ行動。守るものを守るために、命懸けだっただけだ。それそのものを無駄と断じる心算はない。
 安易に命を懸ける行為は感心しないが、彼にとってそれは安易な事ではなかっただけだ。
 「……なんだ、意外と侍らしいんじゃん。土方くん」
 本当に狗と化して、ただ同胞(人間)を斬るだけの『役割』で動いている様な、愚鈍ではない。
 一般人である銀時に対して、真剣を持たせたとは言え平然と刃物を向けた理由も、そこにあったなら。それは本当に突き抜けて美しい迷いの無さだ。とてもシンプルで、完結した魂だ。鍛え研ぎ澄まされた刃にも似た。
 ……だ、と言うのに、なんだろう、眼下のコレは。
 鋭い筈の白刃は、今は鞘に収まって大人しい。これでは銀時の普段持ち歩く木刀と何ら変わりはしない。なまくらではないのに、アルコールひとつに呑まれただけで、この様だ。
 平然とそんな様を出しても良いと思ったのだろうか。万事屋と初めて真っ向から面突き合わせる事になった宴席程度ならばと、気でも抜いたのだろうか。まさか許したりはしていないだろうに。
 「無防備過ぎんじゃねーの、鬼の副長さん…」
 思わず漏れた溜息は呆れかそれとも落胆か。
 銀時はその侭土方の姿をまじまじと観察してみた。黒く長めの前髪を軽く退けると、アルコールの所為でか汗ばんだ額が晒された。無心に眠っているのもあってか、そうすると少し幼く見える。
 (齢は……同じくらいかね。攘夷戦争には参加しちゃいねーよな。幕府の狗って立場に成り下がれんだから、あんま攘夷戦争の影響が無い様な、でも江戸からはそう遠くない地方の出かね)
 江戸周辺の田舎には目立った攘夷の動きも無かった筈だ。攘夷戦争にもしも参加していたとしたら、到底幕府(おかみ)に仕える様な真似など、出来はしなかっただろう。
 これだけ気性のはっきりした性分なら猶更。未だ攘夷戦争を引き摺り世の中を変えようとテロを起こす様な、かなり過激な攘夷志士になっていただろう事は想像に易い。
 (近藤(ゴリラ)みてーなのとはちょっと違うが、人が惹かれるタイプだな。人柄って言うより本人の意識してねェ様なカリスマみてェなもんで。あっちは何処までもお人好しの馬鹿だが、こっちは冷静に判断するブレーキ役って所か)
 真選組は暴力警察集団だのと言われているが、その上げている成果は間違い様のないものだろう。よく新聞やニュースで耳にする程度の働きはしているのだから。
 局長と副長。彼らに従う隊士。どこかちゃらんぽらんでも誰かが補う、そんなバランスなのかも知れない。
 思って銀時は小さく笑った。自分たちも攘夷戦争の時にはそういう部分があった。高杉や桂は比較的逸るタイプで、坂本はボケをかましつつ自覚なしにその手綱を握って、銀時は横道に時に逸れていくそんな手綱を引っ張り戻したり、かと思えば逸る連中と一緒になって馬鹿をやらかしたり。
 (……戦友なんてのァ、そんなもんか)
 嫌な事を思いだした時の様な表情になり、銀時はいきおい溜息をついた。相も変わらず眼下ですやすやと寝息を立てている土方の表情は裏腹に安らかな程で、邪魔しては悪いと思う反面、邪魔したいなとも意地悪く思わせる。
 銀時が選んだのは後者であった。ひょいと手を伸ばして、土方の鼻を摘んでみる。ふご、と呼吸が阻害されたことに眉間が寄り、手が何かを振り払う様にひらひらと泳ぐ。
 「ぐ…、」
 いよいよ苦しくなったのか、眉間に皺を刻んだ侭、土方がぱちりと目を開いた。真上から見下ろしている銀時と、至近距離で見つめ合って仕舞う。
 「おはよう土方くん」
 ぱっと鼻から指を離す。摘んでいた所為で鼻頭がすこし赤い。
 「……はよ」
 ぱちり、と瞬きをして、土方は鼻の下を軽く擦りつつ、疑問符を浮かべて寄越す。
 「なんでテメーが居んだ?」
 「花見だったからだろ?」
 答えながら、答えになってねぇなあと銀時は何処かで思っていたがひとまず考えるのを止めた。ぐだぐだと経緯を考えながら見下ろしていると、碌でもない考えに浸されそうだった。
 土方は暫く考える様な素振りをしていたが、得心がいったのかいかないのか、小さく頷いてから再び目を閉じた。
 「おいおいおいおいなに人の膝上で二度寝決め込もうとしてんのお前!寝るな起きろ死ぬぞ!」
 「死なねェ」
 「命取られなくても他色々取られっから!人として!」
 「手前ェの心があって、刀ァ振るう腕がありゃァ、そんだけでいい…」
 薄く目を開いた土方はそう小さく、しかしはっきりと呟くと、手を腰に持っていき、そこで漸く己が佩刀していなかったことに気付いたらしい。ぱちりと目を開きまばたき数回。
 「無いし!」
 がば、と起き上がって辺りをきょろきょろと見回し出す土方に、銀時は溜息をつきつつ先程ゴミ箱から拾って来た刀を差しだした。そういえば何処かで落としたのか鞘がない。
 廃刀令のご時世、真剣を佩刀出来るのは幕臣に限られている。警察組織である真選組も無論そのひとつだ。攘夷志士の多くは違法なのを承知で佩刀している。
 「ッ返せ手前ェ!」
 銀時の手にあるのが、彼の常に持つ木刀でなく己の刀と知れた途端、土方は泡さえ食って手を伸ばしてくる、が、銀時は僅か手を引いてそれを躱す。
 鞘に収められていない刃物は、言葉通りの抜き身。夜桜と月明かりとを受けてにぶく光る刃は、よく手入れされているのだろう、精緻な刃紋を浮かび上がらせて綺麗だ。
 ひとを斬った事のある刃だ、と、銀時は直ぐに判断した。それが命ごとなのか、単純に手傷を負わせただけなのかはわからない。ただ、血と脂とを帯びたあとに磨かれた刃であると。
 以前屋根の上で喧嘩を吹っ掛けられた時に銀時は土方の刀を折っている。当然もう使えなくなっただろう刀をあの後持ち替えたのは言うまでもない。それがこれなのかまでは解らないが、ともあれ──あの喧嘩の後から今の間にも、彼は人を斬ったのだ。
 (攘夷志士か犯罪者か知らねーけど……、江戸の平和ってのはまだまだ遠い訳だ)
 「オイ、」
 「良ーい刀だな。お前と同じで良く斬れそうだ」
 痺れを切らした土方にぽいと刀を返す。鞘がないことにか、賛美とも嫌味とも取れる言葉にか、土方は少し顔を顰めて刃と、銀時とを交互に見た。
 (斬る権能、じゃなくて、手前ェの魂をそこに乗せる権利、か)
 幕吏に佩刀を許可した理由は、武力の保持を赦すと言う意味にほかならない。つまり、それだけ違法的に佩刀を未だ続ける『侍』は多いのだ。それらに打ち克つ為『だけ』ならば、他に支給された重火器だけでも事足りるだろうに、彼らは飽く迄『侍』に正義を示す事を由とした。
 「鞘どうしたんだよ」
 「俺が知る訳ねーだろ。さっき酔っぱらって斬った張ったしてる時に置いて来たんじゃねェの」
 「…じゃ、花見の席か」
 酔った不覚はあったのだろう、土方は片手に刀を提げた侭、逆の手で頭を抱えた。銀時はその横に再び腰掛ける。
 「抜き身の刀は、綺麗だけど危ねェよな」
 「あ?……〜わぁってるよ、落として来るとか普段なら有り得ねェだろ…、隊服と違って剣帯がねェから油断してたんだそうに違いねぇ…」
 銀時の言葉の意味をその侭受け取ったらしい土方は、まだ酔いが残っているのか妙に素直に過失を認めて嘆息している。
 柄を握る手をちらと見下ろせば、刃は外を向いていた。──つまり土方は、真選組として刀を抜く時には本当に情け容赦ないのだ。無意識にでも逆手にしないのは、そういうことだ。
 (喧嘩した時も、此奴ずっと刃ァ向けてたもんな)
 喧嘩だ、と言いながら。大将を守ると告げたその通りに。斬りかかって来た刃は銀時を斬り捨てる事にまるで躊躇いが無かったのだから。
 そのくせ、人の命を軽んじる無法者という訳でもない。ただどこまでもはっきりと、解りやすい。
 淡泊に見えるのに、鬼などと呼ばれる程に厳しいのに、真選組と言う枠に於いては、ただ己の信念を守る事に於いては、何にも譲りはしない。
 手持ち無沙汰に抜き身の刀を手の内で弄ぶ土方の横顔を、銀時は頬杖をついてじっと眺めてみる。
 (コイツの剣なら、もちっと見てみてェかも)
 「……何だよ、何見てやがる。そんなに人の失態が嬉しいのかてめぇ」
 ぴき、と額に青筋を浮かべて睨み返されて初めて、自分が笑みを浮かべていることに銀時は気付いた。
 あれ、なにも可笑しい事ねーよなぁと呻いて顔を擦って、銀時は頭の後ろで手を組んだ。夜空とそこに映える桜とを見上げる。
 「見惚れてただけかも知んねーなぁ…。……アレ、何血迷ってんだろう銀さん」
 「はァ?」
 「いや聞き間違い。聞き間違いだから。酔っ払いの聞き間違いだからテイク2行こうか」
 「なんだよテイク2も1もねーよ……〜手前ェって奴ァほんっと訳わかんねェ」
 戯言と取ってくれたのか、土方は刀をぶらりと提げて背を丸めた。ぶつぶつと溜息をつきつつ懐を探り、顔を思い切り顰める。煙草が見つからなかったのだろうか。
 「あー……最悪だ。花見に来たってのに、テメェらに遭ったのが運の尽きだったのか、運の尽きの始まりだったのか…」
 「遭うって何、俺ら災害?人扱いされてない訳?」
 銀時のツッコミをスルーして、土方は俯いた侭頭を抱えた。眉間に皺を寄せて、心底、としか言い様のない溜息を吐き続けている。
 「……まぁ、その、なんだ。ほら、」
 (そんなに落ち込まれるとこっちが寧ろ凹むんですけど)
 励ます所でもないし、開き直る所でもない。銀時が適当に何か言葉を探して指をくるくると回すのに、土方は顔をすこしだけ上げて、胡乱そうな視線を寄越して来た。
 その様子を見てふと思いついて、回していた人差し指で、空を指す。
 「折角来てんだし、花見、今からやり直ししねえ?」
 銀時の動作と言葉とに、土方は誘われる様に顔を起こした。かくん、と持ち上げた顎先が天を向いて、頭上の桜が視界一杯に拡がる。
 「…………てめーが居るんじゃ、変わんねぇだろうが…」
 悪態としか言い様のない返事を投げ返しつつも、土方の口元は笑っている様に見えた。
 「生憎酒も無ェ花見だけど。肴だけは間に合ってるしな」
 土方は桜を、銀時はそれを見上げる横顔を、黙って見つめた。
 こんな不躾な視線が許されるのは、お互い何かに酔った今だけだ。だが、惜しむ気には到底なれそうにない。
 (惜しいも何も、未だ何も見えてねーだろ)
 手にした刃の見せた、僅かの照り返した像程度にしか、まだ見えるものはない。こんなに近くで観察してみても、解り易過ぎてさっぱり正体が見えて来ない。お互い様だと、向こうも思っているのかも知れないが。
 「だから、もうちょい見ててもいーよな」
 「見てて減るもんじゃねェし。減るのは時間くらいだろ」
 「時間も減らねーよ。無駄にする気ねぇから」
 角度の違う土方の返答に笑って、銀時もやがてその視線を天へと向けた。夜の桜は灯りの少ないここでは白くぼんやりと、はっきりしない像を霞の様に拡げている。枝のひとつひとつには確かにたくさんの花を点していると云うのに。
 見えなかったかも知れないものが、気にもならなかったものを。見てみたいと、思って仕舞ったのだから。仕方ない。
 「…わっかんねぇ奴」
 「んじゃ、解ってみる?」
 軽い言葉に、土方の視線が戻って来るのを感じながら、銀時もそちらを振り返った。口の端を持ち上げる。
 土方は妙なものを見る様な目で銀時の事を暫し見返し、溜息をついて寄越す。
 「…………いらねーよ。てめェは、わかんねぇ奴で充分だ」
 だってマジでわかんねぇし、と吐き捨て、土方は再び頭上に視線を戻して仕舞う。引かれる様に再びそれを追い掛け、銀時は頭上の花たちを見上げた。
 血迷ってるかなあ、と、声にならない呟きは夜空の遙か上へ放り投げて。今はただ、二人同じ花を見つめる。




十七訓が好きなのでつい。万事屋と真選組が初めて下らない事で向かい合った回だし!恋の始まりもきっとここかr……アレ?
JFのアニメは色々残念だったけど、反吐吐き散らした土方の血迷った「銀時」発言が聞けると云うレアさがあったんで良。

洒落だけど奇跡的なものは…うん。神がかりな現象なんもないけど……うん。洒落です。