紀元後

※十年前のPIXIES妄想。
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 12月25日。
 嘗ては聖人の誕生した記念日として祝われ讃えられた日だ。世界中様々な形でその伝統は伝えられ、起源や意味を曖昧にしたそれは、単純に庶民も楽しむ行事として広まっていたと言う。
 然し二十年少々前に世界中を等しく襲った大災害、Jesus and Mary Chain──世界の終わりの日と呼ばれたあの日以降は、誰もが忌み嫌う日となった。
 世界の遺物を一掃するかの様に、五大陸も細かい島々も大波や豪雨に呑まれ、戦争が始まって、終わって、また始まる。不毛な繰り返しから世界は未だ完全には脱却出来て居ない。カンパニーと呼ばれる政府無き国家以外には。
 (まぁ、そのお陰で僕らは此処にこうして居られるのだけど)
 立ち寄ったスタンドカフェの前で、ぼやいた五十鈴の見上げた夜空からは、雪がばさばさと落ちて来ていた。風は少なく空気の乾燥は大分緩和されている。今夜は冷え込みそうだ。
 テイクアウトで購入したコーヒーを啜ってマフラーに顎先を埋める。五十鈴は寒さに余り強い方ではないのだ。その気になれば大気を遮断し、自分の周囲だけ適温を保つ事も出来るのだが、疲れるし、余り無駄に能力を使うなとも言われている。
 「待たせたな、五十鈴」
 「十分遅れだよ、兄さん。減点10」
 背後から同じ様にマフラーに顎先を埋めた伊勢がやって来るのに、振り向きもせずに、五十鈴。
 「何の減点だ…。大体、トラムが遅れるのは運行管理会社の責任だ」
 「突然の降雪だからね。無理もないけど。それより早く行こう、時間が惜しい」
 「ああ」
 渋面を作る伊勢の口元からふわりと白い息が立ち上る。この双子の兄が自分と同じく寒さには余り強くない事を知っている五十鈴はそれを見て小さく笑う。温かい暖房の効いたトラムからいきなり寒い町中に放り出されたのだ、さぞ寒く感じられる事だろう。
 「飲む?」
 「そう、飲みさしを平然と差し出すな。少なくとも他人には。礼儀の問題だ」
 五十鈴の差し出す、先程まで啜っていた紙カップのコーヒーを受け取りながら伊勢は溜息をついた。家族である自分なら別に構わないが、赤の他人にする事では到底ないからなとぶつぶつと付け足す。
 「解ってるよそんな事。兄さんか隊長ぐらいにしかやらないよ」
 「………隊長にはやったのか…」
 五十鈴の平然とした返しに、歩きながら伊勢は両肩を落とした。てっきりその侭小言になるかと思いきや、それ以上伊勢の言葉が続く様子が無かったので、言い訳まで考えていた五十鈴は少々拍子抜けする。恐らくは小言を言う相手が違うと気付いたのだろう。
 何しろ、隊長こと彼らの上司である神崎貴広は身内に対して色々と緩すぎる。礼儀がなっていない訳ではなく単に雑なだけなのだが、食いさしだろうが飲みさしだろうが何も考えずに受け取って仕舞うし差し出して仕舞うタイプだ。小言を言うのであれば五十鈴にではなく寧ろ貴広に言わねば意味は無いだろう。
 常識事が時々足りていないのが玉に瑕なのだと、そんな上司に対して伊勢はよく言う。だが、満更でもなさそうな調子なのが実に兄らしいと五十鈴は思う。
 二人はネオンの明るい夜道を歩いて、自動精算式のスーパーに立ち寄った。従業員が居ないから深夜まで営業している上、機械管理されているお陰で品揃えも無駄に多い。更にはカンパニーに務める者はID一つで買い物が可能なので、務め人にとっては便利なのだ。そこで幾つか食品などを購入してから更に夜道を歩いて行く。
 「……それで、隊長から返信は?」
 黒いコートの上に降り積んで、融けない雪を手で払いながら、不意に伊勢が思い出した様にそう投げて寄越すのに、五十鈴はかぶりを振った。
 「それが全く。だからこんなにやきもきしてるんでしょ」
 湿り気の少ない雪は段々と街路に白く降り積んでいっている。夜半からこれでは、明日は朝から積雪で酷い通勤状況になりそうだ。
 信号待ちの間、縁石に積もった雪を靴先で突いて落とす、返答の割には楽しそうにしている双子の弟の子供っぽい仕草と口にする言い種とに、伊勢は小さく鼻を鳴らして笑う。
 「言う程心配はしていないだろうによく言う」
 「まぁ、今に始まった事じゃないからね…。能力を使いすぎたりした後、暫く隊長が寝込むって言うのは」
 それでも心配なんだけど、と口を尖らせて付け足すと、五十鈴は信号がまだ変わる気配がないのを見てからスマートフォンを取り出した。手早く操作し、小一時間前に貴広へと送信したメールに返信がないものかとチェックし、やはり肩を落とす。
 「恐らく、眠っておられるか、気付いていないかのどちらかだろう」
 落胆している様に見えたのか、五十鈴にそう気休めの様に言ってぽんと頭を叩くと、伊勢は青になった信号を渡った。
 「…それどっちも同じだと思うんだけど」
 ぼやきつつその後に続きながら、更に少し歩いた所で五十鈴は漸く到着した目的地を見上げた。このカンパニー本社市街と、その関連施設の集まる区画に高くそびえる幾つかのタワーマンションの一つ。神崎貴広の私宅のある建物だ。
 鍵は貴広から伊勢が預かっているので、二人は呼び鈴を鳴らす事もなく中へ入っていく。最早勝手知ったる我が家も同然だ。
 エレベーターでほぼ最上階まで上る。ここから先は住人やその客、マンション管理の職員以外は決して立ち入る事の叶わないプライベートエリアになる。
 その内装はマンションと言うよりはホテルか何かの様だ。エレベーターホールにはアンドロイドの職員が受付係の様に立っており、住人にはお帰りを、客人にはいらっしゃいませと、丁寧な挨拶を寄越して来る。
 エレベーターホールを起点に円柱状に緩やかな弧を描く廊下を進み、エレベーターのほぼ真裏に貴広の部屋はある。表札など、見て解る様な住人を示すものは一切ない。カメラとスピーカーを備えたインターホンに、部屋のナンバーが刻まれているのみだ。
 流石に部屋の鍵は無断では開けず、二人は一度インターホンを鳴らしてみたが、矢張り反応はない。想像していた通りの展開に溜息をついた伊勢は、接触型のカードキーをセンサーに当てて扉を解錠した。まあ幾らなんでも、余程酷く寝惚けてでもいない限り、貴広が双子を侵入者と勘違いして襲いかかって来る様な事は無いだろうが。思いながらノブを捻ってドアを開ける。
 玄関に入って、物理的な内鍵を閉めて灯りを点けた所で、伊勢の口端が下がった。顰められた横顔を見て、五十鈴も苦笑する。目の前に晒された、予想通りを通り越した予想通りの光景に思わず溜息が出るのも致し方ないだろう。
 乱雑に脱ぎ捨てられた革のビジネスシューズの片方には靴下が一緒に脱げて引っかかっている。もう片方は廊下に上がった所に落ちていた。靴を揃え、靴下を拾った伊勢がそこから先に視線を向ければ、次は乱暴に解かれたネクタイ、スーツの上着、ベルト、ズボンと、着衣の残骸が廊下を点々と奥へ続いている。
 「青い鳥だね」
 「パンくずよりも解り易いな」
 朗らかに笑って言う五十鈴に淡々とそう返した伊勢は、廊下に点々と落ちている残骸を次々と拾って歩いて行く。
 そうして入ったリビングの、ソファの上。体にブランケットの一枚も掛けずに、ワイシャツと下着だけと言う呆れた格好になった神崎貴広は、身体を丸める様にしてそこで眠っていた。
 「…まぁ、今回は全裸にならなかっただけ理性は働いてらしたのかな。夏の時は全裸だったから、お風邪を召されたら大変だとか、兄さんが大騒ぎしたよね確か」
 まるきりの全裸で、辿り着き損ねたのか、寝台に頭だけもたせかけて眠って──或いは気絶して──いた貴広の姿を思い出して言う五十鈴に、伊勢も同様の記憶を手繰ったのか、思い切り溜息をついた。
 ダイニングに買い物袋を置くと、スーツをハンガーに丁寧に掛け、空調と暖房のスイッチを入れて回る伊勢の姿を横目に、五十鈴はテーブルの上に投げ出す様に置かれていた貴広のスマートフォンを手に取った。勝手に点けてみれば、自分の送ったメールを開いた様子も無い。
 「スマートフォンに触った形跡はないから、多分昨晩戻ってからずっとこの侭だった様だね」
 つまりほぼ丸一日この状態で倒れていたと言う事だ。五十鈴の指摘に、何かと貴広の身の回りを世話する事を習慣の様にしている伊勢は、最早何度目になるか、深く深い、溜息を吐いた。
 
 *
 
 貴広が扱う漆黒と呼ばれる力は、未だ誰にも解明出来てはいない、ナーサリークライムの能力だと言われている。極東日没の拳が大地を裂き戦車を破壊するのも、逆に巌の様に強靱な肉体となって巡航ミサイルの直撃ですら防ぐのも、恐らくはそれと同種の力だろうとされている。
 つまりはナーサリークライムにしか扱えないそれらの能力は、正しく未知としか言い様の無いものであると言う事だ。
 貴広は、訓練で身につけさせられた、銃のトリガーを引く動作よりも、漆黒を扱う方が易いと言う。
 脳で判断し指に命じ、引き金が引かれて撃鉄が火薬を叩き銃弾が爆発的な推進力を得て飛んで行く、その動作よりも、闇より出でた漆黒が標的を貫く方が、確実で、早い。
 「感覚的なものなのだが…、多分にその気になれば地球の裏側であろうが事を成せる。そんな気はしている。ただ、その感覚そのものと言うか…、方法と言うのかな、それが解らない。取扱説明書の無い武器を手にしている様な感じと言えばいいだろうか」
 そう、貴広は以前伊勢や五十鈴に漆黒の事をそんな風に説明した。実際、貴広の言う通りに地球の裏側まで影響を及ぼせた事はないが、漆黒と言うその能力が世界そのものを凍り付かせるのを二人は幾度も目の当たりにしている。
 ただ、殲滅を目的とした戦い以外では余り漆黒を攻撃目的で使う事はない。銃で出来る同じ仕事があるのであれば、そちらの方がリスクが少ない事もある。とは貴広曰くだ。
 結果的に、漆黒は殲滅戦や暗殺に用いられる事が多い。そして先日の外地任務では想定以上の激しい、泥沼の様な戦闘状態になった。その為にどうした所で漆黒の多用に因る貴広の消耗は防げず、戦闘が終わった頃には立っているのもやっとと言う様子であった。無論態度には全く出していなかったが。
 任務の完了と共に第一便で帰投し、報告書を上げてから「帰って寝る」の一言を伊勢にメールで寄越して──それからばったりと連絡が途絶えたかと思えばこの有り様と言う訳だ。
 漆黒の多用は体力を激しく消耗するのだとは、貴広自身も知っている。それでも時には多用してでも切り抜けねばならない難局がある。そうして夏に矢張り今回と同じ様な消耗疲れをした貴広は、部屋で真っ裸で即寝入っていたと言う訳だ。突然の大雨の中、伊勢と五十鈴で二人して今日の様にこの家を訪れた記憶はよく憶えている。
 激しい疲労と消耗とで、機能停止する様に寝込んで仕舞うと言うのは解る。だが、それでもこんな状態で倒れる直前まで無茶をしないで欲しいと常々思わずにいられない。しかもこんな、暖房ひとつ効いていない寒い部屋の中でシャツと下着一枚で眠りこけるとは。
 「隊長」
 眠って休むと言うのにも限度がある。貴広の場合はナーサリークライムとして、人間とは何かが違うのかも知れないとは思うのだが、飽く迄普通に生きている限りの貴広は人間だ。傷の治りが早かったり、そこらの病には罹らなかったりしても、人間の範疇である筈だ。少なくとも、貴広がそう思う限りは。
 伊勢が肩を揺すると、丸まっていた貴広がもぞもぞと動いた。ぱちりと目を開く。気絶する様に眠ったとは言え、易々と寝惚けて仕舞う事は無いらしい。
 「隊長、ご無事ですか?」
 顔を覗き込めば、貴広は額を揉みながら伊勢の方を見た。よく見ると眼鏡もかけっぱなしだった。
 「…伊勢」
 「おはようございます」
 「あぁ…」
 ごろりと仰向けになった貴広がのろのろと上体を起こす。
 「水……」
 寝起きの掠れた声の紡ぐ要求に応えたのは、予め予想していた五十鈴の手だった。水のたっぷりと入ったグラスと、ペットボトルとを持って来てソファの横に座る。
 「はい、どうぞ」
 「ん…」
 ごくごくと喉を鳴らして水を一気に飲むと、貴広は人心地ついたところで両腕を上に伸ばした。あふ、と欠伸が出る。
 「五十鈴も居たのか。…と言うか何だ二人して」
 「丸一日音沙汰がありませんでしたからね。不躾ながら様子をと」
 きょろきょろと双子の顔を見上げて言う貴広の問いに、眼鏡を直しながら、伊勢。
 「……そうか。心配をかけた」
 「気になさらないで下さい。僕らが一方的に気にしていただけですしね」
 「ご無事とは存じていても、気にせずにはいられない性分ですから」
 大体唱和する双子の言葉に、貴広は、くく、と笑うとソファから立ち上がった。寝過ぎで痛めたのか、首をこきこきと鳴らして窓を見遣る。
 「こんなに雪が降っているのか。季節にはまだ少し早い筈だが、道理で身体が軽いと思った」
 「隊長は寒さにはお強いですからね。昔から、雨や雪の日の方がいきいきしてらっしゃるんですよねぇ」
 しみじみと言うと、五十鈴は勝手に取って来たバスタオルを差し出す。それを受け取った貴広は、ありがとう、の仕草を残してシャワールームへと向かった。寝起きは風呂でさっぱりしたいと言うのが貴広の持論と言うか習性なのだ。
 「…さて。隊長が出て来られる前に食事を用意しておいた方が良いな」
 「だね。人間体温が上がると眠くなるから、お風呂上がってからのんびりやってたんじゃ、また寝て仕舞いそうだし」
 言って、上着を脱いだ伊勢がシャツの袖を捲るのに倣いつつ、五十鈴はダイニングのカウンターに道中で買ってきた物品を拡げた。それは作り慣れたインスタントの、加熱調理程度で済むものばかりだ。貴広が丸一日寝込んでいたとなれば、何か栄養のつくものを与えなければなるまいと言う、伊勢のいつもの判断である。
 それにしてもあの調子では、箸を持った侭舟を漕ぎかねない。そう思った所で五十鈴は何か大事な事を思い過ごした気がして首を傾げる。同時に伊勢が動きを止めた。
 「……厭な予感て訳じゃないけどさ、僕今自分で問題とその答えを言ってた気がするんだけど」
 「…………」
 ぽつりとそうこぼすと、五十鈴は買い物袋を伊勢の方へ押し遣り、廊下を急ぎ足で浴室へと向かった。
 「隊長?」
 脱衣所に入って風呂場の戸を軽くノックする。中はシャワーの水音と、湯気とで満たされ様子ひとつ伺えない。
 先頃自分で呟いた事を五十鈴は反芻する。人間、体温が上がると眠くなる、と。
 「……隊長?開けますよ」
 言うなり返事も待たずに戸を開けると、中から湯気がふわりと漂い出す。換気扇をつける事も失念していたらしい。手探りで換気扇のスイッチを押して、五十鈴は程良く温まった浴室に首を突っ込んだ。そうして、再び全く予想通りの光景が広がっている様に両肩を落として、苦笑いを浮かべる。
 浴槽の中に座って上からシャワーを流しながら、貴広は目を閉じて眠っていた。栓を入れる所までは理性が働いていたのか、浴槽の底から10cm程度の所までお湯が溜まって賑やかな水の音を立てている。
 「〜たーいちょーう…」
 「んぐ…」
 肩を揺すっても反応は薄い。寝言にもいびきにもならない様な可愛くない呻き声を上げてかくんと首を倒して仕舞う貴広を見下ろして、五十鈴は溜息をついてその場にしゃがみ込んだ。靴下を脱いで脱衣所の洗濯籠へと放ると、浴室の戸を閉める。上着を脱いでおいて良かったと、殆ど意味もない光明を見つけながら、ワイシャツの袖をまくって声を上げる。
 「それ、自殺してる人みたいですよまるで。さ、起きて下さい」
 「んー…、うー…」
 相変わらず不明瞭な呻き声を上げている貴広の脇に手を突っ込んで無理矢理に立たせると、慎重に促しながら片方ずつ浴槽の外に出させる。それからお湯をかけて温めた風呂椅子を洗い場に置いて、そこに座らせる。
 「眼鏡もまたかけっぱなしじゃないですか…」
 早速舟を漕ぎ出しそうに不安定に揺れている頭を支えて眼鏡を外す。濡れたそれでは視界は最悪だっただろうに、半分ばかり眠っているから余り関係ないのだろうか。
 「ほら、ちょっとの間で良いから寝るの我慢して下さい。頭洗いますよ」
 「おー…、うん…」
 片手で両の目蓋を揉んだ貴広が、一応は目を開いている事を確認しながら、五十鈴はシャンプーを取って手の上で泡立てた。もうすっかり自分はずぶ濡れだが、今更気にしても仕方がない。
 薄い色素の髪を泡立てながらやわやわともみ洗いしてやると、貴広は心地よさそうに目を細めて笑う。無意識なのだろうが、とてもいつもの上司とは思えない、弛みきった姿である。
 貴広は五十鈴にとっては己の命よりも大事な存在であり、想いを寄せる対象でもあるのだが、こう言う時には性的な感情や親愛以上の愛情は湧かない。真っ裸で身を委ねてくれていると言う、据え膳的な状況でもあるのかも知れないが、不思議と色気のある雰囲気を互いに感じていないのだ。
 「寝たら駄目ですからね」
 「大丈夫だ、まだ起きてるって…」
 「あ。じゃあ眠って仕舞わない様に、体はご自分で洗っていて下さい」
 「んー…、面倒だなぁ…」
 思いついてスポンジを持たせて言えば、一応は必死で眠気を堪えているらしい貴広は、目を擦りながらもボディソープをスポンジに染み込ませてもしゃもしゃと手元で揉み始める。
 如何に五十鈴が信頼出来る部下とは言え、裸身で背中を晒していると言うのに、見事なまでの気の緩みっぷりだ。色気がどうのこうのと言うよりも、最早ただの介護の様なものである。
 然し五十鈴は貴広のこう言う所を嫌いではない。寧ろ大っぴらに世話が出来る事を楽しんでいるぐらいだ。相手は子供どころか体格も立派な大人だと言うのに、手のかかる大きな弟や子供の面倒を看ている様な気分になる。
 実際五十鈴には同い年の兄は居ても弟は居ないし、年下の子供の面倒をみた事もないので、貴広以外にそんな世話をした相手などいないのだが。
 「はい、シャンプーを洗い流しますからね。目開けちゃ駄目ですよ」
 「ん」
 律儀にぎゅっと目を閉じてみせる貴広の顔を鏡越しに確認してから、湯量を調節したシャワーを使って丁寧に泡を落としていく。体の方も自分で洗い終えたのか、泡が一緒くたに流れていく侭にしている。
 「ねむ…」
 「もう少し!もう少し辛抱して下さいって」
 手の掛かる上司に笑いながら言って、五十鈴は彼の手を取ってその場に立たせた。幾ら何でも立った侭眠る事はあるまいと思いながら、腕を取って持ち上げさせて泡の落ち難い脇などの部位まで隅々にシャワーの湯を流した。石鹸が残っていたら後でかぶれて痒くなって仕舞うから、入念に。
 「はい、終わりです。出ますよ。まだ寝ちゃ駄目ですからね」
 「起きてる起きてる」
 生返事を繰り返す貴広の体をバスタオルですっぽりと包んで粗拭きしてから、五十鈴は脱衣所の戸を開いた。ダイニングに居る伊勢に向かって声を掛ける。
 「兄さん、こっち終わったから、お着替えその他よろしく」
 「ああ」
 五十鈴が風呂場に言った時点で既に心得ていたらしく、伊勢は呼ばれるなり直ぐにやって来て、タオルを被った貴広を促してリビングへと戻って行く。まるで子供の世話でもしている様だ。
 それを見送ってから五十鈴はびしょ濡れの服を脱いだ。乾燥機に放り込んで速乾で動かすと、その侭自分もシャワーを浴びて仕舞う事にする。
 殆ど烏の行水であったが、最新式の乾燥機はワイシャツの水分を見事に飛ばしてくれていた。いざとなったら自分たちの能力を使って乾かして仕舞うつもりだったのだが、手間が省けた。
 衣服に袖を通しながらリビングへ向かうと、伊勢がソファに座った貴広の髪を乾かしている最中だった。
 伊勢に、しっかりと起きている様に強く言われでもしたのか、先程までの眠そうな様子は殆ど残っていない。
 貴広は双子の姿を交互に見遣ると笑って言う。
 「お前たちは本当に、甲斐甲斐しいと言うか物好きと言うか…」
 「悔しかったら、余り心配を掛けない様にして下さい」
 「いや別に悔しくは無いんだが…。余り甲斐甲斐しくされると駄目人間になりそうだ」
 ドライヤーを手にした伊勢が大真面目な顔で言うのを見上げて、貴広はふっと目を細めてみせる。穏やかに過ぎるその表情筋の示す感情を胸に受け止めながら、五十鈴はその隣に腰を下ろした。
 確信はある。神崎貴広のこんな表情や態度を知っているのは自分たちだけなのだろうと。
 明晰な思考と冷徹な判断とで、表情一つ買えず屍の山を築く。PIXIESのエース。ナーサリークライム。漆黒の神崎。畏怖と尊崇の眼差しでしか語られぬ彼の、余りに人間臭い本当の顔は『ここ』でしか見る事が叶わない。彼の、気を許した者たちしか、その本質を知らない。知ろうとも、きっとしない。
 伊勢がドライヤーを止め、礼を言った貴広が両腕を前方に伸ばす。その動作はいつもよりも大分重たげで、見るからに怠そうな様子だ。
 「矢張りお疲れですか?」
 「んー…、まぁ昨日よりはマシだな。雪も降っているし。然しよくもまぁ降ったものだ。一昔前ならホワイトクリスマスだとかで持て囃されただろうに」
 言いながらも大あくびをしつつ、ソファの上に置かれた寝間着に袖を通して、貴広は窓の外を見遣る。高層階とは言え安全上の問題で念の為にと普段はカーテンが引いてあるのだが、家人が眠ったその侭であった為に、大きくカーテンの開かれた窓の外には煌々とした夜景が拡がっているのがよく見えた。
 「ああ、昔はこの日はクリスマスと言うお祭りだったそうですね。正直、子供の頃なので全く憶えていないのですが…」
 皿に乗せた料理をテーブルの上へと並べながら、伊勢。その言葉に五十鈴も頷く。
 「孤児院で何かそれらしい催しをやっていた様な記憶も無いですしね。僕らぐらいの年頃の者にとっても、12月25日と言えば、ジーザスアンドメリーチェインのイメージの方が強いですよ」
 「世界の終わりの日、か…。はは、この通り強かな連中が未だ世界を支配し続けていて、終わりなど到底見えない訳だが──」
 そこまで呟いた所で、貴広の形の良い唇が不安定な弧を描く。笑っている様にも、泣きたい様にも見える表情であった。
 「その瞬間から何かが終わって、何かが変わった。災害や戦争だけではない。きっと、その時に生きていた者ら、生き残って仕舞った者らにとっては、圧倒的な理不尽にしか感じられなかっただろうその変容こそ、始まりには決してならない『終わり』そのものだったのだろうな…」
 故に人はこの日を、世界の終わりと称した。嘗ての祝祭を忘れ忌み嫌い、穏やかな慰霊の心地さえにも未だ至ってはいない。
 あの日から世界は終わった侭で居るのだろう。そう断じる貴広の眼差しが一体何を──『いつ』を見ているのか知れず、五十鈴は手を伸ばすと貴広の側頭部を引き寄せた。肩に倒れ込んだ顔が、きょとんとした目を向けて来る。
 「?」
 「…貴方が何だか寒そうに見えたので」
 下手な言い訳だなと思いつつそう口にする五十鈴に、伊勢が苦笑を投げるのが見えた。双子だから解る。きっと互いに同じ事を考えていたのは間違いない。
 「生憎だがお前たちよりは寒さに強いぞ。バルコニーで寒風摩擦ぐらい平気で出来そうだ」
 先頃に寸時見せた憂いの気配は何処へやら、貴広の口から返る言葉は相も変わらずの調子だったので、五十鈴は少しだけ安心した。
 「寒風…なんです?」
 「寒風摩擦だぞ?知らんのか?伊勢はどうだ?」
 最後に日本酒の熱燗を持って来た伊勢もかぶりを振るのに、貴広は不満そうに唇を尖らせた。何故こんな常識を知らないのだと言いたげな表情であったが、伊勢も五十鈴も、脳内の記憶データベースにその単語は刻まれていないのだから仕様が無い。
 「確か大昔のニホンニア──日本の伝統行事だか風物詩だか…、とにかくそう言う類でな…」
 「隊長って本当、時々よく解らない事を知ってますよねぇ」
 長々と説明の始まりそうな貴広を制して五十鈴が猪口を手渡せば、アルコールの誘惑にか、言葉は容易く引っ込んだ。今は寒風摩擦とやらの講釈よりも、とっとと貴広に栄養補給をさせる事が優先だ。
 「今では祝う者も無く、祝うに相応しい日でもありませんが、ささやかに楽しむぐらいは許して貰いましょう」
 盃を傾けて言う伊勢に、貴広は今度はちゃんと微笑んだ。
 「終わり、とだけ断じられるのも、余り気持ちの良い話でもないからな。少なくとも、その『後』を生きている身としては、そう思うよ」
 乾杯の仕草をして言うのに、伊勢と五十鈴も笑んで応じる。
 (そのお陰で貴方に出会う事が出来たのだから、世界が終わった事は悪いものではないと思っているんです、……なんて言ったら、隊長はどんな顔をするんだろう)
 胸の奥に仕舞い込んだ言葉が放たれる事は決して無いだろう。解っていたから、伊勢も、五十鈴も、利己的な己の本心を酒と共に喉奥へあっさりと追いやった。





普段の貴広は自立心が強いけども、基本手を抜ける所は抜きたいタイプなので、ぐだぐだになっている所に世話焼き双子を放り込むとただの甘ったれになるって言う。
あと、ジーザスアンドメリーチェインを自分が起こした自覚も記憶も全く無いけど、何となく引っかかる感情はある様です。

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