或る日の翅音

※十年前のPIXIES妄想。
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 昔は歴史のある町並みの拡がる観光地だったとガイドブックにはあった。
 だが、海を臨む断崖に拡がる、味気のない簡易的な建築物の群れはその殆どが、大凡二十年ほど前にまとめて建てられた急拵えのもので、今目の前にあるその風景は歴史ある観光地と言う言葉とは程遠い。
 欧州の某国だ。この辺りは海に面した立地であった為に、Jesus and Mary Chainの災害に因って見舞われた崩壊の規模は相当のもので、犠牲者や被災者の人数、建造物等の被害はそれこそ、国が軽く二度三度は傾く程だったと言う。
 普段は穏やかな海岸や港でしかなかった、入り組んだ地形の入り江は大波の影響をもろに喰らう事になり、町はその八割以上が水害に因って押し流され押し潰された。地形も大きく変わり、正しく世界崩壊の前と後との違いをまざまざと描き出していた。
 そんな、避難民と難民とが溢れて秩序も法も失いかけた社会に、復興支援の名目で町を形ばかりでも作り直したのがカンパニーであった。
 誇った歴史も、嘗ての生活も取り戻せないのならば、後はただそこに縋るしかない。住処とされた簡易的な建築物の中や、復興支援の恩恵を得る為にその近くに落ち着いて、戻らぬ日々を惜しみながら細々と生きるしかない。
 そんな経緯で現在のこの町は、無理矢理に構築された同じ建物の綺麗に連なるスラム街の様な一角と、町の残骸をその侭利用した更に底辺のスラム街との入り混じった、非常に複雑且つややこしい事情を抱えた場所となっている。最早観光地などと呼べたものでは到底無い。
 法と秩序とがギリギリのレベルで存在するか、しないか。その境界に当たる町の中を、伊勢は歩いていた。手にした紙袋を抱え直すと、懐のメモを取り出して、チェックリストの様に項目の連なったそれを慎重に確認する。
 法や秩序の存在を曖昧にした町は逆に、それらの制約を受けずにいると言う事でもある。往々にして、そう言った場所では所謂禁制品の類や有用な情報が出回り易い。危険は多いが実入りにも期待が出来る。御しは難いが利は得易い、そんなものを巧く扱うのも情報部の様な特殊な部署では決して珍しい事ではない。
 そんな訳で、伊勢は民衆レベルでの国の内情を調べるついでに、逗留に必要な物資を買い出しに歩き回っていた。いつもの、戦闘行為にも耐え得る特殊なビジネススーツでは目立って仕舞う為に、予めラフな古着を入手してある。立ち居振る舞いもだらりとしており、見るからに余りやる気の無さそうな若者と言った風情だ。
 常の伊勢の、びしりと姿勢を正した立ち姿の、真面目そうな人間を絵に描いた様な様子を知る者から見れば、別人と見紛うばかりの姿である。
 変装と言う程ではないが、一種の技能である。人とはその育ちや内面がどうしたって態度に出るものだ。それを演じる事が出来れば、ぱっと見の印象程度のものであっても大きく変わる。長期に渡る潜入や潜伏にはそう言った地味な技能の方が、高度な変装技術よりも利便性が高い事が多いのだ。
 メモに記された内容を隅々まで目で追って、己が正しく『お遣い』を済ませられた事を確認すると、それを懐に元通り仕舞い直して、歩を進める事に専念する。
 昔は名だたる観光地であったこの都市への出張任務が決まった時貴広は、旅行の様なものだと笑って口にしていたものだが、『お遣い』として伊勢の携えて来た物品の幾つかは大凡『旅行』などとは相容れない様なものである。それこそこの様な場所でしか手に入らない品もある。
 だが、一般人の体裁で歩く伊勢の抱えるそれは、一見しただけではただの日用品や食料の入っていそうな紙袋でしかない。見た目通りだろう中身を目当てに、先頃から幾度か掏摸や強盗を狙う輩が視界の中をちらついているのに、伊勢はこの町の治安の具合を思ってそっと嘆息した。無用なトラブルを起こす前に宿へと戻った方が良さそうだ。
 狭い路地裏へと入り込むと、軽く地面を蹴るのと同時に、生じさせた気圧の塊を踏んで、無人のベランダの柵へと飛び乗る。見下ろせば、路地裏に入った伊勢の姿を見てこれ幸いとばかりに追って来たごろつきたちが、突如消えた彼の姿を探して動揺している姿が見えた。
 規模の小さな重風でも十分対処は出来るが、敢えて構う道理などある筈もない。伊勢は無言の侭、柵を蹴って建物の屋上へと上がり、人目につかない様に暫し屋根上を移動してから別の路地へと降りた。
 町の地図は大体頭に入っている。貴広の待つ宿までは直に帰れるだろう。
 
 *
 
 宿とは言ったが、実際は宿泊用に部屋を提供する施設ではなく、定住用のアパルトメントである。災害での亡失を免れた旧市街のスラムの一角に幾つか立ち並ぶ、余り特徴の無い古風な建物。
 外見は今にも崩れそうな古さだが、内部は多少手を加えてあって、あちこちがちぐはぐな印象だ。比較的に新しく取り付けられたエレベーターは使わずに足で階段を昇った伊勢は、目当ての部屋の扉をノックもせずに押し開いた。何者かに部屋に入る姿を目撃されても、単独と思わせる為の取り決めである。
 「ただいま戻りました──、」
 扉を閉めてそう言った所で、伊勢は眼鏡の向こうの眼を開き、動きを停止させた。それから自然と、片手に紙袋をつまんだ侭の腕を左右同時に肩の高さまで持ち上げる。
 大多数の人間が、とは言わない。だが、ある程度こう言う状況を知る、経験している人間であれば、自然とそうして仕舞う。
 「……お前でも、手とか上げるのだな」
 何の備えもしていない時に、少なくとも手が一息では届きそうもない距離から銃口など向けられたら、取り敢えずそうして仕舞うものだ。
 撃つな。待ってくれ。こう言う場合のホールドアップとはそんな意味を込めた万国共通のジェスチャーなのだ。
 そんな理由で両手を上げた伊勢の前。部屋の玄関からの距離は四米程度。そう広くないワンフロアの壁際に置いた古びたソファに腰を下ろしている貴広のその手の中から、暗い穴をした銃口がまっすぐにこちらへと向けられている。
 そうして少々驚いた様に言う貴広の表情には別段厳しいものはない。敵対する様な意識も。驚くのは寧ろ、帰るなり銃口を突如向けられているこちらの方だろうと思いつつも、伊勢は両手を律儀に上げた侭で答える。
 「ある程度射程(レンジ)があれば撃たれたとして防げますが、この動作には単純に、銃を持った相手を油断させる意図もありますよ」
 近接格闘の有効な至近距離でも無い限りは、伊勢の瞬時に纏う重風に因る気圧の壁は、銃弾程度では貫く事は出来ない。仮に今貴広が発砲したとして、或いは、伊勢が部屋に入った瞬間に発砲されていたとして、何れの場合であっても、その向ける銃口から放たれた弾丸は中空でひしゃげて無力化される。
 そしてそうなれば伊勢は次弾を撃たせる事なく、速やかに射手を──この場合だと貴広だが──取り押さえている。腕の良いエージェントならば、銃が効かない事を見るなり無駄撃ちは止めて即座に近接格闘に移るか逃げようとするかの行動に出る可能性が高いからだ。
 「成程。まあ暗殺者でも無い限り、降伏を示されたら撃つのは躊躇うか」
 納得した様に頷く貴広の手の中で、トリガーガードを指に引っ掛けた侭の銃身がくるんと回転して上を向いた。すまん、と言う代わりにひらりと手を振ってみせる彼に、伊勢は苦笑しながら漸く両手を下ろした。
 「それも勿論ですが、銃が驚異にはならないと示す様な真似をわざわざする必要は無いと言う理由もあります」
 自らの手の内を敢えて晒す必要もあるまい。そう言う事である。
 やれやれと息をつくと伊勢は室内へ入り、貴広の前の卓に紙袋を置いた。見ると、卓の上には皮製のケースに収められた小さな工具などが並んでいる。どうやら銃の手入れの最中であったらしい。
 とん、と手首のスナップを利かせながら、上向きに出る特殊なシリンダーを動かした所で、貴広は少しおかしそうに笑う。その手の中で示してみせる弾倉は空だった。
 「…ブラフでしたか」
 仮に、扉を開いたのが伊勢ではなく暗殺者や予期せぬ望まぬ客だったとして、向けた銃口に効力など何もなかったと言う訳だ。よくよく見れば卓の上にはご丁寧にも、手入れの為に取り出したらしい銃弾が直立状態で置いてあった。
 ブラフにしても、これでは警戒状態の敵相手であればすぐに看破されて仕舞う様なお粗末な状態である。思わず伊勢の口から出た呆れ声に、貴広は少しばつが悪そうに肩をすくめてみせる。
 「ブラフと言うかな。完全に手元に集中していて、意識の外側から扉が開いたんだよ。で、つい反射的に構えて仕舞っただけと言うか…」
 一応警戒心があった故の反射的な動作。貴広のそんな言い訳に伊勢は軽く笑うと、取り敢えず茶でも淹れようと水場に向かい、ケトルを手に取った。水の量を確認してから旧式のコンロにかける。
 伊勢がそうして茶の支度を進める間、貴広は伊勢が『お遣い』で密かに購入してきた実弾を箱から取り出してスピードローダーに装弾する作業を行っていた。弾が足りないから生活用品の買い出しのついでにでも、と頼まれたのは確かだが、そんなに大量に火力の必要な状況では無い。
 どこか楽しげに手入れを続ける貴広の手付きを見て、伊勢は正直に思う。趣味だな、と。
 (隊長には本来、銃も刃物も必要が無い。カンパニーを離れた『物騒』なスラム街だからこそ選んだ、道楽の様なものだろうな…)
 拳銃と言う解り易い武装で物を言わせるのは容易い。武器があるぞと示す事に効果を発揮する物騒な環境であれば尚更だ。つまり伊勢が解り易い無抵抗の態度としてホールドアップしてみせたのと同じ様な理由だ。
 「手など挙げる余裕があると言う事は、拳銃の攻撃程度に耐える備えは常にしているのか?」
 丁度そこで貴広が面白がる様な調子でそんな事を言う。伊勢がホールドアップなどをした姿が余程意外だったらしい。
 「…土地柄や任務の内容に依りますよ。隊長が弾倉が空の拳銃を構えて見せたのと同じ程度の『当然』の警戒です」
 「………伊勢、お前何だか妙に根に持っていないか?」
 唇を尖らせてぶつくさと言いながらも、手元の作業から視線は起こさない貴広に「どうでしょうね」と笑みと共に投げて、伊勢は沸いたケトルを火から下ろした。安物のティーパッグを放り込んだ、同じく安物のマグカップに熱湯を注ぐ。
 「お前の火器取り扱い技能はどの様なものだったか…」
 「程度ですか?…まぁ、カンパニーの実働兵士の技能として要される水準は普通にクリアはしています」
 カンパニーのエージェント養成所では通り一遍の技能を叩き込まれる。軍事、戦略、戦闘、知識、運転や操縦や機械操作と言った特殊技能──だがそれらは飽く迄基本的なレベルであって、全ての技能を扱う事になると言う訳では無論ない。逆に、任務や状況に因って新たな技能や知識を習得する事も要される。生涯現場務めの宿命の様なものだ。
 「それでも銃は携帯しないよな?…まあ、必要無いと言うのも解らんでも無いが」
 『神風』を用いた通常の対人戦闘行為の想定であれば、伊勢の場合、相手を近づかせずに倒すのが定石だ。鉄風での攻撃はそこらの通常火器よりも射程が長いし、重風に因る大気圧の壁は火器に因る攻撃程度は通さない。寧ろその絶対的な防衛性能を見込んで、他の戦闘要員のサポートを務めた方が良い事も多い。
 つまりは貴広が自ら口にした通り、伊勢が火器の類を必要とすると言う事そのものがまず起こり得ないのである。
 「こう言った一般人の存在する市街地で、武装の類の無いお前がどう立ち回っているのか、具体的に見た事は無かったな、と」
 手入れの全て終わった拳銃を腰の後ろに取り付けたホルスターへ納めて言う貴広の手へと、淹れたばかりの紅茶のカップを手渡してから、伊勢はその前の椅子に腰を下ろした。
 貴広や伊勢の性能は、現場のエージェントと言うよりは軍事力としてカウントすべき規模を持つ。故に普段は二人共に大掛かりな戦闘を想定した現場へと出向く事が多い。PIXIES序列第壱天も第弐天も、こんな、民間レベルでの情報収集に本来駆り出される様な人材ではないのだ。
 だからこそ貴広は、旅行の様なものだなどと嘯いていたのだろう。確かにその通りではあるのだが、逆にそれこそ『旅行』気分で浮ついてでも居たら、暗殺者の格好の的になりかねない。だから伊勢の警戒も、貴広の帯銃も当然の事なのだが。
 「立ち回りそのものは常と大差ありませんよ。重風の有効範囲を己の周囲のみに絞る分強度に不安は生じますが、それこそ市街地で威力の高い火器で襲撃されると言う可能性がまず低いですので問題は無いでしょう。一般人を巻き込む様な環境であれば尚更、私の場合はこちらから武器を見せて威嚇するよりも、無害に防衛に務めた方が宜しいかと」
 まだ熱い紅茶を一口含んで続ける。値段の安さの所為か風味の質は今ひとつだが、嗜好ではなく飲用する程度なら然程気にはならない。
 「『神風』に因る通常の警戒程度であれば仮に、少々お痛の過ぎる『一般人』にARでも乱射されたとしても、防ぎながら取り押さえるのは難しい話ではありません」
 貴広の疑問に順を追ってしっかりと答えたつもりの伊勢であったが、当の質問を発した貴広はと言えば、その答えにむすりと唇を尖らせて見せた。両手でカップを持って肩を落とす。
 「…ではやはり、手など挙げる必要は無かったではないか…」
 「………またそこに戻られますか」
 やけに拘られる、と小声でぼやきつつも伊勢は大袈裟な仕草で溜息をついた。だが反論や弁解を探すより先に、貴広が続ける。
 「正直、つい銃口を向けたのが伊勢(お前)と判別した時点で、俺は反射的に一発ぐらいは正当防衛に貰うだろうと覚悟したからな…。思わず漆黒を飛ばしかけた所で、その前に両手など挙げてくれたんだ、それは気も抜けるだろ」
 「──……」
 カップを傾ける手が寸時強張りかけたが、一口含む動作は何の支障も無く行われた。
 扉を開けた途端に向けられた銃口に、半ば呆気に取られながらも伊勢は、相手が貴広と言う事もあって半ば反射的に、抵抗の意思無しと両手を挙げていた。
 撃たれても防げる程度の重風は纏っていたが、撃たれる事は絶対に無いから取り押さえる必要も無いと、自然とそう判断したからこそそうしていた。
 だが、その足元──己の影の裡ではきっと、いつでもこの身を貫き死に至らしめる事の可能な刃が潜んでいたのだ。
 漆黒。伊勢の用いる『神風』と言う人間の異能の分を超えたもの。
 貴広は伊勢に銃口など向けて寄越したし、解り易い武装として拳銃を扱うつもりでいる様だが、恐らく実際に驚異となる様な敵相手であれば、銃を撃つよりも漆黒が先に動いている。
 あらゆる手順や法則を無視してでも、漆黒と呼ばれるそれは貴広の本能の侭に『動いて』いる。
 伊勢が自らの防衛圏として自信を持つ、対戦車砲ですら防ぐ大気圧の壁であっても、それは容易く通り抜ける。気取らせる事もなく。影の様に闇の様に水の様に静かに洌く。
 「……ではやはり、ホールドアップで正解だったと言う事でしょう」
 「ん?」
 紅茶を啜りながら顔を起こした貴広にそっと笑いかけて伊勢はかぶりを振る。
 抵抗の意思は無し。
 命をその手の裡に握られながらも。銃口の向こうの顔が少し驚いた様な表情を作りながら、その無意識下では殺意に辛うじて至らなかっただけの、致命の刃を向けていたのだとしても。
 「抵抗の意思は無いと言う雄弁な行為です。反射的な正当防衛が可能な状況であったとしても、私が隊長(あなた)を害する様な真似をする事は有り得ませんので」
 真顔でそう断じる伊勢の顔を、貴広は暫くの間呆れとも驚きともつかない表情で見ていたが、何かを言うでもなく紅茶を最後まで干してから、漸く口を開いた。
 「…お代わり。次はもう少し濃い目で頼む」
 「はい」
 微笑んで頷いて、立ち上がる。言われたのは全く関係のない様な要求であったが、それこそ彼の人にとっての是と言う意味に他ならないのだと、伊勢には解っていた。
 PIXIESと言う特殊な環境下での共有意識や仲間としての連帯感とは無関係に、伊勢はただひとりの人間として神埼貴広に仕え使われ添う事を選んだのだし、それはこれからもずっと変わらない己の意思であると言う確信はある。
 だから、仮に貴広の漆黒の刃が己が身を貫いたとしても、それでいい。それが貴広の意思によって成された事であるのであれば、それでいい。伊勢は黙って両手を挙げて微笑んでそれに応じるだろう。
 
 ──己を、恐らく唯一殺す事の出来る『人間』はひとりでいい。





所長が何処からともなく取り出す骨董品的な銃は、喪失後にこっそり入手した武装なんだろうなあとは思うのですが、一般的とは言えない様なマテバとか選んでる辺り、火器にこだわりを持つ程の趣味があるのかも知れないなぁ…?
…と言う事で、隊長現役時代も銃は好きで持ち歩いている妄想。
神風双子は火器とか邪魔なので絶対持ち歩かない派。ただ取り扱い方法やスペックとかは頭にがっつり入っている。


蝶が羽ばたいた瞬間。後に嵐となった風が途絶える。

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