迂闊に恋など始めぬように



 銀色の軌跡が描いた真っ直ぐな線は、途中で肉に食い込んで紅い飛沫を斑に散らす事で、濁った刃の作り出す無惨な斬撃へと変わる。
 漸く上がった雨の下、雲間から覗く月明かりが酸鼻極まるそんな有り様を顕わに晒していた。
 亡骸と、亡骸と、亡骸と、亡骸。幾ら見渡せどそれしか無い。モノクロの陰影だけで描かれた夜の狭間に、ぽかりと浮かんだ月のみが観覧しているそこだけが無惨に紅い芸術品か何かの様だった。
 銀の線だけでそんな作品を生み出した張本人は、描いた刃を汚す血脂もその侭に、ただ疲れた様にその場に立ち尽くしていた。
 口元に噛んだ煙草から上るくすんだ煙に血の臭気を混ぜながら、荒く息をついている。滴る血が、路地裏の薄暗い画布に新鮮な紅の彩りを加えて行くのにも気付かぬ様に。
 やがて男が顔を空へと上げれば、打ち棄てられた隘路をじっと見下ろしている月に出会う。男はただの夜の光源でしかないそれに今初めて気付いた様に、暫く子供の様な目で月をじっと見上げていたが、やがて小さくわらうと──次の瞬間、研ぎ澄まされた殺気を以て、彼岸と此岸の合間となった路地裏と現とを繋ぐ細い道へと刀を突き出した。
 
 *
 
 見上げれば、雲間から月が丁度出て来た所だった。最近ではどこの道路にでも大概街灯があって足下は明るいから、月明かりなどと言う恩恵を忘れそうになる。
 一昔前だったら自然の灯りに感謝して提灯を消す所だろうかと益体もない思考を流しながら、銀時は藍色の夜空に綺麗に切り取られた銀色の満月に何となく笑みを向けた。
 酔いは程良く回って、アルコールの作り出す酩酊で気分は良い。懐の状態はそれ程良い訳では無かったが、こうして暢気に居酒屋で一杯引っかけて足下の灯りを危ぶむ事なく帰路につけると言うのは幸せな事なのだろう。
 夕方まで降っていた雨は上がって久しいが、秋口の今日は夏のぶり返しが来る事もなく涼やかで、煩わしくない程度の湿気を纏った風が酒に火照った肌を心地よく撫でて行くのが気持ち良かった。
 (雨上がりだってのに、ちっとも寒くねェな)
 剥き出しの片腕も寒気を憶える事もなく、実に良い陽気と言えた。銀時がつい遠回りの道を選んだのも、そんな散歩に丁度良い気温と冴えて綺麗な月明かりとが理由だ。程良い酔い覚ましにもなる。
 ふと、街灯と月との照らす道の隅に、打ち棄てられた様な暗闇が見えた気がして銀時は足を止めた。視線の先にあるのは何と言う事もないただの雑居ビルの狭間だ。通り道か何かに使われているのか、物の置かれていない隘路には然し代わりにゴミが散乱し腐敗臭を放っている。
 まるで意識した様にあらゆる光源から切り取られて見えるそこに、銀時はふらりと足を向けた。
 と、月明かりが鈍色の閃きを見せたのと銀時がその場に急停止したのとはほぼ同時だった。
 「うおッ!?」
 思わず両手を挙げて半歩下がった銀時の、丁度顎の下辺り目掛けて伸ばされたのは血に汚れた刃だった。もう一歩──否、もう半歩進んでいたら首が貫かれていた、そんな位置と速度。
 急停止した侭の恰好で、銀時が頭を刃の出所である路地裏へと向ければ、そこには自ら身を潜めた隘路に混じろうとしている様な黒い装束の男の姿があった。…と言うよりそのシルエットが黒すぎて、まるで光の無い暗闇が蟠っている様に見えたのだと気付く。
 酔った頭が醒めて目が冴えてくれば、その黒装束に銀の縁取りがついている事も、それを纏う男の面相までもがようようはっきりと定まって来る。見覚えのある男のその姿に、銀時は引きつった笑いを浮かべた。
 見覚えのあり過ぎる男は、真選組の『鬼』の副長などと言う物騒な通り名を持つ、土方十四郎だった。銀時に言わせればそれ以前に腐れ縁の情人でもある。自然とそう嗅ぎ分けていたのだろうか、道理で殺気を感じようが危機感を憶えなかった訳だ。
 土方は銀時の、手さえ触れていない木刀にちらりと視線を走らせると忌々しそうに眉根を寄せた。
 「んだ、テメェか」
 脅かすな、と不機嫌そうな声がそんな言葉に続いたかと思えば、目前の刀は何事も無かった様に引かれ戻って行く。
 「いきなり刀向けられる方がどう考えても驚かされてんだろーが?!」
 万一木刀に手でも乗せていたらその侭斬りかかっていたと言う事だろうか。物騒極まりない土方の態度に向けて呻いてから、上げた侭だった手を下ろし、銀時は土方の肩越しに路地裏を覗き込んだ。ゴミが散乱しているのかと思ったら、その正体がゴミにされそうな亡骸たちであった事に気付き思わず口が曲がる。
 「何これ、こんなお月さんの綺麗な夜に新手の通り魔?通報するべき?お巡りさん呼んだ方が良くねェ?」
 「安心しやがれ、お巡りさんなら間に合ってるわ」
 銀時の冗談めかした言い種に、自らの胸を親指でとん、と指して、それから土方は煩わしげに吐き捨てた。
 「つーか誰が通り魔だ。十人がかりで追い回された俺が被害者だろどう考えても」
 複数人数を相手に真っ向から向かい合う馬鹿はいない。土方もあれやこれや移動しつつ地を利して駆けずり回って戦ったのだろう、落とす肩には明かな疲労感が滲み出ていた。言葉にも心なし力が無い。
 「はー。相変わらずおモテになる事で。その様子じゃ珍しく熱烈アタックに満更でも無かったみてェだけど」
 言って銀時は土方の無意識に庇っていた左肩を見遣る。真選組の隊服は防刃繊維で出来ていて多少の事では切れたりしないらしいのだが、相手の技倆や武器次第ではそうも行かない。それを示す様に、黒い布地には刃の通った醜い傷痕が残っていた。出血の程度は見た目では解らないが、土方の様子からするとそう深いものでは無いのだろうか。
 最も目立つ創傷はそれだけの様だが、他にも幾つか細かい傷が散見出来た。そんな傷の一つ一つを具に見つめて行く銀時の視線に気付いて、土方はばつが悪そうに鼻の頭に皺を寄せた。短くなった煙草をその場に落として靴底でぐしゃりと強く踏みにじる。
 「……不覚を取ったのは間違いねェよ。笑うなら笑いやがれ。多勢に無勢だの、雨の後で足取られただの、言い訳はあんましたく無ェがな」
 吐き出す鼻息に交えて言って、煙草を取り出そうとする土方の手を銀時は掴んで止めた。
 「笑えると思うの、お前」
 出た言葉は想像以上に冷えて、そして辛辣だったのだろう。土方の驚いた様な表情からそう悟り、銀時は憶えた苦しさに吐きたくなる呼吸を堪えた。今にも感情以外のあらゆるものが出て行って仕舞いそうな事が怖かった。
 「…………いや」
 躊躇う様な間の後に土方がそうこぼすのを聞いて、銀時は感情を出さぬ様に努めながら、未だ抜き身の刀を下げた侭の右手にそっと触れた。
 「なぁ土方」
 乾かぬ血に濡れた指がぴくりと神経質そうに跳ねるのを押さえる様に握り込んで、至近の顔を覗き込む。労りたくなって歪もうとする表情筋がどれだけ堪えようが言う事を聞いてくれそうもない。
 「死んじまえば終わりだ。声も届かねェし、触っても届かねェし、恨んでも怒っても悲しんでも届かねェし、」
 言いながらも、きっとこんな事を言っても土方にそれが届く事は無いのだと、銀時は何処かで冷めた理解をしていた。生きているのに、これだけはきっと、どんなに言葉を、心を、身を尽くしても届かぬのだろうと、悲しいぐらいに解って仕舞っている。
 それでも言わずには居られないから、こうして卑怯な情を挟む事で訴えるのだ。そこに少しでも、いつかは僅かでも揺らいではくれないものかと愚かしく期待をして。
 「……覚悟が無きゃ、刀(こんなもん)なんざ持たねェよ。俺も、浪士共も」
 土方の視線が自らの手の内の刃と、銀時の腰の木刀とを寸時見た。そこに在るのは羨望かそれとも憧憬か、或いは単なる侮蔑か。
 護りたいものと負おうと思うものが選ばせた刃の形は、銀時と土方とでは違い過ぎるのだ。銀時が心地よく呑んで酔える日常の何処かで、土方は血を流して立っている。そしてその逆も起こり得る。
 強さは知っている。覚悟も知っている。だが、互いの立つ位置が違う以上、不可侵のそれこそが何にも代え難い空隙になる。埋まらない、身勝手な心になる。
 「…ま、そりゃそうだ」
 その心の質を不安や心配だと口にするのは楽だが、それを呑み込んで銀時は柔く嘆息した。届かない言葉と同じだ。伝わらない訳では無いのに解っては貰えない。これはそう言う類の感情なのだから。
 土方の抱く尊い筈の信念を、いつかこの情が遮りはしないかと卑劣にも思わずにいられない。
 銀時がそっと手を離すと、土方はそこで漸く思い出した様にスカーフをむしり取ると刀の汚れをそれで拭って鞘へと収めた。そんなものでは、血も脂も断った命の重みも長らえた生の実感も拭えなどしないだろうに。
 「傷は?痛むか?」
 「…いや」
 答える前に肩を竦める様な仕草を挟んだ土方の姿に、銀時は密かに安堵する。案じた言葉に正しく答えをくれようと、自らの身を省みてくれたのだ。
 小さな一歩にすら満たないそんな土方の答えを馬鹿馬鹿しい程に大事に受け取った銀時は、その後頭部を引き寄せると額を肩口にそっと押しつけた。びくりと、項の辺りで土方が息を飲む気配。
 「万事、屋」
 汗と血と埃の匂いが、固い生地の中から漂う。雨上がりの冷えた空気に晒されても熱のある体温と、触れた膚の下で息づいている生の証。
 (まだ、届いてる。だから此処に居る。こうする事を赦してる)
 だから大丈夫だと己に言い聞かせながら、銀時は後頭部に置いていた掌で土方の髪をぐしゃりと撫でた。
 「な。もしも今度傷負ったり死にそうになったらその時はさ、銀さんの事思い出してみな」
 そうして至近の耳にそう囁いて顔を上げれば、ぽかんと目を見開いた土方に出会う。
 「……は、ァ?…何訳わかんねェ事抜かしてん、」
 「良いから」
 呆れた様な声をぴしゃりと封じて、血の匂いのする口接けをひとつ。そっと顔を離せば、土方が困惑と言う息苦しさに堪える様に表情筋を歪めて笑んでいるのが、月の光源の下にはっきりと見えた。
 「…………馬鹿か、てめぇは」
 寄った眉根が苦しげに震えるのを見て、銀時は「ああ」と小さく頷いた。
 履行される事は無いと知っているから、馬鹿な口約束ひとつ出来ない己の弱さに呆れながら──或いは諦めながらも、確約のないただの戯れめいた言葉が少しでも土方の心の何処かに刺さって痛みを与えられれば良いと、身勝手にもそう願う。
 (俺を未練にして、何がなんでも生きて帰って来てくれよ)
 届かぬ言葉を振り絞って伝えようとする銀時に、自らが答えられぬ事を知る土方は返すべき言葉を持たない。
 それでも、屍を背に立っている土方が非道く辛そうに微笑んだから、きっと己は正しいのだと銀時は思った。




このもっと草稿だったのを練ってふっくら焼いたのがGOLAとか言う話でしたとさ。

不意の不実と不慮の過失。