戀の花、摘みて取らせむその人に。

※10年前PIXIES妄想です。
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 祝杯にと用意されたのはありきたりな事にも缶ビールだった。この国で作られている地ビールで、海外へ輸出されているものとは同じ銘柄であってもフレーバーが少々異なるらしい。
 俗っぽい安酒は、異国の、それなり発展した観光都市の一角にある中流程度のホテルの一室には少々不似合いであったかも知れないが、お上品にワイングラスなど傾けたい気分では無かった。それは確かだった。
 何しろ、二ヶ月近くの間ずっと地味〜〜〜〜に隠れ家に潜伏して、この国の内部に潜入している某国の諜報部の動向を窺い続けていたのだから。溜まった鬱屈を晴らすのにはちまちました盃では到底足りない。
 諜報部が潜入していると言う件からそもそも確定的な要素はなく、然し国内で不穏な組織的工作を行っていると言う疑いはあり、放っておけば激しすぎる政争、或いは内紛に発展しかねないと言う懸念が指摘された為に、PIXIESより派遣された人員も、貴広と五十鈴と言うトップの方からの選出となった。
 責任は重い癖に作戦行動はひたすらに地味。万一にでもカンパニー情報部の存在を気取られてはいけないと言う事もあって、容姿の目立つ(知られている可能性のある)貴広は殆ど屋内に缶詰状態だったのだ。一先ず任務も無事終わって打ち上げを、となった時に、ワインなどちまちま飲みたい心境にある訳もない。
 「隊長、少々飲み過ぎでは」
 そんな事情もあって、伊勢が控えめにそう進言をしたのは常より大分遅かった。一応は気遣いをしようとしたつもりなのだろうが、それに返ったのは、缶ビールを更に勢いよく呷った貴広の、ふう、と言う大きな溜息であった。
 「あのな。狭いアパルトメントの一室で、無線の傍受機器を片手に延々モニタでカメラを監視するだけの生活だぞ?運動も出来んし、夜寝てても動きさえあれば直ぐにアラームは鳴るし、本社に残して来た仕事は気になるしで、交代要員も一ヶ月では用意出来ないとか、本社からの何かのイヤガラセかとしか思えん様な生活を強いられてたんだぞ俺は」
 まくし立てる様に言う貴広の言葉の内に、「飲まずにやってられるか」そんなオッさんくさい心の呟きを聞いて仕舞った気のする五十鈴であったが、珍しくも兄に倣って貴広を宥める側に回る事にした。
 「まぁまぁ、もう終わった事をそう愚痴らなくても。本社に戻ったら愚痴でもお酒でも存分にお付き合いしますから。ね?」
 言いながら、そっと手から缶ビールを抜き取る五十鈴を、貴広はじとりと恨みがましげに睨んで寄越してきた。その目の物語る所は、「お前なら解ってくれると思ったのに」と言った所か。受けて、五十鈴の胸も少々痛むのだが、致し方あるまい。
 子供の遠足ではないが、本社に帰投するまでが任務で、帰投便は明日の朝一番の飛行機だ。カンパニーのチャーター機ではなく民間の航空機なので、貴広に同道し護衛も自負する五十鈴としては正しく「帰るまでが任務」なのである。最後まで気を抜く訳にはいかないし、その為には貴広自身にも二日酔いになどなって貰っては困る。
 五十鈴とて貴広曰くの、イヤガラセとしか思えない任務を共に過ごしたのだが、環境に溶け込み易い特技もあって、物資の買い出しや監視網の設置、聞き込みでの調査と、貴広よりは外に出る時間が多く、幾分楽であったのは間違いない。
 「矢矧、お前はどちらにつく」
 双子に左右を挟まれてアルコールを遠ざけられ、貴広が次に見たのはソファの向かいに座していた矢矧だった。
 伊勢と共に後処理の人員として派遣されてきた矢矧は、どうでも良さそうにことの成り行きを静観していたのだが、突然貴広に半ば睨まれる様にして無茶な選択を迫られ、歯の間で煙草を揺らしながら呻いた。
 「いや…俺に振るなよ。隊長(あんた)の面倒をみるのはそこの過保護兄弟の仕事だろ」
 双子を揃って敵に回したくないと思ったのか、矢矧は貴広の話に取り合うまでもなく白旗を揚げる様に肩を竦めた。目を細めて紫煙を吐き出す彼を、貴広は大層不機嫌そうにじっと見つめて唇を尖らせる。
 「お前までこいつらの味方か…。そんな薄情な部下を持った憶えはないぞ」
 今にも頬でも膨らませそうな、解り易い上司の拗ねた声音に、五十鈴からは貴広を挟んで隣に座っていた伊勢が小さく笑う。
 「伊勢」
 小さな笑い声に気付いた貴広がむっと首を巡らせる。「すみません」と伊勢は直ぐ様に謝ってみせるが、その眼鏡の奥で目はまだ笑っている。微笑ましいのだと言いたげなその感情に共感出来てはいたが、五十鈴は貴広の両肩をそっと引いて抑えた。何しろ今の上司は酷く酔っている。この調子で絡み酒になるとそれはそれで厄介な事になりかねない気がしたのだ。
 五十鈴は手に、先頃貴広から取り上げた缶ビールを持った侭だった。そしてその中身は半分以下に量を減らした状態にあった。だからこそ失念していたのかも知れない。
 「何だ、五十鈴──」
 肩を引かれた事で、貴広がぐるりと振り向く。先程自分の味方をしてくれなかったと言う事もあってか、振り向きざまに軽く手を払う様な、そんな動作だった。
 「あ」
 翻った腕が五十鈴の、缶を掴んでいた手を払う形になった。軽い缶はぱしりと弾かれ飛んで、貴広の頭上へと向かって、落ちていく。伊勢は反射的に缶を掴もうと手を伸ばすが、然し辿り着いたのは指先だけ。
 かつん、と爪の先に当たった缶はくるりとそちらを向いて、伊勢の側頭部に軽い音を立てて落ちた。
 「っごめん、」
 ほぼ一瞬だった。その空隙にアルコールの匂いが立つ。頭からビールを被った伊勢の姿に、五十鈴は慌てて謝りながら腰を浮かせた。
 「いや…、隊長はご無事ですか」
 「ああ…。多分」
 伊勢は足下に転がった缶を拾い上げながら、万一にでも貴広を濡らさない様にと距離を取って立ち上がった。まずは落ち着いて貴広が被害に遭ってはいないかを確認してからほっと息を吐く。
 そんな兄を横目に、シャワールームに足早に向かった五十鈴がタオルを取って戻って来ると、テーブルの上を片付けようとする貴広を制した伊勢と矢矧がその辺りのティッシュなどを使って辺りを拭いていた。
 「兄さん、取り敢えず自分を拭かないと、被害が酷くなるから」
 「それもそうだな…すまない」
 五十鈴が兄の頭にタオルを押しつけると、伊勢は髪や頬を伝ってワイシャツの肩の辺りまですっかりと濡らされた己の姿を見下ろして、濡れた眼鏡を外した。
 「どちらにせよ、アルコールだしシャワーは必要だな。とっとと行って──」
 床に溢れたビールを拭いていた矢矧がそう言って、そこで驚いた様に動きを止めた。床に膝をついた彼にまじまじと見上げられて、伊勢と五十鈴は同時に疑問符を浮かべる。
 「……こうして見ると矢張りお前ら、双子なんだな」
 「…なんだいきなり」
 「…なんですいきなり」
 双子と言われたからと言う訳ではないだろうに、伊勢と五十鈴の呟きが綺麗に唱和したのを聞いて、手持ち無沙汰そうに空き缶を片付ける作業をしていた貴広まで、矢矧と同時に小さく噴き出す。
 「いや、伊勢が眼鏡を掛けているって言う、解り易い見た目の違いがあるから余り意識していなかったが、成程確かによく似てるもんだなと」
 く、と笑った矢矧の言い種に、頭をタオルで拭きながら伊勢が溜息をつく。
 「眼鏡の有無だけでしか人物を区別出来ていないと言うのは、観察力の問われる情報部では論外だが?」
 「兄さんは本の虫のし過ぎで眼鏡になっただけですけど。これでコンタクトにしたら僕と判別がつかなくなって、矢矧さんをからかえそうですかね?」
 何故か笑われた事もあって、五十鈴も伊勢の嫌味に追従して、二人して矢矧をにこやかに見下ろす。その様ですら似ていると思えたのか、矢矧は笑いを噛み殺しながら「悪かった、悪かった」と両手を上げて言って、片付ける作業にとっとと戻って仕舞う。
 そこで、矢矧と同じ様にじっと双子を見上げていた貴広が口を開いた。
 「確かに、矢矧の言う様に似てはいるが、俺は伊勢と五十鈴を見間違える事は無いぞ。断言出来る」
 「……そうですか?」
 「ああ」
 余りに自信たっぷりにそう断じられて、五十鈴はきょとんとしながら眉を寄せた。直ぐ横で伊勢が小さく、笑う様な息を吐くのが聞こえてそちらを見遣るが、それとほぼ同時に伊勢は五十鈴からそっと顔を背けて仕舞った。きっと、普段の兄らしくもなくにやけていただろうに、見逃した。
 「では、シャワーをお借りします。五十鈴、すまないがクリーニングの手配を頼む」
 「了解」
 頷いた五十鈴も、歩き出した伊勢の後に続いて、服の回収にシャワールームに向かおうとした。そこにまたしても貴広の声。
 「俺の所為みたいなものだし、手伝うか?」
 「………いえ。お構いなく。お疲れでしょうから隊長はお休みになっていて下さい」
 余りに何の邪気も衒いもなく言われて、伊勢は苦笑しつつも何とかそう言った。五十鈴はじっとこちらをまだ見つめている貴広ににこりと笑いかけて、兄さんも大変だ、と思った。
 
 *
 
 幸いにも、ずっと泊まり込みで任務に就いていた五十鈴の代えのスーツがあったので、それを洗面所に引っかけておく。二人の体格は変わらないから問題なく着られるだろう。
 代わりに、五十鈴はビール臭くなった伊勢のスーツ一式を袋に放り込んで、フロントに電話を入れてクリーニングの手配を頼んだ。
 部屋の方も清掃員が入ったが、ソファに殆ど被害はなく、床は絨毯ではなかったので簡単に掃除が出来た。余りに酷い惨状だったら部屋を替えて貰わなければならなくなって手間だったので、不幸中の幸いと言う奴か。
 その後、やって来たクリーニング係に衣服を渡して部屋へ戻った五十鈴が見回すと、酔いが醒めた反動でか、貴広はツインの片方に転がって報告書と睨めっこを始めており、矢矧はノートPCを操作しながら煙草を噴かしていた。
 五十鈴がソファに腰を下ろすと、丁度シャワールームの扉が開いて、着替えた伊勢が出て来た。またからかわれると癪だと思ったのか眼鏡を掛けて、スーツもしっかりと着替えている。髪に湿り気が残っていなければ、とても今シャワーから出て来たばかりの人間とは思えない姿だ。
 「五十鈴、ネクタイもクリーニングに出して仕舞ったか?」
 「うん。ビールを被ってて匂ってたから…、って何かまずかった?」
 答えを聞くなり肩を落とす伊勢に首を傾げて問えば、とん、とPCの蓋を閉じた矢矧の呆れ声。
 「お前はどうせネクタイの替えなど持って来てないだろうが」
 「あんなの締めてたら飛ぶ時邪魔で…、あー…」
 答えながら気付いた五十鈴が手を打つ。一応カンパニーのエージェントの規定では、任務に支障の出る状況に無い限りは、戦闘にも耐えうる特殊なビジネススーツの着用が決まりとなっている。無論ネクタイとて例外ではない。形状やカラーは色々と用意されているしオーダーも可能だが、大概の者は職業柄か華美ではないものを選ぶ。
 カンパニーの商品にして勤務者であるメイドたちが、制服にして戦闘服であるメイド服の着用を義務づけられているのと同様に、男性エージェントにとってはビジネススーツがそれに当たると言う事だ。
 スーツはともかく、ネクタイに関しては五十鈴は、この職に就いてからと言うものまともに締めていた事など数える程しかない。自分の戦闘性能を挙げて、空中戦では邪魔になると言い張って避けている。
 ノータイ姿の五十鈴は社内の公の場で苦言を呈される事もあるが、「いつでも戦闘に備えておくのが仕事です」と言えば、情報部有数の性能と戦果故もあってお咎め無しとなる。
 貴広に言わせれば、ネクタイはエージェントにとって必須アイテムと言う程に利便性がある、だそうだが、元々首周りに何かが当たる事を五十鈴は好んでいないのだ。そのポリシーだけは幾ら敬愛する上司に言われた所で変え難い。ネクタイピンを勧められた事もあったが、なんだかんだと理由を付けて避けた。
 「俺の荷物から持って行くと良い。外に出られなかった分使ってもいなかったから綺麗だぞ」
 その貴広が、寝台に転がった侭足を揺らして言う。酔いが醒めてもフラストレーションは余り引いてはいなかったらしい言い種に笑いながら、五十鈴は立ち上がると貴広のスーツケースから丁寧に巻いて仕舞われていたネクタイを一本取り出して、伊勢へと手渡す。
 「替えが届いたら直ぐにお返しします」
 「別に、気にせずその侭棄てても構わんぞ」
 「そう言う訳にもいきませんよ」
 受け取った伊勢が早速ワイシャツの襟を立ててネクタイを結び始めるのを見て、そう言えば兄が休日でもないのにネクタイを締めていないのは珍しかったなと、そんな事を五十鈴は思う。
 眼鏡と、ネクタイと。それは恐らく目で見て単純に、伊勢と五十鈴との判別を付ける手がかりとしては一番先に来るものだろう。
 然しそれはどちらも、偶々の事として、後天的に出来たものだ。伊勢は読書が好きで、目を使い過ぎて近眼になった。一方で五十鈴には特に目を使う趣味がなかった。
 ネクタイも、双子の異能が風に纏わるものでは無かったとして、恐らく性格上や趣味の上での問題で、五十鈴は矢張りネクタイを結ぶ事を好まなかっただろう。
 双子の区別を決定付ける、最たる視覚上の要素。それは何れも偶然で生じたものでしかない。或いは、カンパニーの養成所でもずっと離れず二人で過ごして居たら、双方はもっと似通ったものになっていたのかも知れない。
 双生児は遺伝子の形質こそ同一であれど、その性格や体型などは環境的な要因で培われる為、後天的に大きく異なった人物に育つ事は珍しくないと言う。遺伝子に因る素養の傾向は多少の影響を示していても、結局個人を個人たらしめるものは育つ上で学習し会得したものに因る所が大きいと言う事だ。
 容姿が似ていると、矢矧は今更の様にそんな事を口にした。それも間違ってはいない。伊勢と、五十鈴とを最も解り易い部分で分けていたのは、紛れもなく外見的な違いだ。
 (…だからきっと、僕と兄さんが本気で互いを見た目から演じたら、矢矧さんはその区別を付けられはしないんだろう。いや、矢矧さんだけじゃなくても、PIXIESのメンバー全員を欺く事ぐらいは出来る)
 伊勢も口にした通り、情報部の任務は観察力と分析力が重要だ。エリートの集団でもあるPIXIESであれば、そこいらのエージェントよりその能力は遙かに洗練されている。
 だが、それでも。そんな仲間たちであっても、恐らく自分たちの明確な判別は出来ないだろうと五十鈴は直感的にそう思う。本気で、双子が互いを演じれば、それを見破れない様にするだけの振る舞いなど幾らでも出来る。それだけの自信はある。
 (もちろん、そんな事をやる意味なんて無いけど…、だけど、)
 寝台の上で腹這いになって、手元の報告書に集中している上司をちらりと振り返って、五十鈴は不安とも不審ともつかない、大凡自分らしくもない様な感情を、やり場もなく呑み込んだ。
 (………本当に、見間違える事などないと、断言出来るのだろうか)
 何の疑いもない様な言葉だった。余りにあっさりと忌憚なく物事を口にして伊勢を困惑させるのと同じ、いつものその調子で、お前たちを見間違える事はないと、そんな事を言い切った貴広に、果たしてこの感覚をどう説明すれば良いのだろうか。
 答えはなかったから、行き場もやり場も、何処にもなかった。
 
 *
 
 伊勢と矢矧が別に取っている部屋に帰ってから、シャワーを浴びた五十鈴がタオルで頭を拭きながら戻ると、貴広は静かな寝息を立てていた。
 「……」
 そっと近づいて覗き込んでみれば、貴広は俯せに枕を抱えて、その枕元には書類が無造作に置かれていた。そしてそのすぐ横に穏やかな寝息を立てている顔がある。
 明らかにうたた寝の様相だなと思うが、かと言って起こすのも忍びない。考えながら五十鈴は貴広の眠る寝台に腰を下ろした。そんなに高級なホテルではないので、スプリングがよく効きすぎていると言う事もなく、加重に軋む音こそしたものの、体が傾いて仕舞うと言う事は無かった。
 祝杯を、となる前に、貴広はとっとと眠って仕舞うつもりだったのか、シャワーは済ませていた。そこに伊勢と矢矧とが到着したので、報告と処理の引き継ぎとを兼ねた宴席にして仕舞おうとなって、先頃までの地味な騒ぎに繋がると言う訳だ。
 要するに、うたた寝でも問題はない。隠れ家を引き上げて来た時に荷物は既に纏めてあったし、明日早朝の便での本社への帰投は予めのスケジュール通りだ。無理をして起きていなければならない事もないし、時間も時間だ。
 (この侭寝かせて差し上げた方がいいかな。まあ書類だけは除けておこうか…)
 「五十鈴」
 答えが出たところで、肩に掛けたタオルから手を放した五十鈴の耳へと、いやにはっきりとそう呼ぶ声が飛び込んで来た。目を丸くして見下ろせば、枕にべたりと横頬を埋めている貴広の、紅い瞳が長い髪の間から覗き見えた。
 「…すみません。そっとしておこうかと思ったんですけど…起こしちゃいましたか?」
 「幾ら部下とは言え、真横に座られても眠り続けるエージェントと言うのはどうかと思うが」
 溜息と共にそんな事を言われて、五十鈴は「すみません」ともう一度謝るが、露骨な笑みがそこには混じっている。あふ、と欠伸をした貴広は枕を抱えていた片方の手をひらりと振って、直ぐ横にあるもう一つの寝台を指さした。
 「お前の寝床はあっちだろ。早く寝ろ。明日は早いんだ」
 「添い寝は駄目ですか?残念だなぁ」
 「何の為にツインを取ったと思っているんだ。添い寝も子守歌もいらんから、用が無いならとっとと寝ておけ」
 び、と隣の寝台を指さす動作に力を込めてそう言うと、貴広の手は再び枕を抱えた。目蓋も閉ざして、眠りに戻ろうとする。
 然し五十鈴は座った侭動かず、暫しの間じっと、貴広の静かな息遣いを聞いていた。
 「…隊長」
 やがて放たれた声は自分で思っていたより密やかで、起こしたかったのか、起きなくてもそれでいいと思ったのか、判然ともしなかった。
 「何だ」
 然し、返事は返った。眠っている様な静かな呼吸音に閉ざされた侭の目蓋。ともすれば幻聴かと思える程に、返る問いもまた密やかであった。
 「………さっき、見間違える事はないって言ってましたよね」
 「…さっき?………ああ、お前たち双子が似ているとかそんな話だったか…」
 「そうです、それ」
 頷く五十鈴を、ぱちりと目蓋を開いた貴広が横目に見上げて寄越す。それがどうかしたのか、と言いたげなそんな視線に促され、五十鈴は膝上で組んだ指を落ち着かなさげに動かした。
 「…どうしてそんなに自信満々だったんだろうって。気になって仕舞って…」
 浮かぶ疑問の形が余りはっきりしていない事に言っていて気付いて、五十鈴は困り果てた。問いの主旨が解らんぞと、貴広の返す呆れ声が聞こえて来る様だ。
 「どうしても何も、俺がお前たちを間違える訳がないだろうが」
 だが、返ったのはまたしてもきっぱりとした調子の断言であった。何一つ疑いなど差し挟む余地すら与えてくれない様な、地球は丸いのだと言い放つのにも似た、確信を含んだ断言──否、断定だ。
 (何で…、根拠も無いのに、そんな、)
 膝の上で指が拳になって強張る。どうしてこんなにもあっさりと、この上司(ひと)はそんな事を言い切れるのだろうか。伊勢と、五十鈴とが入れ替わってみせた事など過去にはないし、それを正しく見分けたことも過去には矢張り、ない。
 断言をするには不確定要素が強い。その癖に確信だけははっきりと断じられる。そんな貴広の言い種に五十鈴が憶えたのは、果たして如何様な感情であったのだろうか。
 己に問いてみるよりも先に、貴広が重ねて言う。
 「お前は、俺が伊勢と五十鈴とを間違えると思っているのか?」
 (………その返し方は狡い)
 僅かに身を起こし、枕の上に頬杖をついた貴広の顔を見下ろして、五十鈴は口端を下げてみせた。解り易い不満の態度ではあった。
 貴広は答えている様で何も答えては呉れていない。判断を質問者であった五十鈴へと委ねただけだ。だが、それもまたこの問いに対する解答の一つである事も事実であった。
 「…それは逆に嫌です。隊長にだけは、僕と兄さんを見間違える様な事はされたくないです」
 「ならば問題は無いだろう。俺は絶対に見間違えない」
 「………」
 確かに貴広の言う事は、五十鈴の問う「どうして」の答えではある。だが、見間違えない、と言う事に対しての根拠でも説明でも何でも無いのも確かだ。
 煮え切らずに唸る五十鈴の腕の辺りを、貴広の指がぴしりと弾く。
 「お前は俺を信じられないと言うのか?」
 「……信じているからこそ、答えは明確な方が良いとも思うんです。だけど、隊長の言う事も一理あるから、どうにも困り果てているんです」
 五十鈴は貴広の事を他の何をおいても信頼している。兄の伊勢にあるのは信頼を通り越した同一意識とでも言えば良いものだが、貴広は上司であるが他者であって、そう言ったものには該当しない。
 だが、それでも信頼はしている。故に、きっと見えない他者の未知の可能性を否定出来ないでいる事が、すっきりしない問いの原因なのだろう。
 恐らく、だが。伊勢と五十鈴が本気で互いを入れ替わり演じたら、矢矧らはおろか、貴広でさえも欺けるのではないかと、そんな懸念がある。
 見分けると断じられたそこに信頼はある。だが、そうと確定している訳ではない。伊勢を演じる五十鈴には、貴広を欺けるかも知れないと言う可能性がある。
 不安を払拭出来る根拠が足りないのだ。信頼と言う言葉をより裏付けしてくれるに値する、貴広なら必ず伊勢を見分けて五十鈴を間違えないと言う、明確な理由や、確証が。
 「……すいません。変な事を言いましたね。隊長の事を疑っている訳じゃないんです。ちょっと余計な事を考え過ぎました」
 貴広の物言いたげな視線から一方的にそう言って逃れると、五十鈴は湿ったタオルをサイドテーブルの上に放って、自分の寝台へと移動した。
 「それでは、お休みなさい。邪魔をしてすみませんでした」
 「………」
 にこりと笑って毛布に潜り込む五十鈴の背を、貴広は暫く見ていた様だったが、やがて溜息ともただの息継ぎともつかぬ息を吐くと、無言で枕に頭を落とした。ぼす、と言う音の後には、再び静かな寝息が響き始める。
 (…………自分で思っていた以上に、子供っぽい事を考えて仕舞っていたのかな、僕は)
 根拠が、理由が欲しかった。五十鈴(お前)だから解るのだと、貴広の口から、そう言って貰いたかったのだ。それこそ、何の確証も無い事だと言うのに。
 胸中でだけ嘆息すると、五十鈴は毛布の中に頭まで埋めて目蓋を無理矢理に閉ざした。
 
 *
 
 五十鈴が貴広の部屋の戸を叩いたのは、それから二日後の事だった。
 本社に帰投した二人は報告をまとめる作業と、留守の間に積もっていた仕事とに早速追われる羽目となったのだが、どうも伊勢が予め幾分奮闘してくれていた様で、それ程の惨事にはならずに済んだ。
 そうして余計な仕事も降って来なかったので、オフになった貴広は概ねいつも通りに寮の自室にほぼ一日籠もっていた様だった。趣味らしい趣味の無い貴広は、空いた時間は調べ物をしているか、ぼんやりと思索に耽っている事が多い。夜、五十鈴が戸を叩いた時もそんな空き時間の最中だった様で、「五十鈴ですけど」と言う名乗りを聞いて扉が開かれるまで、そんなに時間はかからなかった。
 「今、お時間は平気ですか?」
 「問題ない」
 素っ気ない答えと共に扉をもう少し開かれて、五十鈴は「お邪魔します」と言って部屋に上がった。寮の間取りは大体皆同じで、貴広の部屋とは続き間に寝室があるぐらいの違いしかない。
 机の前の椅子に腰を下ろす貴広の姿は、いつものワイシャツ姿と然程に変わりがない。ネクタイは流石に締めていないが、襟をきっちり留めてベルトまで締めているそんな姿は、余りリラックスしている様にも見えない。
 椅子の前、部屋に備えつけられているラグの上に正座した五十鈴は、「で?」と用向きを問う貴広へと、手に持っていたものを無言で差し出した。
 「……?」
 貴広が眉を寄せて、五十鈴の掌を見る。そこには小さな針と、環の形状をしたピアスがひとつ、乗っている。
 「…何」
 「見れば解るとは思いますけど、ピアスです」
 さらりと答えると貴広は更に不可解そうな表情を浮かべてみせる。五十鈴は針を左手で摘み、ピアスを右手の指先に引っかけてひらひらと振った。
 何の変哲も飾り気もない、ただのフープ状のピアスだ。金属の環で、針の方も専用のニードルではなく、机の中から適当に持って来たものだ。一応アルコールで滅菌処理はしたが。
 「…………で?」
 不可解を通り越して困り顔になりつつある貴広の手を引くと針と環とをそこに乗せて、五十鈴はにこりと微笑んだ。
 「空けて下さい」
 「…はぁ?!」
 「僕に」
 ぽかんと口を開きながら驚いた様な声を上げる貴広にそう続けて、五十鈴は微笑んだ侭正座の姿勢で貴広の姿を見上げた。
 貴広は手の上に無理矢理に乗せられた針と環とを見下ろしながら、首を傾げて、眉を寄せて、口を何度か上下させて。そうしてやがてぽつりと呟く。どこか呆れた様な表情と共に。
 「何故だ?」
 「貴方に空けて貰いたいんです」
 「…………」
 飽く迄にこにこと表情筋を全く変えず言う五十鈴に、何故、と問いを重ねても無駄だと思ったのか。貴広は大きく嘆息すると、机の上にピアスと針とを置いた。頬杖。そして溜息。
 「何処に開けるんだ。と言うか、専用の道具とかがあるんじゃないのか、こう言うのは」
 「まあ別に良いんですよ、何でも。どこでも。隊長に空けてさえ貰えれば、それで」
 重ねてにこにこと笑って続ける五十鈴の様子をちらと見やって、貴広は顔をそっぽに向けた。指先が、机の上に置かれた環の形をした金属をつん、と突く。
 「自分の体だろうが。随分と他人事だな…」
 「他人事って訳じゃないんですけど…、こんな稼業だと負傷なんて日常事ですし、余り拘りもないので」
 我ながら嘘くさい、と言いながら五十鈴は思う。情報部の戦闘特化の人員の中では、伊勢と五十鈴は最も負傷とは縁遠い。無論全くの無傷で常にいられるなどと言う事は無いが、双子の大気操作の能力は防御と言う面では相当に強固なのだ。
 「……で。何処にすると」
 深々と息を吐いた貴広であったが、もう何か指摘するのも言うのも諦めたのか、針を取り上げると持ち手を手布で摘み、その尖端をライターで焙りながら訊いて来る。
 「何処でも、隊長のお好きな所で」
 ひらりと両手を拡げて言う五十鈴をじろりと睨んで、熱で殺菌された針を軽く振って熱を冷ました貴広は、その鋭く尖った尖端を向けて凄んでみせる。
 「余り巫山戯ていると眼球に針刺すぞ」
 「それでも構いませんよ」
 「………」
 強がりでも冗談でもない。五十鈴はそれでも貴広のする事なら構わないと断言出来る。そんな五十鈴の性質を知り尽くしている貴広は、言ってから自分でうっかりと想像でもして仕舞ったのか、目元を軽く押さえる様な仕草をしてから、熱したばかりの針を嫌そうな顔を浮かべつつそっと置いた。
 「では、普通に耳にしておけ。一つしかないが、左右どちらにする」
 体のパーツは、取り分け外見的なものは二つ揃いであるものが多い。だから元々一つで、片方で、左右非対称で構わないと思って、一つしか用意して来なかった五十鈴は小さく頷くと、「では、左耳に」と言った。
 「昔は、護る人と言う感じの意味があったそうですから」
 「ふぅん」
 膝立ちになって体を少し斜めに向けつつ口にする、真偽も出所も定かではない五十鈴の説明を、貴広は溜息混じりに聞き流した。それから椅子に座り直して、目線より低い位置にある五十鈴の側頭部をつんと小突く様な仕草をしてから、そっと左の耳朶へと指を触れさせる。
 「冷やすと痛みが少ないらしいからな」
 言うなり、針も手に取らない侭に、貴広の指の触れている、五十鈴の左の耳朶だけがひやりと冷えた。痛い、と言うよりは、冽いと、そう思った。
 漆黒だ。耳朶を摘んだ貴広の指先から湧いたそれは一瞬で小さな孔をそこに穿って、次の瞬間には、生じた孔に金属の環が通されている。
 「出来たぞ」
 言われて、手がそっと離れる。五十鈴はまだひやりと感じられる自らの耳朶と、そこに空いた孔を通った環とに僅かに触れてみる。果たして血さえも凍って乾いたのか、痛みも出血もない。
 「一瞬なんですねぇ…」
 「今は傷が凍って仕舞わない程度に冷やしてあるが、じきに元に戻るから、消毒だのケアはちゃんとしておけよ。俺の所為で耳朶が腐ったとか言われるのは不本意極まりない」
 「はい。ありがとうございます」
 立ち上がった五十鈴は、漆黒を生じさせた貴広の指を恭しく取って、その爪の先に口接けて微笑んだ。振り払われこそしなかったが、椅子に腰掛けた侭頬杖をついた貴広は、自らが五十鈴に穿った小さな孔を見上げて目を眇める。
 「………そんなものを通さなくとも、お前達を見間違える事は無いぞ」
 恐らく、ピアスを持って現れた五十鈴を見て、貴広の脳裏にも先日の一件が咄嗟に過ぎったに違いない。
 伊勢と、五十鈴と、双子が互いを演じた所で。眼鏡をかけてネクタイを解いた所で。肉体そのものに刻まれた『印』だけは、代え難い。──だからなのではないかと。
 「それは多分、解っているんです。……だけど、伊勢には無いものを、判別とかそう言う目的ではなく、ただ…、」
 (僕では、貴方が最も信頼している伊勢にはなれないから。根拠なんて無かろうが、貴方は僕たちをどうやっても見分けて仕舞うと確信しているから。だからせめて、伊勢とは違う特別な『何か』を、貴方の手から与えられたかったのでしょうね)
 言葉は結局形にはなって続かなかった。言いかけた侭黙り込む五十鈴の言いたい事を察したのかは解らないが、貴広は緩やかにかぶりを振る。それはどこか捨て鉢な仕草にも見えた。
 「見間違えやしないと言うのに、趣味の宜しくない事を人にやらせて、それでお前の満足は得られたのか?」
 「はい」
 微笑んで五十鈴ははっきりと頷いた。受けて、貴広はどこか呆れた様に肩を竦めてはみせたが、「そうか」と納得を示す以上の事は言わずにいてくれた。





うちでの五十鈴像は隊長愛をものっそ拗らせてます…。かすのやりとり読むと重度の拗らせとしか思えなくて。
ピアスの経緯は完全妄想ですし、片耳か両耳かすらよく解らないと言うのが現実。隊長のオンリーワンのひとつになりたいと言うのは、控えめなのか図々しいのかよくわからんレベル。
隊長の双子判別方法は、本能と言うか勘。けど百発百中。

Ah rossi, rossi, flori,
Un mazzo di violi!
Un gelsomin d'amore- -Per dar al mio bene!

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