雪のちケーキ



 乾いた唇を舌先で軽く舐めて潤せば、ぴりっと痛みが走った。その理由はと言えば、唇が切れているからだ。
 真冬の乾燥した寒空の下、寒風も避けられぬ屋外の一所に何分も立ち止まっていれば、唇の乾きも抗議ぐらいするか、と適当に考えてから土方は口の両端を下げた。その動きでまた切れた唇が痛む。
 溜息を吐けば白い雲が口元にふわりと弾けて消えた。煙草はとっくに携帯灰皿の中。指は門扉の呼び鈴のスイッチに近付いて一時停止中。
 あとはこの一時停止を解除すれば良いだけの話だ。寒さに悴んだ人差し指はいとも容易く呼び鈴を押して、家の中の人間に来訪者の存在を知らせてくれる。そうすればこんな寒い所からとっとと離れられる。そこらの店で寒風を避けるも、とっとと屯所に戻るも、選択は土方の自由だ。
 「……」
 然しその一時停止がなかなか解けないからこそ、唇が切れているとか空気が乾いているとか、無駄な思考に徒に時を費やしているのだ。呼び鈴のスイッチを押して、そして──、と言う簡単な筈の動作が簡単にはいかない。
 「……」
 一言で言えば、気が重い、それに尽きた。
 隊士の訃報を遺族に告げに行く時でさえ、こんなにも気鬱に、或いは緊張などしない。無論それも出来れば願い下げな事に代わり無いのだが、それが真選組として部下を率いる者の役割だと言う強い自負が土方にはある。酷く嫌でもやらねばならない事だ。そして更に嫌な事だが、慣れもある。責められる言葉も詰られる言葉も泣き崩れる悲嘆も、慣れている。
 だがこれはどうだろうか。初めての事だし慣れなど無い。と言うより慣れたくもない。出来れば今回一度限りにして欲しいと、土方は心底にそう思いながらここに立っている。
 「……」
 また思考が逸れかけていた事に気付き、土方はぴんと立った侭一時停止を頑なに続けている自らの人差し指を見た。手袋はしていないから、指は──と言うより手は血行が悪くなってすっかりと冷えている。この手で刀を取り回せるだろうか、と反射的に考えてから、また逸れ始めた思考に気付いてぶんぶんと勢いよくかぶりを振った。
 見上げる空は、午前中から生憎の重たい曇り空。夜には雨だか雪だかが降るかも知れないと言っていた。今日と言う日にぴったりだと皆口を揃えて言うが、土方には雨でも雪でもどうでも良いし、今日だって何と言う事も無い普通の勤務日だ。
 半休など取っていないので一応は見廻りのスケジュール内である。いつまでもこんな所で茫っと馬鹿みたいに突っ立っている訳にはいかない。
 ままよ、と腹をくくった土方は、小さく深呼吸をしてから左手に下げた紙袋をぐっと握りなおした。何分も一時停止に耐え続けていた冷えた右の指先に、さっさと役割をこなせと命じる。
 指に押されて何の抵抗もなく呼び鈴の釦は沈んだ。インターホンなど付いていない古いタイプの呼び鈴は、鳴らした土方にもどんな音がするのか知れないものだ。単に家の中に居る人間に来客の存在を知らせる為だけのものだから、来客を無視する気が無い限りは、住人は自らの足で門を開けに来る。
 家が広いから、一度鳴らしてなかなか出て来ない様だったら聞こえていない可能性もある。その場合もう一度勇気──か度胸か──を振り絞ってもう一度、二度と鳴らす必要があるかも知れない。まあ二度目三度目になると意外と簡単に押せる様になっているだろうが。
 まあ一分は待とう、と思った土方が、今三十秒ぐらいかなと適当にカウントした頃、門扉の向こうからぱたぱたと草履を突っ掛けた足音が聞こえて来た。どうやら一度だけで聞こえていた様だ。二度目三度目を鳴らす必要は無くなったと、右手を下ろすとコートのポケットに突っ込んだ。冷えて乾いた手が外気から遮断されて少し安堵する。
 「はーい。どちら様ですか?」
 門扉を開いた女は、戸を開いた途端、愛想の良さそうな面相に乗っていた笑みを消した。
 「……どうも」
 見慣れぬ来客の姿に警戒か不快感かを憶えているだろう事は百も承知だったので、気軽に、こんにちは、とも、よぉ、とも言えず、土方は棒読みで取り敢えずそう口にした。
 それはそうだろう。この恒道館道場に住んでいるのは志村妙と志村新八の二人姉弟っきりで、土方はそのどちらとも気易く家を訪ねる様な間柄には至っていないのだから。
 新八の方は普段通りなら万事屋に出勤しており、日中は基本的にお妙しか家にはいない。夜にはその逆になる。そのぐらいの基本情報は別にご近所さんでも親しい仲でもない土方も知っている。姉弟二人の仕事を知っているから、普通に知っている。
 それはつまり、この正午近い時刻に呼び鈴を鳴らしたと言う事は、土方は恒道館そのものか、或いはお妙に用事があったと言う事になるのだ。
 流石に客商売をやっている娘だからか、お妙は望まぬ客相手にもあからさまな不快感や態度は見せなかった。ただ少し驚いた様な表情の後にはにっこりと微笑まれる。それが見た通りの意味では無い事は、彼女を知る者にならば誰でも解る事だろう。
 歓迎されるとは端から思っていなかったが、と土方は内心そっと溜息をついた。
 「あら珍しい、土方さん。近藤さん(ゴリラ)なら今日はまだ見てませんよ?」
 自分や新八に用があるとは思えないし、道場を訪ねられる心当たりも無い。となると、お妙の思いつくのは土方の上司に纏わる事しかなかったのだろう。柔和な笑みと共に言われ、土方は、こちらは特に隠しもせず渋面を浮かべた。口の中はもう苦虫で一杯だ。
 「人の上司の名前に変なルビ振るのは止めてくれねェか」
 「あら。それじゃあ、近藤さん(ストーカーゴリラ)の方が良いかしら」
 「…………俺が悪かった」
 にこにこと重ねて辛辣な一突きが返って来て、土方は頭を抱えたい衝動に堪えながらとっとと白旗を上げた。こと、上司のストーカー問題のあれこれになると、どうやった所で土方の方が分が悪い。何しろ近藤の側に非と問題しか無いのだから、どんな弁護士や口達者な人間を間に挟んでも勝てる気がしなかった。
 「ところで、うちに一体何の用です?」
 暢気に呼び名についての反論などをする辺り、土方は近藤を探している訳では無いのだろう、と素早く判断したのか、キツい笑みを──笑顔にキツいとかかるのもどうかと思うが──少し緩めて、思い出した様に問うお妙に、土方はすっかりと悴んだ左手にずっと掴んでいた紙袋を差し出した。
 紙袋は、白地に雪の結晶が薄い銀色でエンボスされた高級そうな紙で出来ており、丈夫な底板で支えられたその中には四角い箱が入っている。
 更に言えば、袋には嫌味のない金色の文字で、誰でも一度はテレビや雑誌で耳にするだろう、銀座界隈の有名洋菓子店の名が描かれていた。
 「……」
 お妙は無言で突き出された紙袋に一瞬ぱちくりと目を瞬かせた。ホステスなら商売柄目にする事も珍しくない様なものの筈だし、この日に正方形の箱が入った洋菓子店の袋などと言ったら容易くその中身は想像がつく筈だ。
 紙袋をまじまじと見つめたお妙はやがて、片手を自らの頬に添えて小首を傾げた。さも、困っちゃうわ、と言いたげなその仕草に、土方の唇は思わず真一文字に引き結ばれ、その拍子にまた唇が痛んだ。
 「澄ました顔をして、土方さんは上司の女を横取りする昼メロ的展開が好みだったんですね」
 「横取るも何もアンタ近藤さんと付き合ってすらねェだろうが」
 お妙の仕草から半ば想像のついていた態度だけに、土方は淡々とそう返すが、
 「当然です、と言うか願い下げです」
 ぴしゃりとそう再びの笑みと共に叩き斬られ、癇癪めいた罵声を上げたくなるのを何とか喉奥ギリギリの所で止めた。その代わりに右手でぐっと拳を固める。左手はとっくに紙袋をじっと掴んだ拳の侭だ。
 「……だろ。で、想像はつくとは思うが、これはアンタ曰くのゴリラからの頼まれもんのクリスマスケーキだ」
 「そんな事だろうとは思いました。目の前にこれを叩き付けるゴリラの顔面が無いのが本当に残念だわ」
 妙にしみじみとそんな事を言うお妙に土方は、俺だって好きでこんな事やってるんじゃないんだ、と言うつもりで溜息をついてみせた。好きでやっている訳ではなくとも、好きでやっているも同然だろうと言いたげなお妙の、底なし沼の様な笑顔が紙袋の向こうには見えていたが。
 確かに好きでやらねばやる筈も無いとは土方も自覚している。どうしようもない事だとは思うが、昔から近藤の頼み事には何かと弱いのだ。親友や上司と言うより、仕様のない子供の面倒でも見ている心地にさせられるからだろうか。
 「気は乗らねぇかもしれねェが、俺が頼まれて買って来たこのケーキに罪はねェから、それは止めてやってくれ」
 朝早々からわざわざ交通機関を利用して、銀座くんだりまでわざわざ足を運んだのは他でもない土方だ。何でも、クリスマス当日だけの限定生産のケーキで、プレミア狙いなのか予約は無しの当日店頭販売分だけだと言う話で、開店前から寒い中だと言うのに出来ている店の前の行列に並ぶ羽目になった。
 列に並んでいるのは親子連れや女ばかりで、そんな中に刀を下げた飾り気の無い着物姿の男がマフラーに口元まで埋めて一人混じっているのだ。土方の姿は悪目立ちどころか不審者一歩手前級に目立っていた。
 ひそひそと囁き交わされる興味の言葉の中、漸く店が開店して針の蓆から解放されたと思いきや、次には問題の限定ケーキのビジュアルの──何と言うか、如何にも世の女子供が好みそうな凶悪な可愛らしさだ。今風に表現するのならば、さぞSNS映えしそう、とでも言うのか。
 当然、片仮名のややこしいふわふわした名前など口には出来ず、
 「こ、この限定のやつを一つ…」
 と乾いた唇から紡がれる乾いた調子で言えばにっこりと営業スマイルが返ってきて、
 「恋人への贈り物ですか?」
 などと悪意など欠片もない様な愛想で問われ、「ええまあ…」と曖昧に答えるほか無かった土方である。どうせ相手が受け取る見込みはゼロ以下なのだと思えば、どうして俺がこんな目に、と嘆きたくもなる。
 そんな苦労の挙げ句手に入れた品を台無しにされるのは堪ったものではない。後から建て替えるからと、今はまだ土方の財布からの出費でもあるのだし。
 ちなみにそのケーキをオーダーした近藤は、今日は定例の用で登庁している。昼過ぎまでは戻れないだろうと言う事で、ケーキが売り切れる前に代わりに購入する必要があったのだ。
 そうして首尾良く(と言うには色々問題があった気がするが)ケーキを手に入れた土方が屯所に戻ると、近藤は松平に付き合って夜まで戻れないと言うので、ケーキを買うばかりか渡す事まで頼まれる羽目になったと言うのが、クリスマスイブの今日、土方が恒道館の門前で長々立ち尽くす事になった経緯である。
 「どうせ夜になったらパーティだとかで、万事屋の連中も来るんだろ。アンタが近藤さんからの贈り物が嫌だって言うんなら、アイツらに食わせてやってくれ。その方がパイ投げされるよかマシだ」
 近藤からの贈り物、と言う時点でお妙に受け取る気が生じる筈もないのは百も承知だが、だからと言ってこんな如何にもクリスマスと言った可愛らしいケーキをその侭屯所に持ち帰った日には、近藤には泣かれ、沖田にはからかわれ、他の連中には指を指して笑われるだろう事は請け合いだ。
 それに持ち帰った所で土方はあんなごってりとしたホールケーキを食したいとは思わないし、かと言って甘味に目が無い恋人にクリスマスプレゼントと宣って渡せる気もしない。
 ケーキを無駄にせず、且つ、ちゃんと食べて貰えそうな保証のある所に行って貰うのが一番良い。そんな訳で土方の悩んだ挙げ句の処遇(の提案)であったのだが、お妙は何か妙な事でも見た様にきょとんとした表情で土方をまじまじと見返して来た。
 「何だよ」
 「珍しいですね。土方さんが銀さん達の事を気に掛けるだなんて。そう言うの、ツンデレって言うんでしたっけ?」
 「いや絶対何か違うと思う」
 如何にも銀時の言いそうな巫山戯た事を言われ、土方は痛む頭をポケットからつい出した右手で押さえた。僅かに温まり始めていた熱が寒さに忽ちに冷えて行くのを感じながら溜息をつけば、白い息になって消える。
 (まぁ野郎の事だからどうせ、ゴリラのおこぼれじゃなくてちゃんとしたケーキを寄越せとか、馬鹿な事を言うんだろうが)
 それが簡単に出来たら苦労はしない、と思う土方である。洋菓子店なんてつくづく己の肌には合いそうもない。
 「一応は贈り物って体裁のもんだ。食いたい奴の腹に収まった方が良いだろ。まぁどうするかを決めるのはアンタだが」
 「……そうですね。ゴリラがまた付け上がるんでしょうけど、食べ物を粗末にする訳にもいきませんし」
 駄目押しの様に言えば、お妙はふうと溜息をつきながらも、存外に素直に手を差し出した。気を変える前にと、土方はその掌にさっさと紙袋を持たせて仕舞う。
 「すまねェな」
 面倒かけさせて、と言えば、その手に鬱陶しさとして長く重さが付き纏うのかも知れないケーキの箱をちらと見てから、お妙は微笑んで目を閉じた。
 「いいえ。ちゃんと銀さん達と食べますから」
 妙に強調してそう言うお妙の姿から曖昧に目を游がせつつ、役目をなんとか終えた土方は適当に暇を告げて恒道館の門に背を向けた。
 銀時と土方との関係は一応誰にもばれてはいない筈なのだが、妙に含みのある物言いだと思えば、女の勘は鋭いと言うべきか、単に嫌味を返されただけだと思うべきか、少々受け取り方に困る。
 (……全く。クリスマスだか何だか知らねェが良い迷惑だ)
 朝から恥ずかしいケーキを買いに行かされ、気乗りのしない家の呼び鈴を鳴らす羽目になって、想う相手にケーキ一つ普通に贈る事すら出来ない己のつまらなさを思い知らされ。全く厄日としか言い様が無いのだが。
 まあ、クリスマスだからとか何とか言われ、非番の明日の夜に会う約束を一方的に取り付けられた、その事自体はそう悪いものでは無いのかも知れない。
 (……ま、コンビニのケーキで良いって言うんなら、持って行ってやるか)
 それこそツンデレだとか何とか巫山戯た事を言われるだろうか。銀時の反応を想像して苦笑すると、煙草を痛む唇の間にくわえて土方は屯所に向けて歩き始めた。
 正午近くになって、空はますます灰色く重たくなって行っている様だ。気温も随分と下がって来ている気がする。この分だと夜には世間の、この日を喜ぶ誰もが望んだ通りの雪になるかも知れない。




ケーキにも洋菓子店にも特にモデル無し。きっとイン○タ映えする感じのやつ。

のち、土方。