※登場人物の死にネタなどの危険成分を含みます。苦手な方はご注意下さい。 ========================= Tender Sugar 駈けていた。何処までも。 薄暗い町の中を、潜む様にして。 細い道ばかりを選んだ。建物の隙間を──道とも到底言えない、野良猫ぐらいしか通らない様な文字通りの隙間を縫って、影を辿りながら直走った。 腐臭のする生ゴミ。小動物の乾いた亡骸。飽和する物品の中から放り捨てられた廃棄物。そんなものたちが無言で見つめるばかりの裏通りを、全速力で。 それらは壊れて仕舞ったものなのか、それとも単に要らなくなったものなのか。それさえも、誰にも解りはすまい。 棄てた当人たちでさえ、きっと知らないに違いない。 廃棄されたものたちの悲鳴など。泣き言など。恨み声など。知りは、しない。 「──、ッ!?」 ひととき意識を余所にやった所為か、足が不安定な硬さのものを踏み付けた。段ボールの残骸か衣服の切れ端か腐った生モノか。 それの正体が何であれ、アスファルトの固さから突如転じた足下の感触の変化は、既に疲労しきっていた土方の足下からバランスを奪うには充分だった。 ざざ、と靴底が大地を虚しく引っ掻いて、土方の身体は容易く宙に投げ出された。背中から思い切り地面に叩き付けられて息が詰まる。 咄嗟に肩に力を込めて横に転がって衝撃を逃がそうとするが、思いの外に疲れ切った筋肉は土方の言う事をなにひとつ聞いてはくれず、走っていた勢いの侭無様に横転しながら壁にぶつけられて漸く、動きを止めた。 「…ぅ、」 横倒しに転げた侭呻いた土方は、然し次の瞬間には素早く跳ね起きていた。姿勢を低くした侭辺りを油断なく見回して、近くに誰の、何の気配もない事を確認してから、ゆっくりと、時間をかけて息を吐く。 近代建築と和風建築を混ぜた様な、天人来航時代頃によく作られた建築様式の建物に挟まれた、隘路と言うよりはただの狭間だった。文明の流入と共に先を争う様にして建てられたそれらの建物の多くは、時代の変遷を物語る様な急拵えのものが多く、今では老朽化の心配から投棄されている物件も多い。 土方の逃げ込んだこの区画も、そう言った建築物の多い一角だ。何度も再開発の声は上がってはいるが、元より余り使い勝手の良く無い土地だった事もあって、結局は殆どその侭放置されている。 その為に悪党や攘夷浪士や悪ガキの溜まり場やアジトになる事も多い。そんな場所に、警察と一目で知れる真選組の隊服姿の土方が居るのは、それそのものが既に危険としか言い様がない。 だが、それでも。『奴ら』の手から何とか逃れるには、こういった社会的に放逐された場所は実に好都合でもあるのだ。リスクは大きいが、それを選んでいられない現状であるのも間違い無い。 遠くで鴉が鳴き交わしているほかは、周囲は静かなものだった。寂れ、荒れ果ててはいるが、人の気配は特に感じられない。 土方は腰から刀を外し、抱える様にそれを持ちながら建物の壁にそっと背を預けて座り込む。 軽く確認してみるが、足を痛めた様子はない。上手い転び方が選べたとは思えないので、単に運が良かったと言うべきだろう。 手や足には擦り傷。走ったり転んだりした所為で、草臥れた隊服は汚れて些かみっともない事になってはいたが、今更そんな、外見をどうこうと気にしても仕方ない。 ポケットを探るが、煙草やライターは入っていなかった。いつもならば隊服に入れているのだが、今日は急いでいたから忘れて仕舞ったのかもしれない。 携帯電話も、途中で落としたのか見当たらなかった。とは言え、持っていたとして、『奴ら』に追われる身を思えば、うっかり仲間に連絡など取れる筈もないのだが。通話ひとつ、メールひとつしたが最後、GPSから居場所を特定されて仕舞う事だろう。 つまり、今この裏ぶれた路地裏にあるのは、真選組副長である己の身ひとつと、刀が一本と言うだけだ。 しかもこの刀もいつもの愛刀ではない為に、重心が違ってどうにも扱い辛そうだ。いざと言う時にどの程度立ち回れるかは解らないが、他に生きる手段が無いのだから、やるしかない。 『奴ら』の手から、全てを取り戻す為に。戦うしかない。 握りしめた、擦り傷だらけの拳を見つめて、土方は口の端に力を込めた。 (やってやる) ただそうとだけ強く念じて、もう一度狭い空を見上げれば、時刻は昼を回っているのだろう、日も頂点から少しは傾いた様だった。この季節の日没は早い。この侭ここに潜んでいる内に辺りが暗くなれば、『奴ら』にとって好都合になるが、土方の方も動き易くなる。 (まぁ、その前に誰もこの辺りに来ねェ事を祈るのが先か) 動くものは野良猫一匹たりとも存在していない。野良犬なら居るか、と思い、自分ながら下らない冗談だと忍び笑う。 (なんとか此処から逃げのびて、まずは山崎に連絡を──) そう、疲労からか纏まり辛くなりつつある思考を総動員した矢先。疲労で衰えかけた土方の聴覚に、乾いた音が飛び込んで来た。 靴音だ。人数は一人。段々と近付いて来る。 (クソ、) まるで散歩する風情の速度で、然し迷いのない足取りが徐々に接近して来る。土方は奥歯を噛み締めると、刀を抜刀の姿勢に構えながら、座り込んでいた膝を音を立てずに少しずつ伸ばしていった。 片膝をついた姿勢でじっと隘路の曲がり角を見つめ、暗がりから今にも飛びだして来るだろう『敵』をじっと待ち受ける。 不敵な形に歪んでいるのだろう唇をちらりと舐めて、いよいよ視認出来る目前に迫った気配に向け、鯉口をそっと切り── 「お。土方くん見ぃつけた」 逆光を背負う形となった『敵』の口から漏れたよく聞き慣れた声音に、恐る恐る口を開く。 「……万事屋、か?」 「見りゃ解んだろ。俺が、万事屋銀サン以外の何だってのよ」 肩を竦めてそう言う銀時の姿に、土方はがくりと脱力しながら、掌に顔を埋めて再び座り込んだ。 「…………だな。そんな巫山戯た形した奴ァ、江戸の何処探したってテメェくれーしかいねェか」 緊張が一気に安堵と疲労に転じて、土方は大きく溜息をついた。刀を抱えた侭、建物に背を預けて、強張った全身から力を抜く。 ──大丈夫。これは、敵ではない。 「で、何してんだよこんな所で。この辺物騒な界隈だろ、お前じゃなくても一人で路地裏で寝てて良い様な場所じゃないよね?段ボールをマイホームにしてる侍とか、まるで段ボールがお家的なマダオにでもちょっと斬新すぎてお勧めしねーよ?」 言いながら銀時はきょろりと辺りを見回す様な仕草をして見せる。土地や屋根が余っていようが、ホームレスでさえ危険を畏れて近付かない様な場所だと言うのは、土方とて無論理解している。だからこそ浮かんだ疑問だったのだろう。 危険がどうとかを気にする余裕が無かったと言うよりは、他に選べる途が無かったと言う方が正しい。何を、どう説明する意味も無いと言うのに、説教めいた話など聞かされても仕方がない。 土方は辛そうに顔を顰めると、けぶる様な目をはっと見開いた。 「っそうだ、こうなりゃテメェで構わねぇ、今すぐ山崎に──いや、ウチの誰にでも良い、伝えなきゃなんねぇ事があんだよ、」 そうだ、その為にこんな所まで形振り構わず転げる様にして逃げて来たのだ。思い出して、土方は目の前にしゃがみ込んだ銀時の肩を掴んで声を上げる。 「ああ、」 銀時は何かを得た様に軽く顎を引いて諾を示すと、今にも立ち上がらんばかりになっている土方の両肩を押し戻した。一見優しげだが、否を言わせない力強さで座らせる。 「大丈夫だ、オメーの仲間にゃもう伝えてある。直に皆来るから、安心して休んどけ」 「だが、近藤さんと総悟に早、く…、」 「大丈夫だから」 遮る様に強く言う銀時の言葉に嘘はない。それは解る。勘とか信頼とか損得の問題ではなく、単純な事実として。『解る』。 だが、そうだとしてもじっとしていられないのが土方の性分だ。座らされて、猶も浮かせかかる腰を、もう一度ゆっくりと押さえつける様にして戻される。 「…大丈夫だから」 繰り返される言葉には、安堵の成分しか聞き取れないと言うのに、銀時の様子は何かを堪えかねる様に、少し苛々として見えた。 「……万事屋、?」 伸ばされた掌に目元を覆われ、ひととき暗くなる視界に、静かに。 「大丈夫だ」 染み入る言葉に、不思議と強張っていた身体から力が抜けて行くのが解って。土方は逆うのを止めて、上向かせていた頭をことりと落とした。 「お前またどうせ碌に寝てねーんだろ?仲間が来たら起こしてやっから、ちっと休んでろ」 瞼をそっと撫でる様な仕草を残して、銀時の手が離れて行く。 「銀さんこう見えて強ぇのは知ってんだろ?少しの間くれェ、護っててやるよ」 繰り返された、大丈夫、と言う言葉と同質の安堵が、確かにそこには在る。銀時の、いつも通りの軽薄そうな、やる気のなさそうな笑みが、そこには在る。 「──」 何かを一瞬見落とした様な不安定さと、纏まらない思考の不定型さがぼんやりと土方の裡を満たして浸している。茫漠とした泥の海に呑み込まれる様に、緩やかに。抗いようもなく。 「……解った。少し、頼む。山崎が来たら、起こし…、」 引き寄せた膝に額を押し当てた途端、今まで感じていた疲労感が一気に全身を倦怠感にも似た重さになってのし掛かって来た。落ちようとする瞼に抗わずに目を閉じ、靄がかった思考を手繰ろうかと迷う土方の耳に、もう一度。 「……大丈夫だよ」 響いた銀時の言葉がまるで、最後の土方の抵抗を赦すかの様に落ちて来て。 (山崎が来たら、『皆』で、『奴ら』を……、) 思考の糸は解けるより先に千切れ、土方の意識はそこでふつりと途絶えた。 * 近藤勲が処刑された。 銀時が最初に耳にしたのは、そんな言葉だった。 司法が整備されてからの時代は処刑と言うものの数がそもそも減った。攘夷戦争頃までの様な大虐殺と言っても良い大粛正は疎か、余程の危険人物と目された者以外に対し極刑が公に行われる様な事は殆どと言って良いだろう、無くなっていた。 だからか、銀時の理解は一瞬遅れた。 だが、テレビが慎重な声音で流し続ける報道と、騒ぎとは、何一つとしてそれを嘘や冗談だとは伝えてくれてはいなかったのだ。 事の発端は、真選組解体のご下命にまで遡る。 徳川宗家の治世は最早一橋徳川派との争いの果てにまで維持出来る様なものではなくなっていた。将軍と攘夷志士との繋がりと言う黒い噂、天導衆に良い様に傀儡にされた政権。幕臣の歴々に因る自らの利しか鑑みない愚行の数々。 それらを大義名分に、一橋派が挙兵したのは遡ること半年ばかり前の話だ。多くの幕閣を抱き込み、軍事力の一部も徳川宗家に弓引く事を選んだそれは、事実上のクーデターと言って良い。 民衆は、長い間続いた徳川の治世に浸ってはいたが、熱烈に支持する訳でも無い。因って、誰が上に立った所で、諸惑星の天人に頭を垂れて生きる以上、自分たちの生活は何一つ変わりないのだと、静観する者が殆どだった。 天導衆は意外な事にも、この政変に大きな口は挟まなかったと言う。無論、彼らにも彼らなりの狙いがあった。だが、この時それに気付く者はいなかった。 そうして、現将軍とその周囲の者らは田舎での蟄居処分となった。今後政治に口出しをしない代わりに、自らの妹や腹心の部下を護る事を選んだ末の結果だったと言う。 つまり、三百余年続いた徳川宗家の世は、ここに真の意味での終わりを告げたのだった。 民衆の生活は彼らの思った通り、当初は大きく変わらなかった。その上に立った一橋将軍は早速意欲的な改革を行って行き、諸惑星の天人と対等に在る為にと富国強兵を目指して── そして、一週間後には落命していた。暗殺か、事故なのか。それさえも不明である。 頭を再び失った幕府は荒れに荒れる事となり、結局最終的に政権を握る事となったのは、徳川家に縁の深い、親天人派の武家の一つだった。新将軍の死と新たな将軍の擁立。その裏に天導衆の暗躍があったのは言う迄もない。 今まで江戸幕府に因ってある程度の利権を遮られていた天人たちがここぞとばかりに動いたのもまた、言う迄もない話だった。新将軍は彼らの提示した不平等条約を、自らの新政権の足下を固める為にやむなく呑んで、この国は政治、経済、治安、全てに於いて大きな改革を迫られる事になった。 その『改革』の中に、一部の警察組織の解体、と言う項目があった。 この国の法の網をかいくぐりながら利潤を得ようとしていた天人の商人たちにとって、時に外事に嘴を突っ込む一部の警察組織──主に真選組の存在はそれはもう疎ましい物であったと言う。 真選組の権限には基本、現場での自由指揮権を与えられている、と言うものがある。攘夷志士の起こすテロ行為などに対し、現場で即判断し即騒ぎを鎮圧するのが役割の彼らには当然の様に必要とされるものだ。いちいち上にお伺いを立てていたら、事件などいつになっても解決しない。 そんな『特殊』且つ『危険』な存在である彼らに下された突然の解体命令と、局長と副長の出頭命令。 武士の身分は剥奪されるだろうが、命までは獲られはすまいと、近藤は笑って言ったそうだ。 慎重な土方がそれを鵜呑みにしたとは到底思えない。最後まで止めたに違いない。 それでも近藤は、部下の為にも自らが嘆願に出る心算だったのだろう、出頭命令を諾々と受け入れて、土方もそれに付き従った。沖田は勝手に外で待ち、数日の沙汰を待った。 その仔細を銀時は未だ訊いてはいない。どの様な遣り取りがあったのかも知れない。飽く迄、その時近くに居た山崎からの想像半分の話だ。 確かなのは。土方や沖田、その他真選組隊士らの目の前で近藤の首は刎ねられ──武士としての切腹さえも許されはしなかったのだ──、土方の制止を振り切って、沖田はその場に居た刑吏を皆殺しにして猶、暴れ続けた。 最期には、包囲した幕府軍の重火器に因って動けなくなるまで。近藤の首を抱えて、憤怒にも似た凶刃を振るい続けたのだと言う。 土方が──沖田にも負けないぐらいに怒りを抱えていた筈の土方が、それでも動かなかったのは、恐らくは真選組の、自分の抱える多くの部下の命を護る為だったのだろうと、山崎はそう言った。銀時の想像もそれと概ね違えはしない。 解体された真選組から直接出た『犠牲者』──『反逆者』──は、局長の近藤と、一番隊隊長の沖田のみだった。職を、刀を、武士と言う身分を、警察と言う役割を失った在籍隊士らにはそれぞれ再就職の道が宛がわれたと言う。それに従った者もいたし、従わずにいる者も居る。 ただ、近藤の処刑が行われたあの場で、土方までもが怒りに駆られ沖田と一緒になって暴れていたら、集まっていた隊士らを止められる者は誰ひとりとしていなかった。そうなれば騒ぎは更に大きくなり、犠牲者も増え、一般人が巻き込まれた可能性も充分に有り得た。当然そうなれば、真選組は全ての人員が不名誉の名と共に粛正の咎を受ける羽目になっていただろう。 討ち死にを美しいと見るか、無惨と見るか。その信念をどう護るか。 土方はどちらかと言えば前者の傾向にあるだろうと思っていた銀時にとっては、山崎から訊いたその話は当初に俄には信じ難いものであり──同時に、近藤と土方らしい、と思えるものだった。 彼らの命は彼らだけのものではない。抱える部下が、共に戦おうとする仲間がいる。 それを護ろうと堪えるのもまた、戦いだ。 酷く無惨で、簡単に楽にはなれない。 生きなければならないと言う、戦いだ。 真選組の──最早残党とも呼ばれる彼らは、大っぴらに幕府に対して敵対行動は取らなかった。叛逆行為に繋がる一切を、土方が良しとはしなかったのだ。 それでも何人かの連中が、攘夷浪士めいたテロ行為を起こして、処断されたと言う。 『犠牲』は増えた。だが、それでも土方は仇討ちを目的に動く事を彼らに赦しはしなかった。 近藤の仇を、沖田の仇を、仲間の仇を。そう叫ぶ嘗ての部下たちを、変わらない『鬼』の声はただ鎮め続けて来た。 それを、臆病風に吹かれたと陰口を叩く者も居た。土方の懊悩や近藤の思いを解ってはいるが、堪え難い無念さに結局刃向かっていた者も居た。 遺体の返却さえ赦されなかったと言う、近藤と沖田の菩提として、土方は彼らの故郷に形ばかりの墓石を置く事にした。 土方は要注意人物として、幕府からの密かな監視を受けながらも、町中の小さな一軒家で隠居めいた暮らしを始めた。山崎や嘗ての部下たちが、特に頼まれた訳でもないのに、交代交代に訪れてはその世話をしたり様子を伺ったりしている様だ。 取り敢えず犯罪者とまでは行かずとも、要注意人物の烙印を押されている以上、再就職の道も難しい。当座は貯金を切り崩しつつ慎ましい生活をし、山崎の請け負って来る、年寄りなどを主に相手にした代書屋めいた事を細々とやっている。殆ど儲けなどないものだが、それでも何かをしていないと落ち着かないからと、自分から言い出した事らしい。 これが一月ほど前の話になる。 真選組が解体されてから今にこうして落ち着くまでの半年近くの時間を、土方は慌ただしく立ち働いていた。 そんな姿を銀時は何度も訪ねたし何度も見ていたが、土方の方もそんな銀時を特に邪険にするでもなく、拒絶するでもなく、乗り越えなければならない日々を過ごしていた。 それを見て銀時は思ったのだ。土方が自分から何かを望んだり願ったりする様になるまでは、仮令世界が赦さなくとも構わない。何が出来る訳でもない。だが、それでも一緒に居ようと。 きっとそれは土方にとっては、手探りで切り開く、呪いの様な日々であったに違いない。だからこそ銀時は、変わらないものが何か在ると言う事を、ただ土方に伝えてやりたかったのかも知れない。 銀時は暇を見つけては土方の家に上がり込んで、一日中どうでも良い事を話していたり、同じ空間に居ても特に何も言葉を交わす事もなく、だらだらと時間を過ごしたりしていた。 そんな穏やかな日々の中で、土方の様子は全く普通だった。『当時』の事については銀時も訊かなかったし、自分からも全く語ろうとはしなかったが、普通に出来事として認識はしている様だったし、真選組だった頃の話なども避けるでもなく当たり前の様に口にするくらいだったのだ。 或いは、だから──なのかも知れない。 破綻は誰も予想し得なかった所で、少しづつ、確かに忍び寄っていたのだ。 最初の異変は、深夜に土方から突如万事屋に掛けられた電話だった。 自分は『奴ら』と戦っている最中だから、早く仲間にこの事を伝えてくれ。 端的に伝えられたその言葉は全く意味不明で、冗談にしても訳が解らず、土方らしくもないものだった。声音も切羽詰まっており、到底何かの悪戯や思い違えと笑い飛ばす事も出来そうもなかった。 異変はそれで終わりではなかった。 否。それで終わりだった、と言うべきかも知れない。 土方はまるで常の様に生活をしていると言うのに、時折、何かの発作の様に『そう』なる。 自分を、真選組の副長であると思い込み、真選組を解体させようとする敵──『奴ら』と戦おうとする。戦っているのだと、思い違えをして仕舞うのだ。 手元に最期に残されていた、血に塗れた沖田の亡骸と近藤の首とを抱えた、血を吸って猶黒い隊服を凛と纏い、『刀』を持って、真選組の鬼の副長は戦に出る。 迷子の様に、有り得ない現実の世界を彷徨い、部下と、近藤と、沖田の姿を探して戦おうとし続ける。 そうして数時間後か、一日後か。不意に何事もなかったかの様に元通りの、隠居中の元副長に『戻る』。 忘れて仕舞え。呑み込んで仕舞え。残酷な現実を受け入れて仕舞え。 そんな感情の軋轢の中で、最早誰も見てはいないのに、凛と背筋を伸ばして立とうとする。己の信念を抱えて、前に進もうとする。 生きていようとする。土方十四郎として、生きていようと必死で足掻き続ける。彼らに恥じぬ様に立ち続けようとする。 壊れて仕舞った彼の世界で、壊れる前の魂が叫んだその通りに。 それはきっと誰よりも、土方十四郎と言う侍らしい生き方の、そのものだった。 * そんな土方を──真選組の副長を探しに来るのも、これでもう何度目だろうか。 疾うに数えるのを止めた手を見下ろして、銀時はそっと息を吐いた。 壁に背を預け、『刀』を抱える様にして目を閉じた土方の姿は、形だけを見れば以前までの、真選組の鬼の副長となにひとつ変わりはしない。 変わって仕舞ったのは、この世界の方だった。壊れて仕舞ったのは、この世界そのものだった。 僅かに目を眇めた侭、土方が深い眠りに落ちている事を確認すると、銀時は袂から二つ折りの携帯電話を取り出した。土方の方を注意深く見た侭、指の動きだけでリダイヤル発信をする。 《旦那、見つかりましたか?》 ワンコールで素早く取られた通話相手からは、もしもし、の声も、その示す主語もなく、ただ焦燥感を募らせた声音のみしか感じられない。だがそれは、それだけで正しくて、それだけで意味のあるものだ。 今一度土方の方を見てから、銀時は出来るだけ低く押し殺した小声で、電話の向こうの山崎へと応える。 「無事確保。ケース3辺りで待ってるから、とっとと迎えに来いや」 盗聴の可能性を一応は考慮しているので、会話は符号で通じる様に打ち合わせ済みだ。逆に言えば、打ち合わせを必要とするぐらいの回数は、この『依頼』をこなしていると言う事になるが。 《ありがとうございます、旦那》 「別にィ?お前らの為にやってんじゃねーし」 素っ気なく言って終話ボタンを押すと、銀時は携帯電話を元通り袂に放り込んだ。これもまた、いつもの遣り取りだ。 眠る土方は、余程疲れていたのか、それとも他に理由があるのか、規則正しい寝息を繰り返すばかりで全く目を醒ます気配はない。 傷だらけのてのひらと、埃と血腥さに汚れた黒い隊服。手にした『刀』。 土方が今居るのは、現実なのか、それとも夢想の世界なのか。どちらと言えば良いのか、銀時には解らない。 この『発作』の症状さえなければ、土方の様子は日常生活に一切の支障を及ぼすものではない。監視の目のある中で医者に診せる訳にも行かず、逆にそうなった時に土方の精神状態がどう傾くかも知れないのもある為、事は山崎と、土方にとって知己にも等しい数名の人間、そして坂田銀時一人のみが知る所として留まっている。 二重人格や、分裂といった症状では、正確に言えば無いらしい。 山崎の見立てでは、土方は恐らく、『あの時』近藤を護る事が出来ず、沖田を止める事が出来なかった己を酷く責めており、その『現実』を──『あの時』に動く事の出来なかった己を許せず否定した事で、今になってその時叶わなかった『戦い』を続けているのではないかと言う話だ。 だから土方のその『現実』は、真選組が存続していて、正体も具体的に問い詰めれば恐らく知れない『奴ら』と言う敵と戦おうとしている、言って仕舞えば土方にとって都合の良い『現実』だ。 普段は澱に沈んだ無念の思いが、何を切っ掛けにとも知れず、不意に土方の『現実』を変容させる。そこは己に都合の良い幻想であると同時に、決して楽にはなれない『現実』──願望だ。 他にも、甘く都合の良い妄想の世界なら幾らでもあるだろうに、土方は飽く迄、全ての壊れた『あの時』を戦うと言う、酷く苦しい途を選んだのだ。 壊れたのは世界の方なのか、土方の方なのか。どちらと言ってやる心算も、銀時にはやはり解らないし、無い。 家に戻れば、またいつも通りに生きるのだろう。 近藤や沖田の死を乗り越えた土方十四郎として、きっと、いつも通りに。 『発作』を起こす様になってからは、銀時は『依頼』として、土方の家へと食事を作りに行く役割を請け負う事となった。昼前、夜と、時間に空きがあれば訪ねて行き、時には家主を買い物に連れ出したりしつつ。面倒を看ると言う『依頼』と、見張っていると言う『依頼』の為に。 「難儀なもんだよなあ……」 小さくぼやいて、土方が抱え持つ刀にそっと銀時は手を伸ばした。軽いそれを抜き取って見るが、土方が目を醒ます気配は矢張り無かった。 相当気を張っていたのかも知れない。『奴ら』と言う敵に追われ、夜通し走って、隠れて、走って。その間、警察や市民に見咎められなかったのは運が良いと言えるだろうか。 「どっちに転んでも、お前が楽になれるって事ァ、無ぇんだよなァ…」 思い起こしてみれば、『いつも通り』に生きる土方は、酷く空虚な容れ物の様だった。 亡骸のない墓石たちと同じ様に。 魂の芯は変わらずそこに在るのに、『何か』を喪った、草臥れた老人の様な有り様。 銀時も、戦場を離れた直後にはそんな為体でいたのかも知れない。余り記憶に無いし、わざわざ思い出したいとも思わないのだが。 抜き取った刀の、鯉口をそっと切れば、鞘の中から現れた刀は、碌に打たれた風でもなくすっかり錆びた、大根でさえ切れそうもない鈍だった。そのうえ、肝心の刃の部分は潰されており、鋼の出来からしても鈍器として役立つかも少々怪しい。 見かけ倒しにもならない、贋物以下の刀。 物自体は、当初『症状』の中に、刀を探し歩こうとする、と言う状態があった為に、怪我をしない様にと山崎がその辺りから適当に調達したものだった。 鞘に収めて仕舞えば普通の刀と変わりない様にも見える、そんな空虚な形代で何を護ろうと言うのか、棄てきれない、消えきれない信念を乗せて、縋る様にして生きようとする土方の姿は、酷く痛ましい。 痛ましいが、変わりもしない。 それこそが最も残酷な現実であり、突きつけられた事実なのかも知れない。 際限のない溜息にも、もう飽いた。 世界は壊れた。そして変容した。それでも生きている人たちが居て、その中で生かされている自分たちが居る。 これからの未来で、幕府がどうなるのかは知れない。世界がどう変わるのかも、知れない。 それでも、生きようとしているから、土方はきっと未だ此処に居るのだ。 現実逃避に似て、然し全く逃げようともしない『現実』を繰り返したその果てで──何が変わると言うのか。それもまた、知れない。 「……大丈夫、だ」 手を伸ばそうとして躊躇った挙げ句に、握り込んだ拳に小さくそう呟きを落とす。 その言葉はいつだって、正しい『現実』を何処かで認識している筈の土方を宥めて落ち着かせた。 土方の裡に生まれて仕舞った、破綻にも似た『発作』が、正しくもう一つの『現実』である筈はない。相反する二つの記憶と、相反する二つの現実は、正しく全てを識る土方当人にとって、同時に存在し得る筈のないものだからだ。 だから、きっと土方は何処かで『現実』を理解している。 それでも猶、『あの時』出来なかった、護れなかったものを思って、苦しむのだ。 大丈夫だ。と。それが、気休めではない言葉だと、知っているからこそ、受け入れる。敵がいると言いながらも、こんなに無防備に眠りに落ちる。 信頼ではなく、ただの事実だと言う、何よりも正しい認識で。 「大丈夫だ。銀さんこう見えて強ぇからね?少しの間くれェ、護っててやるから」 銀時の肩から力が抜けて、苦笑とも、諦念ともつかないやわい笑みが作られる。 これが、護るべきものなのか、護りたいものなのかも。本当の事を言えば、解らない侭だ。 いつか、お互い知らない所で死んでも、嘆きはするだろうが納得して、その侭忘れることも棄てる事も出来ないで抱えて、それでも生きて行く。そんな相手なのだろうと思っていた。 ……護れるならば、未だ良いだろう。 護るものをほんとうの意味で喪った時、土方が求めたのは、護れなかった己への罰だったのかも知れない。 「『大丈夫だ』。護るから。俺は、お前を、」 人は、心が、魂が死んだら終わって仕舞う。 身体を護ってやるのは未だ易い。その為に握る木刀(かたな)もある。 どうすれば、あの魂を護ってやれるのか。 (どうして『あの時』に、何も出来なかったのか、なんて──) 吐き捨てながら表情を歪めて、銀時は己への失望と、どうにもならなかった事を知る己とに憤った。 これが酷く無惨な思いなのだと。飲み干す様に知らしめられる。 これが、世界にも運命にもなにひとつ届かなかった時に味わう、無力感と言う名前の感情なのだと。銀時もまた、知っている。 * 聴取、詮議と言う殆どは近藤ひとりが呼ばれ行われた。その数日間、土方は牢の中でただ沙汰を待つほかなかった。 隊服の侭、刀だけは取り上げられたが、幕臣、侍、警察と言うその出で立ちの侭で鉄格子の向こうに追い遣られる、その気分は最悪で酷く惨めというほかない。 近藤は、自分は何らかの罪科を受ける事となっても構わないから、部下達にはどうか赦免を、と願い出ると、出頭する前から言っていた。だから土方は、まんじりとも出来ない時間の後に牢から出る様に命じられた時には、きっと近藤の嘆願は通ったのだろうと、漠然とそう思っていた。 連れ出されたのは、真っ昼間の刑場だった。町中と言っても良い、急拵えのその刑場には、多くの兵士と多くの警察が居並び、暇なのか見物人も大勢居た。 土方は手錠を掛けられてはいたが、向きは前だったし、刑吏や兵士も皆帯刀していたが警備は厳重とは言えない有り様。やろうと思えば幾らでも抵抗は叶った筈だった。 或いは、連中は頭に血の昇り易い質である土方の、そんな短慮を態と狙ったのだろう。 用意された蓆の上に、近藤が座らされているのが見えた。幾分草臥れた風情ではあったが、土方同様の隊服を纏った侭の姿は、罪人を本来捕らえていた真選組を知る者からすれば、さぞ滑稽に映った事だろう。 連中はそうすることで、近藤勲ではない、警察ではない、真選組と言う存在のみが処断されるべき存在なのだと示そうとしたのだ。 言い残す事はあるか、と刑吏が口を開いて。そこで初めて土方は、近藤が今正に処刑されようとしているのだと知った。確信せざるを得なかった。 近藤はちらりと土方の方を振り返り、僅かに口を動かした様に見えた。 それが、いつもの下らない冗談なのか。 本当に何かを言い遺したかったのか。 何度思い出そうとしても、何を言っていたのか、言おうとしていたのか、思っていたのか。それは未だに判然とはしない侭だ。 ただ、次の瞬間には、目隠しをされた近藤の首目掛けて刃が振り下ろされ。 それと同時に、生の処刑に沸き立ちかけた人混みを掻き分け、制止に入る兵達を文字通りに『斬り払い』、沖田が飛び出すのが見えた。 土方も咄嗟に刀を探していた。あの、振り下ろされる刃を止められるのは、止めなければいけないのは、自分しかいない。 自分を捕らえている兵士を一人蹴り上げ、その刀を奪えばそれで足りる。 だが、そうするよりも先に、駈ける沖田と、その向こうにいる山崎や原田や斎藤、他の隊士らの姿が土方の目に飛び込んで来た。 こちらに何かを伝えようと口を動かした、近藤の姿が。 「総悟ォッ!!」 そう吼えたのは、近藤だったのか、自分だったのか。或いは両方共だったのか。 土方には選べなかった。 己の感情だけで他者を巻き込む事も。 怒りを諦めとして諾々と受け入れて仕舞う事も。 沖田は、土方がそうなって動けなくなることを承知でいたのだろう。寸時振り向いた表情には、苦笑と嘲笑にも似た気配があった。 ──だから、俺がやるんでさァ。 そう言いたげな、勝ち誇った様な笑みだった。 「──」 それを最後に、土方の手は、抗う事を止めた。心が、怒りと嘆きとに吼えるのを止めた。魂が、無惨な心地に堪らずこわれそうになる。 目を見開いた侭絶叫する土方の眼前で、近藤の首が落ちた。 土方よりも遠くに居たからこそ、どうあっても間に合わなかった、沖田の刃がその場の人間を全て肉塊に変えた。 あとはただ、刀を抜いて暴れだそうとする真選組の仲間達に向かって、土方は声を張り上げ続けた。 駄目だと。近藤の死を無意味にするなと。これ以上、自分たちの魂を穢すなと。 近藤が処刑され、それを赦せぬと真選組が言葉通りの逆賊となれば、近藤の名誉も、魂も、自分たちのしてきた事も、なにもかもが貶められて仕舞う。全員漏れなく反逆者として。幕府に仇なした犯罪者として、処断される事になって仕舞う。 そしてそれこそが、幕府の狙い。真選組を完全に反逆者として根絶させる為に、警備を甘く、見物人と共に真選組隊士が集まるのを看過し、土方の手錠を前にした。 その時の行動を間違ったものであったとは、土方は思わない。 だが、正しかったと胸を張れるかどうかも、本当の所を言えば、解らない。 近藤と共に生きて、共に散る事が自分の本懐だった事を思えば、随分と腑抜けたものだとは確かに認識出来る。 ただ、それでも。真選組に遺された副長として、近藤の魂の体現でもあった真選組を穢す事は何よりも許せない事だったし、己の怒りひとつで部下の命を無駄に散らせるもまた、愚かなものだとは思う。 解放された後は諾々と、真選組解体の命を受け入れ、部下達の再就職先を手配し、忙しく立ち働いた。そんな土方を、腰抜けと罵る者も居た。理解を示す者も居た。支えを喪った人生を悲嘆し、後を追う者も居た。 近藤の遺したものを、沖田に遺されたものを、世界から奪われずに済んだものの残骸を、ゆっくりと片付けるだけの時間はそうやってただ過ぎ去っていった。 その間にも嘗ての部下たちが何度か、近藤の仇討ちをと土方に望む声を上げて寄越したが、土方はその全てを拒否した。早まるなと何度も念を押したが、それでも幾人かはそうやって命も名誉も散らせて行った。 無念を抱えて生き延びた者らもやがて、『元真選組の』犯罪者と後々まで呼ばれる、真選組と言う存在をも貶めるその苦痛に気付き、そうする内に疵も無念さも癒されていき。 もう、嘗ての部下にも仲間にも、仇討ちを唱える者もいなくなった。それは純粋な安堵だった。 彼らの為にも、心を置いておく容れ物が必要だろうかと考え、結局返却されず終いだった遺体は無かったが、武州に菩提を弔う事にした。 墓があれば、それが何かの節目、拠り所になると思ったのもあった筈だったのに、結局その空っぽの菩提を土方が訪ねた事は、今に至ってもまだ、無い。 する事が少なくなれば、考える事が少なくなれば、その分だけ魂に穴が空く様な心地がする。 取り戻しのつく過去はない。人は死んだら戻らない。疵は時間が経てば治るのかも知れないが、この穴を塞ぐ方法が、土方にはどうしても解らない。 仇討ちなど止めろ。近藤勲の名と、真選組と手前ェの魂をこれ以上穢す様な真似はするな。 偉そうな口振りで、この数ヶ月間何度となくそう言い続けて来た。 だが本当は、『あの時』一番仇討ちを望んでいたのは。近藤を一時でも生かして、犯罪者集団と後に呼ばれようとも構わないとさえ思ったのは。誰あろう自分だったのだ。 沖田が先に飛びだした。アンタにはやらせやしないとでも、嘲笑うかの様に。 だから、子供の様な癇性を棄てて、土方は『現実』を理解せざるを得なかった。 護れなかった人たちのかわりに、何を護るのか。 その人たちの遺したものを、護るしかない。 その人たちの魂を、最早誰にも語る事の出来ないその思いごと、護るしかない。 (きっと、この空白を埋める事が叶うのは、刀しか無ぇ) あの時振るう事の出来なかった、己の魂は、其処にしかないのだから。 * 「なァ、夕飯は何食いてェ?」 不意に横合いから飛んで来た声に、土方の意識は物思いから引き戻された。「、ああ」長い事浸っていたからか、まだどこかぼんやりとする頭を軽く振って振り返れば、台所から目立つ銀髪頭が顔を覗かせていた。 いつもの片袖を抜いた白い着流しに黒い半袖のアンダーと言う出鱈目な出で立ち。木刀はここに来る度、床の間の刀架に置いている為に今は佩いていない。 前から特に意味もなく用事もないくせ、余程に暇なのかちまちまと顔出しに来ていた銀時だが、最近は土方の栄養事情を心配したのだと言う山崎の依頼を受けて、毎日の様に飯炊きを務めに来ている。 お前は家政婦かと一度笑って言ってやったら、嘘とも本当ともつかない口調で、「お前がウチに住んでくれりゃあ、俺は脱家政婦で専業主夫にクラスチェンジ出来んだけどな」などと言われた。 出来る訳がないだろう、と確かそんな事を返した様に思う。その時の銀時は調理中で、フライパンに向き合って仕舞った為に表情を伺う事は出来なかったのだが、「だよなぁ」と返して来た言葉が何故か酷く苦く億劫そうな口振りに聞こえたのを覚えている。 「ああ、じゃねーよ、何食うかって訊いてんの」 考えがまた逸れて、返事をしないでいた土方に焦れたのか、銀時は腰に手を当てて小さく嘆息を投げて来た。 「…、別に何でも構わねぇ」 空を見上げれば時刻は既に陽の落ちる頃だとは知れたが、特別空腹を感じる訳でもない。疲れに似た倦怠感が重たく、胃の底には不快感に似たものが蜷局を巻いて居座っている様だ。食欲も湧かないのだから、何が食べたいかなどと問われた所で返事に困るほかない。 土方の解答がお気に召さなかったのか、銀時は態とらしい仕草でかぶりを振ってみせる。 「作り甲斐無ェ事言いなさんなよ。神楽なんて何出しても美味いって平らげんぞ?野菜の残りとか朝の米の残りで作った、肉の気配のしねェ低予算炒飯でも、アイツの異次元胃袋にかかりゃァ一瞬でブラックホールだよ?ってそう言やもうウチ米無ェじゃん!晩飯どうしよう、は寧ろ坂田さんチのさもしい食卓事情の方だったじゃねーかコノヤロー!」 「俺に言うなよ。つーか依頼料出てんだろ?こっちにかまけてねーで、ガキ共にもちったァまともなモン食わせてやれや大黒柱」 何ならこっちの材料費も回して良い、と続けると、銀時はたちまちに不機嫌そうな顔を作りながら、呆れた様子で首を鳴らして近付いて来た。 着流し姿で縁側に腰掛けて、特に何をするでもなく狭い庭を見つめていた、そんな土方の隣にしゃがみ込むと、手をひょいと伸ばして、頬を人差し指でぐいと押してくる。 「んだよ」 「お前最近食事量減ってるじゃん?幾ら前より動かなくなったからってな、マヨの量まで減ってるとなりゃァ流石に異常だから。土方くん的なアイデンティティとか色々崩壊すっから。 と言う訳でだ、買い物行くぞ。季節だし秋刀魚でも買って来よう、ウンそうしよう」 決定、と一方的にそう言うと、土方の腕を引っ張って銀時は立ち上がった。 「おい、何勝手な事抜かしてんだ」 ぐいぐいと促され、土方は渋面を隠さず銀時を睨み付けるのだが、全く気にする様子も堪える様子もなく「ホラ早くしろや」と流されて仕舞い、結局は不承不承腰を持ち上げる事となった。 「羽織くらい着てけよ。夕方だし流石に冷えるかもしんねェし、スーパーの中が寒すぎる事もあるしな」 「テメェは俺の母親かよ」 「カーチャンじゃなくて、世話焼きの旦那様ポジ希望」 「……知るか」 呆れの濃い溜息はついたものの、それ以上食い下がる気にはなれず、土方は銀時の手を振り解くと、居間に下げてあった鶯色の羽織を軽く羽織った。冬用ではないが、確かに少し涼しくなってきた秋の夕暮れには丁度良さそうだ。 癖でつい刀架に刀を取りに行きかけ、もうそんな必要もなかったのだと思って止まる。 「ん?」 その時ふと、自分の手が擦り傷だらけな事に気付いて、土方は目を瞬かせた。覚えは無いし、何かをした記憶もない。ぼんやりしている時に畳にでも擦ったのだろうか。 「土方ー?行くぞー」 「ああ」 玄関の方から聞こえた声に応じながら土方は、まあいいかと、その侭手を袖の中へと引っ込めた。 「財布は」 「ちゃんと持って来てる。家政婦…じゃねえ、主夫ナメんなよ?」 言いながら笑う銀時に同じ様な笑いを返して、土方は草履を履いた。戸締まりをして表に出る。 暮色に染められた空の向こうにまで、淡い色を透かした鰯雲が続いている。夏よりも随分高くなった様に感じられる空を、鴉の親子が甲高い鳴き声を弾き飛んで行くのが見えた。 「秋刀魚か。七輪あったかな」 以前山崎が色々と台所に置いていった気はするが、記憶としては定かではない。 食欲は依然としてある訳でもなかったが、銀時と酒をちびちびとやりながら、脂の乗った秋刀魚を七輪で焼いて、突き合うのならば悪くない気がする。 「確か縁の下に仕舞ってあった様な気はすっけど…、どうせなら探してから来りゃァ良かったなァ」 土方の半歩先を行く銀時がさも惜しそうにそう言うのが何だかおかしくて、土方は忍び笑った。秋刀魚と提案をした当人なのだから、そのぐらいは確認していると思っていたのに。 「しかしそうなるとキノコとかも焼きたくなんなァ。あ、松茸ダメ?何本か焼いて醤油で食って、残りは松茸ご飯にしてテイクアウトしてェ」 「ダメだ。余計な出費してんじゃねぇよ。今じゃ俺もテメェを笑えねェ無職予備軍なんだ」 以前までなら、万事屋は半無職の様なものだろうと笑っていた公務員が、今では似た様なものになっている。時間と世の中の変化とで、互いの関係性は同じだと言うのに、随分と在り方は変わったものだ。思って苦く笑うが、思わずと言った勘で振り向いた銀時の顔を見る土方の表情には、何の屈託もない。 「……そうだなァ。もうじき立派な、まるでダメなオッサンになっちまうよ?俺もオメーも」 「テメェと一緒にすんなや。落ち着いたらハロワにでも行くかね。何かそんな事してる俺が手前ェ自身で想像もつかねェが」 銀時の軽口に殊更に軽く返しながら、自分には刀しかなかったのだと、改めてそんな事を思う。癖の様に柄の在った場所へと手が動き、そこに生まれた空白に顔を顰める。 思う度、意識する度に生まれる、魂の中の冽たく空虚な穴。自分自身の形代だったもの。 「…………俺も、木刀でも提げるかな」 銀時の腰の、洞爺湖、と書かれた巫山戯た銘をちらりと見ながら言うと、面白がる様にも、惜しむ様にもとれる顔で笑われた。 「流しで木刀で瞳孔開きっぱの目つきって、お前それもう堅気の人間じゃねーよ?」 「かもな。ま、適当に考えとくかな。何か提げてねェとやっぱ落ち着かねぇ」 「用事も無ェのに長物ぶら提げてェって、お前ソレただの不審者だからね?そうでなくてもお前要注意人物になってんだからよ、無用に目立つ真似はすんなや」 首の後ろを所在なさげな手が引っ掻いて、そうして再び歩くのを促すのに続いて、土方は自分でも驚く程に静かな心地で思う。 (それでも、手前ェの穴が塞がるなんざ、これっぽっちも思っちゃいねェよ) 何心配してるんだ、馬鹿。 俺が今更、剣を棄てることも、代わりを欲することも、嘗て刃に乗せた信念を棄てる様な真似なども、するものか。 「見くびってんじゃねェよ、腐れ天パ」 剣呑な響きは、誰にも届かずに秋空の下にただ融けて消えた。 だから、この空白を埋める『もの』など、何も在りはしないのだと。知っている。 (護れなかった手前ェ自身を、俺が──俺の『刀』が赦せる筈なんざ無ェんだ) だから、これも繰り言。空隙の中の、ほんのひとときの甘い世界。包まれて浸るも、融けて眠るも、望む所では決して無い。 刀を手に取って、そうしてまた、戦う。戦わなければならない。 And the white sugar gently hides me. |