雨が降ると憂鬱になる ※十年前のPIXIES妄想。 ========================= ──神崎貴広が弱っていると雨が降る。 別に法則性がある訳ではない。確実性も。具に記録を取って統計を弾き出し、データに因って裏打ちされたと言う事でも無い。ただ、何となくそんな気がしている。 情報部の建物は機密保持の観点から窓がない場所も多い。その代わりに廊下やオフィスには窓を模したデジタルパネルが備え付けられ、偽物の風景をそこに映し出している。 技術的には全く荒唐無稽な風景を表示させる事も可能なのだが、職員が無闇に混乱してもいけないからと、外部カメラのスキャンしたリアルタイムの映像を投影している事が、結局は殆どだ。 ただ、その気になれば内部の人間に幾らでも、操作した状況(シーン)を見せる事が可能だと言う事は間違い無い。尤も、そんな安易な視覚情報のみに踊らされる様な者が情報部に属している訳もないのだが。 何しろカンパニーの情報部は、その産まれからエリートコースを歩む事の確定している制服組や、幼少時から徹底した教育に因って『作られ』た職員で構成された組織である。カンパニーの、主に運営を担う取締役会にとっては、綺麗な部分から汚い部分まで、兎に角情報部の力は欠かせない存在だ。窓の外の風景と言う視覚情報一つを真に受けている様では到底務まらない。 ……のだが。窓──デジタルパネルの投影している外の風景映像を見つめて、五十鈴はその足を思わず止めている。 そこに在るのは、灰色に曇った空から雨がぱらぱらと疎らに降っている風景だ。カメラの映像のリアルタイム投影だから、雨粒がレンズに当たって落ちて行く様までもが恰も本物の風景の様に表示されており、画面に触れれば外気の冷たさまで感じられそうに見える。 (雨、降って来たのか…) デジタルの映像だから、角度を変えて見た所で見える風景が変わる訳でもない。然し恰も窓を見る様にして五十鈴は映像の中の空を見上げる。平面に映された画面の端で重たい雲は綺麗に切り取られていて、その先は伺えない。その伺えぬ外から滴る雨粒は、そう勢いは強く無いが粒が大きい。薄暗い空と相俟って、きっと外は冬に降る雨らしく芯から冷えそうに寒いのだろう。 気流を操る異能を持つ五十鈴だが、流石に天候を変動させる様な真似は出来ない。そんな事が出来るとしたらそれは人間以外の『何か』だ。 人は、ぶ厚い建物の壁に隔てられているだけで、正確に天気を測る事さえ出来ない生き物だ。モニタに映る風景が本物なのかどうかを、視覚情報のみから判別する事は難しい。おまけに今日はまだオフィスから一歩も外に出ていない。それまでの連日続いた冬晴れの天候から思えば外が本当に雨なのかは若干疑わしかったが、それでも五十鈴は確信していた。外は本当に、凍り付きそうに冽い雨が降り出しているのだろうと。 何しろ、今日は神崎貴広が臥しているのだ。だからきっと、雨が降っている。 そう確信を抱きながら歩を再開させる五十鈴の、その手には小さな盆。それは臥している人の元に運ぶ食事だ。 * 情報部のオフィス棟と居住棟は渡り廊下を通じて隣接している。それぞれの建物から外に出る為には規定のセキュリティチェックが必要だが、それぞれの棟を移動する事には一切の制限はかけられていない。オフィス棟の社員食堂から居住棟へ向かうのも、五十鈴にとって極めて日常的な行動である。時折すれ違う他の部署の職員たちも、その姿を何か気に留める素振りも見せない。 情報部、それも特殊情報課と言うエリートの集まりともなると、各部署間にどうしても無駄な軋轢が生じがちであるが、取り分け伊部隊PIXIESともなれば逆に周囲から敬遠されるきらいにある。賞賛よりも妬みの何かと強くなる職場環境では、無言で通り過ぎる程度の距離感が恐らくは丁度良いのだろう。 そうして別段誰に見咎められる事もなくPIXIESの居住エリアに到着した五十鈴は、慣れた足取りで廊下の奥詰まりの居室の入り口に立った。平日の昼間と言う時間帯だからか、居住棟の廊下にも、各部屋にも人の気配は殆ど無い。 入り口の接触型カードキーにIDを翳すと、かちりとロックの外れる音がした。その侭IDカードを盆の上に乗せると、五十鈴は音を立てずに扉を開き、室内にするりと身を滑り込ませて扉をロックした。 廊下と言う公共エリアから扉一つを隔てただけの部屋は、然し住人の完全なプライベートエリアである。部屋の間取りこそ大体同じ様なものだが、室内の趣は住む人に因ってそれぞれに異なる。 この部屋には私物の類は少ない。仕事に使うデスクの上にパソコンが置いてある程度だ。だから余計なものを踏み抜いて仕舞う心配もなく、五十鈴は真っ暗な部屋の電気を点ける事なく、足下の非常灯の仄かな灯りを頼りに進む。 窓のない室内は夜の様に暗く、しんと静まりかえっている。いつもならば小綺麗に片付けられている机の上には、オフィスから持ち帰って来たのだろう幾つかのファイルが乱雑に積まれている様だが、それに手をつけた様子は一切ない。 寝室の扉をそっと開くと、そこはカーテン越しの外の光が差していて薄ら明るい。曇り空に雨と言う天候であっても、灯りの気配の無い部屋よりは余程に眩しくて、五十鈴は目を僅かに細めた。 この部屋だけは居住区でも特別で、外からでは壁にしか見えない様に偽装された窓がある。伝書鷲の蛍火を使う都合上、窓で無ければ意味が無いと嘗て貴広が強く言って上層部を納得──と言うよりは言いくるめ──させたのだ。 何しろPIXIESが伝書鷲と言うアナログな手段を用いると言う事は、慎重な情報の取り扱いを要している事態と言う事である。そんな時にいちいち屋上に蛍火を回収に出向いていたら情報の鮮度が落ちて役に立たないと言う、正論なのか強引なのかよく解らない言い分を通したのを、五十鈴もよく憶えている。 さて、そんな窓の外は矢張り雨の様だ。薄暗い明かりに半分程照らされて、寝台の上に布団の丸い山が出来ている。部屋の主である神崎貴広が丸まって眠っているのはそのシルエットからもはっきりと確認出来た。 五十鈴は寝台の横の小テーブルを引き寄せるとそこに盆を置き、枕を抱え込む様にして寝息を立てている貴広の顔を覗き見た。 (さっきよりは心なし楽そう…な、気がする) 耳を近づけてみるが、その寝息は静かだし、うなされている様子もない。見た限りでは寝相が特に暴れて酷いと言う事もない。食堂に行く前に見た時は、眉を寄せていて、さも苦しそうに見えたのだが。 「隊長、ご飯持って来ましたよ」 とんとん、と布団を叩きながら声を掛けると、布団の塊がもぞもぞと動いた。 「んー……」 返事のつもりなのか、放たれた声は眠そうに不明瞭な呻き声で、殆ど返事の体裁などなしていない。五十鈴は小さく溜息をつくと、寝台の上にそっと腰を下ろした。 「食べられます?」 問えば、少し考える様な間を置いて、 「面倒くさい…」 と如何にも億劫そうな声が返って来る。どうやら具合が悪く食事も喉を通らないと言う訳ではないらしいと判断した五十鈴は、布団からはみ出している貴広の横頬をつんと人差し指で突いて言う。 「起きないと口に匙突っ込みますよ」 「……………解ったよ、食べりゃいいんだろ…」 五十鈴の言う調子から本気の気配でも感じたのか、貴広は目を擦りながらのろのろと起き上がった。柔らかな彼の髪質は寝癖がつき易い。その事を気にしているのか、頻りに髪を撫で掻きながら欠伸を噛み殺して、眼鏡を鼻の上に乗せた貴広は顔を顰めてみせる。 「お前な、上司を脅すとはどう言う料簡だ」 「脅してませんよ、人聞きの悪い。お口にあーんして食べさせて差し上げても僕は一向に構いませんし」 「俺が構うわ」 水差しから注いだグラスから一口水を飲む貴広に盆を手渡せば、彼は億劫そうに嘆息しつつも、盆に乗せてあった小さな土鍋の蓋を開いた。中身は梅肉の乗った、水分が多めの粥だ。見るからに喉越しが良くて胃にも優しそうだ。 五十鈴が食堂で頼んで作って貰ったものである。流石にエリート部署と呼ばれる情報部なので福利厚生面には優れており、社員食堂は準シェフの肩書きを持つ料理人が、一人だけとは言え務めている。その料理人に作って貰ったものなので、このお粥はインスタントではない。 いただきます、と気乗りのしない声で呟くと、匙を手にした貴広は粥を口に運ぶ。出来たての熱々と言う訳では無いのだが、火傷しない様にかその手つきは慎重だ。 「お味は?」 「旨いが少々物足りない。別に重傷者でも重病人でも無いんだ、明日からは普通の食事に戻してくれ」 黙々と匙を動かす貴広に尋ねれば、彼は口の中のものを呑み込んでからそう言い、再び水で喉を潤した。 寝間着を着ているその腹部と肩口には包帯が巻かれている。特に肩のそれには血の滲んだ痕が見て取れて、見るからに痛々しい。 任務からの帰投中に、搭乗していたヘリが撃墜された──とだけ聞けば生存も絶望的な話になるのが普通だが、生憎と情報部、それも人外の異能の集うPIXIESに於いては「それで負傷の程度は?」で済む事が殆どである。五十鈴やその双子の兄の伊勢であればまず100%無傷で生還する所だろう。 貴広もその例には漏れなかった筈なのだが、同乗者に補欠要員の部下を伴っていたのが徒となった。その部下を無傷で連れ帰ろうと尽力した貴広が己の身の方を幾分蔑ろにした結果、墜落時の爆風に巻き込まれる羽目になったのである。 それでも軽傷で済んでいるので、矢張り所詮PIXIESは人外のエージェントの集まりだとカンパニー内外に言わしめるには充分であったのだが。 だが実際は、スーツで隠していた血だらけの傷を晒した貴広の「破片がまだ刺さってるから抜いてくれ」などと言う、病院をすっ飛ばして平然とした顔で戻って来るなりの一言である。予期せぬ『負傷』と言う事態に五十鈴は相当に気を揉む事になったし、伊勢は胃を痛めた。矢矧に至っては呆れ返っていた。 当事者の貴広曰く、「病院になど行ったら負傷が内外に知れる可能性が高くなるし、暫く自由に動けなくなるだろうが」との事なのだが、傍で見ている側からすれば心臓に悪い以外の何でもない。 ともあれ貴広本人がそう言う以上、無理に病院へ連れて行く訳にもいかなかった。身内で簡単な応急手当を施された貴広はそれから一晩臥して、翌日の現在と言う訳だ。 古傷などには染みそうな冬の、突然降り出した雨を横目に、五十鈴はそっと口を開く。 「隊長」 「何だ」 「具合はどうですか?痛みとかは」 すると貴広は匙を咥えた侭、左の肩口の包帯に触れた。昨日は鋭い刃物の様な鉄の破片が突き刺さっていたそこは、今朝包帯を替えた時にはまだ痛々しい有り様だったのだが。 「もう血も止まっているし、熱もない。お前たちの処置が良かったお陰だな。明日には問題なく動かせるだろう」 言って、貴広は包帯に滲んだ血がもう乾いている事を示す様に、汚れのついていない指を擦り合わせながら五十鈴へと見せた。 元々、ナーサリークライムであるからなのか、貴広の負傷は普通の人間よりも明らかに治りが早い。……そして、そんな時にはいつも必ずの様に、雨が降る。 「そうですか…。なら、良いんですけど」 ──神崎貴広が弱っていると、雨が降る。 別に法則性がある訳ではない。確実性も。具に記録を取って統計を弾き出し、データに因って裏打ちされたと言う事でも無い。ただ、何となく、 (……そんな、気がする) 胸中でそっと呟いた五十鈴は、ここだけは本物の窓をカーテン越しに見遣る。窓を打つ、デジタル映像では無い事を示す雨音は、確かにすぐそこで鳴っていた。 * コーヒーや紅茶よりも、五十鈴は日本茶が好きだ。 昔、どう言う経緯でかは忘れたが、土産か何かで何の気無しに口にした、甘くないお茶と言うのが舌に合ったのだ。 今ではカンパニーの実質的な属国となり、国名もニホンニアと変わって仕舞ったが、その名産として日本茶の名もブランドもその侭保たれており、量は多いとは言えないが海外向けの輸出も行われている。 そんな訳なので日本茶は一般的な紅茶に比べれば、グレードの差はあるが、少しお高い。だから五十鈴はお茶を味わう時間を殊の外大事にしていた。昔は庶民用の安物と言われたらしい焙じ茶も、今では充分に味わって飲むに値する。 今日選んだのは普通の緑茶だ。茶葉を茶漉しの中に適量。お茶を楽しむ準備をしながら、ケトルが沸いた知らせを寄越すのを待つ。 《今日は広く晴れましたが、明日は所により雪になるでしょう》 点けっぱなしでデスクの上に置いてあるノートPCからそんな音声が聞こえて来て、五十鈴は顔を顰めた。真冬に聞く天気予報は大体が宜しく無い明日を想起させるものばかりだ。 そこで湧いたケトルを火から下ろし、急須と言う日本茶用の変わった形をしたポットに注ぐと、蓋をしたそれをローテーブルに置いてソファに腰を下ろす。後は少しばかり待つだけだ。 雪の多い地域で過ごす冬は冷える。季節によって居住する地域を移動でもしようかと大真面目に考えた事があるぐらい、五十鈴は寒さに強くはない方なのだ。 だが、仮にもカンパニーから逃亡している身なので、居住先を好き放題に選ぶと言う訳にはなかなかいかない。その為にもこうして暖房全開の部屋で温かいお茶を飲んで過ごす事で、少しでも寒さを和らげ快適に過ごしたいのだ。 急須を軽く揺らして湯飲みに注ぎ入れる。薄い緑と茶の色の中間色をした茶が器に満たされ、ふわりと良い芳香が漂うのに自然と目元も弛んで仕舞う。この時ばかりは寒さも忘れられそうだと思う。 《南南部諸島では季節外れの低気圧が発達し、海は大時化の見込みです》 然し不意に耳に届いた情報に、手にしたばかりの湯飲みを置いて五十鈴は立ち上がった。デスクの前に立ってモニタを覗き込んで見れば、流しっぱなしにしてあった世界の天気情報の映像の中に、南半球を覆う不吉な雲の動きが表示されていた。 南南部諸島。カンパニーの名付けた区割りのそれは、既に親カンパニーの各国でも普通に扱われる地方名だ。大小何千もの島々で構成された地域で、昔であればただの小さな群島でしかなかったそれらも、大陸の減った今では立派な領土としてカンパニーの管理下に置かれている。 その南洋の外れに、まるでハリケーンか何かの様な不穏な嵐が発生していた。その嵐の影響下には、南南部の数多くの島が含まれている。 (2563号島も嵐の範囲内だ…) 南洋の孤島で起こる嵐はなかなかに笑えない。何しろ外部との航行手段を断たれて仕舞ったら文字通りの孤島となって仕舞うのだ。自家プラントを備えている訳ではない島では、数日間の隔離状態でさえ死活問題になる事もあると言う。その為に離島では日頃からシェルターに備蓄物資が用意されているのだと、そう聞いた。 「……隊長が、弱っていると…、雨が、」 然し思わず五十鈴の口をついて出たのは、そんな言葉であった。 島を襲う嵐のもたらす被害よりも、その悪天が、季節外れに、突然発生した事をこそ問う様に。 そう。別に法則性がある訳ではない。確実性も。具に記録を取って統計を弾き出し、データに因って裏打ちされたと言う事でも無い。 ただ、何となく、そんな気がするから。 静止させた天気図の画像を力無く見つめて、五十鈴は唇を噛む。 今、あの雨雲の下で、第2563号島の所長を務めている、神崎貴広は弱っているのだろうか。苦しんでいるのだろうか。怪我を負っているのだろうか。 (あの人が、ただ心安く在る事だけが、願いなのに…) ここから遙か遠い空の下で、彼の人に何が起きているのか、何を思っているのか、全ては遠く、物理的な距離と年数とが遙かな空白を隔てて仕舞っている。 それでも、貴広がナーサリークライムと呼ばれる存在である以上、世界はその潮流を掻き乱さんと揺れる。その波の外で五十鈴らはただ待つほかない。その呼ぶ声を、言葉を、一言でも聞き逃す事が無い様に注意しながら。 (こうして、天気の一つ程度であっても、なまじ蓋然性があるだけに、気を揉まずにいられないだなんて、正直どうかとも思うけど…) それでも、神崎貴広の調子が悪いと雨が降る事が多いと言う、推定事実がそこにある事は間違いなく。五十鈴は遠い空の下にただ思いを馳せる事ぐらいしか出来ないのだ。 ノートPCをぱたりと閉じると、窓の外から差す爽やかな陽光と、冬の澄んだ青空の眩しさが厭に目に滲みた。 一個前の話の元になった話的なやつ。水気が多い程有利に働く筈なので無意識に雨とか雪とか降らせるし、力を使いまくった後は水気が高まって自然と雨とか雪とか降るしで、何気に力の制御の出来ていない水気のナーサリークライムってクッソ迷惑なのでは…。 ↑ : |