2130年 ※10年前PIXIES妄想です。 ========================= ノックと同時に扉を開けると言う事は、普通はしない。少なくとも普段の貴広であればそんな真似はしなかった筈である。 だが、その日は本来非番であった所に舞い込んだ仕事の所為で少しばかり気が急いていた。仕事そのものはただの調べ物であって別段急ぐものでも無かったのだが、部下からの報告である事も手伝って、放置しておくのは落ち着かなかった。 急いた所で仕様がないのだが、ともあれさっさと終わらせて仕舞おうと言う気持ちが、貴広に普段はしない事をさせた。 手の甲でこんこんとノックをして、応えの返らぬ内にノブに手を掛ける。たったのそれだけの動作だが、室内の人間も非番である事を思えばなかなかに失礼な行動であると言えた。このカンパニー内部の管理社会であっても、人にはプライバシーぐらいある。 隊長に隠し事などしませんと断言してくれる程の腹心の部下にだって、プライバシー或いはプライベートぐらいはある筈だ。 果たしてその領分を侵した報いと言う訳ではないだろうが、扉を開けた貴広の頭部にぼすんと衝撃が走った。続け様に二度、三度と。 衝撃は軽く、脳震盪を起こす様な重たいものでは無かったが、咄嗟に頭に手を当てた貴広は予期せぬ出来事にぱちりと目を瞠った。 足元へ視線を運べば、そこにはハードカバーの書籍が三冊。まるで狙いでもした様に降ってきたそれらの出どころを探す様に頭を持ち上げてみれば、開いた扉の内側に、普段はそんな場所には無い筈の本棚が、幾つも隙間を作って鎮座しているのが目に入る。 「すみません隊長、お怪我はありませんか?!」 「伊勢…」 ぽかんとしている貴広に、慌てた様子で駆け寄って来たのは部屋の住人の伊勢であった。彼は抱えていたらしい書籍を手放して、貴広に怪我は無いかとあちこちを確認して来る。 髪を掻き分けて患部を確認しようとするその手を軽く遮って、貴広は埃を払う仕草をしてみせた。実際痛みや衝撃よりも、辺りからふわりと漂う古い匂いの方が気になった。 「怪我も恐らく無いし無事だが…、と言うか何をしているのだお前は」 言いながら見回せば、いつもは整然と片付いている部屋は、今は段ボールや本の山で床面積を大分減らしていた。本棚を動かしていたからか、掃除機も横たわっている。さながら引っ越しか大掃除かと言った様相である。 「蔵書が増えて来たもので、休日を利用して片付けをと思ったのですが…、つい熱が入って仕舞って、この様な有り様です」 「ふむ…?」 取り敢えず貴広に怪我が無かった事に安堵の息をつきながら、いつもよりは幾分ラフな格好をした伊勢はそう答えると、一旦部屋の奥へと戻った。クローゼットから取り出した白いタオルを水に浸し、よく絞ってから持って来る。 貴広は手渡されたそれを受け取って頭の、書籍の衝突した辺りに押し当てた。瘤が出来ている様な事は無さそうであったが、ひやりと冷たいそれは心地よく、折角だから良いかと何も言わずに頭に乗せておく事にした。 (そう言えば伊勢は本の虫だったな…) 要するに、扉を開けた拍子に普段はそんな場所にある筈もない、移動中だった本棚に当たって、そこに残っていた書籍の何冊かが落下し頭を直撃したと言う事だ。そうなると過失は全面的に、お座なりなノックと同時に扉を勝手に開いた貴広の側にある。 おまけに、落ちて来た何冊かの本たちは当然床に散らばっている。掃除を邪魔したか余計に散らかしたか。伊勢の事だからそうとは言わないだろうが、貴広は己の失態に顔を顰めた。頭に当たって落ちて来た一冊を、腰を屈めて拾い上げる。 古風なデザインの書籍の、そのタイトルを心の中で読む。『1984年』。著者、ジョージ・オーウェル。 貴広も読書はするが、飽く迄普通程度である。伊勢の様にこんなに大量に蔵書を持つ程ではない。必要とされた知識や状況に応じて手に取るか、暇つぶしに適当に開く事が殆どだ。実用的ではない事には興味も関心も薄い貴広には、時間が空いたからと積極的に読書を目的として書籍を求める程の情熱も趣味も無い。 伊勢の部屋には本棚が幾つもあり、そこには様々な時代、ジャンルの書籍が所狭しと収まっている。今は床に積んで置かれたそれらには、聞いた事のあるタイトルよりも全く知らないものの方が多い。 貴広と同じぐらいには多忙な筈の伊勢だが、彼は僅かな休みや空白の時間を使って、熱心にそれらの書籍を読んでいるのだろう。そう言えば以前、昨今では珍しい古書店にもわざわざ足を運ぶと言う話を聞いたなと貴広はふとそんな事を思い出した。 「今時、紙媒体の書籍など嵩むだけではないのか?こうして片付ける手間も生じる。全部電子書籍、データにすればもっとずっとコンパクトになるだろ」 言って、手にした本をちらと見る。紙に印刷され、綴じられたそれは重量もあるし大きさもある。デジタルの媒体として見れば、それは端末の重量にこそなれど、それ以上には決して増えない。データ量が何百冊になろうが何千冊になろうが、だ。 貴広の指摘は、この時代の人間としてはごく当たり前の考えだ。殊にカンパニーは非合理的な事や無駄を好まない。カンパニーの領内で新しく出版される出版物はジャンルを問わず最早九割以上が電子媒体のものである。 伊勢は僅かに苦笑した。気を悪くしたと言う訳ではなさそうだが、困った様な表情を形作って、「確かにその通りですが…」と前置いてから続ける。 「役割は同じですが、古いものであれば紙媒体の方が、データにせよ書籍にせよ、信頼が置けるのですよ」 「その理屈は解らんでもないが、古いが有用な情報や歴史の類であればともかく、小説の様な創作物であれば改竄された所で大した影響はないと思うが…」 拾った本『1984年』は、貴広には憶えのない作品だったが、創作物の様だった。ぱらぱらと捲ってみるが、それが古い紙書籍であれど、データの書籍であれど、大差ないと思える。重さが無く場所を取らないだけ、デジタルの方が優秀なのではないかとさえ。 すれば伊勢は、貴広の捲る書籍のタイトルを見て、ふっと苦笑を深めた気がした。彼はぱらぱらと軽く繰られるページの間にそっと指を当てて言う。 「創作物と言えど、どの様なものにも書き手の意図と言うものがあります。面白いかそうでないかは二の次に。それは思想や風刺や癖である事もあるし、単に書き手のその時の感情や好む傾向と言うだけの事もある。 譬えほんの一行であったとしても、書き手以外の手が加わると、それは本来の意図とは異なったものと成り果ててしまうのですよ」 伊勢の指の腹のなぞる文字列を貴広は何とはなしに目で追った。確かに、指で隠れた一文字、一行、それらはどんなに少ないものであれど確かに物語の一つであり、書き手の意図する言葉である事には変わらないと言うのは解る。だが、改竄や曲筆と言ったものではない限り、そう目くじらを立てる必要も無いのではないかと思えるのも事実である。 小説は娯楽の為の創作物だ。況してやカンパニーに情報統制のされた現在では、検閲や規制もあって、カンパニーに『問題がない』とされたものしか発行はされない。『問題がある』とされる様な、或いは『必要がない』とされる様な、古い書物の多くは今では世界に殆どが現存していないと言う。 物語の消えた世界。そんな中で育った貴広には、小説と言う娯楽、創作物と言うものは大真面目に読む様なものには成り得ない。だから改竄があれど曲筆があれど、然程に拘泥はしないだろう。検閲されたと知らされたとして、元の内容の方を気に入るかどうかなど解らない。 「お前、意外と頭が固いよなぁ。読めればそれで良いだろうに」 「仰る通りですよ。気持ちの問題に因る所が大きいでしょうね。それに、」 言って、伊勢は床に落ちた本を手に取ると、少し考える仕草をしながら棚へと戻す。作者かジャンルか内容か、そう言ったもので分類する彼なりのルールでもあるのだろう。 「こうして片付ける手間こそありますが、ゆっくりと時間を取り、紙を捲り活字を追う事そのものを楽しむのも悪くないものですよ」 電子媒体の書籍だと持ち運びが手軽である事もあり、何かの合間に頁を繰る事が出来る。一方で紙媒体の書籍だと持ち運びにも手間がかかる為、それこそ何かの合間やついでではなく、読もう、と取り掛かる事になりがちだろう。 だが、その事そのものを楽しむのが伊勢の趣味の様なものなのだろう。 「…そんなものか」 他者の趣味嗜好に口を出したり論ったりする気のない貴広は、そんな理解で納得をし、持った侭だった本を本棚に戻すか、彼流の仕舞い方があるのだろう伊勢に手渡した方が良いだろうかと考えながら、本をぱたんと閉じた。 「宜しければその本、お貸ししますよ。期限は特に必要ありませんので、お手の空いた時にでも読まれてみては如何です?」 ふ、と少し含みのある笑みと共にそう言われて、貴広は手渡そうと思っていた書籍に目を再び落とした。1984年。軽く100年以上は昔を意味する西暦だけのシンプルなタイトル。細かいジャンルは解らないが、創作小説ならば娯楽を主な目的としているだろう。 多忙の中でも時間の空きはある。潰すに困ると言う程ではないが。そんな合間で紙媒体の娯楽小説を読む己を想像して、貴広は「ふむ…」と頷きながら考える。 「まぁ別に、本を読む事自体は嫌いでは無いが…」 時間を割く価値がどうのとつい考えたくなるのは職業柄だ。余り宜しくはない悪癖だとは思うが。 「ならば是非。偶には任務以外の事に向いてみるのも良いですよ。面白いか面白くないかは、隊長ご自身でどうぞお決めになって下さい」 「また紋切り型な」 苦笑するが、伊勢のその一言が後押しになった。 「では言葉に甘えるとしよう」 と貴広は本を──借りる事になった重たい本を小脇に抱えた。用事さえ終えて仕舞えば今日は丁度良くも非番だ。本の導入部を読む程度の時間ぐらいは取れるだろう。 部下の進めを受け取る上司に向けて相変わらずの穏やかな表情で頷いてから、そこで伊勢は不意に思い出した様に表情を切り替えた。 「ところで、隊長は本日休みでしたよね。何かご用があったのでは…」 「ああ、そうだった」 呑気に世間話をする余裕があるだけ、緊急の用件では無いのだと言う事は知れたのだろう。伊勢の問いに貴広はぽんと手を打つと、スマートフォンを取り出した。PCから転送してある、部下から受け取ったメールを開くと手渡す。 「こんな報告を受けたのでな、お前なら仔細を知っているだろうと思って訊きに来た。一応任務中だから非番のお前の端末に送る訳にもいかなかったのでな」 「…そうですか。解りました」 ささっと文面を読んだ伊勢は貴広にスマートフォンを返却しながら、目当ての情報の資料についての詳細を手早く、自分の意見を交えながらも説明した。受けて、貴広は己の求めていた答えを得て頷く。 この分なら想像以上に早く用事は終わりそうだ。そうしたら後は何も予定は無い。小脇に抱えた本をどの程度片付けられるだろうか。珍しくもそんな想像が浮かぶ。 存外に自分は娯楽を消化する事が苦痛ではない性分だったらしいと気付かされた気がして、貴広は伊勢に礼を言って彼の部屋を後にした。 何だったら今後も勧めに従って時間を潰すのも悪く無いかも知れない。 貴広は島流し後にバベルの図書館があった事も手伝って本の虫になった様なので、隊長時代は娯楽小説なんてジャンルに関心は薄かったのではないかなと。 そんな訳で、隊長に読書を勧めたのは読書好きなお伊勢説あると妄想しているので、本篇で「読んだ事がある本」と言っていたのもあり、皮肉のような本のチョイスとなった次第。 ディストピアの世界を描いた本を前に。 ↑ : |