かはたれとき



 ゴミの収集日以外にはゴミを捨てないで下さい。
 目を開けた時真っ先に飛び込んで来たのはそんな文字列だった。白い、カレンダーの裏と思しき紙に黒と赤のペンで、注意を促す様に書かれた大きな文字。雨に濡れても良い様にか文字の上には透明のテープが貼られているが、紙そのものは保護しきれなかった様で、角はぐしゃぐしゃによれているし、何度も貼り直されたのか画鋲の穴だらけだ。書いた主の努力空しく、そう遠からぬ内に注意書きの紙は剥がれて真下のゴミたちと一緒くたになりそうだった。
 ゴミ、と反芻した所で、漸く銀時は地面にべたりと触れていた頭を起こした。途端にずきずきと痛むのは地面に直接触れていた頭皮ではなく内側の脳みその方だ。思わず掌を当てて呻く。
 頭上では古ぼけた街灯がちかちかと明滅を繰り返している。その度照らし出されるのは小汚いポリバケツと丸くたっぷりと膨らんだゴミ袋。そしてそれらを威嚇する様に貼られた注意書きの紙。
 ゴミ捨て場。そう言葉には出さず反芻して、銀時は痛む頭をさすりながらその場にあぐらをかいた。どうやら酔っぱらってゴミ捨て場で眠りこけていたらしい。
 どう言う経緯でそうなったのかと言う記憶は全く無いが、判断出来そうな答えなどそのぐらいしか無い。残念な事に。
 この頭痛には憶えがあるし、胃の底には不快感が蟠っている。気分と言う意味で言えば最悪だ。然し呑んでからは結構に時間が経っている様で、嘔吐感は既に遠い。辺りをきょろきょろと見回してみるが、どうやら全く見覚えの無い場所と言う訳でも無さそうだ。
 枕代わりにしていたゴミ袋の一つは、ごつごつとして寝心地は悪いが幸いにもしっかりと封がされていたらしく、そう不快な臭いはしない。深夜からゴミを出す事自体は感心出来かねるが、朝来るだろう燃えないゴミの収集日と言う決まりは守られているらしい。あの貼り紙も一応は効果があると言う事だろうか。
 銀時はふらふらと立ち上がると、少し埃っぽい気のする着流しをぱたぱたとはたいた。吐き気は遠いが頭は痛い。住宅地にほど近い、狭い路地にはぽつりぽつりと古びた街灯が点在するのみで、家々に灯りや人の動きの気配は無い。
 耳を澄ませてみても、繁華街のざわめきや車の音は殆ど聞こえて来なかった。どうやら時刻は深夜かそれの終わり頃と言った所か。
 居酒屋を千鳥足で出たのが、よく憶えていないが多分に午前様も近い頃だった。…気がする。確か、もう閉店だよと言われて叩き出される様に歩き出したのだった。……様な気がする。
 一応は家の方面へ向かった筈だが、途中どこかで吐いて、疲れた心地その侭にゴミ捨て場のゴミ袋を枕にしたのだろう。
 曖昧な記憶は辿る途中で頭痛に幾度も妨害され、銀時は「まあ考えるだけ無駄か」といつも通りに埒もない思考を放棄した。懐の財布は無事だし、木刀も持っているのだ。何も問題は無い。
 (頭いてぇ…)
 呻きながら歩いた銀時は、近くの電柱に寄りかかるとごつりと額を押しつけた。軽く見積もって三、四時間は寝ていた筈だ。酔いなどとうに醒めて仕舞っているが、そうなると今度は二日酔いの酷い症状に襲われそうだ。昨晩はそんなに酷くは呑んでいなかった筈なのだが。
 幾ら春も近くなった頃とは言え、布団は疎か屋根も壁もないゴミ捨て場で熟睡するには流石に季節が早かったと言わざるを得ない。風邪でも引いたかな、とぼやきつつ、銀時はしんと静まりかえった町をゆっくりと歩き出した。
 空はまだ天頂に煌びやかな星々を浮かべており、黒い。地平が見えれば少しは時間が解ったかも知れない。建物に周囲をぐるりと囲まれた江戸の町中では、時間を探るも困らせられる。時計の類は生憎と銀時は持ち歩いていないのだ。
 (通り魔でも出そうな時間帯だねェ)
 街灯の僅かの光源に隣り合わせて、町は様々な陰影をそこかしこに不気味に描き出している。電柱の影、家々の隙間、鉢植えの花、駐車する車。そう言ったものの影から今にも、猫以外の生き物が飛び出して来そうな錯覚さえ憶える程に、闇と言うのは人の原初の想像力や恐怖心を煽るものなのだ。
 あくびを噛み殺しながら銀時は、昼間ならばきっと何でも無いのだろう闇の形を見つめながら歩を進める。己のブーツの立てる足音が、幼い時分であれば生じていただろう、益体もない想像を無粋に踏み砕いて行くのを、特に何の感慨も無く見送って通り過ぎて行く。
 闇の中から人間を見つめる、猫や虫の気配にびくびくする様な年齢でも無ければ性分でも無いのだ。魔に逢う様な事はしていないとまでは言わないが、今更と言うのが正直な所である。
 復讐されるも陥れられるも、今となっては心当たりは遠い。或いは、気紛れな通り魔に恵まれる程の驚異的な運の良さ──悪さか──も持ち合わせてはいない。
 河を渡す橋にさしかかれば、漸く地平が僅かに覗き見えた。未だ陽の気配は見えないが、地の縁は群青色に転じ始めている様だ。空はよく晴れて暗い。もう一時間もすればさぞ朝焼けが綺麗な事だろう。
 たっぷり四時間は眠っていたと言う想像が正しかった事に口端を下げると、銀時は気持ち早めた足取りでさっさと橋を渡った。川沿いの商店街はまだ静まりかえり、銀時の他には誰も動く気配は見受けられない。気の早い老人も未だ眠りの中だろう。早く帰れば二度寝が出来る。そうして寝て起きればもう少しこの頭痛もましになっているかも知れない。
 そう思って足早に家に向かっていた銀時だったが、ふとその足が止まった。最早これは反射か本能か。思って苦々しい心地を抱えながらも、真っ暗な夜の空気の中でそっと鼻を鳴らしてみる。
 「……」
 酷い臭いだ。死臭には未だ満たないが、濃密な腥い臭気。先頃のゴミ捨て場に、注意書きを破って燃えるゴミが棄てられていたとしても、ここまでの腐臭は放つまい。
 何となく自らの着物の臭いを嗅いでから、銀時は腥い空気の流れる方角へとゆっくりと頭を巡らせた。そこには、倉庫と小さな工場らしき建物との間に挟まれて闇を深める、隘路がある。
 「………」
 時計の類を持たずともこれだけは解る。これが魔に逢う時か、禍つ時か。口端を下げた侭、銀時はひっきりなしに続いては己の判断力を損なう様な頭痛を振り払う様に軽くかぶりを振ると、ぽかりと暗い狭間へと立ち入った。
 
 *
 
 隘路を暫し進むと、少しだけ開けた地点に出た。丁度倉庫の裏手となったそこは、昼間であれば隣の工場で働く人間が休憩でもする場所なのか、空き缶や吸い殻と言ったものが無造作に辺りに散らばっている。
 最初の犠牲者はそこに居た。隘路から広場に出るか出ないかと言った所。真正面から喉を裂かれて、真っ赤になった両手で自らの首元に触れた侭、濁った目を見開いて仰向けに倒れている。
 それを跨げば、次の犠牲者が壁に寄りかかる様にして座った侭事切れていた。額から腹部まで袈裟の斬撃が綺麗に描かれている。
 次の犠牲者もまた、壁に寄りかかる様にして座していた。真っ暗な広場の中で、口元にだけ紅いほのかな光源を添えて、濁った煙を血腥い空気の中へとゆったりと立ち上らせている。
 「…………」
 盛大な溜息をつくと、銀時はその犠牲者──になり損ねたものの前に立った。周囲の闇に紛れそうな真っ黒な着物と真っ黒な髪とが、その気配を察知したのか僅かに揺れて、白い皮膚を覗かせる。
 そこから現れる、よく見慣れた鋭い剣呑な眼差しに、銀時は密かな安堵の息を飲み込んだ。
 「生きてるか?」
 「……」
 一応そう問えば、唇の間の煙草が頷く様に揺れた。元より、接近してきたのが銀時と言う見知った人間であると気付いていたからこその、この緩慢な反応なのだろうが。それでもどことなく鈍い彼の動作に少し苛立って、銀時は自らの後頭部を苛々とした動作で掻いた。
 今は私服の着物姿だが、血腥い隘路の果てに暢気にも座り込んでいたのは、その血腥い惨状を作り出した張本人の一人だろう、土方十四郎に相違なかった。そしてそれを為す役を果たしたと思われる刀は、未だ抜き身の侭で、座り込んだ彼の手の直ぐ傍に落ちている。
 べたりと赤黒い血に濡れ、脂を浮かせて光る得物は、正しく魔か禍かそのものにしか見えず、銀時はやれやれと肩を竦めさせられる。恐らくは尾けられるなり襲撃を受けるなりして、狭い隘路で一人ずつ片付けようと言う判断を下したのだろうが、周囲はまるきり屠殺場も良い所の酷い有様だ。
 「死体だらけの中で仲間入りみてーにしてんじゃねェよ、心臓止まるかと思ったわ」
 「ちっとも驚きやがらなかった癖に、よく言う」
 銀時の軽口に、土方はふんと鼻を鳴らして応じて来る。これだけの血腥い腐臭の中だが、冗談を言い合える程度には落ち着いているらしい。その事に一応銀時は安心する。幾ら想いを交わした間柄とは言えど、いきなり甘い言葉など掛け合う様な二人では無いのだ。
 「で、そんな死体の間違い探しみてーな様で何してんのお前」
 「…見て解んねェのか。応援待ちだ」
 飽く迄軽口を叩く銀時に、土方はむっと眉を寄せた。さも鬱陶しいと言いたげな、実に解り易い表情を作ったのが声音からありありと見える。
 「ったく、明け方も近ェってのに物騒なこって。酔いも醒めちまったわ」
 酔いなどとっくの昔に醒めていたが、素知らぬふりをしながら銀時は辺りを見回す仕草をした。死体の数は七つ。幾ら狭い道で相手の勢いを削いだとは言え、広場に入ってからの数の方が多いのは見て明らかだ。相当の修羅場だった事は想像するまでも無い。
 「斬り合いに時間なんざ関係無ェだろうが。襲撃して来た時が昼だろうが夜だろうが、それこそ俺に言わせりゃ魔が時だからな、殺られる前に殺るだけの事だ」
 淡々と言うと、土方は短くなった煙草を唇から抜き取ると手で放った。草履の踵で火の気配を完全に消すと、疲れた様に大きく息をつく。
 晴れているが星は遠く、空は昏い。日の出る時間は未だ先で、死体は疎か土方の表情さえも近づかなければ判然としない。
 川沿いの通りに向かう隘路の入り口の方が未だ幾分か明るく、銀時の背がほぼそれを遮る形になっているから、辺りは腐臭さえ漂っていなければただの暗闇も同然だ。
 「隊服じゃねェって事は、おめーは仕事中どころか終わって呑みにでも出た所だった。が、途中で襲撃されるなり追われるなりして、取り敢えず一本道に入った。で、まず一人、」
 それでも闇に慣れた銀時の目には、ある程度の様子が見渡せる。まずは隘路の入り口を振り向くと、銀時はとんと自らの喉を軽く叩いてみせた。
 「先頭きって追いかけて来てた奴の頸を、振り向きざまに一撫で」
 刃の断ち斬った喉から血を噴き出して仰向けに倒れて事切れた男を一瞥すると、続けて銀時は壁にもたれて死んでいる男を見遣った。一撃の綺麗な太刀筋は、刃の鋭利さとそれを扱う者の技量とを表している。
 「先頭の奴が邪魔でよく状況が解ってねェ内に、二人目を──多分一人目の死体を蹴り倒す事で距離を取って、三人目が一人目の死を察知して逆上して向かって来た所を斬り捨てた、って所かね」
 続け様に、広場に転がる死体の一つに、見当付けて近づく。
 「四人目からは不意打ちは効かねェ。一人目の死体を乗り越えて慎重に向かって来た筈だ。とは言え、おめーが後ろにまだ行列を待たせておいて雑魚と暢気に切り結んでる訳が無ェから、とにかく数を減らそうとさっさと斬り捨てた。多分二人」
 言って、喉を一突きにされた死体と、少し離れた所に転がっているもう一つの死体を見る。片方は文字通りの瞬殺、もう片方は一度攻撃を躱されでもしたのか背中を斬られて広場の奥に倒れていた。
 「これで四人。五人目は多分に四人目を仕留めるのに出来た隙に襲って来た。おめーは四人目の持ってた刀を奪って一刺し。怯んだ所を蹴り飛ばすなり殴り飛ばすなりして、漸く一人目の死体を除けて襲いかかろうとしていた、本来二人目だった奴を斬り捨てた」
 手を横に払う様な仕草をして、銀時が足を止めたのは、転がる中で最も無残な死体の前。腹を一文字に裂かれて、溢れた内臓を足下に血や糞尿と共に散らばらせている。周囲に漂う腥い腐臭の殆どは、この一人が──一体が原因だった。幾人も連続して斬った事で、刃の切れ味も土方の勢いや動作も大分落ちていた故だろう。
 「で、最後に追いついて来た奴もまた、仲間の得物で一突き、と」
 喉から刀を生やした侭、壁に縫い止められる様にして絶命している男の骸を一瞥すると、銀時は胸から刀を生やして前傾姿勢に座り込んでいる死体を見遣った。その近くにはディスプレイ部分を綺麗に斜めに切られた携帯電話がゴミの様に無造作に転がっている。
 「七つ戦闘不能をこさえた所で、応援を──呼んだっつったっけ?所で、死に体の一人が悪足掻きをして来て、携帯が真っ二つ。勿体ねぇなあ。高いんだろ、それ」
 五人目のその男の腹部には刀が刺さってはいたが、それそのものは直ぐに死ぬ様な致命傷では無い。血溜まりの量から見ても、死んだ順序で言えば恐らく一番最後だろう。とは言え数十秒程度の差だろうが。
 それで恐らくは、一段落ついたと思った土方に反撃を試みたが、結局は無駄に終わったと言う事だ。不意を打って携帯電話を切る事は出来たが、土方を仕留める事は出来なかった。
 血腥い惨状を見回し、散歩でもする様に歩き回ってそんな適当な分析をしてみせた銀時に向けて、土方は「まるで見て来た様に言う」と笑って寄越した。合っているのかどうかの回答は呉れそうもない。
 「…ま、応援が来る前にとっとと立ち去っとけよ。ただでさえてめぇは胡散臭ェ奴だと思われてんだ、変な疑いとか掛けられたかねェだろ。俺もいちいち説明するのは面倒だし、変な邪推をされんのも御免だ」
 座り込んだ侭、土方は暇つぶしの推理ごっこを終えて、もうする事も無くなって手持ち無沙汰に立ち尽くした銀時に向けてそう言った。
 「…………」
 新しい煙草を探ろうともしない、血に濡れた手指。それと、常より悪く見える顔色に乗った目の希う様な気配に全く気付かなかった訳ではない。ただ銀時は、段々と夜闇を払い始めようとしている隘路の入り口を振り返った。振り返って、然し見ない振りをして大きく溜息を吐くと、まだ夜明け前の闇にあらゆるものを隠そうとしている血腥い世界を見る。
 「あのさ。何でおめーは縋らねェの?」
 馬鹿なの?と呆れを隠さない声で続ければ、土方は「何の事だ」と固い笑みで応じた。
 そこに妥協の気配が見えなかったので、銀時は再び、今度は呆れも苛立ちも隠さぬ溜息をついてみせた。肩を竦める動作も追加してやる。
 「一時の恥かも知れねェけど、それで傷を後に引かせる様な事はねぇし、朝早起きの庶民の皆さんをこんな惨状で驚かせる事もねぇし、仏さんたちもとっとと片付けられるし。第一、夜明け早々に死体の中に座ってんのなんざ、気分良いもんじゃねェだろうが」
 「………」
 矢継ぎ早な銀時の指摘に、土方は然し不機嫌を顕わにはせず、小さく笑うと今まで自らの腕で隠す様にしていた、黒い着物の脇腹付近に滲む染みからそっと手を離した。
 暗闇の中の黒い布地で解り難いが、紛れも無い出血を──土方の浅からぬ負傷を示すそれは、到底放置していた所で治りそうもない程度に、銀時の目には見えた。
 「痩せ我慢もいい加減にしろよ。応援ってのも、どうせ本当は呼べてねェんだろ」
 恐らく下手人は、奪われた刀で腹部を刺された五人目の男だ。応援を呼ぼうとした土方の携帯電話を切ったのかそれとも、土方に斬りかかって偶々懐の携帯電話共々切ったのかは解らないが、それで土方が易々動けない程の負傷を負って座り込んでいると言う現状に繋がったのは間違い無い。
 土方の事だ、少し休んでマシになったら改めて応援を呼びに行こうと座り込んだは良いが、結局その侭一服しても状況が余り変わらなかったと言う想像は易い。
 なればこそ、銀時が偶々付近を通りすがって、この惨状までたどり着いた事は土方にとっては渡りに船だった筈なのだ。然し彼は銀時に助けや協力を乞うどころか、追い払おうとした。全く理に適わない事にも、だ。
 強がりやちっぽけな自尊心か。何れにしても馬鹿馬鹿しいと、銀時は責める様な調子で、負傷を露わに笑ってみせる土方を見た。
 銀時は、そんな土方を詰る言葉も、侮辱する方法も、強引な手も、幾らでも持っている。だが、出来れば土方の方からの妥協が、本音が、欲しかった。
 いい加減に縋ったり頼ったりしてくれても良いだろう関係や情は既に、両者の間には存在している筈なのだ。だからこそ、下らない自尊心が邪魔をして本心を吐露しないのではないかと思えば、それに腹が立った。
 然し土方は小さく笑みを浮かべた唇をそっと持ち上げ、今度は明確に、少し困った様に笑ってみせた。
 「やって来たのが、てめぇだったからだ」
 「………は?」
 思わず眉を寄せる、銀時の浮かべた盛大な疑問符には全く構わぬ様な調子で、土方は静かな笑みを添えて続ける。
 「今までだったら、お前はただの万事屋で、俺はそんなてめぇに財布でも放って、屯所へ通報をしやがれと依頼が出来た。
 でも、そこの路地から現れたお前は、万事屋だけど、坂田銀時だった。明確に俺を、土方十四郎を血腥ェ臭いの中から嗅ぎ取って探しに来た、坂田銀時だった。だからだ」
 まるで謳う様に澱みなくそう言うと、土方はまだ夜の昏さを保った空を見上げた。この、未だ明けを見ない夜闇の中では、現れた男がどんな顔をしていたかなど、解らなかっただろうに。
 生きている土方の姿を死体の中から見分けた銀時が、安堵の溜息を隠した事など、解らなかっただろうに。
 「『俺』の可能性を探しに来たお前なら、俺を甘やかすし助けようとするだろうが。だから厭だったんだ」
 そこまで殆ど一息に言うと、疲れた様に息を吐いて、土方は血の滲む自らの脇腹にそっと触れた。まだ乾いていないのか、湿らされた手を壁面につけば、歪に掠れた手形が薄くそこに残される。
 「……んな静かな夜に血の臭いがしてくりゃ、別におめーじゃなくても首ぐらい突っ込んでたよ」
 「だろうな。だが、やっぱりそれは少し、違うんだ」
 土方の言い種がよく解らずに、少し迷った挙げ句に銀時がそう返すと、土方は手形のついた壁に寄りかかる様にして、恐らくは立ち上がろうとして膝を震わせた。そこに手を出して良いのか解らなくなって、銀時は掌を握っては開くを繰り返す。
 「てめぇは俺を助けに来るんだって、それで良いんだって、そんな馬鹿みてぇな甘えた思い違えをしちまう様にはなりたかねェんだ。だから、」
 少しづつ白み始めて来た気のする朝の空気の中、時間を掛けて漸く立ち上がった土方は、然しその侭壁に寄りかかって動かない。血腥い腐臭に囲まれた世界の中で、一歩間違えていれば仲間入りをしていたかも知れない屍に恨みがましく見つめられた侭でいる。
 失血の所為だけでは無いのだろう、青白い横顔を見つめて銀時はやけくその様な溜息を吐いた。偶然だが確かに偶然ではない、偶然でしか無いこの邂逅は然し、紛れもなく銀時の意図に因るものだ。銀時がもう少し酔いつぶれて眠っているか、酔いつぶれず帰っていたら遭遇し得る事も無かった筈の出来事だ。
 それが、想いを交わそうが決して交差はしない銀時と土方との生きている世界の相違であって、両者の間に厳然と存在する溝だ。決して埋まらず埋められず、普段は見ない素振りをしているだけで良いもの。
 その狭間を極力埋めるべく近づけど、信頼と言う言葉に勝るものはなく。互いにどう生きているとも誰と生きているとも知れぬ、近いのに決して窺い見えはしない距離の世界に、二人の関係はただ静かに息づいているばかりだ。
 片方は酔いつぶれてゴミ捨て場で爆睡していて、もう片方は死にかけながら死体の中で途方に暮れている。或いはその逆。或いはそのどちらも。
 土方は──否、銀時も、その差異をこそ恐れている。
 だから、当たり前の様に探しに来て、当たり前の様に助けようとなんてするなと、土方は力無く笑うのだ。こんな偶然に縋って安堵などしたくないと、厳しく自分に言い聞かせて仕舞うのだ。
 銀時とて土方のその気持は解る。今回は偶さか、偶然であって良かったと安堵の息を吐いたが、偶然がそもそも無ければ良かったと思う気持ちも同時に存在している。
 「………わーったよ。今から銀さんは銀さんだけど万事屋さんな。いや万事屋なのはいつも通りだけど、とにかく銀さんだけどおめーの言う銀さんじゃ無い万事屋だから。これで良いだろ?」
 強い調子でそう言うと、銀時は土方の前に背を向けてしゃがみ込んだ。おぶされ、と手の仕草だけで促しながら続ける。
 「商店街の通りまで行けば公衆電話があるから、そこまで運んでやる。そしたら貰うもん貰うから」
 お金、と指で輪を作ってそう言えば、漸く土方が動く気配がした。恐る恐る、と言った様子で伸びて来た手が銀時の肩に触れる。
 土方の気が変わる前にと、銀時は彼の足を掴むとそっと立ち上がった。ぐ、と背中にかかる重量に呻き声が漏れるより先に、とっとと歩き出す。
 死体の転がる隘路を抜ければ、河の涯に見える地平を陽が照らし出し、斜めの光が眩しく目を射った。鳥たちの囀りが縄張りを主張し始め、遠くでは新聞屋の二輪車が走っていく音が聞こえる。少しづつ目を覚まし始めた町の中では、隣に居る者や背に居る者を見誤る様な事はもう無い。
 血の臭いも死の臭いも遠く、ぴたりと触れた背からは生在る者を示す鼓動の音が聞こえて来る。
 道の先に、最近余り見なくなった公衆電話ボックスが見えて来た。背中に乗ってる依頼人に、真選組屯所へと連絡を入れさせて、応援が来る気配がする頃になったら引き上げよう。それまでは、頭痛を抱えてもう少しぐらい居ても構うまい。万事屋の仕事とは言え、大した金銭も取れない様な些事だが、仕事ならきっちりとこなす気はあるのだ。
 「なぁ。その内で良いから、万事屋じゃない銀さんにも、お前を背負わせてやってくれよ」
 お前は当たり前の様にそうされるのが厭だと感じるのかも知れないが、俺は当たり前の様にお前を見つけてやりたいし、探すのを已める気も無い。
 言葉は足りずに続かなかったが、銀時は無理にそれ以上を続けようとするのは止めておいた。
 「…………考えておく」
 段々と増して来た、曙光差す地平をきっと見つめて、土方は素っ気ない調子でそう言った。
 体温や吐息さえも感じられる、こんなに近くに居るのに互いの顔も感情も窺い知れない。それだと言うのに、彼が今どんな表情を浮かべているのかが解った様な気がした。




強がりじゃなくて、珍しい弱さだったって気付けない不覚。

彼誰との問いを知るものは無し。