冷ややかな情熱



 全く、よく飽きもせず騒げるものだと思う。
 真選組と言うこの連中は、なんだかんだと理由をつけては宴を開いたり飲んだり騒いだりする事が余程に好きらしい。酒も夜も深まり始めた頃に、伊東鴨太郎は一人そう思って賑わいの中、空けた盃をそっと置いた。
 酒の席と言うものの役割は解る。古来より酒とは人の心を軽くし滑りを良くしたり、互いに心の無防備な部分をさらけ出す為の手段として用いられて来た。目的は、仲間意識を深める為や敵では無い事の証明など様々だが、大体の所は同じだ。
 アルコールが入ると人間の心は自然と柔らかくなる。親睦を深める為であっても、重要な取引を行う上であっても、人間関係に於いてアルコールと言う物質の果たす役割は大体の場合は確かなもので、その儼然たる事実は憶えておくべき事柄と言えた。
 人間関係を排除しては社会に於いて生きてはいけない。それは警察だろうがテロリストだろうが将軍だろうが同じ事だ。人好きがしなかろうが、好ましくない者らであろうが、酒を間に挟んでより良い人間関係を構築し社会を泳ぐ困難を少しでも生き易くやり易くしようと言うのであれば、それに対して億劫な心地を隠してでも付き合いは適度にこなした方が良い。アルコールの効能はその役割をこなす為の手伝いには申し分無いのだから。
 果たしてそう言った目的が彼らにもあるのか無いのかは定かではないが、兎に角、真選組の者らは宴会と呼べる行事を大層好む様であった。何かにつけて酒を嗜むと言うのは、命の危険も伴う稼業に於いては一種のガス抜きでもあるのかも知れない。
 無論仕事に忙殺される中では表立っては行われる事は無いが、長期の激務の後や大掛かりな作戦の成功の後、或いは単に隊の休みの時などには、真選組(彼ら)は必ずと言って良い程に酒を囲んで騒ぐ。
 その規模は大小様々で、局長の近藤が自ら音頭を取る時もあれば、内輪ほどに少人数の事もある。中でも、幹部も交えたある程度の集まりにもなれば、伊東にも宴席への誘いがかかる。
 単に己の信奉者たちに誘われるだけの時もある。顔見知り程度の連中から招かれる事もある。伊東は表向き真選組での人間関係は、有り体に言えば『上手くやっていた』ので、それなりに人望も信頼も築き上げており、偶に暇が出来ればよく声がかかるのだ。
 今日の集まりは形式張ったものではなく、単に隊の親睦会の様な簡単なものだった。その為に料亭などは取っておらず、街中の居酒屋の座敷席を囲んだだけだ。人数も伊東を含めて十二人しかおらず、食事半々酒半々と言ったその様子は仕事帰りの飲み会と殆ど変わらない。
 ただいつもと勝手が少々違ったのは、こう言った少人数での宴席ではよくある、いわゆる幹部クラスの人間が伊東一人だけではなく、音頭を取った者以外にもう一人居た事であった。
 「副長、どうですかもう一杯」
 「いや、俺ァもう良い。後はお前らで空けちまえ」
 酒や料理の並ぶ卓上に片肘をついて煙草をくゆらせている土方十四郎は、酒瓶を傾けられた盃に掌を乗せて素っ気なく隣の禿頭の男の誘いを断っている。だが、言う程酒は入っていない事を、宴会が始まってから向こう、それとなく彼を観察していた伊東は気付いていた。
 「副長の奢りって事で良いっスか?」
 「馬ぁ鹿、部下の手前ちったぁ太っ腹な所見せとけ。俺は御免だけどな。あと言っとくがな、こんなんで領収書なんざ切らせねェぞ」
 それでも多少は酔いが回っているのだろう、いつもの無表情や仏頂面ではなく珍しく笑顔が多い土方の、然し言い種は常と変わらぬつれなさに、禿頭の大男は大袈裟に残念がる素振りを見せてから、同席する部下たちに自ら酒瓶を傾けて回り始めた。その順番は当然伊東の元にも回って来るが、「いや、済まないが余り深酒をする訳にはいかなくてね。僕も遠慮するよ」と、こちらは態度だけは愛想良く断っておく。
 「そりゃ残念だ。おーい、他に飲む奴いるかー」
 伊東の、申し訳無さを作った表情に何ら疑問を挟む事もなく、禿頭の男はまだ量の残っていそうな酒瓶を持って立ち上がって言う。その銘柄の値段がどのぐらいかを知る伊東だが、彼がああして部下や上司に振る舞う酒が、彼にとっての人間関係を円滑にする材料になるのだろうと何となくそんな事を考える。その為の出費であれば決して無駄にはなるまい。
 彼は今晩の集まりの発案者でもある、十番隊隊長の原田だ。近藤や土方とは武州時代からの付き合いらしく、階級や上下関係と言うものを余り気にせず彼らが相対しているのを、伊東は幾度となく見てきている。そこから得る感想は、彼や彼の部下が己の味方には成り得ない存在である事──敵であると言う事だけだ。原田の人望や人柄は多くの人間に好かれ慕われるものであるが、それは伊東にとっては寧ろ邪魔なものであると分類しても良いものだった。
 ともあれその原田の声掛けに今日伊東が応じたのは、単に人間関係として、付き合い程度の事はしておこうと思ったからだ。未だ真選組内部に己の思想に共鳴する者はそう多くはいない。故にこう言った集まりで互いの為人を知っておく事、どんな人間が居るかを知っておく事は必要だろうと判断したのだ。
 後は単に、珍しく暇が出来ていたからだ。どうせ同じ時間を潰すならば、横になって早々休んで仕舞うよりは何かしら意味があった方が良い。
 だが、結果としては無駄足であったと思わざるを得ない、言って仕舞えばただの脳天気な飲み会であった。伊東の得意の演説も弁舌も、聞いて理解するものがいなければ響かない。ここではそれは難しいと判断してからは、伊東は単に人間関係の把握や観察に時を費やす事にした。
 そしてこの宴席で最も予想外であったのが、普段は大概が仕事を理由に伊東との同席を望まない筈の土方の姿があった事だった。
 思えば近藤や沖田と言った、彼に特に近しい者の居ない空間で、土方が伊東と同席する事は初めてであった。そして同席する事が初めてであると恐らくは互いに自覚出来る程には、伊東は土方と折り合いが悪く、土方も伊東の事をあからさまに遠ざけたがるきらいがあった。
 互いの主導でもない場でその前提があったからか、伊東が土方に声を掛ける事は無かったし、土方も伊東に何かを口にする事は無かった。ただ、誰が割り振ったのやら知れぬが、同じ卓についた者の中では二人が一番の上官である認識があったからなのだろう、席は上座で向かい合った形になって仕舞っている。
 非常に近いが、言葉を交わす様な距離感は無い。だからと言って無用にぴりぴりとしている訳でもなく、伊東は土方を無い者の様に振る舞ったし、土方の方も矢張りそれは同様であった。
 原田が両者の間を取りなさずとも、土方は悪態を吹っ掛けて来ないし、伊東が嫌味を投げる事も無い。会話は無いが、ただそれだけだ。最初の乾杯の時にグラスをぶつけて、ちらりと意味の無い視線を寄越された。たったのそれだけ。接触らしいものはそれでお終い。
 向かい合って盃を交わしながらその程度しか接点が無いと言う事を奇妙と言えば確かにその通りではあったが。
 伊東とて己が土方に嫌われているだろう自覚はあったので、わざわざその点を取り上げて無用な火種を投げるつもりは無かった。これは飽く迄人間関係の補強或いは観察の為の、付き合いの上での宴席なのだ。この無駄に近い時間の中、辛うじて見つけた一応は目的であるその事を伊東は忘れてはいない。
 卓に戻した盃はもう空だ。追加の酒は先程断った。もうこれ以上盃を重ねる気は無い。
 頃合いを見計らってちらりと腕時計に視線を走らせる。時間は店に入ってからずっと把握していたが、これは時間を気にしなければならないと示す為のジェスチャーだ。
 果たして文字盤の示す時刻は予定通り。日付が変わる頃まで酒を供すこの店の店じまいには未だ早いが、夜歩きにはそろそろ遅くなる頃合いにあった。伊東は時計を見遣った侭、意識して申し訳の無さそうな笑みを面相に刻みながらそっと腰を浮かせる。
 「済まない、原田君。この後屯所に戻ってからやらねばならない事があってね。僕は一足お先に引き揚げさせて貰うとするよ」
 「おっ、もうこんな時間か。忙しい中だってのに済まねェな先生、今日は来てくれて良かったよ」
 「こちらこそ、良い酒を楽しめた」
 何故か握手を求めて来る巨漢の厚い掌を握り返して、心にも無い事を平然と紡いだ伊東は、酔いが回って上機嫌そうな『仲間達』に手を振られ背を見送られながら店を出た。勘定は宴の前に原田に支払ってある。原田は自分が音頭を取ったのだから奢ると言って譲らなかったが、「僕も一応は真選組の幹部だからね」、とやんわりと、然しはっきりと諭しておいた。
 酒の席と言う、人間関係や社会での位置取りの為の役割を持つ場では、下手な貸し借りは無い方が後々に響かないのだと知っているからだ。
 縄暖簾を除けて店の外に出た伊東は、それまでの上機嫌なほろ酔い顔をするりと消して歩き出す。まるきり酔っていないと言う訳では当然無いのだが、如何にも士が、酔っぱらってます、と夜道を歩くのなど、攘夷浪士に襲ってくれと言っている様なものだ。一人で帰る事を想定して酒の量はセーブしていたが、生憎の曇り空は想像より道の先を暗がりに引き込んでいる。遠回りだが繁華街の方へ回って駕篭を拾った方が良いだろうか。そんな事を考えながら、全く面倒な誘いを受けて仕舞ったものだとぼやいて頭を巡らせかけ。
 「よォ、先生」
 不意に背後の方より掛けられた声に、伊東は辛うじて驚かず反応をしてみせた。聞こえた声も、聞こえた方角も、憶えがあったからだ。みっともなく狼狽える様な真似は見せずに済んだと、誰にとも知れず思いながら、伊東は殊更に悠然と来た方角を振り返る。
 まず目についたのは、闇の中にぽかりと浮かんだ膚の色合いだった。この男は隊服以外でも黒い装束を好んでいるらしい。まるで闇と同一化して潜んでいるのかと思える形に、濁った紫煙をくゆらせる煙草をくわえた顔と、いっそだらしないとも見える程に崩した着物の袷から覗く、着物と対照的にくっきり映る白さ。それが先頃伊東の出て来た店の前に佇んで、こちらを見ている。
 「土方君。どうしたんだい、ひょっとして僕は忘れ物でもしたかな?」
 忘れる物など無いが、態とらしく伊東は自らの身なりを確認する様に見下ろしてから、闇に誂えた様に佇む土方の姿を油断なく見遣った。
 真選組副長・土方十四郎。その名は伊東にとって紛れもなく障害と呼べる分類に配されていた。彼は現在の真選組と言う形の八割方を作った人間で、攘夷浪士からの恨みの程度で言えば伊東など遙かに凌ぐ、言って仕舞えば真選組の──幕府の狗の紛う事無い代表格の一人である。
 彼は伊東の前では常に剣呑であった。鋭く遠ざけるでもなく、偽って阿るでもなく、単純に『厭う』と表現するに相応しい様な、関心の無さそうな態度を当初から殆ど隠す事なく示し続けていた。
 土方の顔の横には居酒屋の赤提灯。その仄かな朱色に照らされた顔は、今日も矢張りいつも通りに剣呑な気配を湛えている。
 狭い通りには疎らに幾つか同じ様な飲み屋が点在していたが、辺りを歩いている者は殆どいない。遠くの方ではもう店じまいなのか、ビールケースを運ぶ老人が小さな店とこの通りとを出入りしている。硝子瓶が打ち鳴らす涼やかな音が遠慮がちに聞こえるだけの、静かな夜道。
 咄嗟に物騒な事を伊東が考えたのも已む無き事。土方の腰にはいつも通りに鋭い切れ味の得物が収まっていたし、彼が一声掛ければ店の座敷で酔っている連中も忽ちに酔いを醒まして出て来るだろう想像も容易い。
 だが同時に、こんな場所で土方が『そう』する理由などある訳がない──と言う確信もあって、伊東は土方の、ほんの僅かの呼吸の間を我知らず緊張を以て待ち構えていた。
 「いや、そんなんじゃねェよ」
 土方はくわえていた煙草から息を吐くと、指の間にそれを抜き取って、彼にしては酷く珍しい事にも伊東に向けて笑みを添えて口を開いた。
 「俺もそろそろ引き揚げようとしていた所でな。折角だ、不用心なのもいけねェしどうせ帰り道も同じだろう。一緒に帰らねェか」
 そんな土方からの思いも寄らぬ申し出に、伊東が驚かなかったと言えば嘘になる。ただ、その時伊東の脳裏に咄嗟に過ぎったのは、普段碌に言葉すら交わさぬ土方の、恐らくは見た事も無かっただろう柔らかな態度と表情とがまるで、夜道で男を誘う夜鷹の様に蠱惑的に見えたと言う、今ひとつ己でも信じ難い感想であった。
 それが態と作られたものなのか、アルコールの力で自然に出たものなのか、常からあるものなのか。罠か、他意は無いのか、偶然なのか。逡巡は然程に長くはない。
 「……別に、断る理由は無いよ。好きにし給え」
 眼鏡の位置ををそっと直して、伊東はそう言うなり土方にさっさと背を向けて歩き出す。こうなれば駕篭を拾うと言うプランは廃止だ。面倒な事が更に面倒になりそうだと言う悪態は既に浮かんでいたが、それを遠回しに吐き出してまで、今までに知る事のなかった土方の様子を知る機会らしきものを棄てる理由は無いと思えたのだ。
 (一体何を企んでいる?)
 そう問うのは簡単だったが、どうせまともな解答など返るまい。足取りもしっかりと進んで行く伊東の少し後ろを、同じ様な土方の足音が追い掛けて来るのを気配と煙草の臭いだけで確認しながら、伊東は油断なく土方の動向を、僅かでも変化が生じれば見逃さぬとばかりに伺う事にした。
 土方が己を嫌っている事は百も承知だ。故に、夜道での暗殺と言う説は真っ先に浮かび、然し真っ先に消えた。先頃得た結論と同じだ。こんな場所で土方が『そう』する理由は無い。
 何故ならばここは一般の繁華街の一部にある街路で、それも人気がゼロと言う訳では無い場所だ。況して繁華街に近い事もあって監視カメラもある。自治体や警察で設置したものもあれば、居酒屋や民家が独自に設置しているものもあるのだ、それら全てを把握した上でその死角から伊東を殺すと言うのは非常に難しい。
 それに何より今のところはその理由が無い。確かに伊東は真選組での台頭を見せ始めているが、局長の信頼も厚く、今日の原田の様に幹部たちと表向きは上手い事やっている。黒い所など全く見せてもいない。仮に土方の勘が何かを察知していたとして、『今』、伊東の命を狙う事にはデメリットしか生じないのだ。
 土方がそんな愚かしい行動を取る意味は無いし、する奴でも無い。それは伊東の思考に一種の信頼と言っても良い程の確信をもたらしている。
 「………」
 「………」
 かと言って、夜道をお喋りしながら帰ろうなどと言った雰囲気ではないのは言わずとも知れている。この現状が容易く物語る通りだ。嫌いだと憚らぬ態度を向ける男と、嫌われていると承知している男との間で何か楽しい会話など弾む筈もない。
 考えれば考えるだけ解らない。土方から仕事以外での言葉を、しかも柔らかな態度と表情まで添えて掛けられるまど、伊東は全く想像だにしていなかったし、何かその行動には裏があるのではないかと矢張り勘繰って仕舞う。
 どうにも苦手な男なのだ。近藤の様にお人好しばかりの成分で出来ている訳でも無く、沖田の様に得体の知れない子供と言う訳でも無い。解り易いからこそ、理解に苦しむ、伊東にとって土方とはそんな男なのである。
 彼の、いっそ冷酷な程に美しい面相の下では、いつでも真選組の為と言う野望が渦巻いている。可憐では無く野性的で、物静かそうな見てくれを裏切って獰猛。真選組の為、近藤の為にならば、その表情一つ変えず何だって望むし差し出すだろう。そんな解り易い男。
 なまじに真選組の他の者らと異なった頭が──自ら考え行動出来るだけの頭脳も思考もあるからこそ、そんな男がただ近藤の様な人が好く愚直なだけの男に黙って使われているのか。それが伊東には全く理解出来ぬ点であった。
 馬鹿では無いが思想はこれっぽっちも相容れそうもない。彼は自分自身の大義も目的も持っておらず、ただ『今』と言う真選組の過ごす時を、近藤の望むものを叶える為だけに生きようとしている様な男なのだ。
 そんな土方の事を、惜しい、と当初幾度思ったか知れない。彼は真選組の敵には賢しく冷徹であるが、近藤の前では忽ちに愚鈍に成り果てる。近藤と言う将が土方と言う兵を台無しにしていると言っても良い。
 近藤が居なければ。或いは伊東の方が先に彼と出会っていれば。この形は幾分変わっていたやも知れぬと、戯れ言と解っていても夢想せずにはいられない。つまり伊東は土方の事を軽んじてはいなかったし、ある意味では恐れてもいたのだ。
 何故ならば、土方もまた伊東の事を恐れ警戒していたからだ。きっと土方は得意の猜疑心で以て、伊東が真選組の者らと何故相容れぬのか、その癖何故表面上良く振る舞うのかと言う事に気付いている。よもや今すぐに暗殺や排除とはかかれぬとしても、彼は最大限の敬意を以て伊東鴨太郎と言う男を敵と認識し、警戒しているのだ。
 だからこそ惜しい。決して向き合わず対局を重ねている様な、己と土方との関係性が。もう少し互いに知悉する何かでもあれば、好敵手とでも言えたのではないかと、伊東はそう思っている。
 (彼を取り込む事が出来れば、話は早かったのだがね)
 我知らず浮かんだのは何処か苦味の強い皮肉げな笑み。解っているのだ。土方がああ言った性質であったからこそ、彼は恐れるべき敵でもあるのだと。
 「……?!」
 と──、取り留めもなくなりつつあった思考が違和感を拾い、伊東は足を止めた。気付けばあれだけ注意を向けていた筈の土方の気配が背後に無い。足音は疎か煙草の臭いすら消え失せている。
 運河に掛かった小さな橋のたもとで足を止めた伊東は、失せた土方の気配の代わりに己へと向けられる複数の注視や殺気を感じて、反射的に身構えた。
 狙いは橋の上だったのだろう。前後を塞げば容易く逃げ場の奪われる、待ち伏せには最適と言える場所だ。それより僅か手前で止まった伊東に、気付かれたと悟ったのか橋の向こうから、そして川沿いの道の左右の暗がりからわらわらと不審な人間たちが現れた。
 (襲撃か。くそ、僕とした事が)
 刀に手を掛けながら、一旦は少しづつ背を建物の方へと移動させ、伊東は油断なく自らを取り囲もうと包囲を狭めてくる人間たちを見遣った。夜には余り目立たぬ色の袴姿に佩いた刀。攘夷浪士かはたまた士か。然し異様なのは、彼らが一様に不気味な面を被っている事であった。
 新しいものに見える猿楽の面たちは、誰が見た所で、暗い夜道にはその無表情も相俟って酷く不気味で異様なものに映る。どこぞの土産物屋などで購入したものか知れぬが、揃いの面など被って来ていると言う事は、正体を悟られぬ様にする為と、人相を隠す目的と、集団の意味を誇示する目的とがあると言う事だ。
 (よもや彼に填められた…と言う事は──、……いや、あるまい)
 考えがまとまるより先に否定が出た事に自然と苦笑する。暗殺であれ襲撃であれ士であれ攘夷浪士であれ、ただの風変わりな強盗であれ。土方がその裏に居るとは、矢張り伊東の考えの中では到底思えなかった。タイミング良く姿を消した以上全く無関係とは言い切れないとは思ったが。
 (まあ、誰か一人でも生かしておけば良いだろう)
 じり、と迫る包囲網の中、一人が刀を抜くと次々に鞘走りが鳴り、応じて伊東も腰の得物を引き抜く。幾ら多勢に無勢とは言え、この程度の烏合の衆に後れを取る様な鍛え方はしていない。
 故に自負も、そして自信もあった。敵が動くより先に動いた伊東は、正にその通りに瞬く間に斬りかかって来た幾人かを切り伏せて包囲の薄くなった場所へと移動する。
 川沿いのこの辺りには空き家や倉庫も多い。種類の知れぬ建物に背を任せておくのは危険と判断した伊東は、橋に向かって川縁を背に立った。下手に建物の陰に身を潜めて、家の中からブスリとやられるのは避けたい。
 声も上げず斬りかかって来る男の剣術は、ここ最近で見慣れた型に近い。誰しも我流と道場剣術との間の様な柔軟な動きをする事に、余り驚きは無かった。伊東はただ冷静に自らに振り下ろされる刃を躱しては反撃し、会敵して僅か一分足らずで襲撃者たちの数を大幅に減らしていた。
 「──」
 そこに、呼気の様な叫びの様な音。いつの間にか背後の方へ回ろうとしていた襲撃者の一人が、刀を上段に大きく振りかぶった侭固まっているのを伊東は見る。
 「……」
 相手をするまでも無かった。男は、ぐらり、と傾いでまるで出来の悪い人形の様に左右に揺れながら斃れ、袈裟の傷口から血を飛沫かせ断末魔の様に痙攣し息絶えた。
 その男と、彼を背後から斬った男とに注意を向けたのは僅か一瞬。伊東はそちらに背を向けて直ぐ様に次の襲撃者を相手取った。背後からブスリ、とか、ざくり、とか、やられる事は確実に無いだろうと言う考えの顕れでしか無い態度に、期せず伊東の背後を護ってやる形になった男が鼻を鳴らして笑う。
 「先生、アンタも一端に命を狙われる様になるたァ、随分とまぁ有名になったもんだ」
 死体を一つ作りながらのそんな軽口に、伊東は「ふん」と口端を吊り上げる。
 「てっきり、君もその一人だと思っていたよ。土方君」
 「俺が?…まさか。俺ならこんな馬鹿な真似はしやしねェよ。やるのならもっと上手くやるさ」
 笑って放たれるそんな言葉を額面通り受け取るつもりは伊東には無かった筈なのだが、矢張り『今』は違うだろうと言う確信を引っ繰り返す程の材料にはならなかったので、伊東は土方に、土方は伊東にと、互いに背を預ける形になって襲撃者たちを相手取って戦う。
 (そうだ。君はそんな愚かな真似をする男じゃない)
 久方ぶりに浮かんだ、他者への好意的で肯定的な評価を下した己に、今更もう驚く事はない。土方の出現でか、襲撃者たちの間に広がる動揺の気配に斬り込んだ伊東は、未だ戦意の強く残っていそうな者から順に切り捨てて行った。そう、残すのは一人で構わないのだ。
 そうして、足を斬られ、戦闘不能ながら這いずって逃げようとする男が最後に残された。他は累々と屍の山を辺りに作っている。此処は真っ暗な夜であると言う事以外は普通の街中なので、全く以て悪夢としか言い様の無い光景だ。
 伊東が刀を収める。然し、捕縛は帯か何かで足りるだろうと考えていたその空隙に、土方の刃がするりと入り込んだ。無造作に突き出された切っ先は、逃げようとしていた男の項をとんと突き、そして血の帯を引きながら引き戻される。伊東が制止する間も無い、鮮やかな一撃だった。
 男は這いずっていた上体をぐにゃりと折り曲げる様にして斃れ、貫かれた喉から救いようもない血溜まりを作って動かなくなる。
 ひゅ、と刀の血を飛ばして、懐紙で刃を一撫でしてから鞘へと収める土方の横顔を伊東は思わず見た。そこには勝利の高揚感や生命を奪った事に対する愁いなどは勿論無く、ただ淡々と己の為すべき事をする鬼の義務感が宿っていた。
 「……証言を取る必要があったんじゃないかね」
 逃げようとした背に、憶えのある筈の者に、躊躇い一つもなく向けられた土方の剣に若干の嫌悪感に似たものを感じながら、伊東は肩を竦めた。どの道生かして捕らえる事が出来た所で、どうせ無駄だったのだろうとそう理解して仕舞っていたので、言葉に責める調子は乗っていない。
 「どっちにとっても余り楽しい事にはならねェだろうよ」
 刀を収めて凄惨な現場を冷ややかな目で見回した土方は、そう言ってまた少し笑った様だった。
 「俺だとは思っちゃいねェんだろう?」
 首謀者は、とせせら笑う様な調子で言う土方に、伊東は眼鏡をそっと直して嘆息した。
 「…君こそそうなんだろう」
 言葉は問いではなく断定になった。すれば土方は今度ははっきりとくすくすと笑い声を上げて、困ったもんだ、と言いたげに腰に手を当て首を傾げてみせる。
 「全く、厭なもんだな」
 響きには自嘲が強く、伊東は心の中でだけ、お互い様だろうに、と返した。なまじ『敵』と認識し合っているからこそ、解って仕舞うのだ。腹立たしい程に。
 そう口にしながらも、土方の心には己とは異なり惜しむ様なものなど恐らくは欠片も無いのだろうとも、伊東は解っていた。とっくの昔から変わらず。あの冷えた眼から逃れられているのは近藤勲とごく少数の人間たちしか居ない。
 「まあ、君も姿を消してくれたしね。咄嗟に疑いはしたが」
 「すまんね。俺が居たらこいつらも襲撃はしてこねェと踏んでたからな。少し離れて様子を見させて貰う事にしたんだよ」
 伊東の抗議らしい言葉に、「だからちゃんと手助けしただろうが」と全く悪びれた風でもなく、土方。期せず釣り餌にされた伊東は、手助けなど必要無かった、と返しかけた言葉を呑み込んだ。どうせならば恩を着せたと思わせておく方が良い。
 そうしてまんまと釣りを成功させた土方は、最後に殺めた男の骸を幾分乱暴に蹴って転がすと、その顔を覆う翁の面を外した。
 面の下から現れた顔は、死んでいる事以外は言って仕舞えば普通の男の顔だ。だがその顔に伊東は見覚えがあったし、恐らくは土方にとってもそれは同じ事だろう。彼は肩を竦めて見せると面をぽんと男の顔の上へと戻した。椀に蓋でもする時の様な無造作さだった。
 先頃の宴会の席にも参席していた男の死に顔が面の下に隠される。確か十番隊の比較的新しい入隊者で、近藤の人柄に惹かれ土方の意志に恭順する様な言葉を幾度か口にしていた。
 彼の上司である所の原田が振る舞っていた酒は見事に無駄になった様だ。皮肉にそんな事を思う。
 「こいつらはアンタに反対する真選組隊士だ。……いや、元隊士か」
 汚いものにでも触れたと思ったのか、それとも本当に汚かったのかは知れぬが、土方は少し態とらしい仕草でぱんぱんと手をはたくと、居並ぶ骸の数を目視で数えて、それから自らの携帯電話を取り出した。
 「勝手に上官に対する造反なんぞやらかした時点で、法度違反の粛正対象だからな」
 隊内でアンタの発言力が大きくなっているのを快く思わない、大方そんな連中だろうよ。そうつまらなそうに、態と解り易い様になのかそんな説明を付け足しながら携帯電話を操作する土方の横顔を盗み見て、伊東は密かに眉を顰める。
 法度を破った元隊士とは言えど、彼らは土方の言う通りに伊東の台頭を快く思わぬ者であって、土方にとっては寧ろ味方や手駒に成り得る存在の筈だ。
 だがそれは彼にとってはただの、粛正と言う名の作業で片付けられるものでしかないのか。恐らくはメールで、この現場の処理の指示でも出したのだろう。大して時間もかけずにぱちんと閉じた携帯電話を袂に元通り放り込んだ土方の表情は既に平時のそれで、『処理』さえ命じて仕舞えばこんな一幕ぐらい彼にとっては何でも無い様な事なのだろうと、否応なく気付かされた伊東は口を開いた。
 「……君は、君の味方と成り得る者も殺すのかい」
 真選組と言う筺はただの近藤のままごとを叶える為だけのものであって、土方にとってはその結果さえあれば裡で何が生きようがどうでも良い事なのだろうか。彼は、その一点以外に於いては何処までも愚鈍であろうとするのだろうか。
 問いに乗ったのは恐らくは呆れと、ほんの僅かの失望。その伊東の口調に何か厭なものでも敏感に感じ取ったのか、土方は目を眇めて剣呑な表情を形作りながら、然し唇でだけは弧を描いてはっきりとわらってみせる。
 「やれ何派だ、誰派だとか騒ぎ立てて、本来の真選組の在り方を忘れちまう様な連中を、味方なんぞと思った事は無ェよ」
 「……」
 つまりは、近藤に従いその志を支え生きる事を、何かしらの思想と履き違えて、挙げ句暴走する様な者は『彼には』不要と言う事か。
 本当に、土方十四郎と言うこの男には、自らの思想など無いのだ。それを抱くべき頭脳を持っていながらも、それを利せる組織を有しながらも、自らが主導者と立つ事は無く、大将の望む志などと言う青臭く無価値なものだけを信じて生きていくつもりなのだ。
 (呆れた、極端な男だ)
 そうは思うが、極端さと言えば己にもそう言った心当たりぐらいはあると言うのが本当の所であったから、伊東は目の前の光景に関心を失った素振りをしながらゆっくりと歩き出した。そしてその後をまるで当たり前の様に土方の足音が付いて来る。
 己と、己を理解するか理解を放棄し従うかと言う人間しか伊東は必要としていなかった。愚鈍な者も崇高な思想も無知も、何れにも価値など無い。伊東鴨太郎と言う人間の利となるか害となるか、それ以外の種類の人間に特別な興味など抱く必要性すら感じていない。
 そう言った点だけで見れば、仲間だった者を平気で斬り捨て踏みにじれる、土方と己とは方向性が似ていると言えるのかも知れない。
 (……驚いたな。余程に僕は彼と言う存在に何か意味を見出したいと見える)
 自らの不可解とも言える思考の流れに、咄嗟に顔を顰めたのは恐らく、笑いそうになったからだ。そこまで『敵』を肯定的に捉えようとするのも、認めようとするのも、伊東の今までの人生観の中には前例が無い事だったのだ。
 理解を示して持ち上げて見ては、欠点を無理矢理見出して諦めようとする。己の心の働きをそう冷静に分析してから伊東は、背後をぴたりと、一定の距離を空けた侭歩く土方の顔を何となく想像してみた。
 果たして彼は、この背を向けた隙だらけの『敵』を、どう殺すべきか、今殺せぬかと、そんな事で頭を一杯にしているのだろうか。
 想像の答え合わせをしたくて、そっと足を止めて振り向くと、土方は顔色ひとつ変えぬ侭、歩調を全く緩める事も無く、立ち止まった伊東の横をただの空気か何かの様に擦り抜けて歩いて行った。お前の後を付いて歩いていた訳では無いのだとでも言う様に。或いは本当にその通りだったのかも知れないが。
 「……、」
 無関心か軽視か。それともただの強がりか。伊東は何も語らぬ土方の背を暫しむっと見つめていたが、やがて歩を再開させる。今度は歩く土方の後ろを伊東が少し遅れて追い掛ける形になった。
 (今斬りかかれば殺せるだろうか)
 伊東は剣の腕では土方に少なくとも後れを取るつもりは全く無い。ならば奇襲を掛ければ或いは、と思う。密かに懐の携帯電話を使って己の信頼出来る部下たちを呼べば。或いは。
 「……」
 土方の背は無警戒の侭で、横を通り過ぎた時の態度は無関心。少なくとも話し合いも斬り合いもするつもりは無いらしい彼の事を、自分ばかりが真剣に考えていると言う事実が酷く馬鹿馬鹿しいと思えて来て、伊東は深々と嘆息した。態度に出すつもりなど無かったのだが、裡に溜めておくと言うのも何だか気持ちが悪かったのだ。
 その大きな溜息を聞き咎めたのか、僅か眉を寄せた土方がこちらを振り向く。何だか漸く関心を惹けた様な、妙な達成感に似たものを憶えて仕舞った伊東は、土方が前方へと顔を戻して仕舞う前に咄嗟に言葉を探した。
 「…先程、」
 「ん?」
 「先程の襲撃。黙って見ていればそれだけで、君は邪魔な僕を始末出来たんじゃないかい。部下が勝手にやっただけと言う大義名分まで揃う、理想的な結果になったと思うのだが」
 咄嗟に探して咄嗟に出たのは、つい先程に得た疑問の一部であった。襲撃者の一味は伊東に反感を抱く隊士らで、どちらかと言わずとも土方派の者たちだ。彼らの勝手な思想や行動が土方の逆鱗に触れるものであったとして、その糾弾は伊東が殺されるのを待ってからでも良かった筈である。
 それどころか土方は、恐らくは帰り道で伊東が狙われるだろう事を察知して、わざわざ同道を申し出て来た。そして態と隙を作って決定的な粛正理由を彼らに作らせてから、処断を下した。
 内部の味方と明かな敵と。どちらをより驚異と見るかは言う迄もない。土方自身に伊東を暗殺する機会が『今はまだ』無くとも、部下の暴走であれば自らを無関係と断じるも、それ故に襲撃者たちを粛正するも容易に出来た筈である。
 因って伊東が口にしたのは余りに至極当然な疑問であったのだが、土方はまるで鳩が豆鉄砲を食った様にきょとんとした表情を形作った顔で、次の瞬間さも可笑しそうに笑い声を上げた。
 「何言ってんだ、前提がおかしいだろうが。もしもアンタがこんな所で殺されちまう様な奴だったら、そりゃもっと話も早かったろうよ」
 物騒な話題の割には屈託なくそんな事を言う土方の様子に、解り易く外れた螺子の所在を見た気がして伊東はやれやれとかぶりを振った。
 「成程。つまり少なくとも僕は君にとって驚異足り得ていると言う訳か」
 一触即発となってもおかしくない内容の遣り取りの筈だと言うのに、土方は笑っているし伊東も緊張感を感じはしない。今、土方の流儀で『そうする』気が無いのであれば、間違い無くそれは起こり得ない。そして伊東にも『今』土方を仕留める気は無かった。
 「……正直を言えば、僕は君の能力を買っている。君を好意的に思うし、君を敵には回したくはない。或いは君が将であれば、僕は君の良き片腕である事をも望めただろう」
 「そうかい」
 そっと目を逸らした土方は、伊東の言葉を聞き流すつもりの様だった。その事実に妙に腹が立った。今己は嘗て無い程に真剣に、本気の言葉を向けていると言うのに。
 思った途端手が出て、伊東は土方の腕を掴むと無理矢理に己の方へと振り向かせた。
 「それは、今からでも遅くは無い」
 近藤など棄てて仕舞え。そう言外にはしない言葉に、土方は掴まれた腕を見遣って目を細めた。笑っていたのか、不快感を示したかったのかは、俯き加減になった顔からは解らない。
 「……聞かなかった事にしてやるよ、先生」
 表情は解らずとも、答えは酷く単純なものであった。この議題では端から勝負になどならないのだとは、伊東とて解りきっていた事ではあった。ここで近藤に対する罵詈雑言を言ってやるのは易いが、そうすれば土方は今度こそ『聞かなかった事』には出来なくなるだろう。容赦など向ける筈もない。将を貶めた『敵』を彼はきっと許しはしない。
 伊東は、苛立ちと、理解の出来ないもどかしさの混じった溜息を態と大きく吐き出した。掴んだ手は一方的なものでしかないし、土方がそれに応じる事は決して無いのだろう。
 真に愚直であったのは近藤ではなく、この男の方だった。その解りきっている筈の事実を悔しく思う。この男は自らの能力を『それ』以外に使う気が全く無いのだ。
 賢しくも愚かに、己のやるべき事を正しく解している者と言うのは、何よりもたちが悪い。
 「………どうやら、僕は君にふられた、と言う事かい」
 少し戯けた、伊東にしては珍しいそんな言い種に、土方は面白いと感じたのかくつくつと喉を鳴らして笑った。伊東の五指に未だ捉えられた侭の腕は敢えてなのか自ら振り解こうとはしない。
 「もっと上手い口説き文句でも習って出直してくれ」
 「応える気も無い癖に、男に期待を持たせる言い方は良くないな」
 互いに投げたのは下らない、そして無意味な冗談。伊東は土方の顔から笑みの残滓が消えぬ内に、そっと手を放した。
 解放された腕を、再び掴まれぬ様にでもしたつもりなのか、懐中へと引っ込めると土方は伊東に再び背を向けた。
 考えはどうした所で変えられない。決められた意志は覆りはしない。あの手を無理矢理繋ぎ止める事の出来る何かを、伊東はどうした所で手に入れる事は出来ないのだ。相容れぬ生き様と言う隔絶の前に、臆病な伊東の心はそれ以上を近付く術を知らない。
 だからこそ未来永劫有り得ぬ、敵と味方と言う構図が変わる可能性を探す事さえ放棄した。とっくに解りきっていた筈の事実だが、それでも未だ、惜しいとか残念だとか思えるのが不思議だった。
 (……ならば、矢張りいっそ)
 無造作に歩いている土方の少し後ろを付いて歩きながら、伊東は己の刀へとそっと手を乗せた。夜道は繁華街を離れて先程より昏い。監視カメラなど無さそうな暗がりは家々の狭間に容易く開いてその時を待ち望んでいる様だった。
 背後から、殺気など顕わにせず一突き。或いは懐に潜めた脇差しで喉を掻き斬れば一瞬。土方に反撃の隙など与えず仕留める事は、伊東の腕であれば恐らく適う。
 そうすれば、彼は死体になる。真選組から邪魔な副長は消える。土方十四郎と言う人間は永遠に己のものにはならないが、己のもの以外にもならない。
 「………」
 視線の先には無防備な背中。然し伊東はかぶりを振ると、刀に掛けていた手をそっと引っ込めた。
 これは容易くつまらない謀。たった一人の人間を消すだけで叶う程の、伊東鴨太郎の最初の大仕事としては全く、やり甲斐さえ感じない様な些事。
 ただ一人を排除すれば、後は無能の頭は勝手に潰れる。空っぽの組織を乗っ取るも壊すも自在。
 その一人の人間に惜しむ価値があれども、意は無い。
 (どうせならば、『敵』となった君を殺す方が良い)
 裏切られた、などとは端から思わぬ様な男だ。だからきっと怒りはなく悲しむ事もなく、先程斬り捨てた襲撃者たちに向けた様な温度の無い表情が、その侭彼の死に顔になるのだ。
 彼はきっと、最期まで伊東鴨太郎の事を見てくれようとはしないだろう。だから良い。それで、良い。
 もしもそうでなければ。可能性の片鱗が見えたりでもして仕舞ったら、きっとその時には──




鴨の土方好きと構ってちゃん感はいっそ微笑ましいなあと思ってまして。

冷えてても情も熱もあるので。