鬼が愛したのはその一瞬 「土方」 呼ぶ声にぼんやりとした頭を働かせて振り向けば、そこには銀時が立っていた。黒い洋装の上に白い着流しを纏って、腰には木刀。 「何処かに出掛けるのか?」 その出で立ちはどう見た所で部屋でこれから寛ぐ様子では無い。だから土方がそう問えば、その質問をまるで待っていたかの様に銀時は「ああ」と頷いて畳の上にそっと片膝をついた。 癖の強い銀色の髪にふわふわと縁取られた面相は、ほんの少し眉を寄せて、申し訳のなさそうな表情を作っている。 銀時にそんな顔をさせる理由と言うのが恐らく、何処かへ出掛ける、と言う事なのだろう。気にする必要など無いのにと土方は思うのだが、口にはせずに目前の銀時の顔をただ見返して続きを待った。 「ちょっと依頼でどうしても、って言われちまって。そんな時間はかからねェと思うが、悪ィけど適当に時間潰しててくれ。夕飯までには帰るから」 ごつごつとした掌に片頬を撫でながらそう告げられるが、それの何処に銀時が申し訳なさそうな顔をしなければならない理由があるのかもよく知れず、土方はただ「わかった」とだけ頷いた。 「ん」 次には、よく出来ました、と言う親の様な柔い笑顔を見せると、銀時は土方の髪をぐしゃりと一撫でしてから立ち上がって玄関へと向かう。自然と立ち上がった土方はその後を追い、三和土でブーツに足を突っ込む銀時の後ろに立った。少し肌寒い気がして、着物の中で腕を組む。 「すぐ帰って来っから」 「そんなに心配しなくても留守番ぐらいなら出来る」 「ああ。出来るだけ急ぐから」 ひょっとしたら子供扱いをされているのかと思い至って唇を尖らせる土方に、銀時は猶も重ねてそう言うと、何かを言いたげに目を僅かに眇める。だが結局その続きを口にする事はなく、彼は、 「じゃ、行って来る」 そうとだけ短く言って、後は振り向かずに玄関から出て行った。鍵を閉めるかちゃりと言う金属音の後には、足早に去って行く足音。本当に急いで行って戻ってくるつもりの様だ。 小さな家から己以外の気配の消えた事を、痛いほどの静けさで実感しながら、土方は冷える二の腕をそっとさすりながら玄関の障子を閉ざし居間へと向き直った。 畳張りの部屋は、古めかしいが懐かしい匂いに満たされていて居心地が良い。敷かれた藍色の座布団は少し薄いが、大事に使われていたものなのか柔らかいし綺麗だ。布地の表面の花の模様を指先で幾度かなぞりながら、土方は座布団の上にそっと腰を下ろした。 殆ど空っぽの茶箪笥と、寝具や衣類の仕舞ってある押し入れ。小さなテレビを乗せているのはテレビ台を兼ねた物入れ。低い天井には紐スイッチをぶら下げた蛍光灯が灯っている。 古い傷の目立つ卓袱台の上には湯飲みと急須。軽く摘める菓子の入った漆器風のプラスチックの器。 窓には雨戸。縁側の障子はぴたりと閉ざされていたが、白い和紙を薄く通す光から、外は昼間なのだとは知れる。 そんな部屋に隣接しているのは、障子を挟んで小さな玄関と板張りの三畳間。更にその隣に二畳程度の手狭な台所。時折、蛇口からぽたりと水がシンクに滴る音までよく聞こえる、小さな家だ。 何処を見ても古めかしい印象だし、天井の隅にある神棚にも何も奉じられてはいなかったが、掃除だけは綺麗にされているらしく、座ってぐるりと見回す中に、汚いとか不潔だとか感じる部分は全く見受けられない。良い所だと思う。 そんな風景からも銀時の性格や為人を感じられて、土方は自然と浮かんだ微笑を以て、小さくて古い、その家の内を見つめた。 「……」 気付けばまたぼんやりとしていた事に不意に気付いて、土方は頭を巡らせると、目に留まったテレビのリモコンを取り上げた。電源を入れて幾つかチャンネルを回してみる。 再放送らしいドラマは憶えのある内容では無かったが、集中して見入る程に面白くは無い。感想もそこそこにチャンネルを移動すれば、ドラマの他には、態とらしい演技の通販番組に、異国語の講座に、子供向けのアニメに、ニュースと言った、昼下がりの怠惰なラインナップしか無い。 めぼしい番組は無かったが、無音で居るのも何となく寂しく感じられて、土方は適当なチャンネルにした侭リモコンから手を離した。旧式のブラウン管の小さなテレビ画面に背を向けると、辺りを再びなんとなく見回す。然して時間も経過していない部屋の風景は、障子を透かした陽光でさえ全く変化していない様に見えた。 畳の上に尻を移動させると、座布団に頭を乗せて土方はごろりと仰向けに横になった。適当に設定したチャンネルはどうやらニュースだったらしい。政治の問題についてをスタジオのコメンテーターが解り易く解説している声が聞こえて来る。 その内容を聞き流しながら頭を横に転がすと、卓袱台の下にぶ厚い雑誌が置いてあるのが見えた。手を伸ばして引き寄せてみればそれは漫画専門の週刊誌だった。銀時が読んでいたのだろうかと思い、パラパラと頁を捲ってみる。 少年の戦いや、多少の色気を描いた恋愛、益体もないギャグ。様々な漫画が連載されていたが、どれもこれも頭に内容が入って来ない。結局はそれも元通り卓袱台の下に戻すと、土方は横たわった侭畳の目を見つめた。 殊更に退屈と言う訳では無かったが、時間を持て余している様な感覚がある。眠って仕舞おうかと目蓋を閉じれば、目にしたばかりのテレビや漫画よりもはっきりと残る記憶に出会う。 そこに居たのは銀髪の男の姿だった。彼が出掛ける事を申し訳なさそうにしていたのは、ひょっとしてこうやって土方がひとりで時間の過ごし方に困るだろうと解っていたからだったのかも知れない。 (早く、戻って来ねぇかな) 気にしなくて良いと言って送り出した筈だったと言うのに、弱音をこぼしている様で情けないだろうかと思って嘆息する。どの道、夕飯までに戻るなどと言っていたぐらいなのだから、銀時はまだ当分戻らない筈だ。 依頼だと口にしていたのを思い出せば、それなりに時間は掛かるのだろうと気付いて、土方は横たえていた身をゆっくりと起こした。まだ一時間も経っていないのに今からこれでは先が思い遣られる。 「……依頼、って、何だ?」 膝を立てて座り直した所で不意にそんな疑問に行き当たり、土方はそっと眉を寄せた。 依頼と言うぐらいなのだから、頼まれ事だろう。つまりは──仕事なのだろう。 (そもそも、あいつは何をやっている男なんだ?) 思い描けるのは銀髪の男の姿。 坂田銀時、そう名乗った。 恋人だと、そう言った。 (初めて、出会った、人間) それが、ぼんやりと霞みがかってはっきりとしない土方の記憶に、脳に、鮮烈に刻まれた男の存在のすべてだった。 言われる事も聞かされる事も、疑いなくただ鵜呑みにした。何しろ疑うにも反論するにも、それに対する寄る辺や頼る記憶が何も出て来ないのだから。 動物にはよくこう言った、刷り込み現象と言うのがあるとは知っている。まるでそれだと思うが、土方は全く危機感を感じていなかったし、疑う要素も何一つ見つからなかった。 何故なら、与えられたこの記憶は、空いた侭の世界に差し込んだ欠片の様に綺麗にここに収まって揺らいでくれそうも無かったからだ。 「……ぎんとき、」 呟きは押し出される様に唇の隙間からほろりとこぼれて、酷く甘く胸へと落ちて土方の心を優しく宥めた。 どうしてだかは解らない。ただ、その名前が、その人が、恋しくて仕方がないのだとだけ、はっきりと解る。 初めて出会った、それも男に、朝だと言うのに目覚めた布団でその侭抱かれた。今までに得た事の無い様な充足感は、思い起こせば今も猶土方の裡で燠火の様に静かに揺れている。 ただどうしようもなく愛おしくて、どうしようもなく焦がれて、どうしようもないぐらい、幸せだと思った。 必要とされていて、愛されていて、その事実に呆然としながら安堵した。 (早く、帰ってくれば良いのに) 考える内段々と眠気に飲まれつつある意識が、そんな事をぼんやりとこぼす。眠りと現実との狭間をうとうとと漂いながら、土方は横向きに身を倒れ込む様にして畳の上へと転がした。天井を向いた掌を、何かを掴む様にそっと折り畳んで目を閉じる。 銀時の存在だけでは埋まる事のない、そんな隙間も其処にはあったのかも知れないが、問わぬ侭、解らぬ侭に指は空を掴んでその場に留まった。 眠りの意識の漂う淵で、点けっぱなしのテレビが次のニュースへと移った。女性キャスターが丁寧な声で原稿を読み上げていくのが、耳の中へ雑音として通り過ぎていく。 《──の幹部である副長の土方氏が行方不明になったとされている事件について、大手攘夷党が犯行声明を出したと今日発表されました。ですが、その内容は根拠に乏しく、また被害者とされる土方氏の身柄が未だ発見されていない事からも、警察では事件に便乗した嘘とみなしており、慎重に捜査が進められています。同時に警察は土方氏の行方について総力を挙げ捜査を続ける方針であるとコメントしています。では次のニュースです》 世の中は物騒な様だ。次のひき逃げの事件も飲酒運転が原因と、明るいニュースはなかなか出て来そうもない。眠りに半分以上を明け渡して仕舞った土方の意識はそこで緩やかに消えて行き、あとはただ、誰もいない小さな家の中にただ静かな寝息が響くばかり。 (……はやく、………、何が、帰って来るんだったっけ…?) 溶けて曖昧になった夢現の境界で、土方は最後にそんな事を考えながら抗えぬ眠りへと落下した。 元々続き物にする予定だった放置物件の導入部分。前に書いた話とちょっと被った気がしたので。 続き前提だったので説明不足で尻切れな状態ですが、お蔵リサイクルの一環で…。 一行にすると、眠る度記憶がリセットされて仕舞う土方と、それを利して誘拐しちゃったかもしれない銀さんでした。 人が望んだのはその一瞬の安寧。 |