負け犬が遠吠え



 合図は電話のワンコール。
 概ね想像通りの時間に鳴った黒電話を見て、銀時はソファから立ち上がると首の後ろを引っ掻きながら玄関へと向かった。
 磨り硝子の玄関戸の向こうに黒いシルエットが佇んでいるのを見て、出そうになったのは溜息であったか。そうだとしたらそれは一体誰に向けたものなのか。
 己でも判然としない感情を持て余しながら、銀時は玄関戸を開いた。内鍵なぞ掛けていないのだから勝手に入って構わないといつも言っているのだが、この客人が自らそうした事は一度も無い。
 「よぉ……って、うっわぁ…」
 「……よぉ」
 出来るだけ軽く声を掛けようとしたのだが、途中から渋面に転じる。戸の向こうに立っていたのは、自らの怪我か返り血か、どす赤い血で顔や白いスカーフを斑に汚した土方の姿であった。
 「何だそのうっわぁってのは」
 何処かおかしいか、と言いたげに両手を軽く拡げて見せる、土方の全身は血ばかりか、そのあちこちが汚れて草臥れている。黒い布地には目立たないが、この分だと上着にもたっぷりと血を浴びているに違いない。
 「いや驚くだろ普通。で、襲撃でも受けたのか?それとも捕り物か何か?」
 随分ボロボロだけど、と言って汚れた頬を指先で拭ってやれば、そこは傷だったのか土方は顔を顰めた。乾いた血が剥がれ落ちてじわりと新しい赤い色が筋状の傷口に沿って浮かび上がる。
 「違ェ。丸留井デパートの自動ドアに挟まったんだよ」
 強がりと言うより逆に恥ずかしい言い訳になっている事には気付いていないのか、むすりとした調子で言う土方を取り敢えず玄関に通し、家に上がっていくその背中を見ながら銀時は内鍵を掛けた。二度目の溜息は明瞭だった。安堵したのだ。
 (道理で急な電話だった訳だ。神楽がお妙ん家で良かったわ…)
 廊下を進む背には常の尊大さや堂々とした気配は無い。草臥れて、憔悴して、酩酊しきったその男は、真選組の副長である事をひととき忘れる事を自ら望んで此処に来たのだ。
 土方はソファを勧められる前にその座面に崩れる様に座り込んだ。は、と吐き出す吐息は熱くて荒い。取り繕う必要を失った理性がゆっくりと熔けて行くのを待たず、銀時は彼の向かい側に腰を下ろした。
 「で、何か飲むか?つーか食う?」
 「どっちもいらねェ」
 かぶりを振ると土方はスカーフに手を掛けもどかしげにそれを引き抜いた。赤い染みは下のシャツまで拡がって、釦の既に幾つか外れたそこには汗ばんで濡れた膚がある。
 そうして立ち上がった土方は銀時の座るソファの前に立った。剣呑な眼差しが己を見下ろして来るのを面白げな表情を保って見上げていると、彼はソファに片膝を上げて上体を乗り出して来る。
 先頃開いた傷口から滲んだ血が、綺麗な赤い筋を血と汗と埃とに汚れた顔の上に刻んでいるのを至近で見つめながら、そこに舌先を伸ばす代わりに唇を軽く湿らせる。
 「……じゃ、何が欲しいのかな、土方くんは?」
 細めた眼の問いに、土方は苦々しく口の端を吊り上げた。叶うなら舌打ちと共に一発拳でもくれてやりたいと言った表情だが、今は幾ら待てど拳など降って来ない事を銀時は知っている。
 それもあって余裕の体で居る事が気に喰わないのだろう、土方は眼前の銀時の態度に忌々しげに舌を打った。「は」と短く吐き出される呼気は息継ぎと言うには余りに熱い。上昇した体温に沸き立つ腥い臭気が、焚きしめられた香や強すぎる酒の様に土方の呼気を荒くしているのは具に見て取れていたが、それには気付かぬ様な素振りで悠然と笑いかけてやれば、
 「解ってる癖に言わせんな、クソ天パ」
 軋る様な声と共に顔が近付いて来て、性急に唇を重ねて来た。密着してよりはっきりとする血腥く濡れた気配に喉奥で忍び笑うと、銀時は土方の両頬を掌で挟んだ。縋る様な舌を絡ませ口腔を貪りながらも、飽く迄耳元は優しく緩やかに愛撫してやるだけに留めて、今は口接けに夢中になっているその身がやがて物足りなさを訴えて来るのをじっと待つ。
 「ん、っは、んん、ん…、」
 息苦しそうに漏れる吐息が熱い。焦れる様に擦り寄せられる身体も熱い。熱を孕んだ目元が焦れて震えるのが酷く扇情的だ。息継ぎの合間に寸時空いた唇の狭間で、土方は目蓋を薄く開いて、熱と衝動とにすっかり熔けた眼差しを銀時の方へとじっと向けた。
 「モタクサしてんじゃねェ、とっとと、」
 抱けよ、と掠れた声で囁いて、窮屈な上着を肩から落とした土方の背を、銀時はからかう様に指先で撫でながら引き寄せた。
 思わず浮かんだ笑みに嘲りの感情が密かに忍び込むのを承知で、腰を押しつける様にして擦り寄せて来る土方の顔を真っ向から見返してやる。
 「そうガッつかねェでも、ちゃあんと面倒みてやるから」
 そう言えば、熱い体温に苛まれている筈の土方の身体がぶるりと震えるのが解る。体温や外気温にでは無く、身体の芯から興奮を示しているその様に、銀時は密やかな満足感を飲み込んだ。
 
 *

 電話が掛かって来たのは三十分と経たぬ前。
 今からそっちに行く、とだけ告げた簡潔な一言だけで切られた受話器を前に、銀時は正直、またか、と思ったものだった。
 それから到着の合図でもあるワンコールが鳴るまで僅か数分足らず。それだけの時間だが、黒い隊服と鬼の面の下に多くの衝動を隠して、きっと何でも無い様に振る舞って此処まで歩いて来たのだろう。
 自らの全身から漂う血腥さと、途切れた生死の緊張感との狭間に、酔って崩れそうになりながら。此処に来ればそれを発散出来るのだと、最早習慣として憶えて仕舞ったが故に。
 血の臭いを纏って、生の実感に溺れて、全てが終わった後も溢れ出して已まない衝動を、銀時に宥めて貰う為に。
 「っあ、ンぁ、ッ」
 運び込んだ寝室の薄い布団の上で、土方は常には無い程に奔放に、貪欲に喘いではその行為を銀時に強請る。そして銀時も強請られる侭に応じて、殊更に乱れようとする土方をただただ啼かせる事に専心する。
 (人斬りに興奮してんだか、安心してんだか、知らねェけど)
 頬に刻まれた一筋の赤い線に舌を這わせれば、真新しい錆の味がした。ぷくりと浮かび上がる紅い血の球はまるで装飾品か何かの様に土方の膚上を彩って艶めいて、場違いなものの様に綺麗だ。
 「血の臭いぷんぷんさせてさ。ほんっとエロ過ぎるわお前。今日も襲撃か捕り物か…、ああいやデパートの自動ドアだっけ?まァ何でも良いけど、血ィ被るだけ被って直ぐウチに来たんだろ?」
 「んっ、は、」
 「そんな待ち切れなかった訳?……つーかもうべっちゃべちゃなんだけど、軽くイッたりしてた?」
 敢えて脱がさずにいたシャツは汗と血とで汚れて身体に貼り付いて仕舞っている。その上から乳首を舌先で転がしてやりながら、既にべとりと濡れた下着をつんと突けば、土方はシーツを掴んでいた手を解いて銀時の髪を掴んだ。
 「るせぇ、…ッ、無駄口ばっか、叩いてねェで、」
 頭皮を遠慮無く掴んで引っ張る手指の力強さに流石に顔を顰めて、銀時は宥める様な仕草で土方の手を取るとその指をゆっくりと解かせた。そこに先頃まで握っていた刀を手放して猶、開けば強張って戦慄く掌をぺろりと舐めれば血の酷い臭いがした。
 「焦んなって。折角酔ってんだから、余計な事考えずに溺れちまえ」
 銀時の言葉に、土方はふっと笑みを浮かべた。それは酒や薬に酔って理性を壊された人間特有の、何処か箍の外れた笑みだった。
 
 *
 
 風呂から出て、濡れた頭髪をがしがし拭いながら寝室へと戻れば、先に風呂から上がらせた土方は布団に横になっていた。疲れているのか気が抜けた様に呆っとした眼で、指の狭間に持っている、火を点けた煙草が短くなって行くのも構わずに居る。
 「なぁ」
 「…あ?」
 呼べば、やや置いてから土方の眼がこちらへと動いた。それから思い出した様に灰皿の上に溜まった灰を落として、煙草を唇にくわえる。
 そうして緩慢にヤニを吸って惰性の様に吐き出す事幾度か。土方の意識がきちんと現実に戻ってくるのを待って、銀時は布団端に座った。言いかけた問いを続ける。
 「今日いつウチに来ようと思ったんだ?」
 問いに土方は数回瞬きをして、それからばつの悪そうな表情を浮かべた。眉が気まずそうに内に寄る。
 「あー……、急ってのはやっぱり迷惑か」
 「いやいやそう言うんじゃねェけどさ、斬ってる最中かなとか。気になっただけで」
 くわえた煙草を軽く揺らして、それから土方は何かを考える様に視線を軽く游がせた。律儀にも思い返そうとしたらしい。
 「流石に最中はねェな。行こうかと考えたのは終わった後だ。まぁでも、」
 く、と喉を鳴らすと、土方は煙草を灰皿へと押しつけた。煙が名残惜しげに天井へと上り、届くより先に細く開かれた窓からの風に吹き消されて消える。
 そして風だけでは到底散らされない、熱を孕んだ眼差しがゆっくりと銀時の方へと戻って来た。含む笑み。
 「テンションは上がるからな。とっとと帰ってヤりてェとかは、剣振り回してる最中でも思いついてるんじゃねェか」
 「血の臭いに興奮しておっ勃ててるたァ、大した獣だよオメーは」
 呆れとも嘆きともつかぬ声で言って笑うと、銀時は反って揺れる土方の喉元に軽く歯を立てた。
 「人の事ァ言えねーだろ、このケダモノが」
 歯の下で薄い皮膚がくつくつと音を立てて震える。銀時は顔を起こすとその場に座り直した。本格的に熱が生じる前に離れるのは獣でも持つ理性だ。
 そんな銀時の行動を別段止めも咎めもしなかった土方は、ごろりと横に転がって枕を顎の下に抱えると、ふと思いついた様に口にする。
 「そう言やてめぇはどうなんだ?」
 「あ?何が」
 「てめぇのヤンチャ時代だよ。血の臭いの中で興奮したりしなかったのか?」
 「…ああ、」
 何と言う話題だろうとは思ったが、土方が余りにさらりとした普通の調子で訊くものだから、銀時は思いの外真剣に記憶を辿ってみなければならなくなった。もう少し内容に相応しい巫山戯た調子だったら適当に誤魔化す所だったのだが。
 記憶はそう深く手繰るでなく直ぐに浮かぶ所にある。血と硝煙と砂埃と剣戟と爆音と閃光と衝撃と。平和の中で普通に生きている分には大凡知る筈も無い光景は、戦場の楽しくない記憶を引き連れてやって来た。然しそれに銀時が顔を顰める事は無い。それは過ぎた時間をただ振り返るだけの、大した意味の無い記録だ。
 今更その世界を振り返り足を取られる事は無い。背を押された事なら幾度となくあったが。
 余計な感傷も過分な悲嘆も憶えない、ある時の日常風景と言うだけの、思い出だ。たとえそれがどんな無惨な光景であろうとも。
 うーん、と喉奥で唸って、銀時は幾つかの戦闘を思い出してみるのだが。
 「逆だな。何しろガキの頃からあった風景な訳で、寧ろ慣れ過ぎて何も感じねェっつーか、戦場の真っ直中でも茶ァ飲みながらバラエティ番組観れちゃう感じ?」
 慣れない者はまず血の臭いに忌避感や吐き気を憶えて、それから次の段階になると今日の土方の様に溺れて酔って、そしてやがては慣れて何も感じなくなる。銀時が居るのはそこだった。
 物心ついた時から屍の中に居たのだ。死者は血を流しながら腐爛して行く肉の塊で、大事なのはその懐に何か食べる物が入っているかどうか、だけだった。
 そんな『当たり前のもの』に、行為に、今更酔える筈など無かった。
 「……寛ぎきってんな」
 銀時の口調から何かを聡く感じ取ったと言う訳では無いのだろうが、ほんの少し持ち上げた口端で土方は笑い飛ばす様にそう言う。
 言われて銀時は、戦場のど真ん中で暢気にテレビを見て寛いでいる己を想像してみて、その場違いでシュールな光景に小さく噴き出した。
 そこで、土方の表情から不意に笑みが消えた。途絶する柔らかい気配。
 「…………そうはなりたく無ェもんだな」
 吐き捨てる様な言葉に拒絶の響きは無かった。ただ、何れはそうなるのだろうと解りきった、諦めにも似た理解がそこに在る。
 銀時は眼を閉じると柔く笑んだ。手を伸ばすと土方の頬にかかった黒い頭髪を手の甲で除けて、もう血を流してはいない、ただの細い筋となった傷痕を指の腹で優しく撫でる。
 「ならねェよ。させやしねェ。オメーが血の臭いさせて此処に戻って来る度、何遍だって溺れさせてやる。何遍だって滅茶苦茶にして、慣れねェ様に忘れさせてやる」
 薄い傷痕は数日もすれば消えて仕舞うだろう。それでも、記憶と心に穿たれる何かを、感情を削いで行こうとする何かを、決して失わせない為に。
 銀時の笑みを受けて、土方は安堵とも苦しみともつかぬ表情を浮かべてみせた。
 「……血の臭いのする獣に興奮するなんざ、やっぱ大したケダモノじゃねェか」
 気休めだとは指摘せず、かと言って失望を訴えるでも無く。
 平和の世でわざわざ血腥い途を選んだのは誰あろう土方自身で、その上彼はその事を後悔などしていない。それでも、鬼になりきれぬ鬼は人間で在る猶予を求めて足掻かずにはいられないのだろう。
 本物の、鬼を酷く近しく見つめているからこそ。
 その身に染み付いて取れない、血と死の匂いをこんなにも近くで嗅ぎ取っているからこそ。
 「だな。ま、どっちも碌でもねェ畜生同士、仲良くやろうや」
 
 喰らい合う迄、食らい合って。
 今は未だ、そこに何が残るのかなど解らない侭に。ただ。




エゴを押しつけ合う人たち。

鬼になりきれない鬼。