人も永遠に幾何学する ※10年前PIXIES妄想と、ナーサリークライムが世界の終わり(ゲーム的にエンディング)から無限ループしてる妄想です。 ========================= 闇の中に酷いノイズが走る。 ざざ、と断続的に不明瞭にぶれる視界の中で、妙にはっきりとその色だけが見えた。 紅。そして、黒──漆黒。 二色の色彩がそこに描いた像は、なにかの残骸であった。 それが、闇の色に貫かれる度、紅の色が弾ける。 恐らくそれはもう死んでいる。残骸と言う言葉の通りに、既に生命活動を喪失して斃れている。 然し闇は猶もそれを貫いた。二度とそれが起き上がる事が無い様に。執拗に。殺しきった。 殺しきる。猶も。壊しきる。その有様だけが描かれていく。 「──」 睥睨して、貴広は息を呑む。 何故、と問いかける、骸の眼に晒されて、声にもならない衝撃が喉を裂いていった。 * 「──ッ!!」 溺れていた泥の中から漸く這い上がった様な感覚であった。跳ねる様にして上体を勢いよく起こした貴広は、酷い息苦しさと頭痛との中で、全力疾走の後の様に脈打つ己の心臓の音と荒い呼気とを茫然と聞いていた。 触れた髪は汗に濡れ、背も冷たい汗が伝い落ちている。発汗していると言うのに熱は奇妙な程に感じられず、そればかりか冷えた石でも飲み込んで仕舞った様に腹の底が冷たく重たい。 鼓動が跳ねる侭に貴広は忙しなく辺りを見回した、吸った息が上手く吐けない。酸欠に似た心地に眩暈がする。 (夢、) ぐらぐらと揺れる視界で、この薄暗い部屋が、情報部の居住棟にある己の部屋であると時間をかけて咀嚼して、それから漸くそんな言葉が意識に落ちて来る。 (夢…) まだ夜明けには少し早い時刻。汗と、鼓動。シーツを鷲掴みにして強張った己の手。どうやら相当に酷い悪夢でも見て仕舞ったらしいと判断して、貴広はのろのろと、痛む頭を探る様に額に手を当てた。 夢。悪夢。夢見が悪い。ゆっくりとそう推定事実の羅列を己に言い聞かせた所で、脳裏に先頃見た画が蘇った。 血と、骸。黒い、漆黒の刃に殺されたそれは、問う様な眼で──、 「──……!!!」 途端にぞっと膚が粟立った。同時に胃が思い切り痙攣し、貴広は転がる様にして寝台から落ちると、シャワーと共に一部屋に一つずつ備えつけられているトイレへと駆け込んだ。冷たい便座に縋りつく様に身を乗り出して、胃の跳ねる侭に喉奥から湧いた胃酸を吐き散らす。 「ぐ、ぐぅ、ぇ゛、ッ、げっ、っ、っ、、」 胃が何度も痙攣し、胃酸に喉が咽せて、嘔吐きながら咳き込む。胃の中身は殆ど残っておらず、出て来るのは胃酸ばかりで、喉を灼くそれが余計に苦しい。 咳が収まった所でぜいぜいと息をついて、手探りでレバーを倒した。水が渦巻いて流れて行く音を聞きながらぺたりと床に座り込む。壁に倒れる様に寄り掛かると背を濡らす汗がより一層冷たくなるのを感じるが、動く事も出来ずに、貴広はただ「なんで、」と掠れた声で呻く様にそう発した。 目蓋を下ろす。浮かぶノイズ混じりの不明瞭な視界の中に映ったそれは、視界を閉ざしても脳にはっきりと刻まれている。 夢の中で、漆黒に因って殺されたものは、伊勢の姿をしていた。 * 「貴広。景気悪いのを通り越して死にそうな面してるぞ」 オフィスに向かう途中。休憩所で煙草を吹かしていた矢矧に、挨拶を抜かして開口一番そんな言葉を投げられ、貴広は足を止めた。 「そうか…?まあ確かに、少し寝不足が祟っているのかも知れんな…」 頬を擦る様な仕草と共にそう白を切れば、矢矧は溜息と共に煙を吐き出して肩を竦めてみせた。彼には事情や詳細を訊き出すつもりは無い様だが、どうやら傍目に見て健常ではないと解る様な顔色ではあるらしいと、貴広は己の様子を冷静に判断する。 あれから暫く嘔吐感は収まらず、疲労と貧血に似た症状とに暫し貴広は苛まれ続けていた。眠って仕舞えれば楽だったのだろうが、眼を閉じると悪夢の情景が厭に鮮やかに脳裏に蘇って来る有り様で、貴広の神経は大いに磨り減らされた。 紅と、漆黒と。二つの色彩が斑に描いたそれは、何を暗喩したものなのか、全く荒唐無稽なものなのか。 ただ、はっきりと。何故、と問う様な、伊勢の顔がこちらを見ている。きっと、見ていた。 「………」 またわき起こりそうになった嘔吐感に咄嗟に口元を押さえる貴広をちらと見て、矢矧は嘆息すると煙草を消して立ち上がった。 「隊長。今日は休め。書類(それ)は、オフィスに持って行く必要があるなら持っていっておいてやる。伊勢にでも渡せば良いのだろ」 「っ、いや、」 言ってひらりと向けられた矢矧の掌をやんわりと遮って、貴広は小脇に挟んだファイルを抱え直した。眩暈のしそうな中、「問題はない」と素っ気ない調子を意識して放って、歩みを再開させる。 「……まぁ、どうせ同じ方向だがな」 貴広の背を見送りながら独り言の様にそう言うと、矢矧はその背に近づき過ぎない程度の距離を保って歩き出した。オフィスまでそれとなく同道するつもりらしい。 正直、矢矧がそこまで詮索や甲斐甲斐しさを出すタイプではない事に、貴広は密かに安堵する。矢矧は一見して近づき難そうに見える風貌の割には存外に世話焼きな性質で、空気も読める。貴広の、干渉を望まない様子を察して、何も言わずに居てくれた事は純粋に有り難かった。 伊部隊のオフィスに、幸いにか伊勢の姿は無かった。歩きながら各員のスケジュールの貼られたボードを見遣れば、伊勢は昨日外地潜入チームとの連絡を取る宿直組だった為に、今日の出勤は午後からとなっていた。 その事に我知らず息を吐いていると、いつもの様に貴広の姿を遠目に見つけた五十鈴が「おはようございます」と言って寄越して来る。思考が思考だっただけに少し気後れしかかりながらもそれに軽く返して、貴広はさっさと隊長の執務室へと入って仕舞う。 逃げ込んだ、と取られてもおかしくない態度ではあるのだが、一日の仕事始まりのオフィス内でそこをわざわざ注視する者はいなかった様だ。 机の上へとファイルを置いた所で、貴広は己の手が小刻みに震えている事に気付いた。 また視界がぐらりと歪む。耳を走る甲高い音とノイズ。痛む脳髄の裏側で囁く様な何かの声たち。 (これは……一体、何なんだ…) 茫漠の砂の様な掴みどころない世界に差し挟まれるのは、きっと見た事もない様な風景や人だった。然しその輪郭は曖昧にぼやけて判然とはしない。ただひとり、『 』の死に際の、問う様な表情だけが──、 「──っ、ぐ、」 呼吸が止まっていた事に気付いて、貴広は机に突っ伏して喘鳴の様な息を繰り返した。襟元にやった手で乱暴にネクタイを弛めて、スーツの下で馬鹿みたいに拍動する心臓を宥める様に、胸を強く掴む。 酷い夢見だったと言うのは間違いがない。だが、それを笑い飛ばすどころか、忘れるどころか、恰も知らしめるかの様に脳はそれを繰り返し再生しようとする。貴広はかぶりを振って固く眼を瞑った。 馬鹿馬鹿しい。たかだか夢の事ひとつで、どうしてこんなに混乱しているのだ。 くそ、と歯を軋らせると、一度ゆっくりと深呼吸をして、貴広は己の内圧を必死で下げた。 やるべき事は仕事だ。休んでいる暇などない。夢に煩わされてつまらないミスをするなどと言う情けない真似は断じて出来ない。 幾度もそう己に向けて言い聞かせてから、貴広は眼を開いた。責務と言うのはこう言う時には楽だ。言い訳をさせてくれない事を知っているから、楽だ。 「隊長」 そこで、ノックと共に扉が開かれた。視線をゆっくりと向ければ、立っていたのは五十鈴であった。 「…五十鈴。どうした」 彼の面立ちは、伊勢の双子の弟と言うだけあってよく似ている。見慣れぬ者であれば二人を区別する事は難しいだろうと言う程度には。 然しよく見れば、服装や眼鏡と言った外見的に判り易いものを取り除いても、双子の判別は幾つかの特徴からつける事が出来る。観察力に優れた情報部の者ならば、二人を見間違えると言う事はあるまい。 尤もそれも、双子が、互いを取り違えさせる様に態と振る舞って仕舞えば話は別だろうが。 ともあれ、今は無論五十鈴がそんな振る舞いをする理由はない。それに貴広には、どんな変装や演技をされたとしても、伊勢と五十鈴をきちんと見分ける自信がある。 だからか、伊勢によく似た面立ちの五十鈴の姿を目の当たりにしても、動揺は出なかった。夢の中のあれは紛れもなく伊勢であり、今目の前に居るのは五十鈴だ。別の人間だ、としっかりと認識しているのだから記憶を不用意に掻き立てる波も起こさないで済む。 「……隊長。少々顔色が優れませんけど…、何かありましたか?」 案じる様な声と共に、態とらしく机の前の貴広の顔を覗き込む様にして五十鈴は言う。 「………特には」 五十鈴の観察眼は鋭い。矢矧曰くの顔色の悪さに、珍しくも弛んだネクタイ。それだけあれば少なくとも『何かあった』事自体は看破されているだろうなと思いながらも、矢張り貴広は嘘をつくよりも白を切る事を選んだ。そのはっきりとした拒絶の意思に納得がいったなどと言う事はないのだろうが、五十鈴はどこか捨て鉢な様子の溜息をつく。 「…そうですか。なら良いんですけど。……で。まぁ、朗報です。隊長、本日の午後は防衛部との会合でしたよね。次の作戦行動が合同になるからって言う建前の」 「あぁ…。そう言えばそうだったな」 「あちらの偉いさんの都合がつかなくなったので、今日は中止との事です。朝イチで通達が届いていました」 言って、五十鈴は小脇に抱えていた書類を机の上へと置いた。ちゃんとこちらに正位置で置かれた、事務的な文面の並ぶそれを斜め読みして、貴広は「ほう」と息を吐いた。 内容は定型通りの事務連絡で、特にどうと言うものでもない。カンパニー内部は各部署同士で些細な小競り合いを常に起こしている様なものなので、急なスケジュールの変更は半ばイヤガラセとも取れるのだが、今回ばかりはそれに感謝したかった。 「ですので、午後はその侭上がって下さい。何か追加の仕事が来ても、そちらは予定通りうちの兄にやらせますから。安心してゆっくり休養を取って下さいね」 態とらしく声を潜めてにこにことそう言うと、五十鈴は「それでは」と手を振る様な仕草と共に執務室を後にした。 「………それで、朗報、か」 矢張り貴広の具合が悪い事を見抜いてはいたらしい。五十鈴の性格であれば無駄に気を揉んであれこれと訊いて来そうなものだが、恐らくはそれだけ貴広の気分が優れないと判断したのだろう。 悪夢のひとつ如きで、部下二人に気を遣われて。情けないと己を罵りながら、貴広は椅子に座り直した。仕事に集中していれば、夢の記憶など直ぐに薄れて消えて仕舞うだろう。 それが未来起きた事であったとして。それは『今』ではない、起こり得ない選択の果てであったとして。事実があれど現実ではないのならば、煩わされるのは無意味に過ぎない。 (……?) 思考は、夢を描こうとする記憶は、一体『いつ』のものなのか。いつのものだったのか。 寝不足も祟ってか考えが不安定にぶれる。貴広はかぶりを振ると、机に向けて座り直した。今やるべき事は仕事であって、混乱した思考を解く事でも、夢の意を考え首を傾げる事でもないのだ。 * 遅めの昼食を食堂で摂った伊勢がオフィスに向かおうとした時、食堂のすぐ外で待っていたらしい五十鈴に遭遇した。 「おはよう」 「あぁ。お早うと言う時間ではないが。で、どうした」 ひらひらと手を振って言う双子の弟に苦笑しながら返すと、五十鈴は伊勢に並んでオフィスに向かって歩きながら、余程の距離に近づかなければ聞こえ無い程の小さな声でそっと言った。 「隊長のお体が優れないらしいんだけど、原因は不明。午後の視察の予定はあちらの都合で浮いたから、休む様に進言はしたよ」 「……隊長が?」 伊勢は五十鈴の囁く様な声に眉を寄せた。ここの所は大きな任務も無かったし、かと言ってデスクワークが嵩んでいた訳でもない。負傷も勿論無いし、天候が日照り続きなどと言う事もない。 「うん。そうしたら、珍しくも私宅に戻るって。何かあったら連絡を寄越せ、って言い残しては行かれたけど」 「……」 考えでもする様に腕を組んで言う五十鈴の隣を歩きながら、伊勢は眼鏡の向こうの眼を眇めて唸った。基本的に情報部の人間はこの敷地内に宿舎として部屋を宛がわれており、エリート部隊であるPIXIESともなればその福利厚生は優れている。余程の末端にならない限りは一人一部屋だし、シャワーもトイレも一部屋毎に完備されている。オフィスへの移動がほぼゼロ分と言う事もあって、妻帯者でもない限りは、外部に実家や持ち家があったとしても滅多にそちらに帰る事はない。 況して五十鈴情報では貴広の具合は頗る悪いと言う。スケジュールが空いたとは言えそそくさと仕事を切り上げて帰ると言うのも、わざわざトラムに乗らないと辿り着けない様な私宅に向かうと言うのも、珍しい話だ。具合が悪く、その原因がはっきりしていないと言うのであれば、それこそ万一を考えて社内に残るのが最善の筈だ。 難しい顔をして、腑に落ちない状況を払拭出来る様な可能性の思索に沈む伊勢に、五十鈴はやれやれと嘆息する。 「僕もお伺いしたい所だけど、今日の宿直連絡番は僕だからそう言う訳にもいかなくてさ」 心底厭そうに吐き棄てる五十鈴の背を、思考の海から戻った伊勢はぽんと叩いた。五十鈴の性格上、本当ならば仕事など放り棄ててでも貴広の様子を伺いに行きたい所だろうに、それをしたとなれば肝心の貴広当人に間違い無く叱責されて仕舞う。 「解った。仕事が上がったら即向かう」 伊勢には幸いにも今日は残業の類が出る予定は無いし、泊まり込みの予定もない。あったとしても今ならどうにか当たり障りのない理由をつけてでも蹴るが。 「頼んだよ。後からで良いから報告よろしく」 「ああ」 丁度そこでオフィスに到着したので、五十鈴は自分の席へとさっさと戻っていく。タイムカードを押した伊勢は時計を見上げて、今日の残りの就業時間をこれ以上無い程に恨めしく思った。 * 神崎貴広の私宅は、カンパニー市内にあるタワーマンションの一室だ。情報部オフィスのある区画からはトラムに乗って本社を離れてから十分少々と、徒歩が少し。宅地として開発・整備された街は出勤するにも適した距離である為、家族持ちのカンパニーの人間の多くがこの周辺で暮らしている。 緑地が疎らに点在し、高層建築が多く連なるそこは完全なる計画設計された都市だ。幾つもあるマンション群の中の一つに入ると、預かっているカードキーを使って、伊勢は足早に玄関の前まで辿り着いた。 腕時計を確認する。十九時過ぎ。訪れても無礼な時間帯ではないが、念のために電話を鳴らした。然し相手は出ない。貴広が体調を崩して眠っているとしたら気付かないと言う可能性も十二分にあるのだが、伊勢は少し苛々とした仕草でスマートフォンを仕舞った。 一応、ここに来る道中で水や保水液、簡単な食事の類は購入して来てあるが、己の手に負えない様な事になっていたら一体どうしたら良いのだろうか。基本的に貴広は、ナーサリークライムだからなのか、病の類には強い。病に伏すよりも寧ろ、能力の多用で消耗する事の方が多いぐらいだ。 そんな貴広の具合が悪いとなると、それは相当の事なのではないか。 歯噛みしつつも、呼び鈴を鳴らす。こちらもまた、応えはない。伊勢は幾度か深呼吸して呼吸を落ち着かせてから、接触型のカードキーを使って錠を開くと、覚悟を決めて玄関へと入った。 「…お邪魔します」 眼に見える何もかもを拒絶する様に、玄関も、廊下も、真っ暗だった。既に陽の沈んだ町は暗い。幾ら階層が高くて日照時間が長くとも、日が沈めば当然だが暗い夜が訪れる。 「……隊長?」 玄関から声を上げるが、しんと鎮まったリビングの方からは物音も気配一つも返らない。靴を脱ぎながら見れば、闇に慣れて来た眼に、貴広の靴が脱ぎ捨ててあるのは確認出来た。家に戻っていないと言う最悪の事態は無さそうである。 荷物を一旦玄関に置いて、伊勢は廊下に上がった。廊下を通ってすぐのリビングは、カーテンも全て閉ざされて真っ暗だった。余りの暗さに電気を点けるべきか一瞬悩むが、帰宅している貴広が電気を点けていないのならば、この暗闇にも何か理由があるのかも知れないと思い、電灯のスイッチを探るのはやめた。 眼が慣れるにしても限度がある。闇を全て見通すには足りない視界で室内を注意深く見回した所で、伊勢は思わずぎくりと立ち止まる。 闇一色の部屋の中。その一際暗い翳りの落ちている壁際に、抱えた膝に顔を埋めた男がひとり、蹲っていた。 「隊長、」 闇は彼の領分であるのだと、以前そんな事を思った事があった。彼の操る漆黒と呼ばれるそれは、正しく光の一つも通さない闇そのもので、影そのもので、ただただ黒く凍り付いた闇一色の世界から湧き出る、何か──世界の理より生じた絶対的な『何か』であるのだと。 だから彼は闇から生まれ出て来たのかも知れない。世界の根源からぽつりと一つだけ生じた雫の様にして。酷く不完全に。ただの人間の様に。 「隊長」 もう一度呼んで、一歩を近づいた所で、貴広は突如弾かれた様に顔を起こした。闇に在ってさえ炯々とした瞳が、見開かれた今は何かに竦む様にして揺れている。 「伊、勢…、」 「一体どうなさったのですか。気分が優れないとは伺っていましたが…、」 傍らに膝をつくと、暗闇の中で貴広が息を呑む。 「隊長?」 呼んで、伸ばした手がその肩に触れた途端、貴広の身体は大袈裟な程に跳ねた。ずり、と壁際を更に横に移動する様に後ずさって逸らされる、その眼差しの向く方角には、怖れ、或いは焦燥と言う感情しかない。 PIXIESの隊長は、人間らしい感情が一切無いと評されているのを幾度となく聞いた。それを聞いた貴広は「人でなしとでも称したいのだろ」と笑い飛ばしていたが。 だがそんな風聞はあながち全てが根も葉もない噂と言う訳ではない。実際、神崎貴広は伊勢の目で評しても、冷徹に命を奪う所業も、命令も出すに躊躇いも畏れも無い様な人間だ。 そんな彼に最も似つかわしくない言葉が、その眼差しに浮かんだ感情の正体と表現するに的確だろうと思えた。思ってから、伊勢は困惑した。 怖れる?焦る?──一体、『何』に対して? 茫然と、肩に僅かの瞬間だけ届いた己の指を見る伊勢に、貴広は我に返った様に瞬きを繰り返した。「ちが、う、」と呻いてかぶりを振ると、戦慄く掌で口元を押さえてその場にがくりと逆の手をついて項垂れた。 「隊長!どうなさったのですか?!どこかお怪我でも、」 「──っ伊勢!」 見た憶えもない上司の様子に、伊勢は狼狽した。然し貴広は掌をこちらに向けながら、ただただ項垂れた首を左右に振って、酷く困惑し怖れる様に、また僅かを下がった。 「……」 近づくな、と言うあからさまな拒絶の態度に、困り果てた伊勢は、然し貴広の仕草に従ってその場に何とか留まった。その視線の先で、冷たい床の上に置かれた拳がぐっと握られる。 「…違う、違うんだ…。すまない…、すまない、伊勢…、」 項垂れて呻く様に呟く貴広の表情は伺えない。だがその様子からは、苦悩と苦痛とが見て取れた。 何故、謝るのか。何故、そんなにも苦しそうなのか。何故、何を、そんなに怖れているのか。問いたい事は山の様に胸中に蟠ってはいたが、伊勢は引き結んだ唇の間でそれら全てを無理矢理に潰した。 何が原因であるのかは解らない。だが、恐らく今の貴広にとっては、伊勢の存在が何か毒となっているのだ。理由を訊いて質したいとは思う。然し、訳も知らず苦しげにしている、貴広のその痛苦を徒に拡げ続けたくはない。 逡巡はそう長くなかった。毒がここにあるのならば、速やかにこの場を離れた方が良い。 「…隊長。大変申し訳ないのですが、私には貴方に忌避されると言う事についての憶えがありません。知らぬ間に何か不快感を与えていたのだとしたら、それに気付かぬ愚鈍さを恥じ入る他ありません」 膝をついた侭頭を下げると、伊勢は床を見つめた侭で続ける。 「……貴方が、私の姿を見たくもないと仰るのであれば、それに従います。ですが、今の貴方を一人にしておく訳にはいかないと言う事は解ります。五十鈴で問題が無ければ、代わりに寄越します。五十鈴の仕事については、私がその侭引き継ぎますので、穴を空ける事はありません」 二夜連続の仕事となるが、伊勢のコンディションに問題はない。 昼間の五十鈴の様子を見るだに、少なくとも五十鈴は貴広から今の様な、明らかに拒絶と知れる態度は受けていない筈だ。伊勢には触れる事も近づく事も拒否しても、五十鈴ならば恐らくは大丈夫なのだろう。 伊勢の判断は、貴広の身を案じる部下としては至極当たり前の様な結論だった。故に、顔を起こした伊勢は、苦悩する貴広の、茫然とした様な表情を前に思わず唇を噛んだ。 「ちが…、違う、、そうでは、なくて、」 貴広の唇が戦慄くのが、闇の中でも解った。声が震えたから、解った。 理由は解らない。経緯も。だが、己がここに留まる事は、やはりどう言う訳か貴広を苦しめているだけらしい。一旦部屋の外に出て、五十鈴に連絡を取った方が良いだろう。前後の状況が解らないとは言え、寒い床に座り込んで、暗闇で一人ぼんやりと座っているなどと、今の貴広は到底まともな精神状態とは言えない。 「っ、伊勢、!」 立ち上がった伊勢のコートの裾を、貴広の手が掴んだ。思わず振り向けば、戦慄く指が、撥水加工の効いた滑り易いコートの生地を、必死になって掴んでいるのが見えた。 「ちがう、違うんだ…っ、だから、」 目線は合わせない侭、床に座り込んで手だけを伸ばした貴広は、乾いて震える声音で辛うじて、何とかそれだけを紡いだ。 「………──」 伊勢は躊躇った。また拒絶されるのであれば、また苦痛を与えて仕舞うのであれば、多分己は早くここを離れた方が良い筈だ。 コートを掴んだ手は、咄嗟に伸びて仕舞ったと言う様子ではあった。だが、力は過剰な程にこもっている。上手く加減が出来ないのか。それとも怖れや拒絶と言った本心を必死で覆い隠して動いているからなのか。 寸時躊躇いはしたが、伊勢はゆっくりとその場に再び膝をついた。掴んでいたコートの裾からするりと解けた貴広の手が床に落ちて、震える爪がフローリングを掻いた。 「……触れても?」 静かに問いた伊勢の言葉に、項垂れた貴広から返事は返らない。伊勢はゆっくりとした動作で手を伸ばし、床を引っ掻く貴広の手の甲に、己の掌を重ねた。 びく、と指先が竦んだのは一瞬だけだった。いきなり振り払われなかった事に安堵しつつ、伊勢はその侭辛抱強く、貴広が落ち着くのを待った。 否。落ち着いてはきっと居るのだ。既に。ただ、精神と身体との反応に何か齟齬が生じていて、それをどう処理すれば良いのかが解らずに困惑している様に見えた。だから「違う」と繰り返しているのだろう。 じっと黙っていると、やがて、俯いた貴広がぽつりと一言「夢を、」とこぼした。 「……夢を、見たんだ。…そうだ、夢だ。馬鹿馬鹿しいぐらいに、単なる夢だ。解っている。ただの夢如きにこんなにも揺らされて、……正直無様だとしか言い様がない」 伊勢が触れているのと逆の手が持ち上がって、貴広はその手で目元を覆う様にしながら吐き棄てた。自嘲し、余りに馬鹿馬鹿しい事なのだと、自らへと言い聞かせる様に。 「……だが、それでも、解っていても、夢だと幾ら繰り返しても、余りにその光景は生々しいんだ。まるで現実に起こった事の様に、それとも起こるだろう事の様に、鮮明で、はっきりとしていて、…っ、」 そこで一旦息を呑んで、それから貴広は、伊勢の掌に覆われた自らの手を引こうとするが、伊勢はそれを、力をそっと込める事で止めた。やんわりと指を動かして、今度は指を搦める様にしてその場に留める。 「…………伊勢」 ぽつりと呟いた声は、今にも泣き出しそうな子供の様に揺れていた。伊勢がゆるりと視線を起こせば丁度、貴広が目元を覆っていた己の手を退けた所だった。扇形の縁を描く長い睫毛がそっと持ち上がり、漸く目が合う。 「……夢の中で、お前が、…──、死ぬ、のを見た」 余程その言葉を忌避したかったのか、途中で貴広の唇は戦慄き、声は僅かに震えを発した。無言で続きを促す伊勢の前で、貴広の表情がぐしゃりと歪む。それが酷く苦しそうで、伊勢は自らも胸を締めつけられる様な気がした。 「俺は多分、記録映像か何かを見ていた。そこでは、お前と、何者かとが戦っている様だった。 結果から言えば、お前は、殺された。影から出た、闇の顎にその身を貫かれて」 「………」 無言で見つめる伊勢の視線の先で、貴広の口元が不安定な形の笑みを刻んだ。自嘲か、困惑か、自責か、耐え難い苦痛の様なものを前にした人間の防衛本能か。 「お前を殺したのは、漆黒だった。──間違いなく、漆黒だった。お前を、殺したのは、」 繰り返して、貴広は嗤う。そこに彼の見たのだろう、どうしようもない現実を前にして。涙もなく泣きながら、痛みとすら認識出来ない痛苦に悲鳴を上げて、凄絶に嗤う。 「漆黒は何度も、何度も、っ、お前の身を貫いて、壊した。二度と生き返る事など無い様にと、殺し尽くした…!」 逃げようとする様な動きで振り解かれようとした手を、伊勢はしっかりと掴んで離さなかった。貴広は奥歯を軋らせながら、苦しそうに嗤って吐き出す。 「俺だ!俺以外の何でもない!あれは間違いなく漆黒だ…!そして、漆黒を扱うナーサリークライムは俺しかいない!だから、紛れもなく、あの夢の中で、俺はきっと、お前を、殺したんだ…! お前の表情は、何故、と、そう訴えていた…!誰あろう俺が、俺の力が、お前を殺したから、だから、、!」 ぜいぜいと息を切らせる程に激しくそう叫ぶと、貴広は床にその侭蹲った。泣きたかったのか、怒りをぶつけたかったのか、噛み殺し損ねた嗚咽にも似た苦悶がその身を震わせるのを見て、伊勢は呑み込んだ困惑を出さずに、床に押しつけられた貴広の頭にそっと触れた。 「……隊長。私は生きています。ここに。それは、ただの、夢です」 「解っている!夢だなどと、そんな事は解っている!」 「だが、」と続ける様に声を上げた所で、貴広は唐突に黙り込んだ。ぎり、と奥歯を軋らせる音と共に、彼はまるで癇癪を起こした子供の様に、拳で床を打ち付けた。 「………理屈ではない。言い表しようがない。だが、あれが、荒唐無稽な夢や想像などでは無かった事だけは、解るんだよ。確証はない。証明も出来ない。狂人の戯言だ。盲人の妄想だ。それでも、それでもあれは、──『あれ』は、俺の裡から這い出した記憶でしかない」 「……ナーサリークライムである故の、永く膨大な記憶の蓄積に由来していると?」 伊勢は慎重に言葉を選んだ。自分たちではどう在っても添う事の叶わないそれは、理解の及ばぬそれは、隔絶に似た現実の証明になって仕舞うからだ。 ナーサリークライムについて一般的に知られている事実は殆ど無い。カンパニーもどの程度その存在を知り得ているのかは不明瞭でいる。 LABがその解析を、未知に対する脅威を模索しない筈は無いだろうから、何らかの研究や解析行動は未だに行われているだろう。その証左とも言うべき存在──実働している検体と言って差し支えない、カンパニーの保有しているナーサリークライムが一人、ここに居るからだ。 そしてそれらのデータ的なものでは無くとも、貴広と生活や行動を幾年かの間共にして来た、伊勢も無論含めたPIXIES六天は、もっと近しい場所で、ナーサリークライムと言う存在についてをある意味で知悉している。 神崎貴広は、人の様でヒトとは異なる。彼はナーサリークライムと呼ばれる存在であって、その性質の一つとして多く知られて居る通り、人間のそれよりも永い時間を生きて来ているだろうと推定される。 だが、その事実に彼が無自覚であったからなのか、それとも他に理由があるのかは知れないが、貴広は『今』の神崎貴広としての人生の記憶しか真っ当に持っていない。まるで普通の一人の人間の様に。 然しどうやら、『今』の神崎貴広に至る以前の生も確かに彼は過ごして来ていて、その記憶は時折断片的に浮かんでは消え、現在と混同したりと言った現象をしばしば引き起こすらしい。出どころの解らない様な昔の知識を披露出来ても、それをどこで誰から得たのかと言う記憶は無い、と言った様に。 それが『夢』と言う形で出る事もあり得ない話ではない。が、『夢』と聞いた伊勢がその可能性を除外しようとしたのは、貴広が苦しげに吐き出したその内容が、出来事が、『記憶』──過去の経験ではないと思えたからだ。 夢であったとして、貴広が伊勢の姿を見間違えるとは思えない。況してそれでこんなにも混乱し苦しそうにしているのであれば尚更だ。 つまりは、記憶として明確にそうと解らずとも、貴広はその『夢』を、己の経験して来た『記憶』の一端であるのだと確信せざるを得なかったのだ。 「…恐らく、間違いない」 だから彼は小さくそう紡いだ。苦しそうにしながら、然しはっきりと頷いてみせた。 「……」 ただの夢、悪夢だからと宥める事が出来たのであればどれ程に楽だっただろう。だが、そうではないのだと、知って仕舞った。突きつけられて仕舞った。 ナーサリークライムは未来の因果でさえ見通すのだろうか。全ての時間を俯瞰する超越した意識を持つ様な存在なのだろうか。 それは幾ら考えた所で出る結論のない、ただの疑問だ。貴広当人にも答えの無い様な事だ。 「…それは少なくとも今ある現実や、嘗て経た記憶ではありません。ですから、大丈夫です」 気休めにもならないだろうか。思いはしたが、伊勢は真摯にそう紡いだ。未来は判らない。もしも貴広の『夢』が先に起こる事を見通したものだったとしたら、それは変えようのない『事実』でしかないのやも知れないが。 (…然し、) 思い浮かぶ感情の儘に、口元が自然に笑みを形作るのが解った。 もしもこれが、夢の当事者ではない五十鈴であったら、貴広は悪夢の事実を飲み込んで決して話しはしなかっただろう。話せはしなかっただろう。伊勢は、今日この場所に何の気兼ねもなく己が居合わせられた事に密かに感謝した。 すまない、と掠れた声でぽつりと、涙の様に一言だけそうこぼす貴広が、起こりもしていない未来の事物を謝りたかったのか、それらしい夢ひとつで苦悩する事を不甲斐ないと思っていたのかは判らない。伊勢は柔く笑んで、項垂れた貴広の背をそっと撫でた。 「いいのです。大丈夫ですよ」 果たして、貴広は冷静ではあったのだろう。理性的であったかどうかはさておいて。無言の嗚咽の物語る苦しみと、説明のつけようもない現象の正体についてはこの際どうでも良い。 「……いいのですよ」 そう。良いのだ。 もしも。仮に。もしも。貴広の夢見た通りにいつか、そんな時が訪れる事があったとしても、恐らく己に恨みも後悔もあるまいと伊勢は思う。如何な理由があれど、事情が生じれど、『それ』をするのが神崎貴広でありさえすれば、善い。 (………貴方であれば。貴方の為となる事であれば、喜んで『それ』を受け入れよう) だが、それを成すのが、このひとで無かったとしたら。神崎貴広以外の別の『何か』であるとしたら。そんな不穏の予感はある。LABの保持しているだろうナーサリークライムの力に対する研究が、不遜にも実用化する様な時が来たとしたら。 世界に在って、その根源素が存在する限りは無限にその権能をもたらす五つの存在。そんなものを、人間の利にと考えぬ道理はどこにもない。少なくともその五つが、人に添った、人の姿形をしている限りは。 全く不遜な話ではあると思う。だが、実際に目の前でナーサリークライムのその力を目の当たりにする度、確かに其処には畏れを抱く心が生じる。神か精霊か、正しくそうとしか言い様のないものが、気紛れに人を模倣しているだけではないかと錯覚しそうになる。 故に、それを早い内に人の裡へと取り込んで仕舞わねばと。人だからこそ、そう思う筈だ。 (貴方の見た『それ』が、貴方以外の『何か』であれば……、及ばずとも全力で抗うだろう。『それ』が貴方に害をなさない筈など無いのだから) つまりは、どちらでも同じ事だ。『それ』をなすのが貴広であれど、貴広の力を模倣した何かであれど。 (──貴方が見たのは、貴方の為に死ぬ私の姿であったのだろうから) 同じ想いを抱いていても、同じ感情を育てていても、これだけは己の──伊勢自身の、伊勢だけの感情であると、願いであると、確信はある。きっとこれだけは、五十鈴は伊勢に至れない。五十鈴に伊勢は至れない。 だから良いのだ。だから二人は揃って同じ様にして同じ想いを抱けるのだ。 己が命を唯一人に尽くすと定めた事を。 「……だから、善いのです」 (それは、貴方を護る為に生きようと誓った私の涯てと言うだけの事であって、他ならない事実でしかない事ですから) 大事な部下を自ら殺めて仕舞ったのだと苦悩する上司を前に、非道い話なのだろうとは思う。だが伊勢は、この事実に関してだけは己の意志を曲げるつもりは一切無い。 それでも、それをわざわざ言葉にはしないだけの分別はあるつもりだ。 如何な存在であれど、この人はたったひとりの愛すべき上司であって、尊崇する対象であって、従い添いたいと思う者だ。不完全で脆弱な人の鋳型に押し込められて、苦悩し迷いながら日々を生きるだけの、ただの人間だ。 そのひとを無用に悩ませ苦しめるつもりは一切ない。 「…………お前の言う、いい、は、俺にとっての、いい、にも値しているのか?」 だから、貴広の漸く紡いだそんな問いにも「はい」と躊躇う事なく伊勢は頷いた。実際は到底、伊勢の乗せた分銅は貴広のそれと釣り合いなどしないのだろう事ぐらいは、承知で。 それが、伊勢の飲み込んだ感情ぐらいお見通しだった故の問いなのか、それともただ言葉尻を捉えただけの問いであったのかは判らない。やがて、包む片手のひらに少しだけ力を込めると、貴広はゆっくりと顔を起こした。涙の跡は無かったが、どこか疲れて萎れている様には見える。朝から一日この調子だったのであれば無理も無い事だろう。 眼鏡の向こうで貴広の瞳が揺れて、逸れかけて戻って来た。常は凛と振る舞う強気の顔が。人を、ものの様に見つめる顔が。水底の様に透徹と冷えた眼差しが。今はどこか弱さを湛えて揺れている。 恐怖や寂寥感。或いは単純なくるしさか。揺れる瞳の中に己の姿が映り込まない事が堪らなく嫌だと思えて、伊勢は貴広の後頭部に手をやると、己の胸元に半ば無理矢理に引き寄せた。 「…泣きそうに見えたもので」 「……ふざけるな」 言い訳の様に紡いだ言葉には、そう小さな声が返って来た。だが、振り解きも逃れもせずに居て呉れたので、伊勢はその儘暫し狡い己の思考に甘んじる事にして目を閉じた。 希うと言う思いは、酷く醜く際限ない程に自分勝手な欲にまみれている。 見たと言う悪夢の、或いは未来の可能性かも知れないものの、恐怖の裡から必死で手を伸ばして、縋って、叫ぶ。訴えて、願って、ただ。悲鳴の様に。 きっと望まれたのは贖罪ではない。救いでも赦しでもない。理解の及ばぬ彼の存在の深淵に存在する、人間の様に脆い部分を晒さずにはいられなかっただけの事。 ひとりの人間の、よわい人間の、それでも吐き出さずにいられなかった、泣き言。 それを捉え閉じ込めて、伊勢は忍び笑う。満足のいく儘に穏やかに微笑む。 「貴方の為に生きる事の、何が善くない事と言えるでしょうか?」 「………」 引き寄せた頭部、柔らかい髪の中に鼻先を埋めて呟く。人間の、ただの人間の代謝の匂いを持ったそのひとの心の、一番柔らかい部分にきっと無遠慮に触れながら。 それを赦された喜びに。心の底から感じる幸福を。せめて、微笑みひとつだけと許して。 「隊長。私たちは叶う限り貴方のお傍に居ます。距離が離れたとして、時が隔てたとして、ずっと貴方に添い続けます」 それで貴方が、この脆弱な人間如きの喪失を嘆いて呉れるのならば。 その涙が、悲しみの叫びが、この心に応えて呉れるのであれば。 「……それだけです。どの様な夢よりも、記憶よりも、その事実だけをどうか、憶えていて下さい」 「……………」 貴広は矢張り何も応えなかったが、胸に当たる額がぐっと強く押し付けられた気がしたので、伊勢もまた黙って指先だけを動かして頭部を優しく撫でた。 「……大袈裟な。ただの、夢なのだろ」 全くそうとは思っていないのだと直ぐに知れる、先程までの己の主張とは相反する貴広の言葉に、伊勢は「その通りですよ」と追従した。 「それでも、貴方にお伝えするべき事、言うべき事は、何に対してであれど偽りなく。そう言う主義ですので」 「……そうか」 すまない、と続きそうな言葉には、ただの相槌以上の重みがあったのだとは思う。然し伊勢はそれ以上は踏み込むまいとしたし、貴広もそれ以上の切開をしようとはしなかった。 それが納得と等価ではない事は承知の上で、不毛の口を閉ざした。 ナーサリークライムは世界の謂わば具現で永遠に等しい刻を生きる。人として死と言う現象を迎えたとしても再生し再び生きる。 土気・極東日没はそれをして、五行の輪廻に支配された存在と呼び、自身はそれを断ち切る事を目的としている。(らしい) 恐らくそれは金気・霧島差異が相克である木気・榊千尋を消滅させ、そしてそれを水気・神崎貴広の相生に因って復活させようとしている事を発端にしていると思われる。 即ち、ナーサリークライムは相克に因って滅びる。その均衡一つを欠いたのが今であり、水気を滅ぼす事に因って更に均衡がまた一つ崩れる。 果たしてそうなった時に世界はどうなるのか。根源素の均衡を失い滅びて仕舞うのか。 ……と言う訳で、どんな形であれどナーサリークライムたちはもえかんの現状の儘行けば何れは必ず衝突するのです。形を変えて記憶を失ってもナーサリークライムは闘争の歴史を繰り返すほかないのです。 そんな物語外の『エンディング』の妄想の一つが、五行の多くが欠けて世界が均衡を失い、人類も文明も滅んだ世界を経て、再び再生したナーサリークライム──世界の一部たちの、意志をもう保たない記憶や心がその記憶で世界を再構築或いは逆行して、ゲーム的に言えばまた別ルートを辿る、と言った内容です。ただの妄想です(二度目)。 人の形を持って心を持っているから、神の理想の様に無辜なだけの世界など創れはしない。だから何度も繰り返すのです。…と。 元々は、貴広の所持品である金時計の由来を妄想していただけだったんですけどね…。 孤児での貴広が気づいたら所持していたとんでもない高級品。そんなものを物心つく前から所持していたら奪われる可能性も当然ある訳です。 でもそれが起きていなかったのは、貴広が既にそれを持って『神崎貴広としてはじまった』(つまりリスポーンした時点で持っていた)からではないか、と無理矢理なんか妄想こねこねしていた次第でした。 それでループ。選択式でエンディングの変わるノベル系ゲームなら辻褄も合うかなとか。 貴広が過去の様々な時間軸の記憶を時折夢に見たり思い出すけど解らない、と言うのはもえかん本編とかす共にあった流れだったので、貴広が過去やループした未来の記憶を夢にぼんやり見て、現在と混同したり、それに困惑したりする事があっても良いんじゃないか妄想。 『神は永遠に幾何学する』 ↑ : |