わくらばの城 「『 』」 掠れた声が、何やら耳慣れない響きを耳のすぐ傍で囁いて寄越すのを、土方は夢なのだろうと思っていた。 それは自分の知る男の声音とは違って、億劫そうだったり怒鳴り声でもなければひとを小馬鹿にした様な調子でもなく、酷く真摯な切実さを孕んだものだった。 そんな聞き慣れない声音が、聞き慣れない言葉を紡いでいる。 続けて訪れた、頬を辿ってくる感触は想像していたよりも温かくて丁寧で。だからこそ余計に現実味がしなかった。 「土方」 酷く真摯で。酷く切実で。酷く思い詰めた様な、追い詰められた様な声に呼ばれるのも、とんと憶えにない事だった。 なにしろ、こんな声で、こんな声を発している様な顔で、そんな風に呼ばれる様な憶えなど、土方には無いのだ。 こんな──『 』に向かって紡ぐ様な、どうしようもない愛しさや恋情を苦しさの中に滲ませた、優しさと労りと切ない様な痛みを抱えた響きなど。この男が、自分に向ける様なものである筈が、無かったのだ。 男は紛れもなく土方の知己だった。 だが、どちらかと言えば良い意味でのものではない。寧ろ腐れ縁などと名付けた方が相応しい。 住まいも異なる。職業も異なる。趣味も違えば好みもまるで合わない。性格は負けず嫌いと言う一箇所を除いてほぼ正反対と言う有り様。 当然、友人ではない。仲間でもない。かと言って敵でもない。 猿と犬と言う例より、蛇とマングースだ。向かい合う羽目になれば戦うが、そうでもない限りは無関心に通り過ぎれば良い。関わらず関わらせない。 その程度の、ただ双方共に暮らすテリトリーの幾分かが重なっていて、重なった分だけ他人ではなくなっただけの、そんな相手だった。 出会っても用などないから、普通は互いに見ぬ振り気付かぬ振りをして通り過ぎる。気軽に挨拶すらする仲ではない。正確に言えば挨拶ですら穏便に済まない仲だ。 避けられず顔を突き合わせれば大概、どちらかが──主に土方の方が──露骨に、男との遭遇に不快感を示す。するとそこから火花が散ってあっと言う間に燃焼する。互いに連れが居ればそちらにも延焼する。 負けず嫌い、と言う厄介な性分や行動パターンが酷似していると言う致命的な症状があり、それ故に一度口を開けば相手の一挙手一投足が鼻について気に食わない。その上互いに絶対に自分からは退かないから、どうでも良い様な言葉尻を捉えては揚げ足を取り合って、実に下らない事で言い争う羽目になる。 真剣まで持ち出した最初の私闘では土方は不本意にも男に敗けた。 それもあって、以降は争い事は概ね舌戦程度に留めておくのだが、それでも男を真っ当にやり込めた記憶は殆ど無い。 だから、男の存在は土方にとって不快感を齎すものでしかなく、また、未知でもあった。 男が気に食わない事に変わりはしないのだが、男の勁さや生き様をなんでかんでと認めている事も事実だ。 だからこそ、男が日々自堕落にしている事が腹立たしい反面で、数少ない僅かの優越感でもあって。そんな小さな尺度で好き嫌いを判断している自分の矮小さには嫌悪も抱いた。 関わりたくない。関わらなければ良い。そんな結論に至るのも半ば必然だったのかも知れない。 男は紛れもなく土方の知己だった。 同時に、いつまでも、どこまでも、得体が知れない男の、正体や性質を知るその毎に、男との知己以上の距離感を思い知るのだった。 「土方、」 そんな男が。 どうしてこんな風に、頬に、唇に触れながら、切なげな声で名前を何度も呼んで来るのか。 男らしからぬ甘い言葉を囁いて寄越すのか。 「『 』」。言い聞かせる様にその言葉を繰り返すのか。 酔いの混じった眠りに流れて行きそうな思考の中で、土方はそれだけが理解出来ぬ侭、ぼんやりと瞼を持ち上げた。 明瞭ではない視界の中で、熱を孕んだ雄の顔が、猶も紡ぐ。 おまえが なんだ、と。 手を伸ばして。 必死で。 * 「………ぅ」 頭がぐらぐらとする。酷い二日酔いの時の様に。否、それ以上に。 気怠い全身は気力と言うものが粗方削げ落とされた様にひたすらに重く、瞼は開く事さえ億劫なのだと訴えて来ていたが、何故か酷い焦燥感に押される様に、意識は無理矢理にその目を開かせ覚醒を促そうとしている。 明るい。白い光が網膜をひととき灼いて、眼球の裏がズキリと痛んだ。 朝の陽光を見る角度では無い。真上の天井からの光。蛍光灯のものだろう、瞑っていた視界には強すぎる光が暫し瞼に影を焼き付けて、目の前がちかちかとする。 古いタイプの電灯の照らす範囲は狭く、天井の四隅はどこか薄暗い。まだ夜なのかも知れない。電気を点けっぱなしで眠るとは思えないから、誰かが点けたのだろう。………誰が? 天井板の模様に憶えはなかった。横たわっているのだろう布団の匂いにも、どこかで嗅いだ様な気はするのだが明瞭な記憶にはない。 「………?」 何故、と疑問は直ぐに浮かぶ。だが、解答にうまいこと辿り着けない。 どう考えてもここは憶え深い屯所の何処かではない。安宿のどこかとも違う。茶屋や遊郭ならばもう少し風情があるだろうし、独特の香などの臭気もない。 寧ろ、ここはそれらとは異にした、日常的な生活の気配のする空間だ。眠って、起きて、食事を摂って、過ごして、また眠る。そんな普遍的な『生活』の為の。 ではこれは、他人の家に転がり込んで、しかも布団で眠っている、と言う状況になりはしないだろうか?その想像自体は土方と言う人間のよく知る自己の行動パターンからすれば、有り得ないとしか言い様がない。 だから土方は、これが何かの夢なのかも知れないと思った。 思ってから、そう言えば少し前にも同じ様な事を考えなかっただろうかと首を捻り、枕を当てられているらしい頭をことりと横へ転がした。 と、それを待っていたかの様なタイミングで、枕元、視線の先で人の気配が揺れた。物音がする。 否。先程からずっとその物音を立てた主の気配は確かにあったのだと思う。何せ男は当たり前の様にそこに座っていたのだから。突然現れたとかそう言ったものではない。手拭いを絞るその仕草は、意識して気配を殺していたと言う様子でもない。 「あ…。起きたか?」 男の声もいつも通りの軽いもので、夢の何処かで聞いた質とは全く異なる。 きっと、此処は男が居て全く違和感のない、寧ろ男が居る事が当然の場所なのだと、土方の脳の何処かがそう認識していたのだろう。だから、男の気配がある事を当たり前の様に思って、特別に何かを感じなかったのだ。 男はそんな事をぼんやりと考える土方の視線の先で、手桶の上で絞った手拭いを丁寧に折り畳むと、それで土方の額や頬を拭ってくる。 温いその温度に目を眇めて、手桶に張られたのは水ではなくぬるま湯なのだと知る。丁度良い温度なのだが、怠く熱を持っている様に感じられる今は、冷えた、目の醒める様な冷水の方が良かったのにと、とりとめもなく考えて── 「……?」 土方はもう一度疑問符を転がした。今度は場所にではなく男に向けて。正確には、男の家の部屋の何処かに布団を敷いて寝かされて、なおかつ男自身に寝汗を拭われていると言う、その『有り得ない』状況にだ。 「大丈夫か?どっか痛いとこ無ぇ?」 「…………」 何度かその、問いと言うよりは謝罪のニュアンスにも聞こえる男の言葉を反芻して、土方は瞬きを繰り返した。 男は、こころなしいつもよりも乱れた自らの髪を所在なさげに引っ掻いて、土方の応えを待っている様に見える。 「俺も、手加減とか気遣いとかしてる余裕無かったし……、傷がまるで無ぇだろうとは気休めでも言わねぇけどよ、」 傷、と言う言葉が警鐘の様に脳髄を叩いて、途端、土方の全身はまるで、冷や水を浴びせられた様に血の気を引かせていた。 「──!」 痛い。腕が、脚が、局部が、臀部が、頭が、どこかが。 何故これを今まで見過ごしていたのか── ぞ、と下がった体温の侭に、土方は引きつった様な音を喉から漏らし、布団から起き上がろうとして痛みに妨害されて上体を起こしかけたところで蹲った。 「っ、て、テメェ、は、──ッ!」 罵声か、それとも疑問か。紡ぎかけた喉がひゅうと音を立てて息を詰まらせる。まるで絶叫した後の様に喉が痛い。乾いていたからか余計に痛い。 蹲りながら見上げた男の顔はいつものへらりとした印象のものではなく、どこか淡泊で人間味に欠けるものだった。 大凡、この男のものとしては見たことのない様な質だった。 その顔が、酷い切なさや熱を孕んで、幾度も名前を呼んで来たのを、憶えている。 土方の抵抗を、どうしようもない様な顔をしながら淡々と封じて、熱の籠もった言葉同様の熱さで無情にも貫いて来たのを、憶えている。 罵詈雑言を浴びせたし、やめてくれと懇願もした。暴れたり、苦悶や悲鳴も上げただろうし、涙も流した。そんな土方の全てを飲み込んで隠して仕舞おうとするかの様に、男が繰り返し囁いて寄越した言葉を、憶えている。 「『 』」。そう、微睡みの意識へと繰り返したのと、同じ言葉を。 憶えている。思い出した。 憤慨よりも、衝撃の方を先に思い出した。土方は最早何処が痛いのか解らないぐらいに痛む重たい体を引き摺って布団の上を後ずさり、壁の際まで下がろうとして、然しそこで止められる。 「傷に響くからやめとけ。…流石にもう何もしねぇから」 「ッう、」 男は土方の腕を易々と掴んで、布団の上に繋ぎ止めた。軽く掴んでいるだけ。だと言うのに、触れられている場所から嫌悪とも恐怖ともつかない感覚が沸き起こり、それだけでもう、動けない。 「やめろ、」 はなしてくれ、と。掠れた音を鳴らした喉が悲鳴の様に紡ぐのを聞いて、男はそこで苦笑にも似た表情を浮かべてから、ゆっくりと土方の腕から指を外した。 支えを失って落ちた手が、まるで自分のものではない様に動こうとしない事に、土方は惑乱に満ちた頭を必死に振って拒絶を示すのだが、それでも布団の上に落とされた自らの手指に力が入る事はなかった。 その行為自体が無意味なものであると言う証明の様に。 まるで恐怖に竦んだ小動物の様に。 思って、滑稽だと嗤いたくなった。 「……まあ…、その。お前にとっちゃ酷ェ事はしたし、傷作っちまったのは悪ィとは思うけど。…俺は、した事に関しちゃ悪い事したとは思って無ぇから」 ぽつりとそう言って、男は手にしていた手拭いを手桶にばしゃりと落とした。 そうしてやおら、硬直している土方の腕をもう一度掴んで、ぐいと思い切り引き寄せて来る。 「お前の傷に障らねぇ範囲なら、憎んで文句言っても良いし殴っても良いし嫌いになっても構わねぇよ」 目の前の男の、何処か淡泊で剣呑な笑みが。諦めと苦しさを内包した、嘘の底に温度を湛えた表情が。 昨晩の。 土方、と熱っぽい声で呼びながら、のし掛かって犯してきた雄の顔だと。確かに。認める。のに。 「っは、離しやがれ!」 思わず荒らげた虚勢の様な声に、男は二度目もあっさりと土方の手を解放した。急に離されて、反動でどさりと布団の上に尻餅をつく。 記憶の、厭になるほどの鮮明さとは裏腹に、理解は、酷く遠かった。 力がある者が、それ以上の力のある者にねじ伏せられる、その恐怖はとても原始的で、だからこそ土方の裡にしっかりと刻まれている。 ならばこれは恐怖なのかと思って、その想像にぞっと肌が粟立つ。 それこそ服従だ。それこそ敗北だ。 土方を押さえつけたのは、男の力と、男には似つかわしくない様な熱と感情とだった。 お前が『 』なんだ、などと── そんな言葉と熱とは、想像もしなければ、有り得もしない様なものだった。 男は、土方にとって確かに未知で。得体が知れないもので。 気にくわなくて、喧嘩未満の遣り取りをして、避けて通って、関わらない、互いに深入りなぞ絶対にするものではないのだと、何処かでそんな事を確信していたのだ。 肉体的な恐怖を更に上塗りしたのは、理解出来ないと言う感情だった。 * その日、男に会ったのは、長丁場の仕事が片付いて、気分よく飲みに出た時にだった。 男は、いつものよく回る舌でああだこうだと喋った後、階下の大家から貰った良い酒があるから、家に飲みに来ないかと誘って寄越した。 そんな奇妙な提案自体今までになかった事だから、何事だろうかと訝しんだが、パチンコでも当たって機嫌が良いのかと訊けば、その通りだと笑って答えたから、気分の良い者同士偶には良いかと気まぐれを起こして、土方は男の誘いに乗る事にした。 道中で適当にツマミになるものを買おうと言えば、簡単な肴ぐらいなら作ってやるよと男が笑うものだから、それも相伴に預かるかと、世辞も抜きに応えて。 この男と楽しい酒なぞ飲めるとはついぞ思ってなどいなかった。それでも、そう言う事も起こるのかも知れないなと、期待ではなく淡々と思った。 それと同時に、また喧嘩になるだろうかとも危惧したが、まあ腐れ縁の、お互い本当に憎み合っている訳でもない喧嘩程度ならそれはそれで、偶には酔いに混ぜて本気でやり合うのも悪くないと。そんな事を思っていたのだ。 とは言え、他人の家で深酒をする気にはなれなかった。居候のチャイナ娘は志村家に遊びに行っているのだとかで不在だったが、だからと言って何が変わる訳でもない。 益体もない話は時に些細な言い合いを挟みつつも続いて、ほろ酔い気分に日頃の疲労の眠気が嵩んで来た頃には、土方はソファに座った侭舟を漕ぎ始めた。もうこの時既に瞼が重かった。 思えば、それ自体が俄には信じ難い事だったと言える。他人の、仲の良いとは決して言えない相手の住処で、無防備に眠気をさらけ出す程に心を落ち着けて仕舞うとは、土方はその瞬間まで全く想像だにしていなかったのだから。 男は暫く横で、ああだこうだと悪態をついていたが、やがてそれが途切れたかと思えば── 頬に、思いの外温かい手が触れて。次いで唇が触れて。 「好きだ」 そんな、男と自分の関係からは大凡連想し得る筈もない様な言葉を囁かれて、これは何かの夢なのだろうかと、そんな心地で目を開ければ、そこには酷く熱と欲とを孕んで、何かを堪える様な男の顔があった。 「お前が、好きなんだ」 声は応えを待たずに唇を塞いだ。柔い感触と熱と酒の匂いを孕んだ吐息に、これは夢ではないとそこで漸く気付いて慌てて身じろいだ土方を押さえつけて── ……後は何処までも、男のしたい様に事は進んだのだと思う。 無理矢理に高められて、無遠慮に内臓をまさぐられて、勝手に解されて、乱暴に受け入れさせられた。 その間中男はずっと、熱を持った顔の侭、好きだと繰り返し呟いて、本能的に抵抗を示した土方へと己の情をただ満たし与え続けたのだ。 * 千切られた記憶の中の醜態が脳裏に蘇って、土方は困惑と悔しさとにぐっと唇を噛み締めた。 信じられない様な相手に、好きな様に蹂躙されて傷を負ったとは言え、自分は男なのだから、それそのものが瑕になる筈はないと己に言い聞かせて、目の前の男へと挑む様に誰何の視線を向ける。 すれば、男の銀髪が一箇所斑に赤くなっている事に不意に気付かされる。 「その、頭、」 「え?……ああ」 それが絵の具でもなければ食べ物などの汚れでもなく、出血によるものだと気付いた土方がこわごわと訊けば、男は酷くあっさりと頷いて、血のこびりついた銀髪を、がり、と掴んで引っ掻いた。 「憶えてねぇ?お前が、最初大暴れして、テーブルに叩き付けてくれた痕」 事もなげにそう言うが、血が出ていると言う事は傷があると言う事で、傷があると言う事は痛いだろうと言う事で……、男の言う通りにはっきりとは憶えていないが、男が自ら頭を叩き付ける理由も無いし、転んで打ち付ける程無様な事をする奴でもあるまい。 なれば、その怪我を負わせたのは紛れもなく自分だと言う事で。土方は思わず言葉を失った。 固まった血がぱらぱらと錆の様に落ちる様を見て、もう出血はとうに止まっているのだとは知れたが、怪我の手当などをした形跡がないのは明かだ。大丈夫なのだろうか、と心配になる。 「もう血も出てねぇし…、ってか何でオメーがそんな面すんだよ」 突き放す様に言われた言葉と相俟って土方は困惑の表情を浮かべる。 「まあ……幾ら酒も入れて前後不覚ったって、お互い腕に憶えもある大の男だし?噛み付くわ引っ掻くわ蹴るわ殴るわ……、だから俺も余裕とか躊躇も無くなって、お前押さえつけんのに全力だった訳だけどよ」 男は、よくよく見れば傷だらけだった。それこそ本気で殴り合いでもした後の様な風情で、全く悪びれた様子もなくただ苦笑する。当然だよな、と。 「刀、離れた所にあって良かったわ。じゃなきゃ斬り殺されるか、お前が自害か、しかねねぇ勢いだったもんなぁ」 これもまた当然の様にそう続けて、男は肩を竦めてみせた。同時に、そうなったらなったで手はあるけれど、と語尾に続きそうな風情ではあったが。 「殺す、って…」 その言葉を改めて口にして、土方は、確かにそうかも知れないと思おうとしてそれが上手く行かない事にまたしても困惑した。 抵抗はする。襲われているのだ、当然の様に。 だが、土方の言う所の刑法で見ればたかだか強姦未遂の話だ。しかも性別男には強姦罪は適用されないから、暴行や傷害程度で済む話だ。 殴る蹴るなどの抵抗はすれど、相手へ──男へ──明確な殺意を以て刀を振り回したとは到底思えない。 だから、殺す事はない。抵抗は、殺意そのものではない。 何故かゆっくりと流れる思考がそんな事を理解するのに、男にそれを説明するのも妙だと思って、ただかぶりを振った。それは違う、と。そんな事はしない、と。そんな心算で。 男は、自分が、土方に詰られ殺されても仕方のない事をしたと思っている様だったから、せめてそれはちゃんと言葉で否定すべきだろうかと思って──これでは、まるで男のした事を認め、諦め、許容している様だと思って、戸惑った。 男の方も、かぶりを振る土方に何故か苛立った様な顔を向けて、ぐ、と眉を寄せた。疲れそのものの様な息を吐き落とす。 「……警察流に言や、立派な犯罪だろが。そうでなくったって、お前なら俺の事なんざ殺してぇ程に抵抗すんだろーが。何せ厭なんだし」 要するにこんなん正当防衛だろう、と続けて、男は何故か酷く苛立った様な表情で、困惑する土方の事をじろりと睨みつけて来た。 土方の記憶と男の言い分が確かならば、紛れもなく加害者は男の側だ。土方は男に不本意ながらも襲われた形になり、精一杯に抵抗して、男の頭や体に傷を負わせた。正当防衛と言う名前の傷を。 男は「厭だったから、殺したい程に抵抗したのだろう」と言う。 それは、動機と言う意味ではそうなのかも知れない。 だが、実際に土方に殺意は無かった筈だ。仮に刀が手の届く位置にあったとして、それで男を斬るのも、自らを傷つけるのも、ある筈はない。 厭だとしても、明確な殺意を抱く程に憎む理由がない。衝動的な反応だとすれば猶更だ。幾ら酔っていたとして、幾ら眠かったとして、男の事をそこまで酷く痛めつけるのは、何か違う気がしてならない。 正当防衛、と言うには、男の怪我は些かの過剰防衛の末の結果に見えた。つまり、土方としては、これは「やり過ぎた」のだろうと思う。 男に──思い出すのもおぞましい話ではあったが──性的な意味合いで襲われたのは確かだ。全身は痛いし、怠いし、吐き気はするし、真っ当に立ち上がれるかも怪しい。内臓が傷ついているのならば暫し症状は後を引く事になって土方を辟易とさせるだろう。 それ以上に、矜持も自尊心も瑕を負った。心身共に打ちのめされたと言っても良い。抗った末に諾々と男の蹂躙を許す事になって仕舞ったのだから、当たり前だ。 だが──、男が、自分の負っただろう瑕疵以上の『傷』を負っている事に納得がいかない。釣り合いが取れていないと思える。男の言う通りならば、土方はまるで手負いの獣の様に暴れて抗って、それでも敵わなかった事になる。 そして、敵わなかった、そんな事実よりも重たいのは、男に『殺意』と取られてよい程の傷を負わせた事だ。 「…………正当防衛ったって、やり過ぎだ。……その、」 すまねぇ、と口の中でだけ小さく吐き出せば、男はぎりりと奥歯を噛み締めた。だん、と握りしめた拳で畳を殴りつける。 その大きな音と、見たこともない様な男の憤怒の形相とに、土方は思わず息を呑んだ。後ずさろうとしてから、これも陳腐な矜持なのか──布団についた拳を握って何とか留まる。 「っ、元より、こんな醜態を立件する訳でも無ぇんだ。逮捕する気も訴える気も無ぇし、そもそも不注意だったのは俺の方だろうが」 顔見知りの男に犯されました、などと、自分が警察であろうがなかろうが、どう、誰に口に出来ると言うのか。他人でもなければ明確に害を成そうと思っている輩でもない。話し合い、示談が通じる様な関係ならばこの侭お互い口を噤んだ方が、被害者にも、加害者にも良いに決まっている。 それは土方にとっては至極当然の結論だったのだが、男にはどうやらそうではなかったらしい。 男はいつもの寝惚けた様な表情を何処へ棄てて来たのやら、眦を吊り上げて唇を噛んで、激情を堪える様に喉奥で呻くと、苛立ちを噛み締めた侭で態とらしく嘲笑の表情を作った。 それは酷い瞋恚を孕んだものの筈なのに、何故か辛そうに見えて。土方の項はざわりと総毛立った。 噛み締め損ねた齟齬。理解を失ったなにかを茫然と見過ごす、そんな空隙。そこに差し挟まれる、明瞭な不協和音。 ひび割れた隙間に、男の強い感情がじわりと染み込んで来る。 「ああそう。お前は手前ェの『不注意』が原因なら、攘夷志士に殺されんのも、顔見知りの男に強姦されんのも同じで、構わねぇって事で良い訳?」 抵抗しても敵わねぇなら、何されたってそこで諦めがつくんだ? 嘲笑の気配を隠さずそう言い放つと、男は酷く冷めた様子で「は」と短く嗤って、次の瞬間には布団の上に土方を押し倒し、その上に獣の様にのし掛かって来た。 「──ってめ、ふざけてんのか、万事屋!!」 抗議の声を上げる身体をぐるりと俯せに転がすなりその膝裏を自らの膝で踏み付けて、両脚の間を割り開く様にして陣取ると、男は咄嗟に手を布団につこうとした土方の両腕を後ろ手にひとまとめに押さえつけてくる。 その膂力には躊躇いも遠慮も悪ふざけもなく、僅かに振り返り見た顔は酷く冷えて然しどこまでも本気の様相で、土方は身を捩りながら制止の声を張り上げるのだが。 「これも『不注意』にカウントされんじゃねぇの?正当防衛とやら、出来る内にしといたら?」 言うなり、男は土方の両腕を紐状の物──恐らく帯だろう──で括ると、はい完成とばかりにごろりと身体を仰向けに戻させる。無論足を踏み直す事は忘れない。 先程までの記憶にある、どちらかが前後不覚な状態ではない。だから、男が本気で暴挙に及ぶ筈はないと思って、土方は、嘲る様に言う男を精一杯の抵抗の心算で睨み付けた。 「テメェ、いい加減に──っ!?」 いきなり、着流しの前を割り開くなり男の手に下着を纏っていなかった局部を掴まれて、土方は息を呑んで身を竦ませた。剥き出しの内臓にも近い、そこは男性ならばどうしようもない急所だ。だからこそお互い同性同士、そこを他者に掴まれるも弄られるも恐ろしい事ぐらい、解るだろうに。 節のある指、剣胼胝の起伏を持った手が、無遠慮に土方の萎れた性器を掴んで、ゆるゆるとした刺激を与えて来る。 「やめ、…ッ、たのむ、やめろ馬鹿…!」 土方の懇願にも似た声など意にも介さず、男は鼻歌でも歌い出しそうな風情で土方の性器を好き放題に弄くっている。 有り得ない状況と、生理的な嫌悪感と、本能的な恐怖とがない交ぜになって、土方は混乱した侭必死で身を捩ろうとするが、身じろぐ度にぐ、と強く局部を掴まれてその度身を竦ませて仕舞う。 恐怖もあって、目を硬く瞑った土方の反応が今ひとつ悪い事に舌を打つと、 「土方」 男が不意に名を呼んで来る。返事をしないでいるともう一度ゆっくりと「ひじかた」と一音一音区切る様に呼ばれて、土方は恐る恐る瞑っていた目を開いた。 「なん…、」 目を開いた土方の視界に収まったのは、男が自らの舌を突き出してこちらを見ている姿だった。 その姿に浮かびかけた疑問符は、然し次の瞬間悲鳴に変わった。 「っひ、ァ!?」 伸ばした舌を見せつける様にした男の顔が、その侭土方の局部へと埋められたのだ。まるで見せつける様に萎えた性器を持ち上げて、殊更にゆっくりと舌を這わせてくる。合意も同意もなく行われる、暴力的で冒涜的で背徳的なその行為と刺激とから逃れようと跳ねかかる腰を押さえつけながら、男は舌と指とを使って土方を高めにかかる。 「やだ、やめ…ッ、やめろ、やめェ…ッ!」 後ろ手に縛られた手が背を僅かに持ち上げているから、逃れようと腰を動かす度にまるで自ら男に強請り局部を晒している様な錯覚を憶えて、土方は必死でかぶりを振った。気を逸らそうと幾ら足の爪でシーツを引っ掻いても、拒絶の言葉を繰り返しても、男がわざと立てている水音や、 「そんな気持ちイイんだ?凄ェビクビクしてっけど」 殊更に土方を貶める様な卑猥な言葉は耳に、脳髄に厭でも入ってくる。それこそ、肉体的ではなく精神的に犯されている様な心地だった。 良識的な意識のある大多数の人間にとっては、排泄や性欲と言った理性だけではどうにもならない生理的現象は隠しておきたい、恥にも似たものだ。この男はどうだか知らないが、少なくとも土方は他者の前で自らが勃起する様など耐え難い事だと思う。況してそれが、同じ男の手に因って無理矢理に引き出されて晒け出されているなどと。 土方の性器が持ち上がり始めると、男はそこから口を離した。がくがくと震える土方の両足を拡げてその間に悠々と陣取ると、黒いインナーの前だけを寛げて、そこから男自身の性器を引っ張り出す。 既に芯を通しているらしいそれを見せつける様にしてから──後孔へと宛がう。 「や、やだ…、やめろ、やめろ、万事屋…!」 もうそれで何をどうされるか、解っている。言葉通りに身を以て。 だから土方は悲鳴めいた声を上げて、男の蹂躙から逃れようと藻掻く。すれば、男は得た様に小さく嗤うと、一旦身を少しだけ離して、それから土方の腰を持ち上げて自らの膝上へと引き揚げた。身体を折られる様な姿勢になり、背と首の苦しさに思わず呻き声が漏れる。 「今度こそちゃあんと、手前ェの目で実感した方が良いだろ?じゃねぇとお前、また馬鹿な事平然と宣うだろうし」 「なにを、言っ」 言葉は最後で「ひ」と小さな悲鳴に変わった。 掴まれた両足がぐっと身体を折り曲げる様に強く押さえつけられて、視界には厭でも、持ち上がりかかった侭の己の性器と、その根本辺りに押しつけられる男の怒張が映り込む。 「なァ?厭だろ?怖ェだろ?正当防衛とか。そんな当たり前みてぇな理由だけで、手前ェが犯されんのがチャラになる訳、無ぇだろ?」 再びの嘲笑の気配。 男は土方を嘲笑い組み敷きながらも、確かに怒っていた。 その理由が判然としない侭、土方はただ身を襲う屈辱と恐怖とに唇を戦慄かせた。「やめろ」と震える声で何度も唱えるが、男は「やだね」と一言。それから。 「い……ッ──」 悲鳴にもならなかった。唇を嘲りと怒りに歪めた侭、男は無言で掴んだ性器を土方の後孔へと無理矢理にねじ込んだ。 「ひ…ィッ、いたい、ぃ、や、め、ひあ、あ、ぁ、あ、あ、あ、」 身体が裂けるかと思える様な苦痛と同時に、内臓を押し上げる様な不快感と、蹂躙されているとしか言い様のない感覚とがその一点から全身を、言葉通りに貫いて来て、土方の全身は痛みと緊張とで仰け反って硬直した。 びく、と足が宙を蹴って、身じろごうとするがそうすれば痛みはより強くなって、真っ赤に染まった錯覚さえ憶える視界はたちまちに涙でぐしゃぐしゃに歪んだ。 「痛ぇ、やめ、やめぇ…ッ、い、っあ、ひぃ、ィ、」 刃物で斬られる傷や、殴られる傷などの痛みとは訳が違った。身体を割いて、内臓を直接に痛めつける、これが痛みではなくて、痛み以外の何なのか。 痛覚がただの痛みを感じるものだとすれば、これは到底説明がつかない。痛い、もっと無惨な心地しか与えない、これは。 「い、ッはあ、あ、ぁ、」 息を吐こうとして上手く行かず、手酷い──冒涜としか言い様のない激痛と不快感とに、沸き起こる嘔吐感の侭に土方はげほげほと咽せた。ひう、と喉奥で乾いた音が鳴る。 苦しいのは果たして無理矢理に行為を進めようとする男も同じだったのか。は、と息を吐いた男が、一旦動きを止めて、それから土方の足を抱え直してもう一度、今度は無意識に逃げようとする身体の動きを利用して更に腰を進めて来た。 めり、と身体を裂かれる様な音が脳の何処かでした様な気がして、土方は集めようとしていた訳が解らなくなりそうな感情と感覚とをひといきに手放していた。 「やめッ、よろずや、やめろ、痛ぇ、やだ、もう、や、ぁうああああ」 喚き散らせば楽になると錯覚した様に、土方は、厭だ、とそればかりを繰り返して泣いた。 縛られた腕も、折り曲げられている身体も、男の怒張を飲み込まされようとしている後孔も、痛みに萎えた性器も、それら全てを見下ろして嘲る様に嗤う男も。何もかもが、厭で。厭だった。 犯される女子供の様に、情けないと思う意地や感情は一瞬で吹き散らされていた。人体の生物としての構造や機能を無視して、他者にただ無遠慮に踏み躙られて引き裂かれる、これが人間への冒涜で無いのならば何なのか。 「っはぐ、くるし、やめ…ッ、も、や」 「厭なの?」 不意に、子供に問う様な声音と共に、男の指が土方の目元をついと撫でた。濡れた感触が指の腹で頬に伸ばされるのに、無様にも泣き喚いている己を客観的に見せつけられた気がして、屈辱感や劣等感に浸されながらも土方は何度も頷いた。 「なら何で赦す様な事言った訳。俺は、さっきもこうやって、お前を踏み躙って、犯して、酷ェ目に遭わせたからこそ、手前ェの拒絶や反撃で殺されかかったとしても、仕方ねぇなって、そう思ったんだけど?」 一言、一言、言い聞かせる様に区切りながら言って、男は猶も苛々と。答えに窮して滲んだ視線を彷徨わせた土方の腰をぐっと、指の痕が残りそうな程に強く掴んだ。 「ひッ!?っや、あ、違、っあ、俺、、はッ、ぁ、えうぁっ」 一度性器が抜ける寸前までに引いた腰を次の瞬間思い切り突き入れられて断続的に揺さぶられて、排泄感と嘔吐感にも似た不快感から逃れようと、土方は背筋を反らせて目を見開いた。 揺れる天井と銀の頭が見えるがかすんで上手く焦点が合わない。ただ男が苛立って、その苛立ちを消せない侭にそれでもぶつけようとするかの様に腰を動かすのだけは解って、何故か酷く虚しくて悲しくて痛かった。 「何が、違ぇんだよ。お前は怒るべきだろ。自業自得だって俺を詰って、憎んで、嫌って、怨むべきなんだよ。じゃねぇと、おかしいだろ、こんなん」 男の押し殺した様な声音は酷く冷えていて、土方の腹の中で酷い熱を持って蠢くモノとの齟齬に眩暈に似た絶望を憶える。 軋る奥歯の隙間から、顔を醜悪に顰めてそう吐き捨てる男の呼気が荒い。限界が近いのか揺さぶられる動きが増して、「違う」と紡ぎかけた言葉は息苦しさの悲鳴に変わって消えた。 大昔の時代の串刺しがこうだった様に、土方には身を貫かれる苦しさしかなかった。まるで自慰にも似た行為は、男にとっては、自分自身の昂ぶりを追うだけの空しさしかなかった。 土方の性器は既に痛みと苦しさとで萎えている。そこに触れられる様な事はなく、男を無理矢理に受け入れさせられている後孔もただの言葉通りの孔でしかない。 縛られている腕は、腰の後ろで既に抵抗を失って、拳をただ握っているだけ。開かれた脚は力なく宙を蹴っているだけ。 こんな、何を得ようとするでもない、ただの一方的な行為は、暴力で、冒涜で、蹂躙で、慰みにすらならない、無意味なものだ。 これは、お前の繰り返した言葉の意味ではない。 だからこれは。 「違うんだ、」 何が、と問い返すにも飽いたのか、男はもう無言で動きを早めて、泣き濡れた土方の顔を酷く苦しそうな顔で見下ろしながら、放出の快楽に顔を歪めながら長い長い息を吐いた。 「っあ、…あ、ぁ、あ……」 奥の、奥深くまで交わった男の熱に戦慄いた土方は、仰け反った喉を震わせた。ぶるりと男が胴震いする度に、腹腔の奥が熱く濡れていく気がして、快楽も衝撃も苦痛もなく、ただ呆然と音の様な自分の声が、熟れた空気を虚しく揺らすのを聞く。 「……これで、」 男がそっと乾いた息を吐く。 「手前ェが意にも添わず犯されんのは二度目だ。これでもまだ怒らねぇ心算なの?正当防衛に、やりすぎた、って謝れんの?」 隠さなかった苛立ちを泣き笑いの様な形に歪めて、男は苦しげな呼吸を繰り返す土方の体内から自身をそっと抜き出した。違和感や不快感が消えればそこにはずきずきとしたリアルな痛みしか残らず、土方は暫し痛さに慣れようと目を眇めた侭黙り込んだ。 男の手は続けて、躊躇う様子も危ぶむ風でもなく、土方を後ろ手に戒めていた帯を解いた。鈍痛の酷い腰も布団に下ろされれば、後はいつもの通りの──或いはそれ以上の気まずい空気だけがそこに横たわる。 忙しなく肺を上下させながら、土方は漸く、男のこの行為と、そこに至るまでの言葉とに感じた齟齬に気付き始めていた。 * 前提として。何で、と問われても困る。そのぐらいに、気付けば銀時は土方の事が好きだった。 いつ、だとか、切っ掛けがどうとか、どこが好きだとか。そう言う所を、己の感情を自覚した時には既に通り越して仕舞っていた恋情は、まるで収穫の時期を誤って熟れ過ぎた果実の様だった。 ただはっきりと、好きだと思っていたし、欲しいとも思った。自分だけを特別にして貰いたいとも願ったし、その為にどうすれば良いのだろうかと、年甲斐もなく真剣に考え込んだ事もある程だった。 そう言う意味では、こんなにも熟れた恋情を収穫したのは、銀時にとって初めての事だったと言える。熟れすぎる前にまるで気付きもしなかった、そんな自分に呆れもしたけれど。ここまで育った感情は、あとは膨らみ過ぎて腐って朽ちるのを待つ事ぐらいしか出来ない。一度気付いて仕舞えばもう見ぬフリなど出来はしない。叶わぬ毎に、叶えたい願望ばかりがどんどん肥大していく。そんな、腐爛した恋だった。 だからこそか。土方が銀時の事をどちらかと言えば避ける傾向にある事には直ぐに気付けた。 互いに決定的に憎みあって啀み合っている訳ではない。それは確信している。ただ、出会えばどうでも良い様な撞着が起きて、子供みたいに言い合いをしたり時に掴み合ったりして、一向に『仲良く』など出来た試しはない。どうやっても大凡、『好意』を自分が寄せられているとは思えなかったし、かと言って『好きです』などと今更言える筈も無かった。到底良い顔をされないだろう結果は解っていて、そんな事を告げるのは怖かった。下らない喧嘩一つも出来ない関係に戻って仕舞うのは厭だった。 ならば、見ているだけで、時々どうしようもないガキみたいな喧嘩をして、それだけでも充分じゃないか。…などと言う良識的な脳内の意見は、腐爛しきった恋情の前では一時の誤魔化しにもなりはしない。そのぐらいに、恋は爛れて苦しかった。 段々と鬱屈した感情は、土方の周囲にさえも羨望と嫉妬になって向けられて行く様になって、これはうまくないなと気付いた。例えば自分が神楽や新八の事を悪意を持った目で見られていると知れば腹も立つだろう、それと同じで、土方も銀時が真選組を悪く思う様になったら、直ぐさまに銀時の事など敵と見なすだろうと、そんな想像は酷く易かった。 だから銀時は己の裡にあった想いの全てを、良いものも悪いものもない交ぜにして、土方ひとりに向ける事しか出来なくなった。 そうして結局。感情の収まり処も気持ちの遣り場も見つからない侭、腐爛した想いだけを抱えた日々を漫然と過ごして、昨晩。 飲み屋で見かけた土方は大きなヤマでも終わった後だったのか、心なし機嫌が良さそうに見えた。そんな土方を見ているのが何だか嬉しくて、楽しくて、つい、もっと、と欲が首を擡げて仕舞うのを止められなかった。 ほんの少しの欲に促される侭。偶々、数日前にお登勢の頼みで店の在庫運びを手伝った時にそれなり上等な一升瓶を貰ったのを思い出し、それを理由にして、ウチで飲み直ししねぇ?と出来るだけ気負わず軽く、何でもない事の様に提案すれば、土方は上機嫌の侭にあっさりとその誘いに応じてくれた。 普段は押し入れの住人の神楽は朝からお妙や九兵衛らと一緒に出掛けており、夕方には、遊び疲れたその侭布団の住人になって仕舞ったから、ウチに泊まらせますとお妙から電話が入っていた。 神楽には悪いと思ったが、それも銀時の背を押した理由のひとつになった。 思えば、まるで何もかもが、天の配剤だったのかもしれない。 過ちをか、それとも誤りをか。 他人の家だからか、酒量はセーブしていたらしい土方だったが、銀時の作った簡単なつまみなどに舌鼓を打ち、弾み辛い会話をなんとか投げ合う内に疲れが一気に出たのか、日付の変わる時間にさしかかる頃にはうつらうつらと舟を漕ぎ始めていた。 この時点で銀時の脳裏では既に警鐘が鳴っていた。だから、無防備に目蓋を閉じた土方に、暫くは悪態を投げて、堪えようとした。 きっと直ぐに眦を吊り上げて怒るだろうと。物騒に鋭い眼を開いて睨んで来るだろうと──そう、思っていたのに。 明瞭ではない声音が、銀時の悪態に律儀に返事を返すのを止めて一分、二分。 時計の針の音だけがいやに響く静寂の中に聞き慣れない寝息が混じっているのに、銀時は落ち着きなくソファに座り直した。尻の位置や足の位置を動かす事何度目か。そわそわと、然し好奇心に堪えきれない子供の様な視線が気まずそうに伺い見る、卓を挟んだ向かい側に座した男の寝姿。 土方がこのソファに座るのは殆ど初めての事だ。元より彼は余り他者のテリトリーに深入りはしない、その気質その侭の様な弁えと、後は単純に銀時との──万事屋との──距離感がその理由だ。 居慣れ無い筈の空間で、酒と程良い胃の温度と疲れと、埒もない会話未満の会話の生んだ、きっと僅かの隙だった。 酩酊の見せる泡沫の夢の様な、偶さかの出来事だったに相違ない。 数分の躊躇いの後、この侭寝たらどっか痛めちまうかも知れないし、起こすかどうか考えた方が良い、と銀時は誰にともなく胸中で言い訳をしながら、向かいで眠る土方の顔をおずおずと見つめてみた。 酔いがあるからなのか、眉間にいつもの山脈めいた皺は無く、目蓋は静かに下ろされていた。伏せられた長い睫毛はぴくりとも動かず、僅かに開いた口唇の隙間からは細い寝息が漏れている。目元に疲労に因る隈を薄化粧の様にはいた男の顔立ちは、蛍光灯の白い灯りの下と言う事もあってか、陶製の人形の様にも見えて。見慣れない光景と様子とに現実味が不思議と涌かない。 一度凝視して仕舞ったら、後は体が勝手に動いた。 立ち上がった銀時は、土方の目が醒めて仕舞う様な──己のこの、夢の様な偶さかの時間が吹き消されて仕舞う事が無い様に細心の注意を払いながら、そっとソファに手をついて、眠る男の姿に顔を寄せて、それをつぶさに観察した。 近付けば、形の良い唇は確かに呼吸を繰り返していて、これがつくりものではない事に何故か酷く安堵すると同時に不安になった。 いつ、だとか。 切っ掛けがどうとか。 どこが好きだとか。 そんなものを実感する間もなく育って爛れた恋情は、目の当たりにしたそれに、ただ強烈に惹かれるが必然だったのだ。 形がきれいで好きだと思った。鋭い目元も、煙草をくわえる唇も、黒く真っ直ぐな髪も。 苛烈で内罰的で不器用な性格が面倒臭くて愛しいと思った。負けん気が強くて、自尊心が高くて、口が悪いことも。 恋とはこんなものだったかと己に呆れる。相手のなにもかもが好きで堪らない。箸が転がってもおかしい年頃の様に、長所と思える部分も短所だと嘲る部分も、なにもかもを肯定して仕舞いたくなる。 「……好きだ」 どこが、と問われても困る。何が、と考えても答えは出ない。どうしたら良いのか。理由なんて後から幾らでも探せる。 どうしたいのか。どうして欲しいのか。どうして仕舞いたいのか。目的なんて明確に過ぎていっそ虚しくなる。 「好きだ」 ぽろりとこぼれた言葉が、眠る土方の耳に落ちて、その侭心まで届けば良いのにと思った。 「土方」 届いたら届いたで、きっと自分の事など嫌う男の事だから、拒絶されてそれで終わりだから、 「好きだ」 届かなければ良いのにと思いながらも、まるで涙の様に言葉と感情がぼろぼろと口からこぼれていくのが、止まらない。 何にも遮られる事もなく、遠いと思っていた距離は容易く縮まって、指がそっと頬に触れた。 かたちを確かめる様に指でゆっくりとなぞった軌跡を、寄せた唇で追い掛ける。 「土方、」 もう止まることはないだろうと思った。 この感情も、酷い衝動も、明確な拒絶が返って、そして終わるのも。 容易くこんな風に触れる事が叶う僥倖なんて、きっともう訪れはしない。 ならばいっそ、お前に酷く拒絶されて、憎まれて仕舞った方が良い。この侭腐爛した恋情を抱えてお前へ押しつけ与えたいこの想いと、得体の知れない衝動や単純な欲を堪えているのが辛くなるばかりの、そんなものならば。 未練も悔しさも往生際の悪さも霞んで仕舞うぐらいに、お前に憎まれて厭われればいい。 願いに応える様に薄らと開いた目が、目の前のこの光景を、遣り場を喪った酷い恋情を理解するより先に、夢中で押さえつけて口接けた。 「おまえが、すきだ」 免罪符の様に。言い訳の様に繰り返しながら、現状を理解した途端火が点いた様に暴れだした土方の身体を、これ以上はない拒絶と嫌悪のその証を、殴られ蹴られ引っかかれながら受け入れて抑え込んで、抑え込んで、抑え込む。 獣の様な源初の恐怖をまざまざと宿した目の土方の腕に髪を掴まれて、頭部をテーブルに思い切り叩きつけられた。痛みと衝撃にぐらりと揺らぐ視界の中で、やっと腕に捕らえたと思った獲物が逃げ出そうと藻掻くのが見えて、銀時は口元を嗤わせながらその足を掴んで引き戻す。 獲物は、野生の獣の様に暴れた。酔っていたお陰もあったのか、武器を探したり体術を真っ当に思いつかないのが、幸いであってどこか滑稽で、銀時は無性に嗤いたくなった。 強い侍と思っていた男は、正しく野生のイキモノだった。それを征服しようとしている自分に、支配出来る力の確かにある自分に、愉悦と、失望とを憶えながら──その衝動をその侭、直情的な欲に変えて、満足がいくまで貪ってやろうと思った。 横隔膜を思い切り打てば、土方は一度びくりと背を跳ねさせてから、げほげほと咽せ返って身体をくの字に折った。その侭咽せ続ける土方の身体を俯せに転がして膝を立てさせ、着流しを乱暴に捲り上げて下着を膝まで引き下ろす。 続け様に卓の上に残っていたコップ酒を少量口に含んで、無理矢理に尻肉を割り開いた。土方本人でもそう見る事などないだろう後孔を無遠慮に覗き込みながら、閉じたその孔へと酒を流し込む様に唇を合わせてむしゃぶりついて、舌を這わせて行く。 「ヒッ、?!」 怯える様に跳ねた身体を益々抑え込んで、銀時は酒で濡らした孔の淵を指の腹でゆっくりと撫でながら、キツく閉じた内へと慎重に指を一本じわじわと含ませていった。やめてくれ、と土方が懇願するのを聞き流しながら、含ませた指を少しづつ動かして狭い内壁を馴染ませて体内を徐々に掻き回して拓いて行く。ぐちゃりと濡れた音がする度に強いアルコールの匂いが立って、銀時は酩酊にも似た心地を憶えた。 粘膜から直接アルコールを吸収させたからか、土方の意識と身体は先頃よりも容易く酔い潰れていた。獣の抵抗は最早ただの懇願と混乱とに千切れて、譫言の様に拒絶の声が時折啼き声に混じってこぼれていく。 おかしなものだった。憎まれ嫌われようとして始めた筈の暴力行為が、今までにない程に土方を労って愛そうとする準備に変わっていた。 それも多分、自分の身勝手な満足感に過ぎないのだとは、銀時は悲しいぐらいに理解出来ていた。 その齟齬が、くるしい。 受け入れて貰えないことが、応えては貰えないことが、苦しくて堪らない。 「土方」 好きだ。好きなんだ。おまえのことが、好きで。好きで。 だから、ごめん、とは言わなかった。悪いとも思わなかった。ただそれを知って貰いたくて、解って貰いたくて、愛してやりたくて、必死だった。 指を三本まで含ませて、見よう見まねで解した後孔へと自らの浅ましい欲そのものを宛って。あとは泣こうが啼こうが叫ぼうが、構わずに想いをひたすらに告げて貫いた。 殴られても構うまいと思って、土方の身体をそっと仰向けにすれば、アルコールに溶かされて上気した顔が、定かでもない意識に泣き濡れて銀時を無言で見上げて来ていた。 これが心の伴わない酷い行為で、強姦と言う犯罪である事を理解するほかない。誤りであったのだと、気付かされる。 ──堪らなくなって、穿った侭の土方の身体を無理矢理に高めて、達しながら達させた。 そんなことで、なにかが共有できるとか、想いが伝わるとか、そんな事を本気で思っていた訳ではないのだけれど。 「好きだ」 加害者なのは承知で、でも、嫌われようが憎まれようが拒絶されようが、それだけはほんとうだと、きっとどこかで解って貰いたかった。そんな甘えを抱いていたから、繰り返し言い続けたのだと思う。 遂に意識を飛ばして仕舞った身体を、震える手でそっと抱き寄せてみれば、頭の傷がズキリと痛んだ。ぱっくり割れているだろうに興奮しきっていたものだから、きっと派手に出血しているんだろうと思って、そこで嗤った。 これが、何よりも雄弁な答えじゃないか、と──そう理解したら、あとはもう、 * 「……怒ってねぇ、訳じゃねぇんだ」 二度目の苦痛から暫し。やがて、呼吸を落ち着かせた土方がそう、ゆっくりとした調子で言葉を紡ぐのに、もう答えなど待つのを止めたのか、立ち上がりかけていた男がその場に留まった。振り返る。 「ただ、俺はテメェを、嫌いてぇ訳でも、憎みてぇ訳でも、殺してぇ訳でも無ぇ。けど、」 振り返った男の顔が、ぐしゃりと辛そうに歪むのが見えた。 それは、苛立ちと、憤怒と、もどかしさと、苦しさと、痛みとを抱えた、「『 』」とそう繰り返して寄越した、その言葉の、そのものの様な表情だと思った。 「…………………だからと言って、テメェのそれを、理解してやれる気も、しねぇ」 今度は、すまない、とは続けなかった。 男の感情の一切が理解出来ない事は、土方の裡では変わらない事実だった。 それなりに互いを認めていると思っていた、下らない喧嘩の相手で、出来るだけ関わりたくない面倒な奴。その男が、思い詰めた余りに犯罪めいた行為を犯して、顔見知りの人間の心と身体とを冒涜するに至った程の、そんな恋情など。土方は知らない。 だから、抵抗した時の侭の本能的な感覚で、ただ拒絶だけは告げる。 だがそれは殺意でもなければ、憎悪でもない。 ざり、と畳を踏む音がして、男が一歩、膝をついた侭にじり寄った事に気付く。咄嗟に揺れかかる肩を土方は意地で堪えた。 「………理解してくれる気はなくって、憎まねぇって。ソレ、何も思わねぇって事?二度も、俺に犯されて辱められて手前ェの矜持も踏み躙ってやったってのに、何も思わねぇからそれで良いって事?」 男の口元が、また厭な形に吊り上げられるのを見て、布団の上に横たわった侭の土方の身体は強張った。 明瞭な解答は、言いたくはない言葉でもあった。つけない嘘の果ての本音なのがありありと解って仕舞う。だから、目の前に転がっていればまた引き擦り込まれて仕舞う。 それが得体の知れなさから理解の出来ないものに感じる恐怖なのだろうかと何処かで感じながら、土方は投げ出されていた己の脚を引き戻した。なんとか上体を起こして、たったそれだけの事さえ重労働に感じる事に、身を食われる獣の畏れを知る。 男の抱いているだろう感情が、決して己には受け入れ難い類のものだと──肉体的な意味ではない。感情的な意味で、だ──益々に思い知る事が、それを、食い込んだこの指を、どう解けば良いのか迷わせる。 「憎む気はねぇし、逮捕する気もねぇ。殺意なんて以ての外だ。……さっきのは、それこそ意味の無ぇ、ただの暴力だ。テメェの感情なんて乗って無ぇ、ただの暴力だった」 激しい抵抗の末の記憶にある行為が男曰く『した事に関しては悪い事をしたとは思っていない』もので、男には似つかわしくないあの「『 』」と言う言葉から出た衝動だったから──それが酷く熱くて怖くて解らなくて、一度目は必死で抗った。 男の思う様に、殺したかった訳でも厭だったと明確に思った訳でもなく、本能的に手が出ていた。食われかかる動物がする様に、食われたら死ぬだけだと思って、抗ったのだ。 だが、二度目の嵐は一度目の、何度も己の感情を訴えて来た冒涜とは異なる、ただ土方に暴力の意味を、感情の矛先を知らしめる為だけの無意味な、応えなど待たない行為だ。 だから、違う、と言った。憎まれる為の無為を、暴力以外の何と受け取ればいいのか、土方には解らなかった。 怒りを憶えなかった訳ではない。それは一度目。二度目は、ただ無為を貪る男を憐れに思っていた様な気がする。理解のないこの理解が、もどかしかった。 一言ずつ吐き出した土方をじっと見ていた男がやがて「ふぅん」と小さく、殊更に投げ遣りに呟くのが聞こえた。 理解がないなら憎んで欲しいなどと言う、そんな選択肢は欲しくない。思う土方の心とは裏腹に、男の声は酷く剣呑だった。 そんなにも、爛れて苦しいほどの情を男に抱かれていたのだと言う。その事実が、恐ろしい。 理解出来ない、男の与えようとしている情が、恐ろしい。 「じゃあ、俺ァまた同じ事するけど、それで良い訳? 憎まねぇし何も感じねぇ。なら、手前ェの身体を好きに抱いても構わねぇって言ってんのも同じだって、俺はそう取るけど?」 男の言葉には、土方の反論や怒りを誘おうとする響きが篭もっていた。 憎んで、拒絶して、終わらせるのであれば、これが最期のチャンスだと。そう告げる様に。 だが、土方は小さくかぶりを振った。 本気で獲物を食らおうとする、あの獣の様な、どうしようもない様な泣きそうな顔をして繰り返した「『 』」、そんな衝動から出た、理解し難い程の強い感情を教えられた。 「『 』」と何度も繰り返して、必死で、己の抱いたその感情を繰り返し訴えるくせに、全て否定して亡くして欲しいと願う、強すぎる、知る事も理解する事も叶わない、それはきっと恋情と言う名前のものでしかない。 それを憎む事は出来ないし、受け入れる事も出来ない。理解する事も出来ない。 「…………あァ。そう」 土方の思いはきっと男には伝わらない。抱え込んで腐爛しきって誰にも食い尽くす事の叶わなくなった、そんな想いを延々抱えて来たのだろう男には、きっと土方の抱く『当たり前の』感情など、最早届かないに違いない。 どうして、そこまで熟れきって仕舞う前に、口にしなかったのだろう。 したところで、多分土方はそれをやんわりと断ったのだろうけれど、ここまで男の感情が苦しいものに変容する前にころしてやることは出来たかも知れないのに。 こぼした呟きは、諾だったのか、それとも単なる諦めだったのか。 男は嘲りの表情も露わに舌打ちをして、それから今度こそ立ち上がった。風呂でも使うのだろう、廊下の方へ乱暴な足音が消えて行く。 恐らく、これから慰みものの様に扱われる様な事がある度、土方は男に怒りを憶えて抵抗するだろう。屈辱を憶えるだろう。 それでもきっと、何度男の醜く真っ直ぐな恋情を向けられても、何度想いを叫ばれても、男の事を理解出来る気も、受け入れられる気もしない。そして、男を憎む事も出来ない。 食われる無為と通じない感情とに、恐らくお互い何度も失望して、そうして摩耗するだろう。この選択が正しかったのかは土方には解らない。男の感情を知る事以上に、解らない。 そもそも土方にとっては、男がそんな行為に至った事そのものが認め難いのだ。 願わくば、今晩の嵐の様な出来事など『無かった事』にしたい。男を憎んだら、嫌悪したら、敗けて蹂躙されたその記憶すらも一緒に抱えていなければならなくなる。 今までと同じ様に、下らない撞着を起こして喧嘩する事はもう無理かも知れない、が、無関心に通り過ぎる事が出来るなら、それは土方にとっては願ったり叶ったりでもある。元より、必要以上に近付いて、慣れ合いたい相手でもなかった筈のものだ。 ただ、この侭、男を憎んだ侭で、永劫に消えない屈辱を抱えて、男の恋情だけが腐って朽ちて何れ消えて仕舞うのは、耐え難かった。 確かに、男のした事は犯罪で、そうでなくとも同じ人間、仮にも知己だった相手にする様な暴力でも冒涜でも無かった。だが、だからと言ってそれを憎んで疎まなければいけない道理も無い筈だ。 それは何故なのか。何故そんな事を思うのだ、と問えば──きっと、その理由は、一つしかない。 互いに無関心に擦れ違う、土方の事など歯牙にもかけない風に見えた、あの男のことが、好きだったからだ。 片思い+片思い=片思いが二つ。 朽ちるのを待つだけの。 |