願いの届く日



 「銀ちゃーん!これアルか?」

 聞き覚えのある少女の声が、これまた聞き覚えのある響きを紡ぐのが耳に不意に飛び込んで来て、土方は思わず足を止めた。
 きょろきょろと己の前後を見遣るそのすぐ横の車道を、車が行き来している。そんな騒音の中で空耳でも聞いたのだろうかと投げ遣りな事を考えながら、土方はふと思いついて橋の欄干に手を掛けてみた。熱せられて熱い、その向こう。大きめの河川の横たわる河川敷に、小さな影が走り回っているのが漸く目に入る。
 江戸市中に多い運河ではない。郊外との境を作る様に流れている、何級河川などと呼ばれて仕舞う様な大きな川だ。対岸が伺えない程ではないが、小型の船舶の行き来程度なら容易に叶う。
 水辺の多い江戸は常に水害の危機に晒されている。それを極力緩和する為の大規模な治水工事の一環で、こう言った大きめの河川には広めの河川敷と土手、予備の放水路となる支流への水門が備えられている。
 そんな広い河川敷は、盛夏と言う言葉に相応しい気候柄だろう、道を少し外れれば丈の高い草が野放図に茂り、子供たちの恰好の遊び場になっているらしい。
 土方の佇む橋の真下は、丁度そんな叢と水辺との境目辺りだった。今は干潮なのだろうか、川の水が引いて干潟の様になった所には、走り回る数人の子供と──
 「違ェよ、おいコラ、オメーら何度言や解んだよ。穴だよ穴、手前ェらで掘るんじゃねェの、まず穴を探すんだよ。手前ェで穴開拓して掘るのなんざもっと大人になってからで良いから、まず巣穴を探せって」
 「…………」
 子供に意味なぞ解らないと思うが、最低な下ネタを結構な声量で口にしている銀髪頭の姿があった。思わず口の端を下げた土方は意味もなく辺りを見回して仕舞う。
 泥に足を沈めながら遊んでいる子供らに混じって、傘をさした神楽の姿もある。泥干潟の少し手前の叢には大きな白い犬が大人しく座っていた。汚れるのが厭なのだろうか、泥に近付く様子はまるでない。少し頭を巡らせてみるが、万事屋のもう一人の従業員の姿は見えないし、仕事の類ではなさそうだ。
 「少し泥どけて穴見つけたら、そこに筆押し込むんだぞー」
 両手で筒を作って言う銀時の形は、いつもの着流しとブーツを脱いで、ズボンの裾を膝まで捲り上げただけの恰好だ。
 そこかしこにしゃがみ込んでいる子供らに何か指導をしている様だが。内容からすると、泥の中に棲むアナジャコでも獲って遊んでいるのだろうか。長閑…もとい暢気なものだと思いながら、土方は熱を持った欄干に肘を預けた。胸ポケットをまさぐって煙草を取り出す。
 まさかそこまで食に困窮しているとは思えないし、基本面倒臭がりの男がわざわざ乞われて子供にアナジャコ獲りなぞを教えに行くとも考え辛い。犬の散歩ついでに遊び出した神楽に付き合っていると言った所だろうか。
 アナジャコ獲りなぞ、土方は見た事はあってもやった事はない。子供らの苦戦の様子を見るだになかなか難しそうだが。果たして銀時は子供の時分にでもこんな遊びに興じた事があったのだろうか。それともそれこそ依頼などでやった事があったのか。
 「キャッホオォォウ!獲れたアル!」
 そんな事をつらつらと考えていた土方の視線の先で、やがて神楽が泥からアナジャコらしき生き物を引っ張り出す事に成功した。跳ね回って喜ぶその姿を見た他の子供らも目を輝かせ、口々に称賛らしきものを言っている。
 「オイ神楽、言っとくがお前の全力で掴むとそのアナジャコ潰れちゃうからね、気を付けて持ってやんだぞ」
 「大丈夫ネ!定春42号は今日からウチの子アル!」
 「やっぱ今すぐ握り潰せ。うちには定春42号を飼う余裕なんてありません」
 銀時が忽ち厭そうに転じた声音で言うと、上機嫌の神楽は「どうしてアルか!」と思わず拳を握って反論して──次の瞬間には子供らの悲鳴と何とも言えない空気が辺りに満ちた。どうやら言った傍から潰したらしい。……アナジャコ哀れ。
 銀ちゃんの所為アル!とか頬を膨らませる神楽と、それを適当にいなす銀時と。直前の悲劇を忘れて自分たちの作業に戻る子供らと。そんな光景を、気付けば煙草一本分の時間はぼんやりと見つめていた事に気付き、短くなった煙草を見遣りながら土方は舌打ちをした。
 この辺りは普段の巡回路では無い。付近の河川敷で近々行われる花火大会の警備の想定や現地の様子見の為に、わざわざ視察と言う業務時間内の仕事を割り当てて来ているのだ。こんな所で煙草を噴かしているのは立派な職務怠慢以外の何でもない。
 現地の調査と警備計画地図は大体固まった。山崎の運転する警察車輌は橋の対岸、江戸側の街路で停車して土方の帰りを待っている筈だ。いつまでもこんな所で油を売っていても仕方があるまい。
 帰るか、と、体重を預けていた欄干から身を起こし、携帯電話を開いて時刻を確認する。液晶パネルに表示されていた時刻は、想像した通りにやはりそろそろ戻り時だ。
 珍しい、と言うより、普段見ないものを見た。それだけの話だ。土方にとっては滅多にない時間ではあったが、別段それは後々振るネタにもなりそうもない、きっと銀時や万事屋にとっては日常の事に過ぎない様なものなのだろう。
 惜しむ必要性も特にはない。休憩の間の暇つぶし未満の風景。そんなものに未練めいたものを感じている己がなんだか癪で、ふん、と殊更に大きな息を吐き出して、土方は向かう道を振り返り──
 途端、ぼふ、と何か柔らかいものに真正面から衝突した。否、柔らかいものが突如目の前に突っ込んで来て急停止したのだ。
 「ぶ、」
 それが熱い体温を持った動物の毛だと認識するのとほぼ同時に、その動物の振り上げた前足に腹を踏まれた土方はその場に仰向けに転がった。
 突如背に当たったアスファルトの熱と、腹を押さえつける重量感とに目を白黒させながら、土方が見上げた眼前には、はっ、はっ、と息を吐き出す巨大犬の顔がある。
 成人男性も平気で乗れそうな巨大な外見の癖、小型犬の様な形をした犬など、土方の知る限りでは先頃まで橋の下に居たアレしかいない。
 「おーい定春ぅー、そんなん食ったらマヨ中ニコ中になんぞー」
 巫山戯た調子で巫山戯た事を宣う声に、「わう」と応える様に吠える、巨大犬の巡らせた視線の先を追い掛ける様に、地面に仰向けになった侭土方も頭を欄干の方へと向けた。苦しい姿勢で見下ろせば、そこにはにやにやと笑う銀時の姿。
 (……あの野郎、気付いてやがったのか)
 土方が橋の上から見ている事に聡くも気付いて、去ろうとしたのを見るなり、この犬を嗾けでもしたのだろう。向けて来る笑みにはどことなく上機嫌──してやったり、と言った風情が漂っている。
 それを思い切り渋面で睨み返しながら、土方は腹を踏み付けている巨大な前足をぼふぼふと叩いた。加減はされているのだろうが、それでも重いし苦しいし暑い。
 「定春ぅー、早くこっち戻って来るアル。大っきな魚がいたネ!」
 そこにタイミング良く飛んで来る神楽の声。定春はぴこん、と耳を動かすと土方の腹からさっと前足を退けた。「わう!」と一吠え、ごめんね、なのか、煙草臭い、なのか、またね、なのか。何とでも翻訳出来そうな鳴き声を残すとぐるりと身を翻らせる。ぱたぱた動く尻尾が土方の頭を撫でる様にして通り過ぎると、定春は大人の肩ぐらいはある欄干を軽く跳び越えて河川敷へと戻って行った。
 「……ちっ」
 幸い付近に歩行者は居なかったが、犬に踏まれるなど、とんだ恥をかかせられた心地になり、土方は舌打ちをしながら身を起こした。隊服についた埃を叩いて、改めて眼下の飼い主の──銀時の姿を睨み付ける。
 一部始終は下からではよく見えなどしなかっただろうが、銀時はにやにやと笑いを噛み殺す様な仕草をしている。暖簾に腕押し。そんな言葉が脳裏を過ぎり、土方は溜息混じりに銀時から視線を逸らした。
 「おーい土方くん」
 すれば一言、どこか浮いて聞こえる呼び声と共に飛んで来た小さな物を、土方は振り返りもせずに反射的に受け止めた。掌の中で、ぬるい温度になった銀色の百円硬貨をぱちりと瞬きをしながら見下ろす。
 「んだコレ?」
 「橋の袂に自販機があるからさぁ、ポカリ的なもん買って来てくんねェ?」
 余り大きくない声で問えば、その声が届いた訳では無いだろうが銀時は両手をぱんと合わせてそんな要求を投げて来た。ちらちらと視線で、己の足下──当然だがまだ泥だらけである──を示して来る様子からして、自分は動けないからお願い、とでも言いたいのだろうが。
 「テメェな、誰をパシるつもりだよ?」
 土方は不機嫌そうな声音を作ってそう、橋の下に居る銀時にちゃんと聞こえる様に投げながら、飛んで来た百円硬貨ごと手をポケットに押し込んだ。
 その侭くるりと身を翻らせて、言われた通りの橋の袂の方へと向かう。目当ての自販機が土手の直ぐ向こうの道にぽつんと置かれているのは、探すまでもなく直ぐに目に入った。
 暑い日差しの下で、飲み物を冷やす為に冷却装置を回して周囲の大気を熱くする。皮肉な悪循環だと思いながら、土方は静かなモーター音を立てる自販機の前に立った。清涼飲料水の中に、目当てのポカリ的な飲み物のペットボトルがあるのを確認してから、ポケットから取り出した百円硬貨を投入する。
 続け様、自らの財布を探ってもう一枚百円硬貨を取り出して同じ様に投げ入れる。今時百円でペットボトルの飲み物が買えるなどとは端から思っていない。
 ボタンを押して、ごとん、と重たい音を立てて落ちて来たペットボトルの冷たさと、釣り銭として落ちてきた四枚の十円玉の熱さとの差に顔を顰めながらも、土方は歩き出した。今度は橋ではなく、堤防に取り付けられた階段を登って土手の上へと出る。
 遮蔽物の無い高所に出た途端、きん、と視界に打ち付ける様な陽の眩しさと暑さとが忽ちに頭上から降り注いで来るのに、土方は今し方買ったばかりの冷たいペットボトルを額にこつりと当ててみた。きらきらと視界に乱反射する眩しさといっときの清涼感とに目を眇めながら、草の野放図に生えて良く見えなくなった足下の階段を下りて行く。
 銀時の姿は先頃から少し移動して、土方の佇んでいた橋の真下の日陰にあった。神楽と定春と他の子供らは、アナジャコを獲る遊びから魚や虫獲りに興味を移したのか、そんな銀時の居る泥干潟の周囲には見当たらない。
 子供らが勝手に遊び始めた事自体どうでも良いことだったのか、銀時は川の波打ち際にあった石の上に乗って、泥だらけになった足を洗っていた。泥干潟の直中ではないので、土方はその傍まで靴を泥で汚す事もなく辿り着く。
 「ほらよ」
 「おっ、さんきゅ。気が利くよねお前ホント」
 そうして土方の差し出したペットボトルを、銀時は白い歯を見せて笑いながら受け取った。余程喉が渇いていたのか、直ぐ様に蓋を捻ると、中身をぐいと呷り出す。
 「不足分は六十円な」
 「最近のガキはよォ、アナジャコどころかザリガニの獲り方も知らねェってんで、銀さんなんかジェネレーションギャップ的なもの感じちゃったね」
 言って掌を差し出す土方から目を逸らす様にして銀時は、少し離れた川の浅い部分で遊んでいる神楽や子供らを見遣った。土方も釣られてそちらを向けば、どうやら魚を捕らせようとでもしているのか、水の中に一緒になって定春まで入り込んでいた。先程土方の衝突した、ふわふわの毛並みが水をすっかり吸って仕舞っている様子に、上がった時に身体を振ったらえらい事になりそうだと埒もなくそんな事を考える。
 「神楽がやってみてェとか言い出すしで、乗りかかった舟?タダ働きの課外授業?まあなんでも良いんだけどよ、暑くてかなわねーや」
 子供の体力と一緒にするなっての、と愚痴の様に続けるが、そんな事を言いながら飲み物を呷る男の表情にも態度にも、厭そうな気配はしない。土方は思わずほんの少しだけ口元を緩めた。
 「まあでもお陰で、」
 「お陰でお前に会えた、とか寒い事ァ抜かすなよ」
 先んじてそうぴしゃりと言ってやれば、銀時は口を間抜けにぱくんと開いた侭渋面を作って、照れ隠しの様に視線を彷徨わせた。飲み物を買って来てくれ、などと、銀時の寄越した体の良い口実に気付いていながら乗ったのだから、土方とて実の所何か言えた口ではないのだが。
 「…………寒いんなら良いんじゃねェの別に」
 口を尖らせてばつが悪そうに言う銀時をじろりと睨み見ながら、土方は煙草を口にくわえた。ゆっくりとした所作で火を点けて、紫煙を溜息混じりに吐き出す。
 「言っとくが、こちとら仕事中なんだよ」
 何の?と言いたげな風情で土方の横顔を見上げて来る銀時に、花火大会の警備だと簡潔に伝える。土方の普段の巡察とは縁遠い場所とは言え、のんびりと煙草なぞ噴かして橋下の光景を観察していた事を思えば、土方の口にした『仕事』など粗方終わっているだろうとは知れただろうに、銀時はそこには無用な問いは挟まず、ただ納得した様に頷いたのみだった。
 土方が万事屋の日常生活や仕事ぶりの様子を知らぬのと同じく、銀時もまた土方の仕事や任務についての仔細を知っている訳ではない。『そこ』はどちらからとも知れず定めた境界の様なもので、互いに不干渉と言う暗黙の了解がある。
 「花火大会ね。デートコースまっしぐらじゃねェか」
 仕事が無ければ。そんな語尾が続く気のする銀時の軽い調子に、土方はほんの僅か肩を揺らす事だけで応えた。別に当て擦りではない事ぐらいは解っている。仮に土方に仕事が無かったとして、男二人で並んで大輪の花火に胸をときめかせる様な手合いではお互いに無い。
 わざわざ土方がここで煙草を吸い始めたのは、一服の為に立ち止まっていると言う理由を作る為だ。馬鹿馬鹿しい話ではあるが、そんな『理由』が無ければ──飲み物を買ってきてくれ、と言う大義名分でも無ければ──土方はこんな所でいつまでもだらだらと立ち尽くしてはいない。
 然し不自然に、気まずく途切れた沈黙は、遠くに子供の声なぞ聞こえる日常風景の中で穏やか過ぎて、静か過ぎてどうにも性に合わない。
 そしてそれより何より暑い。日陰と言っても、子供らの遊ぶ川辺など、防刃用途も兼ね備え丈夫で重たい制服姿の人間が長時間居座って良い場所でもないのだろう。
 そんな少しひねた思考を流す様に、斜めに傾けた視線でよく晴れ渡った青空を見上げる土方に、不意に銀時が笑いかけてきた。
 「な、暑ィしよ、どうせならこの侭海とか行っちゃわねェ?」
 「馬ァ鹿」
 悪戯めいた色の乗った銀時のにやついた表情に向けて、土方も思わず笑い声を上げる。河川敷でも海でも、仕事中の警察にはどうやったって居心地が良い訳もあるまいに。
 川辺の生臭く凝った空気は海とは程遠い。暑い夏の日差しに、橋の作る黒く濃い影。熱を放散して走る車の音。排気ガスの臭い。眩しい水面を渡る湿った風。晴れすぎた空。
 「まァ、その内行けたら行ってみねぇ?」
 そんな風景の中で、望みですらないかの様に、酷く軽くそんな事を口にしてくれる銀時の優しさが心地よい。
 「泳げねェ癖に、海にか?」
 「泳ぐだけが海の楽しみ方じゃねェだろーが。アサリ獲りとかー、昆布拾ったりとかー、魚釣ったりとかー…、」
 「食う事ばっかりじゃねェか。つーかソレてめぇん家の食糧事情の為だろ絶対」
 むっとした表情を作りながら、指折り数える銀時に、土方は呆れを通り越した溜息をついた。そのついでに、大分短くなった煙草をそっと唇から抜き取る。
 「んじゃ、夜の浜辺でしっぽりデートとか?岩場の陰で青姦ってのもなかなかスリルあって良んじゃね?」
 「川に突き落としてやろうか?海まで直行だぞ」
 「…………スイマセン」
 阿呆極まりない最低な提案を、拳を振り上げる素振りをしながら却下すれば、銀時は両手を挙げて棒読みでもごもごと謝って来た。泳げない人間にとっては思いの外良い脅しなのかも知れないと土方は暫くそんな事を考えていたが、そうする内になんだか可笑しくなって、「く」と思わず喉が鳴った。
 「何だよ。そんな泳げねーのが悪ィのかよ」
 密かに気にしている事なのか、むすりと顔を顰める銀時に、「いや」と前置いてから、土方は煙草の吸い殻を放り込んだ携帯灰皿をポケットに仕舞った。日差しと水面の反射を防ぐ様に、額の上に手で庇を作る。
 「言う程、海なんざまともに行った事も無かったと思ってな」
 泳げない訳ではないが、とは続けなかったが。
 武州に住んでいた頃は海なぞ遠く、縁も無かった。そもそも海水浴と言う風習でさえも無かったのだから無理もない。
 江戸に出て来てからは、江戸湾ぐらいなら何度も目にしてはいるが、よく言う『海』──海水浴場になど、将軍のバカンスの警護ぐらいでしか行った事が無い。しかもその場合将軍と言う警護対象と真選組の仕事柄、当然の様に貸し切られたプライベートビーチ内にも物々しい警備態勢が敷かれていた。楽しむ余地など土方にあった筈もない。
 海で、ただ広いだけの砂浜と水平線が見えるだけの空との狭間で、仕事などなくゆっくり出来るのだとしたら、それは気分の良い事なのかも知れない。一日中仕事を忘れて砂浜で海を見つめて過ごす己の姿など、土方には到底想像もつかないが。
 「てめーの提案は軒並み却下だが……、まあその内、叶ったらな」
 叶う筈もないが。そんな言葉を呑み込んだ土方の視界の端に、立ち上がって岩から下りる銀時の姿が僅かに見えた。
 叶う筈もない空言が、今の土方なりの譲歩であると解ってはいるのだろう。横を通り過ぎ様に、とん、と肩を触れさせた銀時が「おう」と頷くのに、密かに安堵の息を漏らす。
 その侭叢の方に脱ぎ捨ててあったブーツを手に取って歩き出す銀時を、土方はゆっくりとした速度で追った。振り向けば、神楽や子供らはまだ水辺ではしゃいでいる。何やら魚が何匹か打ち上げられている様だが、それが水の中で前足を振っている定春の仕業だとしたら実に器用なものだ。
 そんな様子からふいと視線を前方へと戻すと土方は、ブーツを履いて、適当な木に引っかけてあった着流しを着直している銀時に再び掌を向けた。ひらりと振る。
 「つーか、誤魔化されねェぞ。六十円」
 飽く迄正当な要求に、帯を結びながら銀時は「ぐ」と喉奥で呻いた。苦味を通り越して気まずそうでもあるその様子からして、土方を呼ぶ『理由』に飲み物を頼んだは良いが、ひょっとしたら本当に百円硬貨一枚ぐらいしか手元に無かったのかも知れない。
 まあ、だからと言ってくれてやる心算も貸しつける心算も土方には無いのだが。
 「ほい、これで」
 やがて銀時は、渋々といった様子で、飲みかけのペットボトルを土方に押しつける様に渡して来た。残り半分以下に量を減らしたその軽さと温さとに「あのな…」文句を言いかけ肩を竦める。
 が、その時、ポケットの中で携帯電話が震え出した。開いてみれば、そこには山崎の名前が表示されている。いよいよ、なかなか戻らない土方を心配したのかも知れない。
 この分では三本目の煙草は許されそうもない。思って土方は、押しつけられたペットボトルを受け取る仕草をしながら、着信を留守電に切り替えた携帯電話をポケットへと戻した。
 「割に合わねぇよ」
 ちゃぷ、とペットボトルの中で揺れる少ない水分を見て苦笑を浮かべた土方が嘆息すれば、銀時は「お仕事頑張れよー」と、六十円の支払いを誤魔化す気満々で言ってひらひらと手を振ってみせる。
 「……言われる迄も無ェわ」
 まあまたその内機会があれば取り立ててやろうかと思って、土方は銀時の横を通り過ぎた。土手の階段に向かって歩き出す。
 「またな」
 背に掛けられた銀時の声に、思わず振り向いて。土方は、そこに在る万事屋の、坂田銀時の日常のほんの僅かに過ぎない風景を惜しむ様に目を細めて、自然と笑った。
 「……ああ。また、な」
 海には行けないだろうが。いちいち面倒臭い理由が無ければ近付く事も出来なかろうが。
 それでも、そんな全てを引っくるめた『今』が好きなのだから。どうしようもない。
 

 *

 
 「………………」
 土手の向こうに土方の黒い姿が消えていって暫し。銀時は振っていた腕を組んで、へらりと笑っていた顔をむすりと顰めた。
 ワーカーホリックで物分かりが良すぎるあの恋人は、どうにも簡単に己を『今』の『此処』から抜き出す癖があっていけない。
 嫌われ者を甘んじて演じる鬼はいつまで経っても、こちらから手を引いてやらない限りは駄目なのだ。
 仲間だったり警護対象だったり追う攘夷浪士だったりする、他者の事ばかりをいつも考えているからか、己の視点が大概客観的なものに凝り固まって仕舞うのかも知れない。
 見ているだけで、そこに己が居る画を想像出来ないなど、なんとも慎ましい話だ。が。
 (て言うか馬鹿だよな。うん。馬鹿で仕事馬鹿)
 ひとつ頷くと、銀時は大真面目な顔で計画を考え始めた。何ならどこぞのゴリラに貸しを作っても構うまい。
 花火でも海でも何でも良い。いつか絶対に連れ出してやろうと決め込む。




かぶき町からは大分離れてますが…。珍しく遠出したんだよと言う事で。

…届くかな?