好奇心は鬼を殺すか 「ザキに旦那の事また洗わせてるそうですねィ」 横合いから飛んで来たそんな声に、土方は忙しなく動かしていたペンの動きを止めた。 重要性と言う意味では余り高くは無い、日々の書類仕事の一つだ。半ば事務的な動作になりつつあったその作業を停止させる程には聞き流せなかった、唐突な言葉を投げて来た沖田の方を見遣る。 「…んだ藪から棒に」 「洗わせてるそうですねィ?」 重ねられる問いに、土方はペンを持った侭の手の甲で軽く自らの頬を擦った。問いと言うよりは最早ただの断定調子になっていた言葉を発した張本人は、勝手に入り込んで勝手に座り込んだ副長室の縁側でただ寛いでいた。一見して本気で気になるからと問うてる調子では無さそうに見えるのが厄介なのだと、土方はこの少年と相対し得てきた経験則から思った。溜息を深々とひとつ。 「ああ。今更叩いて出る埃なんぞ期待しちゃいねェが、野郎があれだけ堂々と名乗りを上げたんだ。接触しようとする攘夷浪士(馬鹿)共が全くいねェとも限らねェだろうが」 とんとん、とペンの尻で机を小突く事で、何で今更そんな事を訊くのだと言う苛立ちを示しながら、土方はついた溜息の延長線上でふんと小さく鼻息を吐く。 それは当然の行動だった筈だ。あの時の、あれからの行動としては、警察の対処としては、土方個人の思惑としては、それが尤も考え得るに合理的な結論だった筈、だ。 「……白夜叉、ねぇ…」 縁側から庭に向けて下げた足をぷらりと振って、沖田がその名を口の中に転がす。 言葉の持つ意味以上の存在感を本来纏っていた『名』は、音にして放たれた途端に土方の耳朶を叩いて脳を緊張の気配に揺らした。 描くのは記憶に鮮やかな一幕。血と剣戟と硝煙の中に浮かび上がった銀色のシルエットが一つ。 不敵に笑った鬼の貌。その手には見慣れたいつものなまくら。動いた土方の身に合わせた戦い方も、慣れた心地良さや気分の良ささえ感じるいつもの様だったと言うのに。 ただ、言い放った『名』ひとつが全てを変えて、違えて仕舞った。 我知らず噛み潰していた煙草のフィルターに気付き、土方は思考の苦さを振り切る様に、潰れた煙草を灰皿に押しつけた。折れた煙草と崩れる灰とをぐしゃぐしゃに擦り潰す。 然しそんな事をせずとも、仄暗く続きそうだった土方の思考を断ち切ったのは、またしても沖田の声だった。 「マジだと思ってんですかィ?」 「あ?」 思わず間の抜けた声が出たが、沖田は構わず、振り向きもせずに肩を竦めてみせた。 「ブラフの可能性でさァ。そもそも白夜叉なんて名前は終戦後ふっつり姿消した、幻の英雄みてーなもんらしいじゃねーですかィ。そんな奴、『本当に居た』んですかねィ?」 「………」 真っ向から、思いの外に真っ当に聞こえそうな事を言われて土方は眉を寄せた。とは言った所で沖田とてそれが空々しい意見だとは理解しているのだろうが。 何しろ、その可能性に縋りたかったのは誰あろう自分の方が先なのだから。 再び記憶を手繰った土方は、その『名』を名乗った銀髪の鬼の顔を思い出す。不敵に、そして不快にへらりと笑う表情はよく見慣れた男の、そのものだった。 見るその都度に多少意が違えども、造作の同じ人間の形作った顔だった。 そう名乗るに相応しい、鬼の面をした、男の顔だった。 「……年齢的にも実力的にも違えちゃいねェし、そもそも当時の盟友の桂と繋がりがあるらしいって所からも疑い様なんざ無ェだろうが。寧ろ逆に、あの野郎を軽んじる要素の方が思いつかねェよ」 口中に涌き続ける苦味ごと吐き捨てる言い種に、沖田が漸くこちらを振り返った。片方の眉を持ち上げて、口元には笑み。 「へェ。土方さんにしちゃ珍しい意見だ。旦那の事、なんでかんで評価してんですねィ」 「馬鹿言え。日頃は単なるマダオだろうが、白夜叉の名前には警戒するに越した事ァ無ぇ」 部下の、あからさまに興を得たと言わんばかりの表情からごく自然に目を逸らすと、土方は書類を数枚めくった。無駄話をしていたから、が原因ではないが、思いの外進んでいなかった己の仕事ぶりに気付いて口の端を下げる。 これ以上進捗を遅らせる訳には行かないと、土方は背筋を正すとペンを紙面の上へと滑らせ始めた。事務的な文字を、事務的な内容に沿って記して行く。 そんな土方の態度からも、これ以上絡んでも然して面白味は無いと判断したのか。沖田は暫くの間黙っていたが、やがてぽつりとした呟きに乗せて名を呼んで来た。 「……土方さん」 「何だ」 「アンタは結構あん人に気ィ許しちまってるから、俺や近藤さんが何言った所で聞き入れやしねーんでしょうけど」 言葉の内容以上に不穏な切っ先を感じて、土方は書類から目を上げた。縁側の沖田は身体を半身だけ振り向かせた姿勢の侭、ほんの少しだけ笑みを──感情に沈めるにも持て余したのだろう笑みを浮かべてこちらをじっと見ていた。 「本当に白夜叉狩りが成功した時、一番痛ェ目見る事になんのは土方さんだって事ァ、忘れねーで下せェよ」 ぢく、とした蜂の一刺しに、然し土方は辛うじて表情筋を動かさず留めた。 言われずとも、真選組が、土方が、万事屋と言う存在に慣れきって居る事など解りきっている。 警告そのものに想像がつかぬ事は無かったから、土方は予め用意していた言葉を紡いで返す。己にも繰り返した、いいわけ、を。 「切っ先鈍らせるつもりなら、端から調べたりなんざさせねェよ」 小さな息継ぎで肩が揺れて、ペンの動きがまた止まっている事を知る。土方は、仕事にならない精神状態になりつつある己を罵倒しながら、またこんな話題を振って寄越した沖田を呪いながら、ペンを置くと新しい煙草を唇にくわえた。 「ま、ザキの調査の方も大した成果上がってねェみてーですしねィ。桂みてーな時代錯誤の馬鹿はともかく、過去の英雄になんて、今の世で誰が縋るってんで?」 ふ、と沖田の口調が転じた。失笑にも似たそれは、土方の取った手段を嘲笑う色を多分に含んでいる。それが棘か毒かは判然とせぬ侭、土方は火を点けた煙草から息を吐いて沖田を睨み付けた。 「……総悟。何が言いてェ」 すると沖田は堪え切れなくなった様に喉を鳴らして笑い、人の悪い、見慣れたドSの黒い笑みを浮かべるとその場に立ち上がった。 「職権乱用、でさァ。旦那がシロでないと確信出来なきゃ安心して横で寝る事も出来やしねェって、正直に当人にそう言や良いのに」 「っだ、誰が安心出来ねェって、──!」 にたぁ、と笑う悪魔の顔に、土方はかっと頭に血を昇らせ叫びかけた己の口元を覆った。憤慨は解り易い肯定だ。失言以上の失敗を悟った所で今更手遅れでしかない。 何か解り易い意味を失言したと言う訳ではないが、態度で既に答えは知れたのだろう。してやったりと言いたげな満面の腹黒い笑みに見下ろされて、土方は怒りと同時にまんまとやり込められた事に対する屈辱や失敗を苦労して噛み締めなければならなかった。ここで憤慨を重ねて怒鳴れば益々に目の前の悪魔の思う壺だ。 さも人を心配するかの様な素振りで、まんまと土方の最も触れられたく無かった本心に無遠慮に触れて行った沖田は、然しそれ以上イヤガラセの解剖作業を続けるつもりは無い様で──或いはもう鬼の首を獲った事で満足したのかも知れない──、「じゃ、精々進みの悪い諜報にでも期待して励んで下せェ」と痛烈な嫌味だけを投げるとその侭縁側の廊下を歩いて立ち去って行った。 その事にも、ぐ、と息を飲んで、土方は火を点けたばかりの煙草を灰皿に乱暴に放り込んだ。くそ、と己の不覚と無駄に聡い部下との両方に向けて悪態をついて、その侭ばたりと仰向けに倒れ込む。 やられた、と後悔を巡らせた所で、既に出して仕舞った動揺の気配は悟られ確信に置かれた。沖田はそれを吹聴して楽しむだろうか。否、いつでも出せる隠し球としてチラつかせては土方を動揺させるに違いない。益々以てタチが悪い。 口で当人に訊けないから、土方が今回の疑惑を利用して部下に意気揚々と命令を出したのは事実だ。知っても良い大義名分が出来たと、何処かでそんな狡い思考を巡らせたのも事実だ。 故に、全ては自業自得。沖田にそれを見抜かれからかわれ、腑抜けだと詰られるのも無理の無い話。 調べた所で、今更銀時の過去に纏わる情報や、それに関わる話など出て来るとは期待していないのだし、その『名』を振り翳して何かをする男だとも思っていない。思いたくもない。 あれはもうただの万事屋で、年中暇そうにしているマダオで、何を間違えたのか真選組の副長と恋人などと言う関係にあるだけの男だ。今更疑ってなどいないし、疑いがあったとしてそんな事を誰よりも否定するのは誰あろう土方自身だ。 訊けば良かったのか、と思う。或いは、気にせずに忘れれば良かったのか。そうすればこんな不審の名をした悩みを抱える必要も、沖田にそれを見抜かれる事も無かったのは確かだろう。 現に沖田は、そんな事は無いと言う本音を示しつつも、銀時の名乗りを嘘である可能性もあると言って寄越したのだ。 どの道何も手を打つつもりが無いなら、改めてその身辺を調べさせる必要など無かった筈だ。 (……それでも、) 見つめる天井を片腕でそっと閉ざして、土方は唇を噛んだ。 疑った訳ではない。知りたかっただけだ、と言ったら、あの男は笑い飛ばすだろうか。 不安でも不審でもない、ただのこの低俗な好奇心を、やんわりと流してくれるだろうか。 三百八十五訓読んだ当初にメモってたネタ。…この物凄い今更感。 興味ない素振りしててその実凄い気にしてたら、と。 |