咎なき日々 「あぁ、間違いねェ。内通者だ」 電話の向こうの問いに簡潔にそう投げながら、土方は殊更に事務的な声を意識して作った。耳に当てた器物から返る驚きと落胆とを隠せぬ言葉を、極力に感情を排除しながら噛み砕いては飲み込む事を放棄して吐き捨てる。 そう聞こえる様に、振る舞う。 不意に生ぬるい風が吹いて、ひやりと冷えた気のする頬に触れてみれば、赤く乾いた汚れが指先についた。顔を顰めて手を隊服の表面に擦りつける。どうせ黒いから目立たない。 「士気だけじゃねェ、組全体の風聞にも関わる事だ。絶対に誰にも気取られるな」 平淡な声だと己で思う。斬れと命令するのも護れと命令するのも、言うだけの言葉であれば本当に易いものだ。嘘であっても真実であっても、簡単な事だ。 取り出したものの吸わずに唇に挟んだ煙草を上下させながら、携帯電話を挟んだ山崎の問いに頷いて、土方は大きく息を吐いた。吸うに躊躇う空気をゆっくりと吸って、血腥い臭気に吐き気を堪える。 「他に怪しまれねェ様、巡回中に攘夷浪士に斬られた、って事にしてやれ。……あ?始末?」 案ずる様な問いかけに答える様に土方は足下を見下ろした。ゆっくりと首を動かし、眼下の光景を映し出す目をそっと眇める。 「とっくに終わってる。死体の引き揚げと事後処理は、山崎、てめぇに一任する」 見慣れた黒い隊服と、そこから拡がる血溜まり。虚ろに見開かれた眼は最早何の抗議も苦悶もこぼさずに土方の姿を──己を殺めた下手人の姿を、ただただ恨みがましげに見上げていた。 * 以前から疑惑はあった。 幾つかの情報や失態の流出が明かに内部の人間にしか出来ない事だと判断された時、土方がまずしたのはそれを極秘扱いにする事だった。 異常に気付いていないから内部監査も無い。調査も、内通者のあぶり出しも行われよう筈も無い。そんな愚鈍に取れる行動の裏で、幾人か隊士の中から割り出した犯人候補者の事を本人の経歴から家族構成、出身地に至るまで具に調べ上げ、その中で怪しい容疑者を選び出し、後は意図的に情報を持たせ罠に掛けた。 男はそれにまんまと引っ掛かった。特に目立たない一般隊士だ。何が秀でてるでも目覚ましい功績を残しているでもない、普通の、真面目に職務に務める人間だった。 何でも無い様に組まれた見廻りのローテーションが回って来たその日、土方は人目に付かぬ路地裏で自ら男を問い詰めて追い詰めた。 突きつけられる粛正の刃を前に、男は嘘をつくでもなく居直り、自らの正義と理由とを吼えて、土方を、真選組を糾弾した。 お前らは間違っている。この国は腐敗している。何が侍だ。何が正義だ。 並べ立てられる言葉に土方が返したのは、ただの無表情だった。実際、それだけか、と思った。単純で解り易い。理解もし易い道理。 理屈も理由も信念も、人が集まればその数だけ存在する。いちいちそれを一人一人否定して説き伏せても詮無い事だ。 男の叫んだのは耳触りの良い『大義』。 返す『正義』も理由も、幾らでも涌いた。だが、土方はそれを口にはしなかった。ただ、無言で刀を振り翳し、お前のそれは此処では相容れないものなのだと示した。 否。 強者としてそれを、押しつけた。 命乞いの声が上がる。怨みか救いかを求めて伸ばされた手を払い除けて、土方は偶々掴めた勝者の理を押し通した。 露見した。だから探し出した。そして何も聞き入れず葬った。 己を見上げ続けている怨みの眼は果たして嘲笑うだろうか。愚かの傲慢と、寛大な手心を。己の罪悪感を軽減しようとする、鬼の副長の無様な弱さを。 『お前らは、間違っている』 「──煩ェ、」 声高に吼えた声を斬り捨て、土方は足下の血溜まりで笑みを浮かべる顔たちを睨み据えた。 黙れ、と叫ぶ以外に何も言葉を尽くせぬ事実には気付かぬ素振りで。 * 「──!」 ひう、と喉が渇いた音を立てて、その音で土方は眼を見開いた。引きつった様に中途で息を停止させた己に気付けば、どっと押し寄せる疲労感に背が崩れ落ち、嫌な汗と共に呼吸が戻って来る。 (……ここ、は) まだ乱れる呼吸を整えながら瞬きをすれば、頭上に見慣れぬ天井が拡がっている事に気付く。薄暗い照明に静かな柄で天井までを覆った壁紙。 寝言を呟いて自らのその声で起きた時の様な、何とも言えない恥ずかしさにも似た感覚が沸き起こり、土方は上体を起こした。屈めた膝の上に額をぽすりと落とす。 「目ェ醒めちまったのか?まだ夜中だけど」 直ぐ横から掛けられた声にはっとなって首を巡らせれば、同じ寝台に涅槃の姿勢でごろりと横たわっている銀時の、探る様な面白がる様な眼と出会う。 見知らぬ顔では当然無く、偶然出会った顔でも当然無く。昨晩こちらから電話して呼び出し、安ホテルにて同衾したその男との関係性はと言えば、セックスフレンドかそれ以上と言った所。 「怖い夢でも見た?」 「……、ガキでもあるまいし」 からかう様な調子で言われて、土方は舌打ちせんばかりに作った渋面を銀時の顔からそっと逸らして俯くと大きく溜息をついた。正直、隣にこの男が居る事を失念していた手前もあり、気恥ずかしさと同時に気まずささえ憶える。 「土方」 掛けられる声。銀時が身を起こす気配は感じたが、構わず土方は動かなかった。 腹に抱きつく様に腕が伸びて来たので、放っておいて欲しいと軽く腕を振れば、宥める様な指の動きに背を撫でられる。 「土方」 耳の間近で呼ばれてこっそり眦を吊り上げる。眠りに落ちるまでこの場所でしていた事を思えば、ただの意味の無い囁き声ですら、何処か不健全で不健康な空気を纏っている気がする。 「土方」 猶も重ねて呼ばれ、頬まで昇って来た掌が顎の骨に触れた。促す仕草に半ば諦め混じりで顔を擡げると、まるで子供にする様に髪の生え際に音を立てて口接けられた。 漂う不健康な空気と相俟って土方は思わず肩を窄める。続けて寄った眉の狭間、目蓋の上にも唇を落とされて、ひょっとしたらこの男は慰めでもしてくれているつもりなのだろうかと気付く。 「……ガキでもあるまいし、って言ってんだろ」 怖い夢を見て震えているのだと思われているのだとしたらかなり業腹ではあるが、無関係な他者の的外れな優しさは今の土方には酷く有り難かった。気休めでしか無い事こそが、救いだった。 誰も知らない、誰にも触れさせない汚い闇の中で、血の匂いを漂わす秘め事を隠し通して近藤には決して近付かせぬ事が己の役割でもあると、土方はそう自負している。 それを護る事が己の信念だと、誰に言われるでもなく自らに課して来たのだから、これは今更の事。糾弾を浴びながらそれを殺め黙らせるも、いつものこと。 血のひとしずくを拭った黒い隊服は脱ぎ散らかされて床の上。後は埒無く意味も無い膚の狭間にどろどろした感情を吐き散らしてそれでお仕舞い。 銀時はあれで聡い男だから、珍しい土方からの電話を受けて何か感じるものがあったのかも知れない。実際に何をして来たのか、何の鬱屈を抱えていたのかまでなどは、流石に知りようもないだろうが。 聡いから。意味など無い慰めを、こうして寄越してくれている。 これは感謝では無いが、と思いながら、そっと手を伸ばして銀髪頭をもしゃりと掻いてやれば、ふ、と鼻から抜ける様な笑みが返って来る。 「まだ起きるには大分早ェけど、どうする?」 問われて眉を寄せる。不健康な空気であるとは思えたが、未だ戯れ未満のもの。未だお互いに、明日早いから寝ようと言えば済む段階だ。 「……」 誘いではない、委ねられた選択に土方は再び俯いた。これは甘えか、それともそれらしく見える錯覚か。或いは現実を直視せぬ怠惰か。 「眠る?」 外堀を一つ埋められて、土方は俯いた侭顔を顰めた。 この男は聡くて、優しいから。土方を優しく崖まで追い詰めるその癖、一太刀の慈悲ですら寄越そうとはしてくれないから。 一見優しげでしか無い仕草で、撫でる髪の間に幾度も唇を落とされて、土方はかぶりを振った。逃れたかったのか、否定したかったのかも定かでは無い侭に──明確にはせずに、じわりと熱を持った気のする目元に力を込める。 銀時はそんな土方の顔を覗き込む様に背を丸めると、耳元に小さな、掠れそうな声で囁きを落とした。 「……泣きてェの?」 子供の内緒話か何かの様な密やかな声音に、土方は苦く目元を震わせて唇を噛んだ。それからほんの少しだけ首を傾けて頷く。 是の応えに交えて銀時が溜息をつく気配。呆れか、それとも諦めか。構わず土方は無言で銀時の背へと腕を辿らせて、埋めた肩口で強く目を瞑った。 銀時は土方の後頭部をそっと一撫ですると、優しさの拭いきれない手つきで体重を掛けて来た。逆らわずにシーツの上に頭を落として、土方は銀時の肩越しに薄暗い天井を見上げる。 己の手から血の匂いが漂う不快感に、益々背に回した手指に力を込めた。 「解ってる。痛さも辛さもどうでも良くなるぐらい、」 縋る色をそこに見出したとしても、銀時は僅か顰めた顔に同情の類を乗せる様な真似は見せなかった。ただ、先頃見せた的外れな慰めを、聡く理解した心で正しく続ける。 「酷くしてやるから」 甘さと優しさを伴った声がそう告げるのと同時に、鎖骨に軽く噛み付かれて土方は本能的な痛みへの忌避感に背筋を震わせた。 満足した様に続けられる、やさしい手の酷い所業に怯えて目を閉じて思う。 部下の生きて動いていた姿をありありと思い出せる。それを死んで動かぬ亡骸にした事までも思い出せる。彼にとっては何でも無かった筈の日常が崩れたその瞬間の、恐怖と苦渋とに歪んだ表情まで。思い出せるのだ。 そんな事にいちいち感情を揺さぶられたり感傷を憶えたりしていても仕方がない。解っているが、それでも。 血溜まりと吼えた言葉と大義名分と理性的な仕事と人の分を外れても鬼にはなりきれぬ己を、殊更に強く、罵倒する。 (そんなもので罪悪感が埋まれば、苦労なんてしねェ) それでも泣きたいと思った。楽になど決してなれなくとも。 慰め銀さん。 "どんなに悲しい言葉を聞いても、聞いても…、 " |