三界の狂人は狂せることを知らず

※飯島がPIXIES隊長やってた頃の妄想です。
=========================



 中央島から、無理を通して乗り込んだ輸送機は、商品管理部のメイド達を乗せた移送便であった。
 行き先は世界の最果て。南南部第2563号島。護衛メイド最終訓練工程試験連絡洋上訓練所──つまり、この便に搭乗している数人のメイドたちは皆救い難い程の落ちこぼればかりであり、その先行きには明るい未来などない。
 その所為かハーネスを装着して座しているメイドたちの表情は暗く、機内は会話一つない。引き渡しを行う担当の、商品育成課の人間もこの空気に慣れているのか、退屈そうに海しか見えない窓の外を見つめている。
 何しろ世界の涯てへの旅路なのだ、如何にカンパニー領内と言えど手軽に使えるネットワーク用のアンテナが行き届いている筈もない。数時間に渡る移動時間の暇潰しにも困ると言う訳だ。とは言えメイドたちの手前眠りこける訳にもいかないのだろう。難儀なものだ。
 親しくもない人間と下らない無駄口を叩く趣味はない飯島だが、機内の陰鬱に淀んだ空気にはそろそろ辟易していた。否、緊張を紛らわす手段が機内の観察程度しか無い事にうんざりとしていた。
 風を切って飛行する輸送機の、小さな窓から外を見遣る。矢張りそこには想像した通りの、海と空の境界さえ見誤る程にただただ濃い青の世界が広がっていた。
 世界の涯てと、そう称されるこの海域には、何一つ標はない。よく晴れた日にはただ果てしなく頭上に蒼穹を拡げた絶海。
 黒に見える程に澄んだ青い色は目に鮮やかに過ぎて、飯島は目蓋を下ろした。それでも、あの朱色の世界よりはましだろうかと、そんな事を思う。
 空も大地も海も何もかもが朱の一色に染められ、血と絶望さえもその色に染まった、あの世界より恐ろしいものは無い。きっと。
 
 *
 
 世界を朱の色に染めた、朱キ日と呼ばれる災厄の日から、一年ほどが経過していた。
 北米大陸はその殆どが大地を砕かれて海に沈み、世界の地図は短期間で幾億年分ぐらいは軽く書き換わった。その原因たる怪物、極東日没に敗北したPIXIESはほぼ壊滅状態になり、未だその立て直しは完全とは言えない侭でいる。
 PIXIESを率いていた神崎貴広は左遷され、構成員のほぼ全てが殉職した。辛うじて生き残った主力の五人はその後揃ってカンパニーから逃亡し、六天全てを失ったPIXIESに残されたのは、飯島を含む僅かの補欠要員のみだった。
 情報管理部はまだPIXIESを解体するつもりは無かったのか、生き残った者らに加えて増員を寄越した。皮肉にも朱キ日を生き延びた事で序列の上がった飯島はその隊長に任命された。
 だが、飯島に言わせればそれは、PIXIESと言う名をしただけのただのどんがらだった。嘗ての、強大な力を有した六天には、今の構成要員たちが束になってかかった所で、その一人すら打ち倒す事は出来まい。そのぐらい圧倒的に組織力と戦力の低下と言う事実は否めなかった。
 それでも、情報管理部がPIXIESの解体と言う方策を取らなかった以上、それは期待されていたと言う事なのだろう。飯島にではなく、PIXIESに。PIXIESと言う名前にはそれだけの力があった。
 それを解っていたからこそ飯島は隊長として、これからの任務で成果を上げていかねばならなかった。
 そんな最中、任務で出向した中央島にて、第2563号島行きの輸送機が出ると言う事を耳にした飯島は、半ば反射的に飛行場へと向かっていた。輸送機は商品管理部の、所謂『島流し』になるメイドたちを運ぶもので、物資の類は積載していない。第2563号島の生活物資は定期便で送られていており、今日はその日ではない。
 飯島が中央島に滞在する、偶々にその日に、物資輸送以外の便の飛行予定があったと言う事だ。
 商品管理部と情報管理部とは、同じ取締役会傘下ではあったが、部署の性質上決して仲が良いと言えるものではない。だが、輸送便の座席に空きがある事を知った飯島は、横車を押す事を選んだ。頼み込んだとしても命令書がない限りは恐らくは搭乗させてなど貰えないし、許可を取ろうとした所で叶う筈もない。
 嘗ての部下が嘗ての上司に会いに行きたいと思った──などと言う合理的ではなく、意味も然して無い様な事。況してや六天五人の逃走以降、彼らが貴広にコンタクトを取る可能性は常に懸念されている。飯島は彼らとは無関係だが、そう疑いが生じそうだと言う段階で既に論外なのだ。
 そうしてパイロットと、メイド輸送の担当者に小金を握らせた飯島は、こうして居心地の悪い輸送機に揺られていると言う次第だ。
 中央島に一日滞在する事は予めの予定の通りだ。第2563号島との往復は、余り速度の出ない輸送機なので数時間と言った所。スケジュール的には問題はなかった。
 だが、半ば勢いで輸送機に搭乗したものの、飯島の胸中は靄がかった様に淀んで、すっきりとしないものだった。
 緊張している。それは解っている。緊張してまで、自分は一体神崎貴広に会って何を言いたいのか。何を言って貰いたいのか。それが解る様で、解らない。
 養成所での成績は、控えめに言っても悪くなかった。飯島自身も己の能力にそれなりの自信はあった。特殊情報課の肝煎り部隊の結成に、是非ともその一員として引き上げられようと奮闘した。
 だが、飯島に与えられた立ち位置は、PIXIESの中でも末端。補欠要員と言う『その他大勢』の構成員に過ぎなかった。三十六人のエリートからはあぶれた、端数の一人だった。
 仲間を大勢殺してそれでは、余りに釣り合わない。否、釣り合っているからこその圧倒的な力量差であったのか。
 PIXIESだけが特別なのだとは解っていた。飯島の能力ならば、他の情報管理部の部署では正規の構成員に値する。
 だから、PIXIESと言うのはそれだけ凄い存在で、自分が末端とは言えそれに数えられている事を誇りに思う事にした。そうしなければ余りに報われなく救われないと思った。
 実際、他の課から見れば、三十六天だろうが補欠だろうが、然程に変わらない程の水準なのだ。
 飯島は、神崎貴広に初めて会った時から、その存在に畏怖を憶えていた。洌く、厳しく、恐ろしい。人間の分を越えたそこに佇む彼を、畏れた。
 同時に。何でも無い事の様にその横に侍る、五人の人間が恐ろしかった。
 圧倒的な力の差は、畏怖からやがて憧れに変わり、畏敬と己の誇りへと変わった。
 彼らは、彼は、恐ろしいものだが、自分たちの味方で居てくれる存在なのだと、そう信じていた。
 そんな彼に、己がPIXIESの後任の隊長となった事の報告をしたとして──貴広がそれを喜んでくれるかどうかなど解らなかったが、何も言わずに去った六天よりも、自分の方が役に立てるのだと。そう言いたかったのかも知れない。
 (……だから、案ずるな、とでも…?)
 貴広は何だかんだで部下への情は厚い男だった。島流しにされ、あらゆるネットワークから隔絶された彼には、飯島も、六天も、PIXIESも、どうなったかを知る術はない。
 PIXIESは自分が継ぐと。そう告げた所で、貴広はそれをどう思うのだろうか。何を言って欲しいのか。無理を通して輸送機に搭乗して来た嘗ての、末端の部下の一人の分際が。何を彼に求めているのだろうか。
 判然とはしないから。だから飯島の裡の靄は晴れない。陰鬱に淀んだ機内で、緊張に身を固くしながら、ただ目を閉じ座している。
 その行く先に島影が見えてくる事をこそ恐れているかの様に。
 
 *
 
 輸送機が着陸したのは、島の端に存在する大きな滑走路だった。
 唯一見える洋館風の建物ぐらいしか目立った建造物のない、小さな島だ。屋敷に併設されたヘリポートもある様だが、この規模の輸送機が降りる事が出来るのは滑走路の方だけらしい。
 現地の、作業服を着た誘導員が誘導旗を振って出す指示の通りに着陸した輸送機から、担当者に促されたメイドたちが次々降りて行く。飯島はそれに続いて一番最後に機体を降りた。
 滑走路の隅に居た作業員達はパイロットと何か書類のやり取りをした後、滑走路に燃料タンクを積んだ小型車を運んで来た。帰りの燃料の補給だろう。
 その時、メイドたちが一斉に頭を下げた。その動きに視線を投げると、居並ぶ彼女らの前には、何やら幼気な印象のする女性と、メイド長らしき女性とが並んでいた。恐らくこの島の人事の担当なのだろう。メイド長はともかく、幼い方はその侭担当者と書類のやり取りを始めている辺り、この島の管理職なのだろうか。本社では考えられない様な人事だと、飯島はそんな事を思って目を細めた。
 果たしてそんな事を考えていたのが解った訳ではあるまいが、書類にサインをし終えた女性がふと顏を起こして飯島の方を見た。商品管理部のものとは微妙に異なる、戦闘用のビジネススーツ姿の飯島の姿を、彼女は訝しむ様に見て寄越す。
 幼い顏立ちの形作った、露骨に不審なものを見る様な表情を向けられ、飯島もむっと顏を顰めた。然し彼女が何か口を開くより先に、こつこつと硬い音が響いてきた。
 足音。と、少しずれて聞こえる硬い音。滑走路への階段を昇って来るその音に、自然と飯島の意識が吸い寄せられる。
 果たしてそこに現れたのは、憶え深い嘗ての上司の姿であった。
 良い仕立てのスーツに、洌い印象を受ける丹精な顏立ち。その靴底の立てる足音に混じる音は、彼が右手に持った杖がコンクリートの地面を突く音だった。
 「………──」
 老人の持つものや、洒落た細工のものではない。単純に実用性を目的とした杖は、明らかな歩行補助の為の器具だ。こつ、とそれが地面を叩く、そこから少し遅れて左の足が動く。前へと進む。不器用に。不格好に。不自由に。
 我知らず息を呑んだ飯島の存在に、貴広は気づいたのか僅かだけ視線を投げたが、直ぐ様に顏ごと視線は逸らされ、彼は前方に並び控えるメイドたちへと向き直った。
 「霧島、書類の確認は」
 「問題ないでちゅ。人事の書類には後でちゃんと目を通しておいてくだちゃいね」
 「解っている」
 そんな貴広の傍らに、先頃の幼い女性が近づき、書類の収められたファイルを手渡した。然し、受け取った貴広はちらりとその表紙を一瞥しただけで中身を検めもせずに返す。
 「さて……──、これから貴様らを預かる、護衛メイド最終訓練工程試験連絡洋上訓練所所長、神崎貴広だ。施設の細かな説明やカリキュラムについてはメイド長に一任してある。因って俺が直接貴様らを指導する事は無いが、務めとして憶えておく様に」
 「は、はい!」
 メイドたちが頭を下げるが、動きはバラバラだし作法もなっていない。飯島は商品育成に携わった事は無かったが、さぞやつまらない仕事なのだろうと思った。
 そうして、貴広に言われ進み出たメイド長の指示に従ってメイドたちが滑走路から去っていく。その背を見送ってから、霧島と貴広に呼ばれたあの幼気な女性がくるりと振り向いた。
 「それで…、所長」
 じっと貴広を見つめた侭で居た飯島と、その不躾とも取れる態度に対して何も口にしない貴広とが、互いに知らぬ顏ではないと判断したのか、霧島はおずおずとした調子で口を開いた。ちらりと飯島を見る、その視線はやはり不審なものを見る様な目の侭である。
 「あぁ…。本社に居た頃の部下だが…、その様子だと、此処に来ると言う連絡は受けていないのだな」
 「はい…」
 霧島は先頃担当者に渡された手続きの書類に目を落としてはみせるが、飯島が全くの員数外であると言う事など、確認を取り直すまでもなく解っているのだろう。それ故の不審に過ぎる表情なのだろうから。
 メイドの引き渡しと言う仕事が済んだからか、滑走路に佇む三人の人間には一切の興味を示す事もなく、担当者は欠伸を噛み殺しながら輸送機へと戻って仕舞っている。ネットワークは疎か、暇潰しの施設すらなさそうなこの島での滞在時間は、彼にとって苦痛でしかないものなのだろう。早く燃料を補給し帰還したいに違いない。
 燃料は、今漸く補給を始めた所の様だ。ポンプの回る音がし始めた。そんなに時間はかかるまい。
 用事があるのであれば。目的があるのであれば。期待があるのであれば。もう時間はそんなに残ってはいない。
 「──で。……飯島、報せも無しに何の用件だ?よもや、内偵や暗殺ではあるまい?」
 こちらを向く、眼鏡の奥の眼差しは、相変わらず洌くて鋭い。髪は少し伸びた様だが、その他には目立った違いは見受けられない。神崎貴広の、その侭の。飯島の憶えている、畏れた、憧れた、その侭の。
 だが、痛烈な違和感をそこに覚える。杖をついているから?右足が動かないから?
 違う、それだけではない。佇まいから、どこか気の抜けたものが感じられる。その能面の様な顏立ちは一年前と何も変わらない、笑い方など知りませんとでも言う様な、洌い無表情だと言うのに。
 「……そうだと言ったら?」
 返す言葉は平淡に出てきた。敬語を忘れた事に気付くが、訂正する気すら湧いて来ない。
 貴広は憤りの態度を見せる事すら無かった。咎める事も。ひらりと杖を持たない左手を振って、さもどうでも良い事の様に言う。
 「生憎、見ての通り何もやましい事はしてはいないし出来ようもない。本社の望んだ侭の、波音以外何も無く静かなだけの絶海の孤島だからな」
 「………」
 胸中に俄に湧いたのは、恐らくは憤り。或いは──
 飯島は、嘗て憶えた畏怖が最早そこに感じられない事に動揺はした。だが、何故だろうかすんなりと納得もした。
 これは、神崎貴広であって、そうではないものではないかと。そう思った。
 「まあ、調べるならば好きにやれ…と言いたい所だが……、そのつもりも無い様だな」
 嘗ての部下を見つめる彼の表情からは、情熱や興味の無さと言ったものがありありと伺えた。まるで、飯島が説明や報告などせずとも、彼はそれを知っているかの様だった。知っていながらどうでも良さそうですらあった。
 飯島がPIXIESを継いだ事も、PIXIESが嘗ての栄光を保って機能出来る様な戦力を取り戻せていない事も。
 ああ、だからこそ彼は、どこか憐れむ様な表情をしているのだろうと──そう、解った気がした。
 「……」
 捨て台詞も、別れの言葉でさえも出て来なかった。痛烈な違和感を胃の底で憶えながらも、飯島は無言で貴広に背を向けると輸送機へと乗った。仕事を終えた所で呑気に眠っている担当者の男を一瞥すると、出来るだけ離れた席に腰を下ろし、背を丸めて頭を抱える。
 ぐるぐると空転する思考が何一つまとまらない侭、程なくして燃料の補給を終えた輸送機が、扉を閉じてタキシングを始める。今、窓を除けば青以外の様々な色や、或いは未だ立っているのかも知れない嘗て畏怖した人の姿も見えたかも知れないが、そうする気にも最早なれなかった。
 エンジン音を立てながら滑走路を走った機体が浮上し、ランディングギアを機体腹部に収納した輸送機が水平の安定飛行に入った頃、飯島は己の感じた違和感と落胆との名前が失望と言う感情なのだと理解した。
 隙はありすぎた。あの邂逅の数分、数十秒だけで、何回神崎貴広を殺せただろうか。嘗ては触れる事や近づく事さえ畏れた男は、ただの人間の、それ以下のものに成り果てていた。
 それでも確信はある。きっとあの五人は示し合わせて神崎貴広に付き従ったのだ。あの頃と同じ様に、何でも無い事の様にして、PIXIESと言う名前も栄誉もあっさりと捨てて、貴広に添う事を選んだのだ。
 杖をついて不自由な足を補い歩く貴広には、最早嘗て飯島や他の誰もが憶えた様な畏怖や畏敬は無い。
 あれは恐怖と死とを振りまく怪物ではない。最早、嘗ての、PIXIESを率いた絶対的な強者、漆黒の神崎と呼ばれた男では無い。ただの腑抜けた一人の人間だ。PIXIESと言う名に興味すら失い果てたただの残骸だ。
 あんな腑抜けた男に、何の価値があると言うのか。
 (……そうだ。矢張り、そうだ…!)
 失望と同時に湧いたのは天啓の如き閃き。六天、あの五人が貴広に未だ心酔している事には、きっと意味があるのだ。腑抜け果てたただの常人でしかなくなった筈の男は、神崎貴広はきっと、己の憧れた存在では無くなってなどいないのだ。
 そうでなければならない。そうでなければおかしい。あの男にはきっと未だ、意味が、価値が、ある筈なのだ。六天がPIXIESと言う称号を捨ててまで固執するだけの何かが。きっと。
 それは奇妙な確信だった。或いは単なる願望でしかないものだったのかも知れない。
 だが、それでも。飯島の裡でその事実は恰も確定された事の様にして綺麗に収まり過ぎた。余りにも、符号が合い過ぎていた。
 そうでなければ。そうでなければ、ならないのだ。飯島にとっては己の誇りであったPIXIESが。積み上げた仲間の屍の上に漸く得た栄光のひとかけらが。
 
 ──そんなに、容易く棄てられて仕舞う程に、価値の無いものではあってはならない。
 
 
 *
 
 敗走は既に二度目だ。
 今度は朱でも無い豪雨の空の下、飯島は自らに追っ手の無い事を、時間をかけてゆっくりと確認してから、漸く密林の中を転げる様に駆けていた足を止めた。
 まともな地面ですらない山中は、雨の酷さも手伝って、まるで悪夢の中の様ですらあった。溺れそうな悪夢。憶えのある味わいを伴った痛苦。
 通信機器を操作し、救難信号を発する。そうしてから大木を背に座り込んで、泥濘の中に拳を叩きつける。
 極東日没。ナーサリークライムの一人。カンパニーにとっては時折現れ去って行く迷惑極まりない破壊の権化。闘争と殺戮とをただ楽しむだけの怪物。
 PIXIESがそれに遭遇したのは二度目であった。
 否。初めてであった、と言っても良い。
 (そうだ……これは、PIXIESであって、そうではない…、だから…、)
 為す術もなく殺される部下たちを尻目に、作戦の失敗を悟った飯島は速やかな離脱の決断を下した。従えた者が何人居たかなど解らない程の、完膚無きまでの敗走。
 そうして遁走の果てにここにこうして力なく座り込んでいる。
 (あの、六天にでさえ、神崎貴広でさえ、敗れたものが──、俺たちに、どうにか出来る筈など、)
 痛いほどに身を打つ雨粒を見上げて、飯島は喉を鳴らして哄笑した。余りに愚かしいと思った。余りに無様で、余りに当然の帰結である事を前にすればもう、悔しいとも悲しいとも、何の感情も湧かなかった。
 これでもう、PIXIESと言う名は潰えるだろうと理解していた。だが、それは己の憧れ、誇りに思っていた組織ではない。
 それは既に壊れた。彼ら自身が壊した。飯島の憧れ続けたものたちがその手で棄て去った。
 だからここに残っていたのは単なる残骸でしかない。同じ名をした、ただの空っぽの紛い物だ。
 (……そうか。清算出来た、のか)
 未練を。
 嗤いながら飯島は泣いた。己の拘り続けた名前は失せる。だがそれにさえもきっと、己の憧れ追い続けた者らは眉一つすら動かすまい。
 泥濘を拳に握り込みながら、飯島は更に勢いを増した気のする雨の中、意識を手放した。
 救援部隊の乗った航空機の音が、遠くから聞こえて来た気がした。
 
 *
 
 憶えの無い天井は白く無機質で、窓一つない壁もまた不気味な程に白かった。
 医務室だ、と飯島は直ぐに察する。病院であったらこんなに病人を無表情に歓迎する様な冷たい清潔過ぎる白さは保っていまい。
 記憶と意識とは幸いすぐに繋がった。元々情報部では不測の事態であれど混乱や動揺はしない様にと訓練されている。
 恐らくは降下してきた救助隊によって回収され、本社か支社か、とにかくカンパニー内部の医務室へと運び込まれたと言った所だろう。
 敵──あの怪物からは速やかに逃げた。だから負傷はその際に負った擦り傷程度であり、重症は何一つ負っていない。精々あったとして、雨で身体が低体温症になりかけていたとか、その程度だろう。それは現状の生命の危機には直結していない。
 入院着の身には検査機器の類は無く、点滴のバッグが一つ下がっているだけだった。見上げてみるが、どうやらただのリンゲル液の様だ。
 本当に軽症らしい、と苦々しく判断した飯島が頭を巡らせてみると、枕元には己のスーツ一式が畳まれ置かれていた。目を覚ましたら速やかに仕事に戻れと言う事なのだろう。事務的と言うよりは無味乾燥なものだと思って苦笑する。
 まずはPIXIESのオフィスへ向かって被害の把握をしなければなるまい。処分も、処遇も、それからの話になる。
 舌打ちをした飯島は、輸液の滴下している管を毟り取る様にして腕から引っこ抜くと、さっさとスーツに着替えていく。スーツはカンパニーの戦闘要員の着用するそれで、一般の社員のものとは素材や機能性が異なっている。
 怪我がないのだから甘えるなと、痛烈に突きつけて来る様な装束だ。ワイシャツに袖を通し、ズボンを穿いてベルトを締める。続けてネクタイを手に取った所で、「あ!」と若い女の声がした。
 飯島が声のした方へと視線を動かしていくと、病室と言えど程度の軽いものだからか、扉すら無い部屋の入口に、まだ若いメイドが丸く目と口とを開いて驚いた様に立っているのに出くわす。
 メイドの年頃はまだ十代程度だろうか。緑の美しい黒髪を長く伸ばし、白を貴重とした看護用メイドの装束を身に着け、カルテの様なものを片手にぽかんとした侭突っ立っている。
 「…何だ」
 立ち尽くしているメイドに向けて思わず唸る様にそう問えば、そこでメイドは漸く硬直から脱した。ぱちりとまばたきをして、顏を一旦部屋の外に出し、戻してからカルテを見る。怪我人の名前を確認してでもいるのだろうか。
 「いけませんよ、まだ起き上がっては…。ええと、怪我…は、大した事は無いとありますが、どんな小さな怪我だって、痛みはあるのですから」
 カルテを抱えたメイドはそう言うと、病室内へとしずしずと入って来た。外れた侭になっている点滴を困った様に見つめて首を傾げている。ひょっとしたらどうしたら良いのか解らないのだろうか。
 「……看護メイドか、貴様」
 「いいえ。心得はありますが、違います。あ、失礼しました、私の名は──」
 「いらん。とっとと出て行け。看護メイドでは無いのなら尚更だ」
 飯島の問いにかぶりを振ったメイドが続けようとするのを制してぴしゃりと言うと、飯島は止まっていた手の動きを再開させた。ネクタイを慣れた手付きで結び、上着を掴む。
 「無理をなさる時では無い事もあります。貴方は物凄く『痛み』を伴う『怪我』をなさっています。少しお休みになった方が、」
 「黙れ!その無意味なカルテにもあるだろうが!怪我など何処にもしてはいないのだぞ!?休めだと?貴様の目は節穴か?ええ?」
 まだ幼さを残したメイドの言葉は、飯島の裡の何かに触れた。それは恐らくは自尊心を逆撫でする様な何かだったのだろうが──深く追求しようとも分析しようともせず、飯島はかっとなった勢いの侭に腕を振り上げた。
 メイドはカンパニーの商品だ。そして、商品は管理されこそ商品たり得る。
 そして情報管理部など一部の部署に於いては、商品に『融通』を利かせる事が許されている。商品を正しく管理する事の中には、生殺与奪の権も当然だが含まれている。
 飯島の様な者が、この『商品』がカンパニーにとって不適格と判断したのであれば、それを処分した所で然したる咎めは受けない。それは業務の範囲内であるからだ。
 飯島は、己の振り上げた拳がまだ若いそのメイドの頭部に命中し、頭蓋を砕かれた彼女が耳や鼻から血を流しながら床に倒れる所を想像した。それは僅か数秒もかからぬ後の光景であった筈だった。
 「………っ」
 だが、飯島の手は、メイドに触れる寸前で止まっていた。
 メイドは、怯えも、引きもせず、ただじっとその場に立っていた。
 先頃の様に凍りついた様に固まっているのではない。事態を理解出来ず呆けている訳でもない。
 彼女はただじっと飯島を見つめていた。
 腕を振り上げた姿勢は見えている。だから普通の人間であれば、殴られると思って反射的に身構えるなり怯えるなりをする。
 然しそのメイドは僅かたりとも動かなかった。恐れの一切もみせず、ただ飯島を、痛い所を突かれ苛立った侭に拳を振り上げる男の姿を、毅然とした眼差しで見つめているだけだった。
 まるで、神崎貴広の様だ。痛みや恐怖を押し殺すのではなく、感じないかの様に見つめて来る眼。
 「……チッ」
 反抗的な目だ、と、異なった理由を付けて殴っても良かった筈であった。だが、飯島の裡からその気は完全に失せて仕舞っていた。
 「貴様は2563号島行きがお似合いの欠陥メイドだな…」
 捨て台詞と解っていたが、そう口にせずにはいられなかった。このメイドを見ていたら、要らない事を思い出して仕舞った。だからだ。
 「…せめて、お医者様が戻るまでお待ち下さい。今、温かいお茶でもお淹れしますから」
 先程までの凛とした気配は何処へやら、メイドは気が抜けた様な微笑みを浮かべてそう言うと、ぺこりと頭を下げて出て行った。
 あの呑気なメイドは宣言通りに茶を淹れて戻って来るだろう。そんな茶番になど付き合う気にはなれないし暇もない。飯島は上着に袖を通すと立ち上がった。寝台の下に収納されていたビジネスシューズを履くと、後はもう振り返りもせずに医務室のある医療棟を後にする。
 どんな時であっても、己の思考に入り込んで来るPIXIESの──嘗てのPIXIESの記憶を、神崎貴広への憧憬は、踵の下きっと影の様に付き纏っている。あの男の影は至る所に残っているし、飯島の裡からも決して消えようとはしてくれない。
 (神崎を……、六天を…、奴らを凌駕出来る力や、組織さえあれば…!)
 仮に、腑抜けた貴広が力を取り戻したとして──それを六天は確信していたとして。  だが、『そこ』に飯島の席はもう無い。嘗てPIXIESの一員として見上げる事の叶ったものは、追えずとも手を伸ばす事ぐらいは叶ったそこは、もう失われて久しいのだ。
 だが、諦めきれない。棄てきれない。何をだろうか。栄光か。偶像か。夢想か。恐怖か。それとも──希望をだろうか。
 「飯島克己さん?『元』PIXIESの…」
 弾いた舌打ちに重ねる様に、背中から女の声がした。余計な思考に惑わされていて気付くのが遅れた不覚に、然し肩が僅かに揺れる程度で済んだのは、一応は特殊情報課のエリートと言う己の矜持故にか。
 「……誰だ、貴様は」
 警戒は隠さず振り向く。
 この、世界で一番剣呑ではあるが平和でもある本社で何を警戒すると言うのか。飯島のその疑問に答えたのは、廊下に佇むメイドのエプロンに染め抜かれた、紅い逆十字のエンブレムだった。
 (ALICE IN CHAINS…!商品管理部の粛清部隊が何故…!?)
 ALICE IN CHAINSは商品管理部下の、監査室に属する戦闘メイドの粛清部隊だ。情報管理部とは部署が異なってはいるが、社内監査の役割も持っている為に、場合に因っては、或いは。
 粛清の可能性を思って身構えかける飯島に、戦闘メイドらしく二刀の太刀を腰に佩いた女は、眼鏡を直しながらそっと微笑んでみせた。
 「ALICE IN CHAINSから、個人的に貴方をスカウトしに来ました。乗って下さると言うのであれば…、監査室室長職へ推薦します。粛清部隊では特殊情報課からは格が下がるかも知れませんけど、決して悪い話ではないと思いますよ?」
 「……は?」
 「戦力と手駒とが必要でしょう?──…ナーサリークライムを試すと言うのであれば」
 女の言葉が最後まで紡がれるより先に、半ば反射的に飯島の手は素早くワイヤーを繰っていた。いつでも袖口に隠してあるそれは、硬度や切れ味に関してはそこまでではないが、人間ひとりの首ぐらいは軽く締め上げられる。
 女は粛清部隊の戦闘メイドなだけあってか、判断も早く後方に飛び退いて己の首に纏わりつこうと飛んだワイヤーから逃れた。着地と同時に、腰溜めの姿勢で二刀を交差させた左右の手で抜刀すると、追撃に飛びかかる飯島の手から再び伸びているワイヤーを断ち斬る。
 刃物であっても切断の難しい筈のワイヤーが、細かく幾つもの断片に分かれてひらひらと力無く落ちて行くのを、指先の手応えから知る。
 なかなかに良い速度と鮮やかな太刀筋であったが、飯島の本命はそこにはない。元々急場を凌ぐ為のワイヤーで、戦闘メイドを取り押さえられるとは思っていない。
 上着の下に隠し持っていた拳銃を抜いて突きつける。彼我の距離は腕一本分。距離は殆ど空いていない。女が何をしようが、飯島が銃爪を引く方が圧倒的に早い。如何に強化人間であろうと、脳が砕ければ死は避けられない。
 だが、飯島の指が銃爪を引く事は無かった。粛清部隊の人間を殺す事に躊躇いがあった訳ではない。捨て置けぬ言葉を口にした、それを問い質す事の方が大事だと思えたのは、女には殺気や恐れの類が全く無かったから、と言うのもある。
 女は柄を交差させて持った刀をその侭に、額に向けられた銃口を視線で見上げてくすくすと笑い、あっさりと手のひらを開いた。刀が二本とも床に落下する。
 「実は私、戦闘メイドになったのは最近なもので…、こう言った事は不得手なんです。元々研究者なんですよ、これでも」
 「研究者だと?」
 研究者と言う事はLAB出か、それとも窓際部署の研究開発部か。何れにせよ妙な経歴だ。戦闘メイドも基本的には改造──否、戦闘向けの改良を施された人間のメイドだが、それでも基本的には通常のメイドたちの中から運動や戦闘に長けた者が選ばれたり、もっと良い給料を目当てに志願したりするものだ。
 「ええ。どうしても実験してみたいものがあったのですが、許可が降りる筈は無かったので、自分を被検体にしてみただけです。結果は見ての通り、ただの研究者の私程度でも、特殊情報課エリートの貴方に秒未満で殺害はされずに済む程度には確かだった訳ですが」
 飯島の訝しむ声に、女は銃口を前にしながら、何かに憑かれでもした様に熱弁を振るう。
 「力が、必要でしょう?飯島さん。貴方の事はよく知っています。『私と同じ』だからこそ、よく知っていますよ?」
 餌だとは思った。だが、その餌は余りに、捨て置けぬ程に、飯島にとっては食いつく価値のある言葉で出来ていた。
 「同じだと?」
 「ええ。ええ。ですからこれは共犯の申し出。私には私の研究の成果でそれをなす為、目的を一致させた理解ある有能な上司が必要。そして貴方はそれをなす為に力や戦力や駒が必要。利害は一致しています」
 女は、己に向けられた銃口に構わずずいと顏を上げた。三日月型に口元を歪ませ、今にも哄笑し出しそうに嗤う、それは正しく狂躁。狂気。
 「………その、貴様と俺との、一致した目的とやらは?」
 女の、眼鏡の奥の瞳は炯々とわらう。受けて、飯島も我知らず口端を持ち上げわらっていた。きっと同じ様な醜い歪んだ表情をしている。
 ──憧憬。そして復讐。
 
 「……神崎貴広へ抱く、殺してやりたくなる程の、黒々とした感情」
 
 そしてその帰結。
 そっと、愛でも囁く様に小さな声で囁く女の声に、飯島は喉を鳴らし笑った。拳銃を引くと、女は何事も無かった様な表情に戻り、落とした二刀を拾い上げて鞘へと戻す。
 「…くく。面白い事を抜かす。だが、貴様が本気なのはよく解った。──良いだろう、その話、乗ってやる」
 飯島の物言いはいっそ不遜であったが、女は満足気に微笑んでみせるだけで返す。
 「前任者は既に『不幸な事故』で死亡していますので。これから宜しくお願いしますね、飯島『室長』」
 飯島が己の誘いに頷く事を確信した上でその『不幸な事故』が起きたのだとしたら、相当に周到と言うよりは、ただのいかれた人間だ。
 「…手際の良い事だ。まぁ良い。転属届けが受理されたらもう一度その役職で呼べ」
 誰も聞く者などいない廊下だが、それでも飯島がそう警戒を抱いて仕舞うのは、最早情報部の人間の習い性の様なものだ。
 「そう言えば、貴様の名をまだ訊いていなかったな」
 「野島茜。ALICE IN CHAINS、ALICE12thであり、同部署の戦闘用改良プログラムの研究開発主任でもあります」
 野島茜と名乗った女は戦闘メイドの敬礼を取ると、その侭歩き去っていく。その背を見送って飯島はまた嗤う。
 貴広を。六天を。あの影に潜む漆黒の悪夢が如き者たちを。飯島の裡でいつまでも闇の様に潜む者たちを。本当に葬れるとそう思った訳ではない。正直、今の交錯だけでは野島茜の言う『力』など解らない侭だ。
 だが、組織と言う力の方には興味があった。それに、商品管理部の所属となれば、商品育成課の末端である貴広の上司としての地位も得る事が出来る。
 権力と軍事力。なかなかにややこしいその二つを簡単に振り払う事など、社会の歯車と言う立ち位置と柵全部を振り払える程に圧倒的な暴力でも無ければ難しい。
 そして嘗ての貴広にあったその力は、今はもう失われている。
 (どう言う形となったとしても、これを巧く利用出来れば、良い出目を待つ事が出来る様になる…)
 どの途、野島茜が『元』などと言った以上、最早どうした所でPIXIESの解体は避けられないと言うレベルにあるのだろう。そしてその名が無ければ最早、飯島には特殊情報課に固執し続ける理由も然程に無い。
 まずは、部下である事を已める。そうして、神崎貴広を目指すのではなく、神崎貴広を超える。
 どうしても追いつけぬ者、追う事すら赦されぬ者らの『知る』もの。『見た』もの。
 得られぬのであれば、見つけてやろう。その理由を。
 全てを棄ててでも選んだその背の向かう先を。
 朱に染まった世界の中、闇よりも深い漆黒の色の中に在ったものを。
 (覚悟など…きっととうに出来ていたのだろうな)
 どこか晴れ晴れとした心地の侭にそう、認めて仕舞えば少しは楽になれた気がした。





妄想オブ妄想。本篇の冬葉ルートで冬葉と飯島がまともに会話してたので、以前それと知らず遭遇してたら面白いかなとか。野島さんはモエサクラの「虜囚の朱」参照しつつ勝手二次。
飯島の貴広やPIXIESへの執着とか色々こね回してみても、貴広らをぎゃふんと言わせたいだけの盲目ルートに帰結して仕舞うんですよ…。


生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し

  :