今日限り世界が

※十年くらい前の2563号島捏造妄想。
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 食堂に満ちたざわめきの気配に、霧島香織は「またか」と思った。小脇に抱えたファイルボックスの中に機密に関わるものは無かっただろうかと思い返して確認してから、開け放たれて賑やかな食堂の扉をくぐり抜ける。
 食堂はこの館の嘗てのダイニングルーム──と言うより最早広間だが──をその侭使っている。その為に席の多くは、昔から館で使われていたテーブルと椅子である。黒樫の立派なテーブルは、シンプルながら美しい曲線を描く造形にデザインされており、館の雰囲気と相俟って、本当に中世の城か何かの様だ。
 その幾つか並んだ立派なテーブルの中程に、小さな人だかりが出来ている。メイド姿の女性職員から作業着姿の男性職員まで入り交じったその有り様は、シネマや物語で目にする学園の風景か何かの様である。だが生憎と香織は学校と言ったものに通った事が無いので、それは与えられた知識や映像程度でしか知らない、半ば想像に近いものであったが。
 楽しげな空気を漂わせざわめいている彼らは、この施設の管理職である香織の接近にも気付く様子がない。僅かでも気付く事が出来たならば、それこそ教師に見つかった学生たちの様な反応を見せていた事だろう。
 人の囲みに近づいた香織は、小さく咳払いをしてから、パン、と手を打った。二度。乾いたその響きに、職員たちが慌てて振り返るが、その時には既に香織は、顔を顰めた怒り顔をその面相に浮かべて、腕を組んで仁王立ちをしている。
 香織は年齢の割には小柄で、言って仕舞えば幼い容姿をしている。その為にこの島の事情を知らぬ者から見れば、その様はまるで子供が癇癪を起こして立っていると言う風にしか見えないだろう。
 然しこの島で長くを過ごす職員たちは、霧島香織がどの様な人物であるのかを知っており、今浮かべている表情がどの様な感情を表しているかも知っている。時に、この島にて最高権限を持つ筈の所長でさえもその小さな鉄拳と尖らせた唇から紡がれる鋭い言葉で黙らせる事の出来る、そんな存在である事も知っている。
 元々メイドたちは他者に尽くす事、主従と言う関係を遵守する事を前提とした教育を受けている為、半ば反射的に香織の姿に気付くなりびしりと背筋を正してその場に直った。そんな彼女らの様子に釣られてか男性職員たちも慌てて、今にも敬礼でも取りそうな姿勢になる。
 「こんにちは、霧島さん」
 職員たちの人垣に囲まれて、テーブルについてお茶を飲んでいたのは、穏やかそうな微笑みと共にそんな言葉を寄越して来る男であった。
 その格好はと言えば、この島唯一の、管理職の証のスーツ姿である貴広と同じ様にスーツを着てはいるのだが、その首にネクタイは無く、ワイシャツのボタンも二つ開いている。おまけに左耳に環状のピアスを付けており、カンパニーの人間と言うには些かに不真面目そうな──『チャラい』、そんな印象さえ漂っている。場所が場所ならば地味目なホストかと思うレベルだ。
 にこりと穏やかに微笑んでみせる彼に、香織は露骨に溜息を吐いてみせた。またか、と先頃思ったその通りである現状に、頭痛さえ憶えそうだった。
 「……またいらしていたんでちゅか。五十鈴さん」
 神風の五十鈴。元情報部特殊情報課伊部隊『PIXIES』の序列第参天。双子の兄の伊勢と共に、その名を知らぬ者は居ないとまで言わしめられた、世界最強に数えられるエージェントの一人である。
 「ほら、あなたたちは早く仕事に戻りなちゃい!珍しい来客があったからと言って、報告もせずに仕事をさぼるのは関心しまちぇんよ!」
 ぱん、と傍らの黒樫のテーブルを掌で叩いて言えば、職員たちは再度背筋を正し、「申し訳ありませんでした!」と綺麗に唱和して頭を下げた。見事なぐらいに揃ったその有り様に、五十鈴がぱちぱちと拍手など送っている。
 暢気そうなその顔に香織は、一体誰の所為だと思っているのだろうと、心の中でだけ悪態をついた。
 それでは失礼します、と告げた彼らは慌ててそれぞれの持ち場へと散っていく。中には休憩時間の者も居た様だが、この香織の剣幕を見れば、敢えて此処に残ろうと思う猛者もそう居まい。食堂担当の者たちだけが、厨房と言う近場ゆえに、作業に就きつつもあからさまにならない程度に様子を伺っている。
 「相変わらずお見事ですね。この島は最後にして最悪のD級メイド養成所なんて呼ばれているけど、そこらの施設より余程統率が取れていますよ。指導のレベルが高くないとこうは行きません」
 「……お世辞として受け取っておきまちゅよ。それより、今日は一体何のご用事でちゅか?」
 五十鈴は依然としてにこにこと朗らかに言うが、香織は声を意識して固くしてそれに応じた。この男が、虫も殺さぬ様な優しげな風貌とは裏腹に、どれだけ怖ろしい兵士なのかと言う事を香織は資料を見て知っている。人間でありながら対戦闘機のキルレシオ180:0と言う信じ難い戦績を持つと言う、とんでもなく規格外な存在である事も。
 然し、一見して物静かで微笑みの柔らかな、甘い顔立ちの持ち主であるその容貌も手伝って、彼の経歴を知る者から知らぬ者まで、人気は高い。職員たちのあの様子を見ればそれがよく解る。
 他人とコミュニケーションを巧みに取ってその内へと入り込むその手管は、如何にも情報部の人間の得意とする分野だが、彼はそう言った気配すら感じさせない。何でもない事の様に他人の領域に、それこそ風か何かの様にあっさりと入り込んで仕舞う。人の付き合いや扱いも上手く、彼の振る舞いは老若男女問わずに、大体の場合は好感と言う効果を発揮する。
 故に香織は五十鈴を警戒せずにはいられない。飯島ほどに嫌うつもりは無いし、嫌う要素も困った事に見当たらないのだが、単に警戒すべき対象であると言う事は常に忘れない様にしている。
 どうあっても『敵』では無いのだが、香織には個人的にこの人物を真っ向から受け入れる事が難しいと思えていたのだ。
 「いつも通りです。この時間ならば隊長は──貴広さんはまだお仕事中でしょ?せめて休憩時間になるまではお待ちした方が宜しいかと思って」
 「………またでちゅか…」
 言って、にこりと微笑む。その微笑みが曲者なのだと、香織は溜息を以てそれを聞いた。正直、ここに彼が居る理由など、問わずとも既に明らかに過ぎた。
 五十鈴は、最果てのメイド養成所であるこの島の所長を務める神崎貴広の嘗ての部下の一人だ。そして現在、カンパニーから追われている、離反と言う反カンパニー行為を行いその法に触れた、言って仕舞えば立派な犯罪者でもある。カンパニーの施設であるこの屋敷に、この島に、本来であれば居てはならない様な人物でもある。
 PIXIESの隊長であった貴広と、離反者であるその部下たちとの接触は、カンパニーにとって最も警戒するべき事項の一つだ。何しろ貴広はただのヒラ社員ではない。世界を揺るがす存在に成り得る、五人のナーサリークライムの一人だ。そんな彼が万一にでもカンパニーに対して、離反者である部下たちと結託し叛乱を目論む、などと言う事になっては困るのだ。
 そんな訳なのだが、実のところ貴広は嘗ての部下である彼らと密かに連絡を取り合っている。今もなお。
 ただその動機は反カンパニーを目的とした活動の類ではなく、この島に於ける正規手段では困難な『調べもの』やら『お願い』程度のものである事が殆どだ。
 だが、その程度であっても違法は違法。その為に貴広は連絡手段の取り扱いに慎重であったし、それを受け取る元PIXIES六天の誰であったとしてもそれは同じ事の筈だ。
 だが、この五十鈴だけはちょくちょくとこの2563号島へとやって来る。六天の中では彼の持つ異能でしか恐らくは、如何な観測機器にも捉えられずにこの島へ降り立つ事は不可能だろう。
 …とは言った所で勿論それもまた違法な事ではあるし、危険も伴う行為だ。貴広の望む、島の平穏を護ろうと陰に日向に日々奮闘している香織からして見れば、こうして軽々しくやって来る五十鈴の行動は全く以て論外の行為なのである。
 然し嘗ての部下が来ると、貴広の気分も上向きになる。それを理由に仕事をサボられるのは頭の痛い事なのだが、貴広と穏やかに冗談を交えながら笑い合える者など、この島には僅か数人しかいない。そしてその誰よりも、五十鈴は親しくて気安い。
 だから貴広も五十鈴の訪れに、顔を顰めはするが、本心では嬉しくて堪らない様だった。それもあって、香織は余り強く苦言を呈することが出来ないのだ。
 「別に構いまちぇんけど、こうちょくちょく来られては、所長の仕事の妨げにもなりまちゅ。その辺りを考えて下さると助かるのでちゅが」
 「何でしたら仕事ぐらい手伝って行きますよ。こう見えて事務仕事は得意ですから」
 「そうやって甘やかすと、あの所長はどんどんサボり癖を身につけて行くだけなんでちゅよ…」
 「成程確かにそれは違いないですね。それで霧島さんに迷惑がかかるのは宜しくないなぁ」
 大袈裟に溜息をついてみせる香織に合わせて小さく笑う、その姿は見た目だけならば相変わらずの人畜無害な男にしか見えない。女性メイドたちにとっては滅多にない心の保養で、男性作業員たちにとってはその経歴から英雄めいた扱いをされ、その来訪に誰もが色めき立つのも致し方のない事だと、そう納得せざるを得ない程に、神風の五十鈴は爽やかな涼風の如き存在感をこの島に残していく。
 「おーい霧島、書類上がったってのに内線に出ないと思ったら、こんな所で何を…、」
 そこに、こつこつと杖をつく音と共に貴広の声。香織が振り返ると、彼は丁度食堂の入り口をくぐって来た所であった。片手に上がった書類を纏めたファイルをわざわざ持って来ている辺り、見廻りと言う名の散歩休憩に既に入っている様だ。
 「って五十鈴、お前また来てたのか…」
 「どうも。お久しぶりですね、隊長」
 香織がちらと背後を伺えば、五十鈴は既に席を立っていた。胸に手を当てて、執事の様な綺麗な礼を取りながら、貴広の姿を先頃までより更に甘さを増した微笑みで見つめている。
 PIXIESの活動期間は日数にすれば僅か四年だ。だが、そこには香織も知り得ぬ様な深い関係性があるのだろうと、その様からも痛感させられる。年数の多さや長さでは計り知れぬ様な絆が、貴広を含むPIXIES六天にはあるのだ。
 飯島が彼らに妬く訳だと香織は密かに思う。叶いはしないが、出来る事ならこの光景をあの無礼極まりない男に見せてやりたいとも。きっとさぞかし悔しがる事だろう。
 「久々も何も精々一ヶ月やそこらだろうが。お前はそんなにしょっちゅうこんな世界の涯ての離れ小島まで来て、一体何が楽しいのだ」
 「そんなの、隊長にお会い出来る事が一番楽しいからに決まっているでしょ?」
 杖の音をさせて近づいて来た貴広が呆れた風に言うのに、五十鈴は微笑んだ侭そんな、冗談ともつかぬ言葉をさらりと口にする。厨房からこそこそ様子を窺っていた厨房係のメイドたちがそんな彼らの様子に密やかな黄色い小声を上げるのが聞こえて来て、香織は額を揉んだ。
 「…本当にお前はぶれが無いな…。で、どうする?丁度俺も休憩時間だし、どこかゆっくり話が出来る所にでも移動するか?」
 言いながら貴広は食堂内を見回す。無愛想で無表情な所長の視線に、厨房係のメイドたちが慌てた様に首を竦めて仕事の手を再開する。偶に訪れる保養よりも、毎日顔を突き合わせる可能性のある上司に叱られる事の方が怖ろしいのは当然だ。
 「そうですね…。内密と言う程ではありませんが、幾つか言付かっている事もありますし…」
 「ふむ。じゃあ決まりだな。風通しの良い所へ行こう」
 考える様な仕草をして言う五十鈴にひとつ頷き、杖をついた貴広が歩き出す。香織は肩を落とすとそんな貴広の進路にすいと手を差し出した。「ん?」と言いたげに首を傾げるその顔を見上げて、掌をひらりと振る。
 「所長。その手にしているものは何でちゅか?」
 「……ああ。そうだったそうだった。これ、午前の上がり分。霧島に渡そうと思って持って来たのだった」
 「そう言う大事な事は簡単に忘れないでくだちゃい…。全くもう」
 香織の手にファイリングされた書類を渡すと、「じゃ」と片手を上げた貴広は再び歩き出す。五十鈴の訪れと言う事で、大っぴらに休める──もとい、サボれるからか、心なしその足取りは軽い。
 「では、僕もこれで。後でまた」
 受け取ったファイルをボックスに押し込む香織に向けて相変わらずの、揺らぐ風情一つ無い笑顔を残して五十鈴は貴広の後を追う。ちゃんと途中で、掃除をしていた厨房係の一人を捕まえて、「お茶を御馳走様と伝えておいて下さい」と、礼儀を欠かさない辺りが、実に食えない男なのだと香織には感じられる所でもあった。
 あの様子だと、五十鈴は少なくともまだ暫くは居座るつもりらしい。貴広だけではなく、職員たちの仕事に出る滞りは果たしてどの程度のものになるだろうかと、香織は密かに頭を抱えるのだった。
 
 *
 
 廊下を通って中庭に出ると、そのあちらこちらでメイドたちが仕事をしたり休憩をしたりしている姿が目に入った。昼の少し前と言う時間だからか、一様にその表情には浮き足だった雰囲気が宿っている。
 この施設で所長の訪れに気付くのは非情に容易だ。頑丈な靴底の立てる足音よりも先に、こつんこつんと杖が床を打つ響きがそれを知らせてくれる。
 仕事中のメイドたちは手を止め、休憩中のメイドたちは立ち上がり、皆貴広の歩みを一礼で以て見送る。それは自らの雇用主や上官に対して徹底的に従属する、メイドと言う職業の表れとも言える姿であった。
 正直貴広としては、仕事に滞りも出るし効率的ではない故にこう言った大名行列の様な様式は好まないのだが、これはメイド育成を取り仕切るカンパニー全体の昔からの方針でもある。商品管理部は特にその礼儀と言う部分に絶対のポリシーを持っており、家事メイドも戦闘メイドも同じ様な礼儀作法を徹底的に叩き込まれるのである。有事の際ですら礼節を重視し、可能な限りエレガントに振る舞えと言う考えは、一昔前のブランド主義によく似ている。
 こつこつと杖をついて歩みを進める貴広の後方1mも空けない位置、その距離を綺麗に保って五十鈴が続く。PIXIES時代、屋外での貴広の護衛時は大体後方2m程度に立っていた五十鈴だが、この島では大体その程度の近さに居る。それが、屋内と言う場所ゆえに選んだ距離なのか、それとも足が不自由になった貴広に合わせた距離なのか。どちらが正解なのかは聞いていないが、恐らくそんな所なのだろうと思う。
 霧島の場合は歩幅の差と言うものがあるから余り気にはしていなかったのだが、五十鈴は貴広と綺麗に歩調を合わせて歩いている。追い越して仕舞う事もなく遅れる事もなく、自分が気を遣っているとは知れない程に自然な足取りだ。
 五十鈴には昔からそう言うそつのない所がある。元PIXIESの、現カンパニー離反者として追われる身であるのにも関わらず、ここの職員たちともあっさりと打ち解けているらしい様子からも、彼の人当たりの良さや他者に対する器用さが伺えよう。
 おまけに、いつもむすりとしている貴広とは対照的にいつもにこやかにしており、少なくとも貴広は五十鈴が何か声を荒らげている所を見た事がない。
 中庭の噴水の前を横切って空を見上げる。よく晴れており、昼寝や散歩には実に丁度良い日和だ。丘の方と森の方とを少し見比べた貴広は、森へ続く小径を選んだ。丘の上でも良かったのだが、中庭から覗き見しようと思えば出来て仕舞うのは少々問題だ。
 森の中は舗装された地面ではないので杖が邪魔になる。短時間なら杖無しで歩けない事もないので、貴広が杖を小脇に抱えようと思った所で、五十鈴がすいと近づいて来た。「失礼します」と断りを入れるなり、貴広の身体をひょいと抱き上げる。
 「おい五十鈴…」
 仮にもこの島の所長が、嘗ての部下に抱き上げられていると言う画は果たして如何なものなのか。貴広は流石に顔を顰めるのだが、五十鈴はあっさりと「ここまで来れば誰も見ていませんし、見せもしませんよ」と言ってさっさと歩き出して仕舞う。降りる事も出来ず仕方無しに貴広は杖を両手で抱えて力を抜いた。
 幾ら片足が通常の重みほどには無いとは言え、軽いものでもないだろうに、五十鈴の足取りに危なげな所はない。
 失ってさえいなければ、嘗ての部下にこうして抱きかかえられて移動する事も、杖をつかねば長時間を歩く事も出来ないと言う事も無かったのだと思えば、右の義肢は貴広の侭ならない現状そのものを表しているとも言えた。
 森を抜けて廃墟に出た所で、貴広がとん、と五十鈴の肩を叩けば、慎重な仕草で地面に降ろされた。廃墟は瓦礫が多く足場は悪いが、基本的に石畳や床がしっかりと残っているので、森の中よりかは歩き易い。
 適当な、倒壊した柱の残骸の一つに腰を落ち着けると、五十鈴も近くの瓦礫の上に同じ様に腰を下ろした。
 「もう毎度毎度言うのも馬鹿らしいが、ここに来るのは一向に構わんが、ポカだけはやらかすなよ。流石に庇い切れん…と言うか寧ろこっちの首が飛ぶ」
 「やだなぁ隊長、僕がそんな初歩的なミスを犯すと思います?貴方の身の安全と引き替えだと言うのに?」
 挨拶代わりに投げた苦言に、にこりと笑って、五十鈴。その自信たっぷりの態度に、貴広は頬杖をついて苦笑する。
 「まぁな。生身での高々度からの上陸など、誰の目にも留まり様が無いか」
 高性能の対空センサーでも完備していない限りは、無人偵察機よりも遙か上方を『飛ぶ』五十鈴の姿を捉える事はまず叶うまい。仮にセンサーが何かを検知したとして、AIは鳥か無人機(ドローン)か誤反応か何かと言う判断を下すだろう。どうあってもそこは生身の人体が飛行して無事で済む様な高度ではないからだ。
 「光学機器に対する警戒もちゃんと怠りありませんから。大丈夫ですよ」
 おまけに、島に降りている間の五十鈴は大気操作で光の屈折率を利用して、カメラやビデオと言った光学機器の一切にもその姿を残す事ない様にしていると言う。精々映ったとしてぼやっとした人影程度となるので役には立たない。
 島にスパイが送り込まれていたり、誰かがうっかり五十鈴の存在を口にしたりした所で、何一つ証拠が残されていないのだ。証拠がなければ如何な粛正部隊とて手を下す事は出来はしない。
 「それに、様子を窺う怪しいメイドのお嬢さんには、ちょっと申し訳ないですけど催眠を施させて貰っていますから。僕の名前や姿を見ても記憶に残り難くなる程度の効果しか無いですけど」
 「……充分だ」
 相変わらず抜け目のないやつだ、と貴広は頼もしさ半分、ぞっとしない感覚半分に肩を竦めた。
 今こうして会話をしている間も、五十鈴は己に出来る能力を駆使して、自分たちの声が何処にも漏れない様に計らっている。何者かが近づいても無論すぐに察知出来る程に神経も研ぎ澄ませているだろう。嘗ては当然と思っていた世界最高峰のエージェントの仕事としては標準的だが、すっかりそう言った世界とは疎遠になっている貴広からすると、何だか現実味が薄い。
 「で、言伝てとは?」
 「ああはい。中東辺りに居る島風さんからの報告だそうで。2563号島に行くのであればお伝えしておけって、兄さんから隊長に」
 「ふむ。伊勢の判断なら問題は無いな。聞こうか」
 言って、貴広は懐から手帳を取り出した。
 そうして暫し五十鈴から世界の情勢やカンパニーの動きなどの焦臭い情報を聞いてペンを忙しなく走らせていく。書き付ける手帳のその中身は複雑な暗号コードで埋められており、中身を覗き見した程度では何が書いてあるのかを知る事はまず叶わないだろう。
 「一概にカンパニーの所為とは言わんが、世界情勢は相も変わらず剣呑か。こんな島で暮らしているとついぞそんな事は忘れて仕舞いがちだが」
 「まぁそれがカンパニーの方針ですからね。隊長(あなた)を世界から隔離し、何にも興味を示す事が無い様にして、抵抗する気力ですら削ぎ落とすと言う」
 本土は勿論、一番近い陸地とも言える中央島でさえも、この島ほどに前時代的な生活はしている所は無い。南南部諸島2563号島と呼ばれるこの島が正しく世界の涯てと呼ばれるに相応しいのはその立地だけではなく、島に敷かれたライフライン設備も含めた全てを指しての事だ。
 溜息をついて言う五十鈴に同意する様に片目を眇めると、貴広は情報を記した手帳を元通り仕舞い込み、手の甲に顎を乗せて両肩を落とした。自前の風力及び水力発電で日々の電力を何とか賄う程度のこの島には、通信機器や電子機器などは最低限にしか置かれていない。五十鈴の言う通りに、貴広は世界やそこを取り巻くあらゆる情報の一切から隔絶された状態にあるのだ。
 嘗て情報部に所属していた貴広は、世界中のあらゆる情勢から一般市民の個人情報まで、あらゆる情報を手に取る事が出来た。その頃から比べれば、この島に於ける、最新知識の入って来ない現状と言うのは不安さえ憶えるものだった。真っ裸で敵地にでも放り込まれた様な気さえ憶えるその心地は、一種の職業病かその後遺症とも言える。
 正直な所を言えば、現在の貴広が最新の世界情勢を知る事に意味など無い。得た情報を瞬時に役立てる様な立場に無い以上は、五十鈴の言付かって来る情報など世間話程度にしかならない。
 それでも貴広がそうした情報や知識を欲するのは、職業病も無論あるのだが、昔取った杵柄と言う奴ゆえにだ。現在も密かにカンパニーより逃亡を続けているPIXIES六天たちに因る、反カンパニーを手伝った水面下の活動や、その成果の確認。及び、おまけ程度に彼らに出す指示。
 世界を動かす程の事はもう出来なくなって久しいが、元より貴広を含むPIXIESの面々は『その為』にカンパニーに因って作られたのだ。それらから執着を失い全てを手放して仕舞う事は、己の半生を捨て去るも同義となる。
 世界の涯てでの島流し隠居生活と言う、『今』の人生を享受しながらも、そう言った意地の様な部分を捨てきれない理由の大半は、貴広がカンパニー嫌いである事が大きいだろう。
 何処かで牙を研いでいる素振りでもしていないと、この島ののどかな暮らしの中ではそんな事ですら忘れそうになる。霧島香織に言わせれば、いつまで現役気取りなんでちゅか、と顔を露骨に顰められそうな事だが。
 それを解っていて、五十鈴はこうして貴広の元を訪う。それが大した意味を伴わずとも。己の全力を賭して、そのささやかな行動を何にも気取られない様に尽力してまで、貴広の鬱屈を少しでも晴らす為に。
 俯いて考えに沈んでいた貴広の頬に、不意に五十鈴の指の背が触れた。意識を戻せば、こちらを伺い見る様な部下の、酷く優しい表情に出会う。
 「貴方が必要とする限り、僕たちは添い続けます。ですから、そんな顔をなさらないで下さい」
 「…どんな顔をしていたって?」
 頬のラインを辿る動きがくすぐったくて少し目を細めれば、耳朶まで上った指が髪をさらりと掻いて掬った。
 「そうですね…寂しそうな小動物とか、迷子になった子供とか」
 「お前な。仮にも嘗ての上司に対して何て言い種だ」
 ふふ、と息を吐いて笑う五十鈴に苦みの強い調子でそう返すが、別に本気で悪い気がしている訳ではないので、貴広の口元も笑んでいる。
 「まぁ、実際に情報も何も無い所に置かれてみるとな。今までの自分の判断基準が、どれだけ知識に裏打ちされ、左右されていたのかと言う事を思い知るな」
 貴広の半生にあったのは、命や身に関わる様な選択ばかりであった。それ故に知識は己を護る為に必要不可欠なものだった。
 此処に至って知を得る事が出来なくなった訳ではない。ただ、最新の情報は状況と正しい立ち位置とを得るのに欠かす事は出来ない。知識とは常に最新の状況に対応出来なければ効力を最大限発揮出来ないのだ。
 「命に関わる事ではないと言い聞かせた所で、一つ一つの選択に自信を失うよ。得意分野でもない事ばかりで、戸惑いも絶えん」
 言いながら、愚痴っぽくなって仕舞ったかと思って貴広は顔を顰めるが、それを見つめる五十鈴の表情は相変わらず穏やかな笑顔を保っている。
 「慣れようとはしているし出来てもいる。だからその…、余り心配ばかりするな」
 海からの少し強い風が、然し優しい感触で頬を撫でていった気がして、貴広は己の頬に触れている五十鈴の手の甲にやんわりと触れた。
 「……はい」
 嘗てカンパニーの世界中での暗躍に関わり、情勢をも自在に操作していた者たちが、こんな南洋の島で穏やかに言葉を交わし合うだけで居るなどと、数年前までは到底考えられなかった事だろう。
 血と硝煙の匂いのしない世界には、今までに貴広が知る事も無かった様な、ただただ平穏な日々が連なっていた。そこに感じたのは果たして苦痛ばかりであったとは言えない。
 それでも、平穏に過ごす傍らでさえも不安に駆られる。知を得なければ如何な状況にも即応出来ないと恐怖を抱く。その矛盾した性分ばかりは易々と変える事などならない。
 「お前たちの気持ちも解っているつもりだが、それぞれに生きる別の途を見つけたならば、いつでも已めて構わんのだぞ」
 「またそんな意地悪言って」
 不毛な繰り返しに苦笑した貴広の言葉に、五十鈴は朗らかに言い返すとそっと背筋を正した。腰を預けていた瓦礫から立ち上がる。
 「兄さんなら無言で怒っている所ですよ、今の。僕は諦めるのに慣れてるから平気ですけど」
 「……?」
 笑いながらもやれやれと言った調子でそう言われ、意味を探った貴広は疑問符を浮かべる。然し五十鈴から解答の提示の気配はない。幾ら目で問おうとも笑顔を返されるだけだ。
 こうなると答えを得る事を諦めるほかない。貴広は釈然としなくなった心地を抱えて嘆息する。
 「別に疑っている訳ではないのだぞ。ただ、お前たちの行動の理由が判然としないからすっきりしないだけだ」
 思わずこぼす様に流した言葉に、五十鈴は今度は困った様に微笑んだ。きっと痛い所を掠めて仕舞ったのだろうと感じて、貴広は咄嗟に目を逸らす。
 疑いなど今更無い。寧ろ、世界の誰よりも六天の仲間を貴広は信じている。だが、だからこそ確信もあった。彼らがただの、嘗ての上司を尊敬しているとかそう言ったありきたりな感情だけで、カンパニーを抜けるなどと言う危険を冒した訳では無いのだろうと。
 どうしようもない様な裡から沸き起こる虚脱感に襲われながら、貴広は目を伏せ俯いた。無意識の内に手が右の義肢に触れる。己の現状を端的に表す、喪失の最たるものを。
 ひやりと胸に忍び寄ったのは冽い鎖の様な思考。冷静な思考を得意とする筈の脳がやけにゆっくりと、その答えを探そうと働き始める。
 彼らの向けて来る、無償の感情と行動との裡に本当に潜む真実とは何なのだろうか。繰り返し、重ねては、決して出る事の無い想像に、そっと差し挟まれる小さな棘の気配。
 彼らが待っているのは、ここに至り無力となった神崎貴広と言う偶像ではなく、失われた筈の、ナーサリークライムの神崎貴広の帰還なのでは無いだろうか。
 「…貴方の事が大事だからですよ。それで納得して頂けませんか?」
 「………解ったよ」
 応えは、想像とは異なる。だがそれが答えだとは言われない。ただ、やんわりとした、然しそれ以上を続ける気の無さそうな、きっぱりとした口調だった。放った言葉と同じ様に優しく微笑んでいる五十鈴の顔を見上げた貴広はかぶりを振る。矢張り、嘘ではないにせよ、まともな答えは貰えないらしい。
 「お前たちは口では、俺には絶対逆らいませんと言いながら、絶対に折れない所があるよな」
 「いいえ、そんな事はないですよ」
 五十鈴はかぶりを振ってしれっと言うが、その浮かべている笑顔が、先程までと全く変わらない癖に妙に胡散臭く見える気がするから不思議だ。
 力を喪失してからの貴広は、今も苦渋と苦悩の中とを游ぎ続けている。そんな己に彼らが傅く様な意味は果たしてあるのだろうか。価値はあるのだろうか。
 幾度も浮かぶその問いは、然し毎回彼らの言葉によって否定され、憤りに似た感情と共に諫められるのだ。貴広はその理由を、己の在る意義を、ただ知りたいと言うだけなのに。
 無論、彼らの気持ちも解るのだ。ただ左遷されただけの貴広とは異なり、彼らはその人生を逃亡者と言う危険の中に置く事を選んだ。たった一人の、神崎貴広と言う男の為だけに。
 故にそれを否定する事は、彼らの選択を否定するも同義だ。彼らが勝手にした事とは言え、貴広は厳然たる事実を前にしては、知らぬ振りを貫く事など出来やしない。
 そんな貴広に甘える様に、彼らは口を噤む。理由や意味を定義して仕舞う事を忌避するかの様に。貴広の抱き続ける「どうして」と言う問いには決して答えてはくれない。
 内心溜息をつきながら、貴広は差し出された五十鈴の手を取って立ち上がった。義足の慣れない感触が靴底越しに地面に触れる。
 森と、遺跡と言う人工物に囲まれたこの辺りは、空が狭く時間経過が解り難い。ここまで来た時間を思えば、そろそろ昼に入っている頃だろうか。空を見上げてみせる貴広の身体を再び五十鈴が抱き上げる。
 「隊長が心安く在ってくれる事も、僕たちの望みですから」
 「……それも、解っているつもりだ。お前たちに言わせれば、解っていないと言うのかも知れないが」
 「確かにちょっと意地悪は言いましたが、余り臍を曲げないで下さい。ね?」
 ふんと鼻から息を吐いて言う貴広の額に自らのそれをこつんと当てて、五十鈴は目を細めてみせる。まるで子供にする仕草だと思って、思い切り顔を逸らしてやるが、彼は矢張りにこやかな表情を湛えた侭だ。おまけに、逆に逸らした事でそちらを向いた頬に、わざとらしく音を立てて口接けられる。
 「余り調子に乗るんじゃない、馬鹿者」
 作った拳で胸を叩く様な仕草をしてみせる貴広であったが、五十鈴は悪びれた風もなく続ける。
 「すみません。何だか可愛らしい反応をされたもので、つい」
 「…もういいからとっとと戻るぞ。昼飯にありつけなくなるし、午後の仕事に遅れると霧島に殴られる」
 「はい」
 減らず口には勝てない。溜息をついた貴広が促すのに、五十鈴は大人しく頷くと森へ向かって歩き出した。
 岩場の多いこの島では珍しい樹木の覆い繁るこの森は、今でこそ野放図にしてあるが、この島が貴族の所有物であった頃に庭園の一部として作られたものだったと言う。
 島の土壌は殆どが岩場であったからか、木は今も余り深く根付く事が出来ずに地表にでこぼこと複雑な凹凸を作っている。そうと解る程度に整えられた道を少しでも逸れたら、真っ直ぐ立って歩けない程に足場は悪い。
 館の移築と言い、大昔の金持ちの考える事はよく解らないが、小さな島の割には環境が豊かであるのは良い事だと思う。
 「まぁ、でも安心しましたよ」
 埒もなく流れていた思考の中にそっと差し挟まれた五十鈴の声に、貴広は姿勢も表情も変えぬ侭に「何がだ」と返した。どうも言う調子が、先頃までの延長線上の様な気がしてならない。
 「慣れるだなんて、ちょっと前の隊長でしたら絶対口にしなかった様な事を言えるようになるなんて、良い傾向じゃないですか」
 慣れるから心配するなと口にした言葉尻を、今更捉えて一体何のつもりなのだろうか。貴広は殆ど至近で紡がれる五十鈴の涼しげな声に、紛れもない賞賛が滲んでいるのを聞き取ってそっと溜息をつく。またきっと子供でも褒める時の様に、本気で碌でもない事を言うに違いない。
 「……良いかどうかは解らんが、慣れなきゃやっていけないんだ、仕方ないだろう」
 「良いに決まっているじゃないですかそんなの」
 だから身構えた貴広が諦めの色を隠さずに投げ遣りに放てば、思いの外にきっぱりとした調子で断じられた。
 何故そう言い切るのだ。自然と浮かんだ疑問の言葉を、至近のきょとんとした貴広の表情から正しく解したらしい五十鈴は、ふと足を止めると、憎らしい程に楽しそうに微笑んだ。
 「だって、あんまり落ち込んでおられる様子が続いていたら、離れ難くなるでしょ」
 まるで、何を当然の事をと言い切るぐらいに、それは何の迷いも疑問も無い様な言葉であって、彼らの意志でもあった。
 「…………本当に、お前は、ぶれが無いな…」
 今日最初に五十鈴に会った時にも呟いた言葉を今一度搾り出した貴広は、何だかどうしようもない心地になって、笑う。
 「ですからそれは、貴方の事が大事だからですよ」
 きっとそれは明確な、酷く解り易い解答のひとつだったのだろう。
 然し、喪失の果ての乾いた穏やかな人生に『慣れ』て行くほかないのだと、半ば諦めの心地で自らにそう課して仕舞った貴広の裡に、それは欲しい『答え』としては響く事は無かった。





隊長が愛情を理解出来ないのは解っているけど、隊長を変えて仕舞うのは不遜なので、端から理解も見返りも諦めてる神風兄弟。
かすで霧島さんと五十鈴に面識がないのは語られているので、五十鈴が島に来てる事は有り得ないんですが気にしない。

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