現の証明 夏盆の祭りは今年もよく賑わっていた。日中の神事と日没後の縁日。何れにも警察が駆り出され、警備や誘導と言った仕事を迫られる程度には、人出は多く皆それぞれの時間を享楽や楽しみに費やしている。 己の担当となっていた警備の時間を終えた土方は、事務手続きに従って部下に業務を引き継いだ。とは言っても時刻は既に夜店もぼちぼち店を畳み始める頃合い。後やる事はと言えばゴミ拾いや酔っ払いの処理や夜遊びをする若者に注意を促して歩く程度の事しかない。 ともあれやる事は終えた。賑やかな夜店の隙間を睨み回して歩く『警備』の時間はもう終わりだ。その間中大した休憩も取れずに暑い中を歩き回っていた土方は、疲労に重くなった背を伸ばして欠伸を噛み殺した。少しづつ静かになって行く縁日の風景から一本道を逸れて、薄暗い茂みの中を突っ切る近道を選んでとっとと屯所へ帰る事を決め込む。 紅い提灯が闇の中に点々と連なって続く光景は、なんだか彼岸の花畑の様にも見える。ぼやりとした燈火を追っていた目をふと前方に戻したその時、闇の中に薄ら紅く照らし出された白っぽい影が真正面に立ちはだかった。 ぎょっとなって足を止めた土方は咄嗟に刀に手を掛けた。何かと人の恨みを買い易い身だ、日頃から警戒はする様にしているからその反応は早い。だが、抜くのは躊躇う。目の前に現れた『それ』は明かに、襲撃を目的とした攘夷浪士の類では無かったからだ。 攘夷浪士ではない。人間、であるかも判然としない。何せ、その身のあちこちに矢を突き立てられた、落ち武者としか言い様のない姿をしたものがそこに居たのだ。 幽霊相手に刀が通じるのか。そんな理性的な言葉を己の中の何かが問うて来るのに、馬鹿か、と返す。丘の上の神社にでも駆け込んで霊験灼かなお札でも貰って来いと?もしも幽霊的なものだとしたら、そんな事をしている間に憑かれ殺されているに決まっている。少なくともホラーもののテレビ番組ではそうなる。 かと言ってどう戦えば良いのか。取り敢えず斬れば良いのか。 額から血を流した落ち武者がこちらへと手を伸ばすのが見えた。その顔を見て思わず後ずさった所で踵が足下の木の根に引っかかり、仕舞った、と思う間もなく土方はその場に尻餅をついていた。これが戦闘中であれば間違いなく致命だろう隙を晒す事になりながら、目の前の落ち武者に向けた視線は逸らせない。刀の柄を握りしめた侭、反撃に出る手を模索するよりそれをただただ見上げる。 何故なら、血と傷とに汚れた落ち武者の様なものの、その顔は──、 「あ!」 ボリュームのあるもさもさとした頭に矢の刺さった落ち武者が、不意にそんな声を上げた。 見覚えのある顔に違わず聞き覚えのある声だ、と土方が思ったその時、一歩を踏み出した落ち武者が提灯の紅い光に照らされその姿を鮮明にする。 「……あ?」 土方の口から思わず漏れた間の抜けた声を受けて、落ち武者が──見憶えのある銀髪頭の落ち武者がきょとんとした様子で瞬きをした。向けた人差し指を上下させながら、どこか呆気に取られた風情で口を開く。 「土方?何してんのお前こんな所で」 「イヤそれ完全に俺の台詞だよね?」 落ち武者の発したその声に負けず、間の抜けた己の発したそんな言葉を土方はどこか呆然と聞いていた。 * ひととき混乱した意識が落ち着いて来ると、取り乱しそうになっていた己を恥じる純粋な感情だけが戻って来る。鯉口を切りかけていた刀を納めると埃を払って立ち上がり、土方はやれやれと言った大きな仕草でそれを誤魔化した。 「つか、テメェかよ……何してんだ奇抜な恰好で」 見遣る銀時の頭には突き刺さった矢と血。纏っているのはぼろぼろの古風な鎧。その鎧にも刀が柄まで深々と刺さっている。どこをどう見た所で職業落ち武者としか言い様の無い恰好だ。 然し何がどうなれば昨日まで万事屋を営んでいた男が落ち武者になると言うのだろうか。 「丁度良い所に来てくれた!」 然し土方のそんな疑問に答えを寄越す事もなく、そうs言うなり銀時は土方の腕を掴んだ。何だと問い返す間もなく、強く引っ張って歩き出す。 「ってオイ!待ちやがれ、どこ行く気だ、離せ!」 油断も手伝って、たたらを踏んで引き摺られた土方は喚くが、先を歩く銀時が手を離す事は無かった。仕方ないのでその場に踏ん張って無理矢理に止まると、土方は勢いよく掴まれた侭の腕を振り払った。 「一体何なんだテメェは!何がしてェんだ!」 思わず怒鳴れば、銀時は振り解かれた手と額に青筋を浮かべた土方との顔を暫し見比べ、やがて面倒臭そうに溜息を一つ。 「人出不足なんだよ。だから手伝ってくれねェかなと」 「何の」 「胆試しの」 「…………」 きもだめし、と口の中で幾度か反芻して、土方は「は?」と一音だけでそう問い返した。 胆試し、と言えばアレだろう、夏の風物詩だとか何とか昨今言われている、態と深夜の墓場や寺を散歩する類の事だ。要するに度胸試しと呼ばれる遊びやイベントを指す。 「そ。落さんって言うな、町内会きっての胆試しプランナーが居るんだけどよ。客脅かすのに張り切り過ぎてぎっくり腰になったとかで、何故か後を万事屋(うち)に頼んでったって言う顛末」 如何にも迷惑だと言う仕草なのか、嫌そうな表情を湛えた顔を左右に振りながら、銀時。 「……あァ、成程」 銀時扮するこの絵に描いた様な落ち武者の姿は、つまりはその胆試しとやらの衣装か何かなのだろう。先頃の疑問にも当たる答えに納得を示して、土方は軽く顎を引いた。納得よりも呆れの方が若干強かったが。 「それでその奇抜な姿か。遂にくたばって化けて出たのかと思ったわ」 「あー…、一応驚いてくれてたのね…」 頭に刺さった矢も、身体に刺さった刀も、顔面を濡らす紅い血も、胆試しで客を脅かす落ち武者と言うオバケの扮装として作られた姿だと言う事だ。 種が明かされれば、当初大袈裟に驚いて仕舞った己がやはり気恥ずかしい。土方は半笑いで言う目の前の銀時から目を僅かに逸らしつつ嘆息した。 「そりゃいきなり目の前に落ち武者が出て来たら誰だって驚くだろうが普通」 「まぁそれもそうか」 唇を尖らせ言う土方に苦笑して、銀時は頭に刺さった矢を引っこ抜いた。矢は羽根と鏃とにパーツが分かれていて、頭の両側にくっつければ一見矢が頭蓋を貫通している様に見えると言う寸法だ。実際に大きな鏃が脳を貫いていれば、大概の場合顔面は真っ当な形を保ってはいないが。 小道具にしてはそれなりによく出来ているのだろう、それを手の中でくるくると弄んで銀時は猶もぼやく。 「落さんの胆試し自体町内会のボランティアだからって儲けはねェし、正式な依頼でもねェから依頼料なんて期待出来ねェし。こんな時に限って新八はお通のライブだとか言って朝からいねェし。神楽は前々から約束してたとか言ってお妙と夜店巡りに行ってるしで、勤勉なのは銀さんたった一人とかおかしくね?」 そう、つまらなそうな声音でこぼす銀時に、土方は軽く眉を寄せた。ボランティアの胆試しと言う、依頼とも言えない依頼そのものが不満だとか言うより、一人きりなのがつまらないのだと、そう言っている様に聞こえた気がしたのだ。 「とにかくだ、そんな訳で人手が足りねェんだよ。胆試しの脅かし役は俺一人で良いとして、いや良くねーけどまあ良いとして、受付っつぅの?何人の人間が行ったかとか確認している人間がやっぱ必要な訳だ」 己の声にそんな感情が乗っていたと自覚しているのかどうかは定かではないが、銀時は早口でそう言うなり、ぱん、と音を立てて土方に向かって両手を合わせた。拝む様なポーズである。 「だから頼む、ちっと手伝ってく、」 「断る」 「即答?!」 迷う暇は疎か何の躊躇いも無く放たれた返答に、銀時は引きつった顔を持ち上げた。予想外だったのか、泡を飛ばしながら土方に迫ってくる。 「頼むって!何せホラ暗闇だし?びっくりしたお客さんが怪我とかしても困るし?一人で取り残されてるとか寧ろ銀さんのが困るし? ……いや別に怖いとかじゃないからね?さっきだって俺より年季入った落ち武者さんに軽やかに挨拶とかしちゃったし?なぁ頼むからさぁ、市民の皆さんの安全護るおまわりさんが市民を危険に晒すとか無いだろナイナイ」 矢継ぎ早に紡がれる言葉を聞き流しながら、土方は己で人が悪いと思える笑みを浮かべた。銀時がここまで食い下がる理由は想像に易かったからだ。 「つまり、一人で怖ェんだろ」 「いや違うからね?今は俺が現役落ち武者だよ?落ち武者が幽霊怖ェとかそんなん有り得ねェだろ常識的に考えて」 果たして図星だったのか、銀時の顔が益々に引きつった。そうしながらも猶も強がるその様子が思いの外面白くて、土方は小さく噴き出した。この男は幽霊の類が大嫌いなのだったと思えば、そんな幽霊嫌いが落ち武者のオバケなどを演じている現状に少しだけ胸が空く様な気持ちさえ憶える。 「あァそうか。それじゃ頑張れよ、落ち武者殿」 「待って待って待ってまってェェェ!!」 くるりと背を向ければ背後から抱きつく様に捕まえられて、思いの外に強いその膂力を振り解こうと土方は全身に力を込めねばならなくなった。踏ん張りながら声を張り上げる。 「冗談じゃねェ、そんな暇な事に付き合ってられるか!」 銀時が胆試しの依頼で怖がっているのを、対岸の火事を見る様な気で面白がっていた土方だったのだが、ここに来て何が何でも付き合わせようとする銀時の執念が凄まじい。何と言うか全力だ。必死過ぎる程に。 そこまで怖いのか、と呆れを憶えないでもない。だが、己の身に置き換えれば同じ様な態度に出ただろうかと思えば、段々と全力で振り払って逃げるのも気の毒な気さえしてくる。と言うかここで全力で逃げると、幽霊が怖いのだと認めている様で癪だった。 ち、と舌を打つと、土方は銀時を引き摺った侭歩こうとしていた足を止めた。 「……わぁったよ。少しの間ぐらいなら付き合ってやる」 それでも渋々とした調子は隠せずそう吐息混じりに言って、腰をホールドしていた銀時の手をぽんと叩けば、彼は暫くの間土方が逃げたり嘘をついたりしていまいかと探る様に目を細めていたが、やがて大人しく腕を解いた。 「マジで?」 「どうせ諦める気無ェんだろうが。こんな言い合いするだけ時間の無駄だわ」 「あーうん、否定はしねェかな」 湿気が多く暑苦しい夜に生じた熱量に、土方が上着を脱いでスカーフを解きながらそう吐き捨てる様に言うと、銀時は悪びれず笑みを浮かべた。泣いた鳥、ではないが、現金なものだと土方は密かに嘆息した。 * 「この上の神社が会場だから。石段が見える所に適当に座っててくれりゃ良いから」 「フツーは寺とかでやるもんだろ、胆試しってのは」 墓場ってのが定番だろうと言えば、「俺もそれは思った」、と銀時の同意が返る。 胆試しとは言えど、人間が落ち武者の扮装なぞして驚かすのだから単なるお化け屋敷の様なものだ。そうなればどちらでも、夜店の群れを離れて、暗くて人の気配が無いと言う意味では同じ事なのかも知れない。 胆試しの会場である丘の上の神社までは長い石段が連なっている。そこを先導する銀時の姿を自然と見上げながら土方は後に続いていた。 見覚えの無い背中だ、と思う。白い着流しと黒い洋装の奇抜な恰好ではなく、日常生活ではまず見ない様な、古風な鎧を着たぼろぼろの姿。 (……落ち武者、ね) ふと、そのイメージは戦場に立つ銀時の姿──つまりは彼が白夜叉と呼ばれていた頃の姿と同じ様なものなのだろうかと考え、土方はこっそりと顔を顰めた。一体何を下らない事を考えているのだろうか。 視線の先でふと落ち武者が──銀時が振り返った。笑い顔にこびり付いた血の色が嫌に目についた気がして、思わず目を逸らす。 贋物の血糊と解っていても、それがこの落ち武者の『死』の扮装なのだろうと思えばぞっとしない心地を憶えたのだ。 「落ち武者だーみっちゃん!」 そこにふと、子供の賑やかな声たちが割り込んだ。石段の上を見遣れば、胆試しに来たのだろうか石段の上に数人集まった子供らが、わいわいと騒ぎながら口々に幽霊退治と唱えて石ころを銀時に向けて投げつけて来るのが見える。 「胆試しとかって、マジでいるじゃんオバケ!」 「幽霊退治だー!」 怖がっているとも面白がっているとも取れない声たちに、小石を後頭部に喰らった銀時が引きつり笑いで振り返る。 「っのガキどもがァァァ!人に石投げちゃいけませんって習わなかったのかァァ?!…って俺今落ち武者か。オバケか。いやオバケでも良いから石は投げんなァァ!」 「ギャー!落ち武者が怒ったー!」 振り返るなり猛然とダッシュして石段を駈け上がる落ち武者の姿に、子供らは蜘蛛の子を散らす様に境内の方へと逃げ出した。 「こっち来るなー!」 「うわあああ!」 子供特有の甲高い悲鳴たちが銀時の足音と共に遠ざかって行く。あの分だと暫くは戻って来そうもない。そんな様子を呆れ混じりに見送ってから、土方はゆっくりと石段を登り終えると境内へと上がった。小さな社の前に腰を下ろすと早速煙草を取り出して一服する。 ふう、と溜息にも似た長く重たい吐息に乗せて、白い煙がぼやりと夜空に上って行く。その様を見つめながら、土方は最初に落ち武者に遭遇した時の事を思い返していた。 頭に矢を刺して血糊を額に付けて、紅い提灯の色彩と薄暗さも相俟って、本当に一瞬、『落ち武者』である気がしたのだ。 「……局中法度四十五条。死してなお化けて出る事莫れ。武士たる者、潔く成仏すべし」 己の定めた法度の一つだ。憶え馴染みきった言葉を諳んじて、手のひらを見下ろす。 (化けて出る、って思うのは、生きてる連中の罪悪感が生む幻想だ。だから、手前ェに縁の無ェもんは抽象的であやふやなんだろうよ。 例えば、戦に無念を抱いた落ち武者って記号、自殺した悲劇の遊女って記号…、) 怪談話としてよく語られ、巷間人が目にしたと騒ぐ『幽霊』などと言うものは、必ずそのディティールを形作るイメージが存在するものだ。謂わば解り易い、『幽霊』と言うキャラクターとしての存在。誰もが見る可能性のある、恐怖の心理を体現したもの。 一方で、具体的に失われた『誰か』を見ると言うのは、その相手に対する未練や後悔が生み出す幻だと土方は思っている。化けて出る、『幽霊』などと言う存在は居ない。居るとしたらとっくにこの身は因果と怨念で朽ちていてもおかしくない。それだけの業は重ねて来たのだから。 彼らの死に『何か』は背負ってはいる。だが、ここにはいない。 もしも知った顔が居たとしたら、見えたとしたら、それは土方自身の未練や後悔と言った感情が、死んだ者からの裁きや気休めを欲した時だろう。 間違えても、落ち武者や死んだ遊女の姿など、見える訳が無い。一目見ただけで『幽霊』と知れるものなど、それこそ胆試しと言ったアトラクションでも無い限りは。絶対に。 (存在自体が普通じゃ無ェものは、そう言った記号だけで立派なバケモノ認定される訳だ) そこまで考えて土方は苦笑する。こわいものを──得体の知れぬものを、極力論理的に思考する事で怖くないものへと分類しようとする行為は臆病だろうか。それとも無粋だろうか。 己が見たあの落ち武者はどうだっただろうかと、土方は暇に持て余した思考を空へと流した。落ち武者の姿をした知り合いなぞ居ないから、落ち武者と言うイメージの『幽霊』を見たと思ったのか。 ………否。 それが知った顔でなければ、あそこまで驚きはしなかった。 知った顔をした、落ち武者の姿。それは紛れもなく、その『知った顔』の人間が、『落ち武者』なのだと言うイメージを、土方がそこに抱いて仕舞ったからに他ならない。 (……つまり、俺のイメージでは万事屋は──、) へらりと笑う常に見慣れた銀時の姿が、鎧を纏って戦場に立ち尽くす侍の姿に転じた。 それは紛れもなく、土方の勝手にイメージした、白夜叉と言う名前をした過去の侍の姿。戦に負けて野に落ちた、坂田銀時と言う人間の、過去。 「──」 濃い血の臭いを想像の中に嗅ぎ取って仕舞った気がして、土方はかぶりを振って顔を黒い夜空から引き戻した。 そしてそこで凍り付く。 僅かの月明かりの中に浮かぶ鳥居のシルエット。神域と現世とを隔てる門。 彼岸と此岸の様に遮られた境内の入り口に、白い鬼がひとり、立っていた。 それは土方の知る筈も無い存在。白い装束を纏って戦場を駆け抜けた、夜叉の姿。 坂田銀時の顔をした、白い鬼の姿。 その鬼が、返り血に塗れた顔をゆっくりと土方の方へと振り向かせて来た。 「──ッ、!」 得体の知れぬ感覚と、ひたすらに危険だと訴える己の意識にがつんと殴られた様な衝撃を受けて、土方は思わずその場に立ち上がった。総毛立った背筋は冽たく冷えて、嫌な汗が項を伝い落ちる。 次の瞬間、土方が立っていたのは何処とも知れぬ奈辺。 真っ暗な闇に描かれた屍の山たちの中に、白い鬼が先程までと変わらず佇んでいるだけの、風景。 「っこれ、は、」 血と硝煙の臭い。あちこちから響く怨嗟の声。幾百もの屍たちのただただ連なる世界。 そんな凄惨な世界の中、足下の屍をまた一つ増やしながら、白夜叉と呼ばれた男は嗤う。 『お前には、こんなもんは必要無ェだろ…?』 未練も後悔も躊躇いも無く、その手にした刀が踏みにじるのは、足下の亡者。 『何せ、手前ェの罪悪感は、手前ェ自身が埋めてるんだ。苛む後悔も未練もありゃしねェ。 まあ、その分支払いはまだ、続いているけどな』 言って指される指を追って振り向けば、そこには幼い子供が歩く後ろ姿があった。 (あれは、) 息を飲む。見覚えのある着物に見覚えのある丈の子供。素足を血だらけにしながら茨の道をひとりぼっちで歩いて行く子供の手には血の滴る短刀。 「……、俺?」 子供は──幼い土方は頬を涙と血に濡らしながら、茨を踏みしだいて歩き続けている。一度たりともこちらを振り返ったりはせずに。 探しているのだ、と、その様を見て土方は絶望的な理解を憶える。 あの時失ったものを。失わせたものを。義兄の眼球を。或いはその代わりになるものを。 もう見つかる筈も無いのに、茨の中を短刀一つを握りしめ、歩き続け探し続けているのだ。 己の後悔と弱さとを責めながら、ただ振り向きはせずに。 『アレが支払い分。今も手前ェの居る場所の事だ。罪悪感を持たない手前ェの代わりに自分自身に痛みを与え続けている』 白夜叉が土方の理解を後押しする様に言う。あれはお前なのだ、と。突きつけて来る。 この不可思議な世界を受け入れるのは端的な理解だけだった。否、理解以上のものは必要が無かった。何故ならばこれは事実だからだ。だから、幻であろうが夢であろうが何であろうが、これは事実なのだと、目の前の光景を見て思う。 己を責めながら、疵を負いながらも自らの選んだ道を進み決して振り返らぬ事が、土方に出来る贖罪だ。明確にそうと思い込んで来た訳では無いが、ただ歩きながらそうなのだと自然と選び取って来た途。 そんな己がああして歩く子供であるのなら、背後に居るあの鬼は一体『誰』なのだろうか。 恐る恐る土方が振り返れば、白夜叉は──あの落ち武者によく似た存在は、己が足下に責める様に縋る様にまとわりついている亡者の中に佇んでただ当たり前の様に嗤って居た。 『じゃあな、人間の鬼。抜け出す気の無ェ、抜け出せ無ェ悪夢なんざ、テメェの見る様なもんじゃねェ』 それが別れの言葉だったのか。 まとわりつく亡者を振り解きもしない、白夜叉の姿が突如白く霞む。そちらに向けて土方は咄嗟に手を伸ばしていた。伸ばして、届くと思った訳では無い。だが、それでも。 その深淵に触れてみたいと、多分その瞬間にはそう思っていたのだろう。 「待っ──、銀、」 咄嗟に呼び掛かった名は、落ち武者の様にこの平和な世界に残された亡霊の──、鬼である事をもう已めた男の、名前。 それが正しかったのかどうかは解らない。白んだ世界に全ては溶けて、気付いた時には土方は夜の闇に手を伸ばして、出なかった叫びを喉奥に飲み込んでいた。 「──ッ?!」 目の前には夜の境内。無言で佇む鳥居。そこにはもう、誰の姿も無い。辺りを幾ら見回せど、そこに亡者の群れも茨の道も見当たりはしなかった。 「……、夢、?」 がくりと全身から力が抜けて、その場に座り込んだ土方は薄らと冷えた汗をかいた頭を片手で抱えた。白昼夢かはたまた夜の闇に見た幻か。何れにせよ、疲れててうっかりと眠って仕舞ったと言う想像は易い。もとい、そうでもなければ今のリアルな夢幻の説明がつきそうもない。 (俺の知らないてめぇに抱いた勝手な幻想か?それとも、単なる夢か?) 本物の化け物なら、人間らしい罪悪感になぞ溺れない──そんな無責任な想像の形作った、鬼の幻想かだったのかも知れない。 (いや夢とかそうじゃなくて…、何だよアレは、妄想と大差ねェだろあんなん…) 日々の疲労とこの暑さとで、いよいよ妄想と遊ぶ様になって仕舞ったのだろうかと己を暫し危うんで、土方は溜息をついて汗を拭った。心臓を掴む薄ら寒い手の気配に身震いしながら、意識せぬ内まだ浮かしていた腰を下ろす。 (……もしも、妄想じゃねェとしたら、あの野郎は未だあんな所に居るって事になるのか?) 亡者に縋られ責められる様な罪悪感は土方には無い。全てを棄てて、全てを背負う覚悟の中に呑み込んで来た。因って罪悪感から生じる痛みも苦しみも全て己自身に課したのだ。 あの幻想に垣間見た白夜叉の様に、数えきれぬ怨嗟の群れの中、己に縋り付く亡者を殺して殺して殺し続けて長らえるなど、出来よう筈もない。堪えられよう筈がない。 あんな妄想でしかないものを現実と照らし合わせるなど、埒も無い話だ。いよいよ本格的に参っているのかも知れない。思って自嘲を浮かべた口元を歪めて、土方は顔を起こした。 そしてぎくりと動きを止める。境内には再び、白い落ち武者の影が在った。 「白、」 「ったく近頃のガキは…。胆試しじゃなくて単なる鬼ごっこになっちまったよ」 だがそれは呼び掛けた名に反して、土方のよく知る万事屋稼業の男の姿だった。胆試しのオバケ役と言う、落ち武者の扮装をしていると言うだけの。 「……万事屋、」 嫌な鼓動が背を叩くのを、馬鹿馬鹿しいと叱咤しながら目の前に歩いて来る男の姿を見上げる。血糊に塗れた顔に作り物の刀や矢。 「?どしたよ」 寸時、その落ち武者の周囲に先頃の幻に見た様な亡者たちが縋り集まっているのが見えた気がして、土方は咄嗟に眼を逸らした。「いや」と短く言ってかぶりを振る。先程のは夢とも妄想ともつかぬ世界に見た虚構だったかも知れないが、これは紛れもなく現実で、現実である以上は目に映る幻想などただの幻を見ているだけだと断じれる。 煙草をくわえる土方の横に座り込みながら、銀時はにやにやと笑う。 「まさか本物の落ち武者にでも会っちまったとか?」 からかう調子の言葉に、やはり一瞬顔色を失ったのを見抜かれたかと、土方は臍を噛む。 「幽霊なんざいねーよ」 「アララ、ひょっとして一人置いてかれて怖かった?」 殊更にざっくりと振り切れば益々疑いを深めたのか、銀時は冗談交じりに笑って更に距離を詰めて来た。幽霊を見たとか見ないとかはさておいて、一人待っていた土方が怯えていたのではないかと論いたいらしい。 「…言ってろ。心細かったのはてめぇの方じゃねェのか」 「いやまさかぁ。だって俺今ホラ現役落ち武者だからね?ガキ共怖がらせる方だからね?怖いとかねーから。有り得ねーから」 現役落ち武者、と言う言葉が、何気ない筈だったその言葉が先頃見た夢に重なって、土方は顔を顰めた。 「幽霊なんざいねェ」 だからか、二度目の断言は先程よりも更に強い調子になった。銀時も何かを感じたのかそれ以上は言い募らずに黙り込む。そうして生じた沈黙の中に、土方は強い調子で続ける。 「……在るのは、生きた人間の妄執だけだ」 幽霊を、死者を見るのは、居ると思うのは、罪悪や後悔や無念を得るのは、全て生きている者の特権だ。生き延びたからこそ、生きているからこそ、自らの思い次第で彼らを正にも負にも見る。手前勝手な話だ。 この男が本当に『あんな所』に居たとして。否、単なる妄想だとして、それが何だと言うのだ。 現実、幻想、妄想、夢、ただの好奇心。何れであっても銀時にとっては楽しい話では無いだろう。舌打ちをした土方は煙草から紫煙をゆっくりと吐き出した。腑に留まって離れない、今は一刻も早くこのもやもやとした感覚を振り切りたかった。 すると、隣に座った銀時がぽつりと呟きをこぼす。 「……そうかも知れねェけど。だ、としたら、死んだ奴らってのは、何処に行っちまうのかね」 笑み混じりの言葉を、問い未満の独り言の様に投げると手のひらをひらりと宙へ向ける。 「天国?それとも、地獄か?」 面白がる様な声で言う銀時の横顔を軽く睨んで、土方は投げ遣りに告げた。 「手前ェらの心(なか)に行くんだろ」 幽霊なんて居ないから。在るのは生きている人間が紡ぐ勝手な幻想と思惑だけだ。其処に在るのは無責任な罪悪感やら使命感と言った、何処までも身勝手な生者の描く感情ばかりだ。 だから、死者が往くのは宗教的な天国や地獄でも無く、況して何も遺さぬ無でも無く、それぞれその死者と関わった人間の心の裡なのだと土方は思っている。 そんな土方の言葉に、銀時は掴み所の無い笑みを浮かべた。 「……かね」 その様子から、土方の意見と銀時の見解とは大して違わないのではないかとは知れた。だが、全てをそう断じるには少し抵抗がある様な、そんな風にも見えた。 (…………いっそ天国や地獄なら、もう責められずに済むのだろうか、なんて事を考えてる気がした、なんて) 馬鹿馬鹿しい、と土方はかぶりを振る。一体いつまでこの妄想じみた世界に片足を突っ込んでいるのだろうかと。 「幽霊なんて居やしねェから、手前ェの知ってるもんしか化けて出て来れねェんだろうが。手前ェの未練が、そいつらが出て来るのを期待してんだろ」 未練や罪悪感をどう己の裡に棲まわせるかなど、当人次第だ。それは土方が考える事でも、想像して良いものでもない。 すっきりしない、喉奥に引っ掛かった感情を無理矢理に呑み込んだ土方が、その後味の忌々しさに目を眇めると、「あァ」と頷きと共に手がぽんと打たれた。 何かに得心がいった、そんな響きに土方が隣を向けば、思いの外間近に銀時のゆったり形作った笑みがあった。咄嗟にどきりと息を呑む。 「なん、」 「お前さ。さっき「遂にくたばって化けて出たかと」って言っただろ」 「…あァ?」 唐突に目の前に現れた、銀時──の姿をした落ち武者に、確かに土方は最初にそう言った。 今そんな話を持ち出される意図が解らず、土方は眉を寄せる。構わず銀時は手を伸べると土方の横頬に触れた。ふ、と気の抜けた笑みを浮かべて続ける。 「つまり、お前の中じゃ、俺を未練にしてくれるって事だよな、それ」 「──、な」 思わず絶句する土方へと今度は実際に距離を詰めると、土を引っ掻き強張った手のひらに宥める様な指が辿り着く。 死んだと思ったものを、『見た』。つまりそれは、土方の裡で銀時は、死者となっても其処に『居る』と思ったのだと言う事だ。少なくとも幽霊などいないと断じる土方の信条からすると、そう言う事になる。 触れた指先だけに力を込められて、反射的に退こうとする土方の手。それを制する様に銀時が言う。 「多分俺も未練たらたらで、見えなくてもお前の周りうろうろしてそうだけど。そんな俺をお前は、『見て』くれるんだろうな」 その想像は。先程土方の見た白夜叉の幻想と同じで、死者の心を想像して、生者の心を想像して、見る夢だ。全く無意味な、ただの想像。或いは願望。 沿った感情の裡に銀時が見てくれたものは、恐らくは尊い感情なのだとは思う。 それでも、御免だと思った。誰かを想いながら斃れて消えるのも、斃れて猶誰かに思われ続けるのも。それに縋って残りの生を、看取った後悔と救いきれず生き続ける慚愧の念に駆られ生きる事を課すのも。 手を握る銀時の指から逃れて、土方は幻想を振り払う。今し方見た幻想も、今は未だ見えない想像も。 「……記憶も脳ミソも頭髪並にスカスカみてェだな、腐れ天パ。 俺ァ、化けて出て来たてめぇを斬ってやろうとしてたんだよ。誰が未練だ、馬鹿馬鹿しい」 吐き捨てて顔を逸らす土方に、銀時がやれやれと言いたげな顔を作るのが視界の端に見えた。土方の見た幻想を解っていて言った訳では無いのだろうけど、もしも解られて居たとしたら、それは酷く身勝手な話として銀時の目には映るのだろう。 (てめぇが俺の未練になる様なら、迷わず斬るに決まってんだろうが) 未練と想う己の心を。未練となって留まる亡霊を。もしも生じたとしたら、両方共に恐らく躊躇わず斬れると土方は確信している。 「……はー。相変わらず辛辣なこって」 「大体、化けて出る気も無ェ癖にホザくな」 大袈裟に落ち込む仕草をしてみせる銀時の方をちらと見遣って、それから土方は境内へと視線を転じた。然し幾ら目を凝らせどそこには誰の影も無い。胆試しの客も、祭りの後の参拝客も、落ち武者の亡霊も。無い。 「俺の前には」 不意に、振り解いた筈の手を再び取られて、土方は片目を眇めた。誘われた様で癪だが、余所へと投げていた視線を銀時の方へと戻す。 そこには、生者の手を取り微笑む落ち武者(死者)の姿が。 「きっと、お前がずっと化けて出て来るな」 土方が斃れた後も、その記憶を未練か思い出か後悔か、ずっと抱えて生きてくれるとでも言うのか。或いは足下の亡者たちと共に、彼の生を苦しめる悪夢のひとつに成り果てるのか。 わらう落ち武者の周囲に亡者の群れたちがまとわりついては、その生に怨嗟の声を手向けるのがまた見えた気がして、土方はもう一度手を振り解いて有り体に不機嫌さを表情に乗せて口端を歪めた。 ──あんな所に棲まわせられるなど。 「……お断りだ」 「そーかい」 不快さを隠しもしない土方に、然し銀時は端から笑い飛ばすつもりだったらしい。冗談であるかどうかは彼の本音にしか解らぬ事だが。 (どうせ死者には死後の扱いなんざ選べねェんだ。そんなのは解ってる。だが、) この落ち武者めいた男の生を苦しめる一人になって仕舞うのは御免だと。そんな事を思って土方は物憂げに目を閉じた。 落ち武者=戦+無念+気力を失った敗残兵というイメージらしい。 げんのしょうこ、は花の名前なので、うつつのしょうこ。 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