蝶ノ森 ※10年前PIXIES妄想と貴広過去捏造です。 ========================= 気配の接近をぼんやりとした意識の端で感じる。床を踏む足音、揺れる空気、衣擦れ、呼吸。未だ眠った侭の意識が、微睡みの外を近づく存在に対して注意を促しているのを感じてはいたが、貴広は目を閉ざした侭に睡眠を続ける事を選んだ。蟲か蛹の様に身を丸めて、抱えた枕に深く頭を沈める。 寝台は余り慣れがなくともそれなりの価格のもので、寝心地は抜群だ。わざわざ社員寮から出てこの私宅に休みに来る意図があるのだから、快適さを重視して選んでいる。寝室に他に大した家具も無いから、サイズも不必要な程に大きい。 然し幾ら己の所有する私宅の、寝心地に拘った寝室とは言え、平和ボケしていて良い理由にはならない。貴広の命を狙うものはカンパニー内外に数え切れない程に存在しているのだし、どんな場所であれど、近づく人間の気配など掴んだのであれば、惰眠を貪り続けるのは致命的な間違いと言えよう。 だが、そこまで理解をしていながらも貴広の体は己のもう真横にまで接近した気配に対して何のアクションも取ろうとはしてくれなかった。重火器ならば必中確殺可能な距離で、刃物や薬物であっても容易に事を成せる間合い。パーソナルスペースに完全に入り込んだ気配に対しても頓着する気が起きない。 詰まる所、貴広は、危機意識よりも睡眠と言う本能を選んだ。危険の確たるものを掴んでいた訳ではないからと己に言い訳し、現を拒絶し夢の様な心地に微睡む己を選んでいた。 横伏して抱えた枕に半分埋まっていた頬に何かが近づいた。蝶の立てた翅音の様に僅かにだけ空気を揺らすのは腕──否、手。指だ。人間の、指。それが頬にかかった長めの髪をやさしい手付きで退ける。爪の先でさえ膚には直接触れぬ様にぎりぎりの所を辿る手の慎重な動作からは、体温こそ感じれど不快感も危機感も湧きはしない。 意識がこうして微睡みの表層にある以上は、厳密には未だ眠っているとは言えないのだろうが、目を閉じてうつらうつらと微睡んでいる感覚が心地良くて、貴広は気配の主の好きにさせておく事を消極的に選んだ。 貴広のそんな意識を悟っていた訳ではなかろうが、咎めたり起きる様子は無いとは解ったのか、気配は暫くの間そこで同じ様な動作を繰り返していた。やがて、微睡みの現から夢の底へ再び貴広が落ちかかった頃、髪を丁寧に除けられて覗いた耳に、ぎし、と寝台の軋む僅かの音をさせながら、静かな息遣いが迫った。 (ああ、これは起きなければならないやつだ…) 直感的にそう思うが、重たい目蓋は開く事を拒む様に閉ざされた侭だ。夢と現との狭間に在る筈の耳元に、温かい体温と呼吸音を感じる。擽ったいが微睡みの中では妙に心地よい。 「隊長」 ささやかな呼気と共に送り込まれたのは、静かであったがはっきりとした声音であった。危機感は依然として無い。だが、目の前で蝶の羽が風を打った様に、ごく自然に押し出される様にしてあれだけ重たかった目蓋がすっと自然に開いた。 明瞭ではない視界に意識だけが妙にクリアに働いている。現と言う世界を認識しながら憶える倦怠と落胆に似たものが、夢と微睡みの向こうに押し流されていく。 頭部を動かそうと身じろぐと、再び寝台の軋む音をさせながら、耳元すぐ近くにあった息遣いと気配とが遠ざかった。追う様に貴広が枕の上で顔を上に向けると、そこには見慣れた部下の顔がある。 「…伊勢」 「はい。おはようございます」 「ああ…」 目が合うなり笑みを深めてみせた気のする顔を見上げて、貴広は怠い目元を揉んだ。眼球がごろごろする様な違和感に数度瞬きをして、それから、寝台に腰掛けている伊勢の姿から視線を外した。見回す様に眼球を動かしてみせるが、そんな事をせずとも、目の前の伊勢の他に誰か人の気配がしない事は解っている。 「…五十鈴は?」 それでも自然とそう問いているのは、昨晩まで貴広のすぐ左右隣で双子が揃って眠っていた筈だと言う記憶があったからだ。 「本日は任務の予定がありましたので、早朝に出ました。隊長がよく眠っておいででしたので、起こすのは忍びないと言って」 「ちゃんと任務に出たならそれで構わん」 いってきます、の挨拶を出来なかった、と唇を尖らせているだろう五十鈴の様子が想像に易く浮かび、貴広は小さく笑った。寝転んだ侭両腕を伸ばして、怠惰に転がっていたがっている己の怠い体を叱咤しつつ上体を起こす。 眼鏡がないから時計を見る事は出来ないが、カーテンの向こうの陽光や身体の感覚からして、大凡朝早いと言える時間帯ではないだろうと判断する。昼の方が近いぐらいだろう。非番でもなければ到底許されない寝坊だ。 眠かった訳ではないが、あふ、と欠伸を噛み殺した貴広は「風呂」と一言だけ言って寝台からもそもそと這い出した。素っ裸の状態で立ち上がるともう一度伸びをして、サイドテーブルの上に置かれていた眼鏡を探る。 光に当てて見ると、レンズには大きく指紋の痕がついていた。視界には大きく邪魔になる。おまけに人の脂は落とし難い。曇った視界でものを見るのも嫌で、への字に口端が下がる。 「シャワーをお使いになっている間に拭いておきますよ」 「ん?ああ、頼む」 苦いその表情から察したのか、伸ばされた伊勢の手のひらに眼鏡を乗せると、貴広はシャワールームに向かおうと歩き出した。その背中に溜息混じりの苦笑がひとつ。 「こう、少しは羞恥心と言うか…、」 言われて、貴広は素っ裸の己を見下ろした。色々と思う事はあるし解ると言えば解るのだが、今更、陽の光の下の事など素面で気にする様なものではないだろうに。 「今更恥じらいを憶える様なものでもないだろ。こそこそ隠しながら行動する方が余計恥ずかしいわ」 「………まぁ、仰りたい事は解りますが…」 「それとも何だ、初心な生娘みたいに恥じらう仕草でもする方がお前の好みか?」 寝起きの怠さと不機嫌もあって、捲し立てる様に言う貴広に、伊勢はきっぱりとした調子で「いえ」と言ってそれ以上を遮った。それ以上意味のない話を続ける気も無かった貴広もひらりと手を振ってシャワールームへと向かう。 シャワールームは伊勢と五十鈴が使ってから随分時間が経っている様で、天井から壁のタイルを伝って僅かの雫が床を湿らせていた。壁のパネルを操作して換気扇を回すと、思い切り水温を上げる。朝は少し温度の高いシャワーで寝汗を流し、低血圧気味の体にスイッチを入れるのがいつからか出来た貴広の習慣だ。 頭から一気に被る熱いお湯で、換気扇を回している筈のシャワールームも忽ちに白い湯気に包まれた。 そうして、のんびりと言って良い程念入りに湯を浴びて、満足の行った所でシャワーを止める。長めの髪を額から後頭部に一纏めにしながら絞ってぼたぼたと水を落とす。軽く頭を振ってから、曇り止めが効いていても単に視界不良で見難い鏡に視線を遣る。 一つ一つの動作には特に意味がある訳ではない。それは習慣的で、日常的で、何を考える事も無く自然と体の行う動作でしかない。 時間をかけて浴びた熱い湯のお陰で、既に先頃までの気怠さは綺麗に吹き飛んでいる。手を伸ばして鏡に触れると、鏡の中の自分も同じ様にしていた。表情筋にどこか倦怠を保った若い男の、然しその若さに相応しい溌剌としたものの失せた温度の無い双眸がじっと己を見つめている。それを睨む様に見ると睨み返された。 当然だ。それは鏡であって己の姿を映している。だから。 鏡に当てた手の、甲の先に映るてのひら。その向こうで細められる眼差し。己では決して見る事の叶わない己が、直ぐ其処に在る。 否、いつもそれは此処に在る。己自身と言う明確な存在として。 「……く」 子供の様な思考に口端を釣り上げれば、鏡の中の男も同じ様な表情をしていた。 そうか、自分はこんな風にわらうのか。 厭世的にシニカルに、気怠そうに、全てを拒絶する様に無味に。無意味に。 そっと鏡から手を離すと、貴広はシャワールームの戸を開けた。換気扇では排気しきれていない湯気が脱衣所にふわりと漏れ出す。 そこに柔らかなバスタオルが横から背に掛けられる。驚くでもなくちらとだけ視線を投げると、伊勢の姿が在った。果たしていつからそこで待っていたのか、シャワーの止まる音を聞きつけて来たのか、それとも偶然のタイミングか。 (まあ偶然と言う事は無いか…) 水滴を垂らした侭に、タオルを探して部屋を歩き回る貴広の姿は恐らく伊勢の想像には易かったのだろう。前例も何度かあったかも知れない。 タオルが何処にあったかなど特に考えもしていなかった貴広は「ん」と軽く頷いて、掛けられたそれを使って湿った体を拭った。 「お着替え、ここに置いておきます」 「ああ」 そう言って静かに脱衣所を出て歩いて行く伊勢の気配を、閉じた扉の向こうに感じながら、貴広は置かれた服を見た。綺麗に畳まれたシャツはまるでクリーニングに出された後の様で、上に乗せられている眼鏡も綺麗に掃除されていた。電灯に透かして見ても先程までくっきりと残っていた指紋や汚れは見て取れない。 着替えて眼鏡をかけた貴広は、脱衣所の中にある洗面台の前に向かうとドライヤーを手に取った。櫛を使って髪を整えながら緩やかな温風でしっかりと湿り気を取る。 貴広の髪は全体的に少し長めで、癖はなく整え易い。情報部の人間として出来るだけ体に余計な匂いを付けない事が身についている為、普段は整髪料の類は一切使わない。 東洋の人間ではまず天然には存在しない、殆ど白髪に近い薄い色彩の銀髪と言う風貌だが、潜入などに際しても貴広が髪を染める事はほぼない。あらゆる技術が進んだこの時代、染料などを使わずとも毛髪の色ぐらい色素改変が手軽に出来る薬物や施術もある為、銀髪の東洋人だって珍しくも無いのである。少し街を歩けば変わった髪色や髪型の人間など吐いて捨てる程に居る。 己を作り変えるが如き所業も、カンパニーの生んだ一つの文化だ。行き過ぎた娯楽の提供が、蟲から蝶の様にして自己の変身と変革を求める欲に繋がり、果ては人はその思い込みで人格をも変えるに至った。 例えば、制服を身に着けたり、軍服を纏うのと同じ。気が引き締まると言った簡素なものから、集団的秩序に基づいた自己暗示の類。それを簡略化させた一つが『自己の外見変化』だったのだ。 カンパニーの作り上げた管理社会下で、自由を謳歌している様に思えるその所業は人を容易く騙した。厳しい法で縛るばかりではなく、逆に、自由にさせる事で不自由を感じなくさせたのである。 個性を増やす事こそが無個性となったのだと、気付く事も無い侭。 羽ばたく事をも忘れた事すら気付かせない、ひしめく群れの世界。きっとその中のひとつでしかなく大差もない己と言う存在。 非番の遅い朝とは言え、こうして着替えて身形を整えているだけで、いつものルーチンをこなす出勤前の様な気持ちになって仕舞いそうになるのがその証左の様なものだ。 全く、人とはとかく単純なものだと思った所で埒もない思考を打ち切って、貴広はドライヤーのスイッチを切った。鏡の中の自分が皮肉気な視線を投げて来ているのから目を逸してリビングへと戻る。 香ばしい香りの漂うダイニングを横目にソファに腰を下ろすと、用意出来ていたのか、すかさずに伊勢がローテーブルの上にコーヒーを置いた。軽く礼を言って、まだ熱いそれを啜ると自然と溜息が押し出される。 「先程、デリバリーでお食事を注文しましたので、直に届くと思います。サンドイッチで宜しかったですか?」 言いながら向かいに腰を下ろす伊勢をちらと見れば、念を押すと言うよりは問いかける様な表情が確かにそこには在ったが、他に意見がある訳でもなかったので、貴広は「ああ」と頷いてまたコーヒーを啜った。 「……お前は、と言うかお前たちは、か。俺の事をよく解っているよな」 何事に於いても気の回しが良すぎる。伊勢も五十鈴も、貴広自身よりも神崎貴広と言う人間の事を把握しているのではないだろうか。 思ってそう口にすれば、伊勢は得意気でもなく謙遜するでもなく、 「そう、見えますか」 と小さく、棘を飲み込んだ様に苦く笑ってみせた。 「……」 何か含みのある調子だと思ったが、真っ向からそれを問えば絡み調子になって仕舞いそうな気がして、貴広は言葉を他に探して口を噤んだ。それとほぼ同時にインターフォンが鳴って伊勢が静かに立ち上がる。恐らくデリバリーとやらが届いたのだろう。 この高層マンションはセキュリティがしっかりとされており、宅配の類はフロントのコンシェルジュを務めるアンドロイドが運んで来る。アンドロイドの搭載しているセンサーで、危険物の類はチェックされてそもそも通されない様になっている。 それでも警戒の気配を保った伊勢が玄関に向かうのを見送った貴広はふと、ここに至るまでの今日の時間が、自分ひとりであったらどうだっただろうと考えた。 食事を面倒がった所で空腹は避けられないから、矢張りデリバリーを選んだろうか。それともまた風呂上がりにタオルを探して濡れた体でうろうろしていただろうか。否、それ以前にきっとまだ眠りからすら醒めていなかったのではないだろうか。現に引き戻されそうな心地よい微睡みすらなく、夢の底を無為に揺蕩っていたに違いない。 受け取った品にも手続きにも問題なかったのか、殆ど時間をかけず伊勢が戻って来て、配達された紙袋から取り出した食品をテーブルの上へと手早く拡げていく。注文したのは多人数用のサンドイッチだったらしく、様々な具材を挟んだ小ぶりなサイズのものが均等に並んでいた。 開かれたパッケージの中、貴広は己の好みそうな具材のものがこちらの手前になる様にさりげなく向けられている事に気付いて小さく唸る。 賢しいと言うか聡いと言うか気が効くと言うか。伊勢は余りに自然にそうする。五十鈴ならば少し恩を着せる様な、そうしているのだと貴広に気づかせる様な仕草や言動を態とらしくする事があるが、同じ所業であれど伊勢がそう言った主張をする事は殆どと言って良い程に無い。 (…或いは、俺に気付かせない事が、伊勢の矜持の様なものなのかも知れんが…、さて…) 確信かどうかも解らないそれを、然し問うのも馬鹿馬鹿しい。貴広は手を伸ばすと、伊勢が手前に向けた、己の好む具材のサンドイッチを違えず手に取った。いただきますと口にして食べ始める。 体を明け渡して眠り、近づく気配を感じながら微睡みを楽しんで、起こされ目を開いて、いつも通りにシャワーを浴びて、用意されたタオルと衣服とを受け取って、身形を整えて、コーヒーを供されて、食事も与えられている。 貴広は別段に怠惰を好む性格ではないが、義務以外の事には余り頓着はしない。今日は非番となればいつまでも惰眠を貪っていても構わないと消極的な選択でそうしていただろう。 「そうか」と、やがて貴広は小さく呟いた。 「お前たちが解っている、と言うより、俺が他には選択肢を持たないだけか…」 伊勢や五十鈴が貴広の事を知悉しているのは事実だ。だがそれ以上に、彼らの提案や行動に貴広が沿わないと言う事がそう滅多にはないと言うだけの事。 起こされるのならばそのタイミングで起きる。タオルの世話を嫌う事はないし、着替えに文句を言う程に拘りがある訳でもない。コーヒーではなく紅茶の気分だと言った事も食事はパンよりご飯だと主張した事もない。 貴広が素っ裸で風呂場に向かった事にしか伊勢は難色を示さなかった。逆に言えば精々あったのはその程度だ。 「…貴方の意を曲げない程度に、読み取れる所は読み、弁えているつもりでしたが…、出過ぎた真似であったら申し訳ありません」 貴広の淡々とした言葉に、伊勢は少し困った様な様子でそう言って頭を下げた。見えていたかは解らないが、貴広は静かにかぶりを振る。 「意も何も、俺にはきっと己でそうと断言出来る程に明確な『個』が在る訳ではないのだろ」 記憶の始まりは養成所での生活で、そこでは仕込まれた技能以外の思い出などと言うものは殆ど無い。優秀だと褒められ、畏れられて、PIXIESの隊長に就任して──ただただ何もかも解らず登らされた蟲はその途に意味や理由を求めた事も無かったし、今もそれは殆ど変わっていない。 己にも人格と言うものが、『個』で在る確証は在るのだろうと思うが、それをはっきり『我』と理解するには至っていない。そもそもにして情報部では、個々のイデオロギーは疎か、好みでさえも本来持つ事は望まれていないのだ。 感情の無いエージェントたれと。カンパニーの命令に忠実な道具たれと。そう徹底的に叩き込まれた人間は、それにそぐわぬ事以外の事物に容易く色を変える事が出来る。 例えば、スパイとして『個』を持たずその都度違う者となる事。 例えば、昨日まで仲間だった人間や恋人だった者、組織を裏切った戦友を何の痛痒もなく処分出来る事。 貴広にとっては何れも得意とする所であった。そんな様をして、人間的な感情が一切無い者と評される事もある程に。 伊勢は、それで貴広が何かを感じると案じていたのか。だから「そう、見えますか」と困った様に返したのか。肯定も否定も出来ずにただ頭を下げたのか。 それは部下としての気遣いなのだろうと思う。貴広は己で思う以上に己の事を知り得ていない。だからこそ差し出がましくもなれず、ただ受容するだけの姿に思う所があったのだろう。 「……『荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり』」 貴広が静かにそう諳んじると、伊勢は眼鏡の向こうの瞳を和ませる様に細めた。 「『俄にして覚むれば、則ち遽々然として周なり』………胡蝶は夢であれど荘周であり、どちらも本質的には同じものと言う話でしょう。貴方がただの神崎貴広であるのか、PIXIES隊長の神崎貴広であるのか、それを我々は問いませんし選びもしません」 諳んじた説話の続きを引き取って、付け足す様に言う言葉に明確な意志を乗せて言い切る伊勢に、貴広は「だろうな」と頷いた。 伊勢と、五十鈴なら。部下の中でも彼らならば、きっとそう言うのだろう。 幹部養成所を出た貴広に、ほぼ直ぐに与えられた役割が『これ』だった。仕事も任務もこなせる様育てられた身ではあったが、部下を率いて、部下に慕われて、『隊長』で在る事については何も知らない。己と言う人間がどう在るべきなのか、どう彼らと生きて行けば良いのかが、解らない。 「…正直を言うと、今でもよく解らない。いや、今になって解らなくなって来たと言うべきかな…。望まれはするが求められはしない。こう在れと誰も鋳型を与えても呉れない。だから、こう在るべきなのかと思わなければならない筈のビジョンが解らない」 吐き出す様に紡ぐと、貴広は好みだったと思われる具材の挟まったサンドイッチを噛み砕いて、飲み込んだ。この具材が本当に好きだったのか、どうでもいいのか、好きだろうと思われてこちらに置かれたからなのか。そんな簡単だろう事すらもよく解らない。 そうされたから。そうして呉れたから。そこに明確な己への、好意に値するのだろう感情があるから。疑わないし、警戒もしないし、信頼を寄せる事の出来る心地よさだけを貪欲に享受している。 「そうしてどんどん、俺は俺と言う『個』を知っていって仕舞う。自我と言う我儘を憶えて行く。疑問を抱く。鏡の中の己に倦怠を見出す。ただただ、お前たちの呉れるものに安堵し、蛹になれぬ蟲の身でありながら胡蝶の夢に浸るのを好む」 くく、と貴広は喉奥を鳴らしてみせた。今の己は、先頃鏡の向こうに見た様に、厭世的にシニカルに、気怠そうに、全てを拒絶する様に無味に、無意味に、わらっているのだろうか。 「良い歳にもなって。自分が解らないなど、笑えて来るだろ?」 自嘲を感じながらそう言えば、伊勢は「いいえ」と静かに、しかしはっきりと断じた。貴広は、お前たちならそう言うだろうよ、と心の中でそう返して、コーヒーをひとくち含んだ。自分から切り出しておいて何だが、まるで幼子の様な、愚痴にもならない言い種だったと思えて来て、そこで会話を打ち切るつもりでいた。 然し伊勢はそっと立ち上がると、貴広の座るソファの前に回り込んで来て、そこに膝をついた。見上げる犬の様な目線だと言うのに、逆に親か何かが自分を優しく見下ろしている様な錯覚を憶えて貴広は居心地悪く身じろぐ。 伊勢は、酷く深刻な表情を浮かべてはいたが、そこには明確な温度がある。そして、それを優しさ──或いは思い遣りの類と判じる事が叶う程度には、貴広は部下の、常に穏やかな表情を刻んでいる面相を見慣れていた。 否、或いは態度からか。動作からか。伊勢の立ち姿の何処からそれを感じ取っているのか、具体的には説明など出来そうも無かったが、不思議と生じた確信に疑いは無い。 「貴方が、我々の隊長であれどただの神崎貴広であれど同じと、そう言いましたよね。仰る通りに貴方の裡で『個』は段々と形成されているのでしょう。それは我々がどう在れと強制する事とは異なりますし、どう在るべきと言う正解も存在していません。貴方が貴方で在る事。貴方が在ろうとせずとも自然と在った、在る筈だった事物こそが本質であって、我々の尊重する事です」 「………」 「お嫌と思われるならばどうぞ何なりと。コーヒーより紅茶が良い、でも、卵よりハムが好きだ、でも。たとえ意を叶えられずとも、仰る事そのものに意味があるのだと、それだけは憶えていて下さい」 ふ、と優しく微笑んでみせると、伊勢は貴広の手を恭しい仕草で取った。ちらりと見上げる視線は、たった今口にした言葉通りに、嫌ならば言えと言う問いなのだろう。 「……」 貴広は──少し目を細めはしたが、何も言わなかった。ただ、取られた手の力を少し抜いた。 応じる様に、伊勢は貴広を微睡みから起こした時と同じ様にして、夢と現との狭間に語りかける様な吐息を漏らした。手の甲に温かい体温と呼吸音を感じる。 形骸化された儀式めいた仕草であった。手の甲、皮膚に唇が僅かだけ触れて離れる。その仕草にも行為にも明確な意味はない。だが、示す所は解った気がして、貴広は放された手をもう片手でそっと覆う様にした。 「お前たちはそうやって、俺を甘やかすだろ。困ったことに今の俺は、それが心地良いし、悪いものと判断出来そうにはないんだ」 それはカンパニーの望んだ、兵士であって駒であるべき神崎貴広の姿とはかけ離れているものだろう。貴広はカンパニーを信奉しては居ないが、己の在る様に育てられた在るべき場所なのだろうと、ごく自然にそう思ってはいる。蟲如きの身だ、それを誤りと思う程には他の世界を知らなさすぎる故に。 知る日が来るのか、そう気付く時が来るのか。今は未だ何ひとつ解りそうもないが。 「…胡蝶のひしめく世界で。羽ばたきも出来ない混擬土の森で、醒めてそこに何を見ようか」 謳う様に紡いだ問い未満の言葉に、伊勢はただ静かに微笑んでみせた。 「何でも。何なりと」 迷いも躊躇いも無い言葉は、囁かれる愛より余程に確たる真実であったのやも知れない。 「そうか」とだけ言うと、貴広は己の裡にずっと蟠り続けている倦怠の侭に小さくわらった。 「…では、食事が終わったら二度寝をしよう。正直、起きるのにはまだ億劫だった」 「……それは。お休みを妨げて仕舞い申し訳ありませんでした」 得意気に言う事でも無かっただろうに、伊勢も小さく笑ってそれに応じる。咎められるのにも似た、そんな事が嬉しいなど、どうかしているとしか思えないのに。それでも彼は満足そうにしている。 「何時頃に起こしましょうか?」 「いや。どうせ夕刻には五十鈴も戻って来るのだろ。その時になれば嫌でも目が覚めそうだ」 五十鈴の事だ、上がり込むなり貴広の元に真っ先に来るのは目に見えている。その時貴広が夢の中に居ようが、彼は構わず来るだろう。起こすつもりが無くとも勝手に添い寝ぐらいしかねない。 「何でしたら咎めましょうか?」 それが迷惑なら制止すると、伊勢はそう言ってみせるが、貴広は「構わない」とかぶりを振った。随分と温い温度になったコーヒーカップを両手で挟んで持つ。慣れた気遣いを享受するにも慣れきって、時折忘れそうになるのは、きっと一部ではこの双子の甲斐甲斐しい性分も原因の一端なのだろうから、時々は快適さの無さに顔を顰めるぐらいで丁度良いのだろう。 「きっと、目を覚ますにも丁度良い頃になっているだろ」 言って口に含んだ温いコーヒーを旨いなどと感じて。それが朧気な自我の見出した僅かの徴であるのだろう事に、戸惑いながらも飲み下していく。 人間は環境に飲まれ、負けて、克服して、保とうと足掻く。一匹の蟲であったか、蝶か夢か、己の本質を探して迷う。それを繰り返して己の形質を定義して識って行く。手探りで歩く子供の様に、少しずつ。時間をかけて。 きっと貴広は、慣れるまでの時間が長すぎたのだ。 自分だけがずっと、そこに足を止めた侭時間の流れるのをただ俯瞰している──そんな感覚が貴広の裡に常に付き纏って離れない。気付けばそれは何か酷く疲れた様に、重たい倦怠を呼び起こす。 幼少期と言う、己を鋳型を形成しただろう時期の記憶の無さ、そこからの空虚な教育の時間が余計にそれを増長させて来たのか。それは貴広自身にはきっと判らない事だが。 * 神崎貴広の記憶の始まりは──彼の知覚している範囲での人生最初の記憶は、カンパニーの養成所だった。 世界の終わりと呼ばれた日から十三年。 貴広の人生は、貴広自身に一切の決定権を与えられない侭に定められた。 記憶の中の、十三歳頃の彼の眼の前にあった光景は、殺風景な施設の壁と天井だった。 「今日からここが君たちの『家』であり学び舎だ」 軍人に似た服装の男にそう言われてはじめて、貴広はその光景を記憶として得た。それ以前の事は断片的ではっきりとせず、自分がどうやって生きて、どうやってここに連れて来られたのかすら定かでは無かった。 だがそれに疑問も、反論も、不満も。何も浮かぶ事は無かった。ただ、そうなのか、と言う理解があっただけだった。 そうして一緒に孤児院から連れて来られたと言う、同じ様な境遇で似た様な年頃の『仲間』たちと共に、その施設での生活は始まった。 彼らはJesus and Mary Chain以降増加した身寄りの無い子供らで、各地の孤児院から集められたと言う。貴広もその一人と教えられていたが、記憶は無いし家族を喪ったと言う実感も全く無かったしどうでも良かった。 己に在ったのは己を表す『名前』だけ。それでも不自由は無かった。 子供らは四人一組で一つの部屋に押し込められて暮らし、十二人が一纏めのチームとして訓練を受けさせられた。他にも同じ様な部屋が施設にはあったから、貴広を含めた十二人以外の他の十二人も居た筈なのだが、他の子供らに出会う事は無かった。恐らくは意図的に接触をしない様取り計らわれていたのだろう。 訓練は体育館の様な所で三名の教官に因って指導されるものだった。子供らは特殊な技能を持つ兵士として様々な教育を施された。人体の構造、壊し方、重火器やあらゆる武器のカタログスペックと使用方法、電子機器の扱い、諜報と情報を駆使する術。時には座学も含めてただ日々ひたすらに、他の事を考える余地もなく、技能と知識だけが詰め込まれていった。 貴広も、他の子供らも、何の疑問も抱かずそれを受け入れていっていた。 中には訓練の途中で運悪く『いなくなる』子供も居たが、誰もそれを気に留める事は無かった。 徹底的に教え込まれた、生と死と言う二つの価値観。それしか選択肢の無い世界に於いては、疑問を抱く事すら無意味だったのだろう。それを子供らは皆どこかで理解していたのだ。 無論子供たちの中には感情豊かな者も居た。狭い世界の中で自然と打ち解けて、仲間の様な共同体を構築する者らも居た。貴広は無口で物静かな質で、自らリーダーシップを取りに行くタイプではなかったが、チームの中でも頭ひとつ抜けた成績を見せていたのもあって、自然と他の者に頼られたり慕われたりする事も多くなっていった。逆に、得体の知れない漆黒の能力もあって畏れられる事もあったが。 ある時、貴広は廊下で会った教官の一人に一振りのナイフを手渡された。 訓練に使う武器は弾薬一発、針や糸一本であろうが、子供らの持ち出しは厳禁とされている。 意図を掴みかねる貴広に、教官は声を潜めるでもなく言った。 「君の漆黒の力は一切使わず、同じ部屋の子供たちをそれで殺しなさい」 ──と。 何故、と。疑問は浮かんだが、貴広は問い返さなかった。拒否もしなかった。 同室の子供らに恨みや蔑みや嫌悪があった訳ではない。 ただ、それが『命令』なのだと認識したから。それ以上を考える必要は無いのだと、そう教育されて来たから。 黙ってナイフを受け取って、袖の内に隠して部屋へと戻った。 貴広の寝床は小さな部屋に二つずつ据え付けられた二段ベッドの片方の下段だ。同室の子供らには貴広より体格も体重もある子供も居た。彼らも自分と同じ様に訓練を受けているのだから、真っ向から向かった所で勝ち目などない。己の異能である黒い漆黒の刃を扱えば易いだろうが、それは使うなと言われた。 貴広は子供らが寝静まる夜中まで待った。怪しまれる事がない様に普通に会話をして、普通に食事をして、普通に消灯の時間に寝床に潜り込んで、待った。 三人の子供らの呼吸音が寝息に変わった頃、貴広はナイフを片手に寝台を抜け出した。まずは向かいの、下段の寝台に眠る子供の元に無音で近づく。 貴広より少し年上の彼は、仰向けで無防備に眠っていた。暑かったのか、毛布を随分と下げていた。 カンパニー籍を取ったら、いつか生き別れた両親に会いに行くのだと彼はよく話していた。 恐らくそれだけが、彼がこの過酷な訓練施設で生き延びる為の原動力であって、目的だったのだろう。 有り体に言えば『夢がある』と言う事だ。 貴広は順手にナイフを持った。背後から頸を取れれば逆手の方が斬り易いが、よもや抱え起こす訳にはいかない。正面ならばこの方が良い。誰にも見つかってはならないのであれば返り血の事も考える必要があるが、見つかるつもりがないのならば考えるだけ無駄だ。 残りは二人も居て、うち一人は貴広より小柄だが、もう一人は体格も良く力も強い。事が露見した後にそんな二人をナイフ一本で相手取るのは困難だろう。 だから、『任務』は静かに素早く。誰にも気取られず。 緊張は無かった。躊躇いも。罪悪感ですら。 貴広はたぐまった毛布を素早く捲ると、眼下で眠る子供の頸深くに刃を滑り込ませて横に裂いた。声を出せない程に出来るだけ深く、然し刃毀れを防ぐべく骨には当てない様に。 切断面が直線且つ綺麗だと瞬間的な癒着が起きて、絶命までに時間がかかる事がある。だから貴広は、一文字に裂いた所で素早く手を翻した。返す刃で斜めにくり抜く様にして肉を切り裂いて抉る。 「──」 同時に、反射的に暴れようとする子供の足を、捲った毛布で素早く巻いて押さえる。空気が肺から漏れる音と溢れる血とがごぽごぽと水音を立てた。子供は自由な両腕で傷を探ろうとしたのか、咄嗟に押さえようとしたのか、単に痛みを知覚した事に寄る本能的で反射的な動きだったのか。細い三日月の様に削がれた自らの血まみれの頸に手を伸ばし無意味に藻掻いている。 幾ら特殊な訓練を日々受けさせられていたとして、突然の死を前に出来る事などきっと少ないのだろうと貴広は思った。 物音か気配でも感じたのか、上の寝台で寝返りを打つ音がして、貴広は素早く次の行動に移る事にした。一人の絶命を待っていても仕様がない。リスクが生じたならば早めに排除するべきだと、脳が冷静に思考を紡いでいく。 音を立てずに梯子を登ると、貴広より小柄な子供が目を瞬かせながらこちらを見た。気配には敏感だった様だが、真っ暗闇の中で何が起きているのかまでは把握するに至らなかったのか。灯りが点いていれば、貴広の体に返り血を認める事ぐらいは出来たかも知れなかったが。 貴広は彼の目が暗闇に慣れるより先に、何か用でもあるのかと上体をのろのろ起こした子供の、頭の下にあった枕を掴んだ。薄くなった綿の詰まったそれを彼の顔の下半分に全体重をかけて押し当てながら、口に咥えていたナイフを片手に持ち直して、違えず頸動脈を裂く。 声は防げたが下肢が暴れるのは避けられなかった。寝台のマットがばたばたと音を立てる。貴広はナイフを持ち直すと素早く向かいの寝台を見た。向かいに置かれた寝台の高さは同じだから、眠っている子供が異変に気づいて目を覚ませば、何が起きているのかの具体的な事は解らずとも、それが自らの命の危機であると気付くには容易い。 「……」 然し貴広が見遣った寝台の上段では、相変わらずすやすやと、平和な顔を晒して眠る子供の姿があった。直ぐ向かいの寝台で同室の『仲間』二人がたった今殺されても。何も気付かず。 それは或いは普通の事であるのかも知れない。日々の訓練で疲れて眠る子供らは、自分たちは子供として無意識に大人に庇護される存在なのだと己を認識していたのかも知れない。 貴広は音を殺してもうひとつの寝台へと登った。幾分聡かった二人目の子供とは違い、体格の大きな彼は、物音も血臭も疎か、貴広の接近にも全く気付く気配を見せなかった。 就学年齢になった頃に内戦で両親を失い、大きな街の孤児院で育ったと言っていた。人離れした優れた運動神経を見込まれて、孤児院からカンパニーに売られたのだと言っていた。その事自体は幼い子供の精神に何らか衝撃を与えたやも知れないが、彼は同時にこうも言っていた。優れた兵士やエージェントになったら自分を売った連中を見返してやるのだと。だから寧ろ今の境遇に喜んでいるぐらいだと。 恐らくは強がって得た、自らを守るための強い言葉と、自らを鼓舞する為の手段だったのだと思う。 反芻する事に意味などない。客観的な感想など湧かない。貴広はナイフを握るとそれまでの二回と同じ様に、頸に突き立てた刃を横に滑らせ──、 「がぼっっ!?」 脂の滑りで刃が狙いから逸れて、切っ先が骨に引っかかった。突然の激痛に身を起こした子供に突き倒されかかった貴広は、ナイフをなんとか抜くか引くかを寸時迷った。 子供は湿った咳をしながらとめどなく出血する頸を必死におさえて、なんで、とか、どうして、とか、ちくしょう、とか、いたい、とか、そう言った罵声を上げた。 ナイフから手を離した貴広は、これを放置しても死なせるには時間がかかるだろうと判じた。部屋はどこも消灯と同時に鍵がかけられて内側からでも開ける事は出来ない。幾ら死に体とは言え、自分よりも体格の勝る子供に、死を前にした自棄糞の力で抑え込まれでもしたら、下手をすると相討つ事になって仕舞うだろう。 故に、貴広の選んだ次の行動は早かった。未だ混乱の中にある彼が理性的な思考に至るより先に、獣の様に飛びついてその胸に乗り上げると、自らの腕を水平に押し付けて頸を抑え込む。 失血で動けなくなるか、脳への酸素が断たれるか、それまでの時間を稼げればいい。 傷口を乱暴に押さえられる激痛に彼は獣の様な声を上げてのたうった。苦し紛れに足をじたばたと動かすが、貴広が乗っているのは胸の上だ。蹴り上げられる位置ではない。 ぐぶ、と血の混じった泡を吹きながら、彼は己の頸を押さえつける貴広の腕を引っ掻き、頸を掴んだ。血走った目で、信じられない様な膂力で押されて、貴広の上体が仰け反る。 この侭では腕の拘束が緩んで、今度は自分がのしかかられて頸を絞められる。膠着状態は長くは続くまい。 「──……」 喉奥で息を吸って力を込めると、貴広は彼の頸に未だ刺さっていたナイフを掴んだ。頸を押さえつける腕を外すのと同時に全身の力を込めてナイフを引き抜く。 血の尾を引く刃はその尖端が折れて仕舞っていた。柄も血で濡れて滑って、少なくとも格闘での使い物にはなるまい。 獣の様な吠え声と共に、彼は貴広の頸を押さえた侭、遂にその上にのしかかった。頸からとめどなく血をこぼし、涙や洟や吐瀉物で汚れた壮絶な顔で、両手で貴広の頸を折ろうと絞め上げる。 頸動脈を的確に押さえる程の余裕は湧かなかったらしい。瞬時に意識を失えば当然自らが死ぬ。それを回避は出来たのだ。その事に安堵しつつ、貴広は抜いたナイフを振り上げ、彼の左の眼窩に無造作に突き入れた。 衝撃と激痛とに両手が解けた。その隙に貴広は素早く転がって寝台の下へと飛び降りる。頸を押さえ、目を押さえ、彼は言葉にならない言葉で喚いて、助けを乞う様に泣き叫んでいた。 (…こう言う時は、相手が絶命するか抵抗力が失せるまで手を離すなって習っただろ) 意識にそんな思考が浮かんで流れる。少なくとも自分ならばそうしていた。そうなると思って、次は右眼窩を指で抉る想定もしていた。 だが、貴広の想像通りにはならなかった。理解出来ない事態に、眼の前に唯一置かれていた標的が消えた事で、彼は生存の為の必死の抗いよりも、誰かが、何かが、助けに来るだろうと言う、消極的な生存の可能性へと思考を変化させたのだ。 「……」 助けなど来ない。連帯を重んじる普通の兵隊であれば救助か否かの判断は極めて合理的ではあるが、何れかが確実になされる。戦場の只中であれば救助が見込めないと考えるのは当然だが、ここは住み慣れた『家』なのだ。当たり前の様に誰かが来ると、助けて貰えるのだと、そう思ったのだろう。 弱々しく呻く彼にもう戦意も抵抗も無いと見て取った貴広はゆっくりと立ち上がると、自分の寝台の柵に掛けてあったタオルを手に取った。どの部屋にもある洗面所に向かうと、暗闇の中で血に濡れた顔を洗う。 そうする間に、泣く声、呻く様な声は段々と小さくなってやがて消えていった。貴広は暗闇の中で鏡の中の己をじっと観察し、腕や顔や髪についた血が粗方洗い流せた事を確認してからタオルで水気を拭って室内へと戻った。 嘘の様に夜は静かな侭で、小さな部屋に響いていた寝息が絶えた事以外には何も変化がない様にも思える。 血腥く汚れた寝巻きを見下ろして、これで眠る気にはなれないな、と貴広が考えていると、ノックもなく扉が開き、そこにはナイフを渡したあの教官が立っていた。 彼は、ただ一人立っている貴広を見て、残る三人の容態を確認せずとも、きっと事は成せたのだろうと確信したのだろう。口を三日月の形にして笑み、「よく出来たね。良い子だ」と言って、まだ湿る貴広の頭を撫でて寄越した。 ナイフを、備品を損傷して仕舞ったと貴広が謝罪すると、教官はますます満足そうに笑った。 翌日には貴広は別の部屋に移され、周りも別のチームに変わった。そしてまた以前と変わらない、訓練の日々が始まったのだった。 後で知った事だったが、その時の子供たちもまた、貴広があの晩したのと同じ様な『試験』を越えて生き延びた者たちだったと言う。 そうやって、最初は二百人居た子供たちは少しずつ人数を減らし、煮詰められ、正しく『優秀』な者たちが自然と生き延びて残っていく事となった。 疑心や恐怖で子供たちは個の生存に執着する様になり、少しでも、親しくなった者を殺める事に躊躇えば自分が逆に殺されると言う現実を受け入れていった。 疲弊の余りに心を閉ざす者、享楽的な振る舞いをする者、愛想良く振る舞って狡猾に立ち回る者。子供たちは成長の都度に少しずつ、その身も精神も、カンパニーの望んだ通りのただの武器の一振りの様に研ぎ澄まされていく。 その中で、貴広だけは全く変わらなかった。無論、仲間の死を、裏切りめいた行為を、悲しい事だと思う程度の情緒ぐらいは持ち合わせていたが、ただ、何があっても動じずに変わらずに居た。 それこそが、誰よりも、何よりも、命を奪う為の武器であって備品である事──カンパニーの望む人材として相応しかったのだろうと、貴広がそう気付いたのは、養成所をたった一人で卒業し、同じ様な方法で集められた者ら──特殊情報課伊部隊『PIXIES』と名付けられた組織に共に属する事になる彼らと、引き合わされてからの事だった。 蠱毒とはよく言ったものだった。一つ所に詰められた蟲たちは互いを食い合い、羽化する事も知らない侭に狭い世界に放たれたのだ。 少しずつ人数を減らしていったあの子供たちは、大人になる頃には貴広ひとりしか残らなかった。 壺の毒を飲み干して生き延びた蟲は、蝶の夢を見るだろうか。 蛹になれなかった蟲は、どろどろに溶けてその鋳型を自ら作る事が出来るのだろうか。 寝台に身を丸めて潜り込んで、貴広はまた心地良い微睡みの中で今日も、己を包むだけの優しい蝶の羽ばたきをすぐ横に感じながら、自らが蝶になった夢を見続ける。 「人より殺しはうまかったが」 「俺みたいな、無害な人間にすら、異常な危機感を覚えたりする」 「俺はその程度の悲劇には慣れ過ぎている」 「自ら出向く」と、本部長の暗殺。 「殺しはしない…貴様たちにその価値はない…」 「人間らしい感情なんてないようなやつだった」 「幾人もの命を平然と奪う」 ……これらのワードをもちゃもちゃ集めてたら、貴広の消された幼少期に一気にひとごろしの技能を詰め込まれた養成所の生活を経る間って、とても真っ当な情緒なんて形成出来てないんじゃないかなあって…。 それでも十年後には感情剥き出しの子供みたいな態度も取れる様になる。理性的な仮面を被ってみせながらも感情が優先する。漸く生まれた様に。 …言うて本質は変わってないから、自分の感情を解っていないし、平穏を害する者を躊躇いなく排除出来るんですけどね…。 変体は成長と変身の象徴であって、蝶は夢を揺蕩う。欲張りセットし過ぎました…。 ※遽々然は原文の字が機種依存になる為異字体にて。 『凍える羽を月に翳し 必死に震わす 安らかな場所を探しているの』。 ↑ : |