嘘つきに災あれ ※10年前PIXIES妄想です。 ========================= 伊勢が戻った時、執務室の在室表示はその侭になっていた。何となく予感はしていたが、落胆とも歓喜ともつかない妙な心地の侭に、静かに息を吐く。 伊部隊のオフィスと隊長の執務室との間は短い廊下を挟んで完全に隔てられた別の部屋になっている。廊下に面した窓もないから、外からではその内部の様子を窺う事は出来ない。 だが、部屋の前に掛けられた在室を示す表示は、伊勢が朝見た時と変わっていなかった。違うのは今が深夜で、オフィスの電気がもう全て落とされている事ぐらいだ。 つまりは、就業時間などとうに終わっていると言うのに、部屋の主は未だ室内に居ると言う事である。 ノックをするが、返事はない。伊勢は念の為に今一度ノックを、今度は少しゆっくりとして、それから更に十秒を待った。 果たして室内からの返事はなかった。動きでさえも。無機質な扉を前に大きく息をついた伊勢は、「失礼します」と言い置いてからノブをひねった。施錠はされていない。扉は軋む音一つ立てずに静かに、内側へと開く。 部屋の中は外と違って電気が煌々と灯っていた。オフィスの暗さから比べると少し眩しくすら感じる電灯の下、入って正面に位置するデスクに人の姿は無い。そこから視線を少し手前へ戻すと来客用の応接セットがある。そのソファの上に白っぽい塊を見つけて、伊勢は苦笑した。扉を閉じて、室内へと入る。 部屋の主である神崎貴広は、ソファの上で仰向けに横たわって目を閉じていた。ネクタイを弛めたワイシャツ姿で、眼鏡はかけっぱなし、靴も履きっぱなしだ。片方の手で書類を掴んだ侭、腹の上に乗ったファイルからはバラバラになった書面が床へと散っている。どこをどう見てもうたた寝か寝落ちかとしか言い様のない姿だ。 スーツの上着が向かいのソファに適当に脱ぎ捨て放ってあったので、伊勢はまずそれを拾ってハンガーにかけ直した。それから、ソファの傍らに音を立てずに膝をつくと、貴広の手が握った侭でいる書類を抜き取ろうと、そっと指をかけた。 「…………伊勢」 エージェントの勘働き、と言うにはかなり鈍いが、流石に気付いたのか、貴広は横たわった侭で目だけを開くと、頭をころんと横に転がした。視線が合う。 「おはようございます。…と言う時間ではありませんが」 就業時間はとっくに終わっていて、オフィス棟全体は既に真っ暗だ。一般業務を行う部門とは異なり、情報部がサービス残業などと言うものをしている事など滅多にない。 そんな情報部のエリート部隊のオフィスで、その頂点に立つ様な人間が呑気にうたた寝をしているなどとは、深夜のオフィスの巡回をしている警備システムでさえ想定していない事だろう。 「…寝てたか?俺」 「寝ていらっしゃいましたよ」 眠そうな目の侭でそんな事を言われて、伊勢は小さく笑った。貴広の手を宥める様にしつつ、その手指が掴んだ侭でいる書類を引っ張れば、今度は力の抜けた指の隙間から書類は容易く抜けた。 腹の上に乗っていたファイルを取り上げ、床に散らばっていた書類を集めて元に戻すと、テーブルの上へと置く。すると、寝転んだ侭の貴広の手がのろのろと伸びて来た。頬に触れて来るその手に促される侭に、伊勢はそちらへと顔を寄せた。 「お帰り。ご苦労だったな」 言葉と同時に、子供にでもする様に頭を撫でられる。他の者であれば容赦なく叩き落とす所だが、髪をわしわしと優しくもない手付きで乱す貴広に、伊勢は黙ってされる侭でいる。 「ただいま戻りました。隊長が待っていて下さると思えば、労と言う程の事でもありませんでしたよ」 笑んでそう言えば、貴広も小さく笑った。その柔く弧を描く唇に、音もなく静かに触れて、離れる。 「そうか…。それなら俺も、残業のし甲斐があったと言うものだ」 「…眠って仕舞われていたのに?」 「いても、だ」 今度は喉奥で笑ってみせる貴広の頤をそっと捉えると、伊勢はもう一度口接けた。今度はゆっくりと。窺う様な慎重な挙措であったが、貴広からの拒絶や抵抗の気配は無い。 触れ合う粘膜の狭間で、熱を孕みつつある吐息が湿った温度で膚を叩くのに、伊勢は少しづつ体を寄せて行く。体重を掛けすぎない様に気を配りながら、戯れの様な口接けに夢中になり始めた貴広の頭部を撫で下ろすと、閉じていた目蓋が薄く開いた。 「まずは報告から…、だろ」 「……色気のない事を仰る」 耳の上から、短めに整えている髪をくしゃりと掴んで言われて、唇を離した伊勢はやれやれと嘆息した。申し訳程度に姿勢を正すと、出来るだけ簡潔に言う。 「未だ特に問題と呼べる事態は起きていませんでした。後日念の為に改めて裏は取りますが、今はまだ表立って騒動を起こす意味はありませんので、現状維持の指示を出しておくに留めました」 作戦行動中の情報部の、カンパニー支社に置かれた別部署に奇妙な動きがあると言う内偵を受けて、PIXIESはその調査に当たる事となった。本来ならば監査部の仕事なのだが、対象部署には機密情報に関わる部分もあったので、極秘に事を成す必要が生じたのである。 その調整に問題が生じそうだと言う事で、無関係の別任務を装った伊勢が現場へ様子を見に赴いたのが今日の早朝の事であった。 五十鈴や矢矧と言う、六天の中でも戦闘に特化した面子が任務に出払っていたのもあって、貴広の右腕であって『番犬』を自負する伊勢としては本来本社を離れたくは無かったのだが、私情を挟む訳にもいかない。そして貴広当人からも当然だが賛同の意など出なかった。 ならば、と、せめて夜までには帰投すると宣言して本社を出た伊勢は、断じてそのスケジュール進行を崩すまいと駆け回ったのである。朝に挨拶をした時の貴広は特に「待っている」とも「早く戻れ」とも言わなかったが、居住棟の自室に戻った気配が無いと思えば、この様だったと言う訳だ。どう言った風の吹き回しかは知れないが、貴広がここで待っていたらしい、この現状が伊勢にとって喜ばしい事には違いない。 残業などと口にしてはいたが、この様子では間違いなくただの口実だろう。少しばかり、嬉しさや愛しさが前面に出て仕舞うのも致し方あるまい。 「そうか…。お前の判断ならばまぁ問題はないだろ…。幾ら、早く戻るだの現を抜かしていた所で、抜かりはあるまい?」 至近で釘を刺す様に言われて、伊勢は「当然です」と断じて目を細めた。たとえどんな事態であろうと、己の役割は万全にこなすと言うのが伊勢の信条だ。敬愛する上司の為と思えば、どんな激務であろうが、易い任務であろうが、手抜かりをするつもりは一切ない。 耳朶を指で擽りながら項を指の腹で辿れば、報告に一応納得したらしい貴広の腕が首に回って来た。 示し合わせた訳でも何でもないが、自然と『そう言う』空気である事をどちらともなく察して、退くか退かぬかを、僅かの視線の交錯の中で見極めにかかる。 互いにがっつく様な年頃でも性格でも無いが、遠慮し合う間柄でもない。察する程度には慣れもあるし、通じていると言うその感覚も心地が良い。 貴広が、急な任務に出る羽目になった伊勢を労うつもりで『残業』をして待っていてくれたのだと確信出来るのも、気分が良い。 耳元に口接けると、擽ったそうに貴広が息を吐いた。伊勢の首を抱き寄せていた指が、鍵盤でも叩く様に滑らかに動くのに促されて、顔を上げる。 「っおい、伊勢…、何も、こんなところ、で」 貴広が横たわっていたのは大きめのソファーだ。来客用のそれは合皮貼りで、リラックスする為のものではないから座面もスプリングも固い。クッションの類も無い。貴広の抗議も尤もだったが、「すみません」とだけ言って、伊勢は上着を脱いでソファの背もたれへと放り、ネクタイを弛めてその先端を胸ポケットへ突っ込んだ。その行動からもここで止まる気はないと言うのは明らかに知れて、貴広は困った様に眉を寄せた己の目元を片手で覆った。 部屋へ戻るのがもどかしいと言う程に切羽詰まってもいなかったのだが、普段貴広が仕事をしているこの部屋で、仕事ではない事をすると言う行為を想像したら、少しばかり背筋が震えるものがあったのだ。 そしてそれは恐らく貴広の方も同じだったのだろう。必死で室内の、日常見慣れた風景を、見ない様にしている様だった。 弛んだネクタイの纏い付くワイシャツの釦を丁寧に外して行きながら、剥き出しにした、仕事に疲れて強張った膚をマッサージでもする様にほぐしてリラックスさせて行く。 伊勢がオフィスへと戻って来る保証も無かったと言うのに、残業を装って待っていた、貴広のその心情を想像すると、らしくもなく酷く優しい気持ちになって仕舞う。 貴広の鼻から、ふ、と抜ける様に漏れる息遣いに忍び笑うと、伊勢は「隊長」と優しく声を掛けながら一旦身を起こした。投げ出されていた貴広の足を取ると、恭しい仕草で靴を片足ずつゆっくりと脱がせる。 「待っていて下さったお礼に、何でも言う事を聞いて差し上げます。して欲しい事、何でもおねだりして良いですよ」 待っていた、と言う言葉に、貴広が顔を顰める。「別に待っていた訳では」、とぶつぶつと呟きはするが、看破されておいて言い訳をすると言うのは余計恥ずかしいと思ったのか、強く反論する気は無い様だ。 「どこを触って欲しいとか、どうして欲しいとか、そう言うご要望があれば、遠慮無く仰って下さい」 笑みながらそう促すと、これみよがしに下肢をちらと窺う素振りと共に伊勢は手を伸ばした。触られると思ったのか、咄嗟にびくりと身を竦める貴広を余所に、その上を通り越した指で、顎の下を柔く擽る。 「…っ」 フェイントに反応して仕舞った事が不覚だったのか、頬を紅潮させて歯噛みしながら睨んで来る貴広の、指の狭間から見える恨みがましげな眼差しに、伊勢は飽く迄にこりと微笑みかける。 「どうぞ、何でも、何なりと」 「…………っ、貴様…、と言う、奴、は…!」 性格が悪い、と呻かれて、伊勢は苦笑した。顔を覆う貴広の手をやんわりと退けると、更にきつく睨まれるが、構わずに、ずれかけていた眼鏡をそっと外してやる。 「………………………どうせ、元から労いのつもりでは、居たんだ」 その侭軽く十秒以上沈黙してから、貴広は半ば自棄の様な声を上げた。 「はい」 「だから…、好きなように、してくれれば、良い」 そうして漸く紡がれた注文は、本当に自棄としか思えない言い種だったが、伊勢は溢れそうになる愛情の侭に微笑んだ。 それでは結局自分が甘やかされる形になる。本当ならば貴広にらしくもない様な『お願い』をされたかったのだが、まあ状況や場所が場所である。仕方がないか、と伊勢が「はい」と頷いて顔を再び寄せて口接けると、後頭部に抱きつかれる様に引き寄せられた。 * 一時張り詰めた背がぶるりと震えてから、脱力する。肩に額を押しつけて絶え間ない呼気を漏らしている貴広の背を抱え直してやりながら、伊勢は大きく息を吐いた。 ソファの背もたれに体重を預けて、心地良い疲労感の侭に呼吸を整えていると、白々とした電灯の下の、執務室の風景が酷く生々しく見えて来て、思わず喉奥で唸る。 日常的に、仕事をする以外には訪れもしない様な部屋だ。そんな所で一体何をやっているのかと呆れ半分、そこで非日常めいた事をしていると言う倒錯的な興奮半分に、伊勢は膝の上でぐたりとしている貴広の背を撫でた。折角一段落ついた所なので、殊更にゆっくりと呼吸し落ち着きを保つ。 「隊長…、大丈夫ですか?」 「………ん、…」 まだ呼吸が上手く整わないのか、或いは疲労で眠気を思い出して仕舞ったのか。ソファに腰掛けた伊勢の膝上に向かい合う様にして座り込んで、肩に額を押し当てた貴広の意識はぼんやりと奈辺を漂っているらしく、緩慢に睫毛を上下させる以外の動作を見せない。 もう暫く待った方が良いか、と、肩口から落ちかけているワイシャツを直してやって、無言で背中を撫でていると、不意に呼吸や衣擦れの合間にふと小さな異音が聞こえた気がした。環境音ではない、人の立てた類の音だ。足音とか、扉に手をかけた音とか。 小さな音の反響から、伊勢はそれが執務室のすぐ外からしたものであると結論付けた。そうなると当然だが室内の自分たちの動作に関与した物音ではない。扉の外の廊下に居る『何か』。それは警備巡回中のセキュリティボットか。それとも人間か。 仮に何か危険があったとして、己にも腕の中の上司にもそれを防げないなどと言う事は無い。こんな状況であっても、である。だから伊勢は然程に物音の正体を気にする事もなく、貴広の背を抱いた侭で視線だけを巡らせた。 「……」 ソファに座った状態から斜め前方。執務室の入り口の扉。かち、とささやかな音が鳴って、ドアノブがゆっくりと慎重に回されるのが見えた。 特殊情報課のオフィスの揃うこの棟に入る事が出来るのは、基本的には本社の中でも情報部の人間のみに限られている。就業時間を過ぎた今では、外部の人間は正規の手段では決して立ち入る事は出来ない。 情報部のセキュリティは政府の情報機関並かそれ以上の機能を備えている。就業時間後となると監視カメラに連動したセキュリティボットが稼働し、情報部の社員証を持つ者以外は問答無用で攻撃される様になっている。 因って、侵入者と言う線は薄いと、この伊部隊オフィスの更に奥へ至る迄に越えねばならないセキュリティシステムの総数とその抜け方を素早く模索して、伊勢はそう断じた。 そして仮に、もしも異常を検知したセキュリティボットの巡回だとしたら、こんなにゆっくりと扉を開く筈がない。 と、なると答えは後者、人間だ。情報部の社員証を持った、言うなれば同部署の何者かが、執務室の物音を聞き付けたか、在室表示に気付いたかして、室内の様子を窺おうとしているのだ。 内側から施錠をしなかった事を少し悔いつつ、伊勢は先頃ソファの背もたれに掛けた自らの上着を、手を伸ばして素早く取った。 ノブが回りきり、少しづつ扉が押し開かれていく。伊部隊PIXIESの、隊長である神崎貴広の執務室をこんなにも慎重な動作で覗こうとするのだから、これは恐らくPIXIESの、貴広の事をよく知り、畏れている様な人間。残業に励む貴広に万一気付かれたら、と怯える様な、然しそれを抑えきれない程に好奇心のある人間だ。 少しずつ開く扉の隙間から、室内を恐る恐る目が覗き込むのと、貴広の身を覆う様に伊勢が上着を掛けるのとはほぼ同時だった。 普通に執務状態であれば当然気付いただろう気配に、腕の中でぐたりとしている貴広が気付いた様子はない。伊勢は貴広の背をしっかりと抱きかかえながら、扉の隙間に現れた人間を、無言で一瞥した。 「──」 目が合った。返るのは、驚きと、息を呑む様な気配。 扉からソファまでの距離は四米程度しかない。幾ら上着で隠したとして、顔を見せない様にしていたとして、誰と誰とが何をしていたか、までは到底隠しきれない。 「伊、勢…、」 そこに響いたのは、小さな、小さな声だった。貴広がぼんやりと放った、熱に浮いたか細い声が届いたかどうかは定かではないが、扉の向こうの人物は明らかに動揺した。 「………」 伊勢は、僅かに身じろいだ貴広を宥める様にその生え際に口接けると、扉の隙間に佇んだ侭で硬直している男を見た。そっと口端を歪めて、嗤う。 驚愕に固まっていた男の目に、確かな怯えの色が過ぎるのを見届けた伊勢は、殆ど姿勢を変えず軽く手を振った。生じさせた風圧で扉を無理矢理に閉めて、覗き見をしていた男も閉め出すと、やれやれと息をつく。 小胆で慎重な性格に大柄な体躯。能力は低いものではないが一般水準に近い程度。PIXIESの予備要員として在籍している、飯島克己だ。 彼が、他の多くの隊員と同じ様に、或いはそれ以上に、神崎貴広に心酔し憧れている事は伊勢もよく知っている。部下の全てをしっかりと見ている貴広が、彼に何か気に掛ける言葉を発しただけで、緊張しながらも舞い上がりそうに頬を紅潮させていたのを、知っている。 扉の閉まる音も密やかで、ぼんやりとしている貴広が何一つ気付いた様子がないのを確認してから、伊勢はその後頭部を優しい仕草で撫でた。 伊勢と貴広が何をしていたかは当然知られただろうが、飯島がそれを他の者に漏らす事は無いだろう。漏らした所で意味など無いのだから。 事の最中であったらそれこそ気付かなかったか、気付くのに時間を要した可能性はある。タイミングが良かったのか、悪かったのかと言うには判断が難しい所だが、取り敢えず貴広の顔や姿を真っ向から見られていなければ構うまい。 (まあ、もしもこんな隊長のお姿を真正面から見る様な事があったら、それを誰と認識する以前に口封じも辞さないが…) 貴広の事を憧れ以上に尊崇していたとすれば、飯島には少しばかり刺激と衝撃との強すぎる光景ではあったかも知れない。貴広が伊勢を、あらゆる全ての面で信頼しきっていると言う事実も知れただろう。 元より、伊勢と五十鈴の双子が貴広に対して仕事に必要な分以上の情を寄せているのも、護りに徹しているのも部隊の中では風聞程度には知れている事なのだが、実際にその現場を目の当たりにすれば、衝撃の度合いは段違いだろう。 何しろ普段の貴広は、冷酷で冷淡な、感情の酷く希薄な大量殺戮者と言うイメージを纏う様な『化け物』として通っているのだから。 「……伊勢…?」 返事をしないどころか、動きを止めて仕舞っていた伊勢を訝しむ様に、貴広がぼやりとした声でもう一度呼んだ。その声に我に返って、伊勢は貴広の頬を撫でた。口接けて微笑む。 「…はい。すみません。少し考え事をしていました。…隊長は、大丈夫ですか?」 疲れたのか、ぐにゃりと背骨が抜けた様に伊勢にもたれて座っていた貴広は、問いに暫し考える様に目を閉じた。その侭眠って仕舞いそうな気配さえ漂わせている姿だが、眉間に小さな皺を寄せているので、黙考中なのが辛うじて解る。 汗ばんだ額から辿った汗が、伏せられた侭の睫毛まで落ちて来て、そこで漸く目を開いた貴広は、顔を持ち上げると、伊勢の肩に顎を乗せた。はぁ、と大きな溜息をついて言う。 「…………早く風呂に入って眠りたい」 聞くだに怠そうなその声音に、伊勢が貴広の背をあやす様に撫でれば、脱力していた腕が持ち上がって背に回った。木にしがみつくコアラか何かの様にしてぎゅうと抱きつかれる。 隠さぬ甘えの気配に、伊勢は、ふふ、と笑った。日頃は絵に描いた様な厳しく冷徹な上司の姿を見せている事の多い貴広だが、気が抜けている時は存外にものぐさで面倒くさがりで、子供っぽい所があるのだ。 「矢張り、お疲れの様ですね」 「…疲れさせた張本人が言う台詞でも無いよなそれ」 「ちゃんとお窺いはしましたよ?」 誰の所為だ、と言わんばかりの返しを、伊勢はさらりと躱した。貴広が執務室で待っていたのはともかく、その後の事に関しては筋は通している。明確に言葉にして問いた訳ではないが、同じ事だ。 「………」 執務室の風景が貴広の心理に影響したのは間違いない。だが、真っ向から頷くには抵抗でもあったのか、抗議でもする様に、背に回っていた腕に力がこもる。その侭締め殺さんばかりの膂力に、降参する様にぽんと貴広の背を叩いた伊勢は、「さて」と話を切り替えながら、テーブルの上へ置いた貴広の眼鏡を取り上げた。汚れのない事を確認してから、手渡す。 「それではご自宅の方に戻りましょうか。車を出しますので」 眼鏡を掛けて、腰を持ち上げられる侭に伊勢の膝上から身を起こした貴広は、己の背に掛けられていた、己のものではない上着をきょとんと見てから、その侭の表情で口を開いた。 「…?部屋に戻る方が楽だろ、明らかに」 伊勢が自宅と言ったのは、本社付近のタワーマンションの一室である、貴広の持っている部屋の事だ。一ヶ月に二度か三度戻る程度なのだが、その管理は殆どハウスキーパーに任せっぱなしとなっていて、いつ戻っても大体殺風景に片付けられている。私宅だの自宅だの呼んではいるが、その用途は殆どが、ゆっくり眠るだけの事が多い。 稀にだが、完全なプライベート用の部屋なので、他の部署に気取られたくない様な秘密事を六天のみで話し合う時などにも使う事があるので、六天は皆その存在を知っているし、伊勢に至っては合鍵を持たされている。 一方で貴広が言う部屋と言うのは、本社内にある情報管理部の居住棟の事である。このオフィス棟と同じ敷地内にあるから、実質通勤時間はゼロ分。社外に家庭がある者や妻帯者以外は、大体がこの寮の様な社宅暮らしをしている。 エリート部隊であるPIXIES三十六天はその居住棟に一人一部屋を宛がわれていて、シャワーとトイレも各部屋に一つずつ備えられており、貴広も無論その例に漏れない。 因って、『帰る』となるとそちらの部屋の方を連想するのが普通なのだが。理由を問う様に見上げてくる貴広の視線の先で、ネクタイを結び直した伊勢は、 「時間も時間ですから。余り『騒がせても』宜しくないでしょう。部屋よりもご自宅に戻られた方が良いです」 それ以上の貴広からの疑問や反論を継がせずに、ぴしゃりとした調子で言うと、床に落とされていた衣服を拾い上げた。再び貴広の前に膝をつくと、ティッシュで体の汚れを丁寧に、手早く拭ってやる。 何の用があって就業時間後のオフィスにやって来たのかは知らないが、結果的に出歯亀をする羽目になって仕舞った飯島が誰かに何かを言ったり、まだ辺りをうろうろしているとは思っていない。だからこれは、伊勢の個人的且つ身勝手な思いだ。これ以上誰かの目の触れる可能性のある所に貴広を置いておきたくはないと言うだけの。 「………やけに言い張るな。何かあったのか、まさか」 「いいえ。何もありませんでした。貴方の気に掛けねばならない様な事は、何も」 「…………」 貴広は、ワイシャツの釦を丁寧に留めながらそう言う伊勢をじっと見つめていたが、やがて諦めた様にふいと視線を逸らした。詰問を諦めた訳ではなく、伊勢がそう言う判断をしているのであれば問題はないと言う、信頼故の合理的な結論だ。 皺になったネクタイを解いて、手の中でくるくると弄んでいる貴広の、靴を履かせて紐まで丁寧に結んだ所で、伊勢は立ち上がった。外から戻ったばかりなので車のキーは所持している。ポケットの中のそれを確認していると、伸びをした貴広がソファから降りた。散った書類を挟んだだけのファイルを抱えて、忘れ物はないかと辺りを確認してから歩き出す。 「歩けますか?」 「…お前な。そんな柔に出来てると思うか?」 「それは残念です。辛いと仰れば抱きかかえて運んで差し上げたのですが…」 「冗談じゃない、社内でそんな真似晒せるか。意地でも歩いてやる」 笑って言う伊勢に、ふんと鼻で笑って返した貴広が在室表示を切り替えるのを横目に、伊勢はオフィスをそっと見回した。非常灯程度しか灯っておらず室内はほぼ真っ暗だ。 「伊勢」 オフィスを横切りながら不意にそう呼ばれて、「はい?」と伊勢が振り向けば、少し後ろを歩いていた貴広が欠伸混じりに口を開いた所だった。 「大凡健全とは言えない事をした後だと言うのに、何だか機嫌が良さそうと言うか──、晴れやかじゃないか、お前」 「……いいえ。その様な事は」 オフィスが暗くて良かった、と思いながら、伊勢はそっと貴広から視線を前方へと戻した。早く帰る事を促して歩を再開させる。 「下世話に聞こえるかも知れんが、相当すっきりしました、と言う顔をしているぞ」 「…その様な事も」 態とらしい咳払いと共に返せば、それで貴広は興味を失ったのか、ふぅん、と気のない相槌を打った。後は無言で伊勢の後に続いて歩いている。 (…………不覚だった) エレベーターホールに向かって歩みを勧めながら、伊勢は胸中で思わずぼやく。床付近に取り付けられた非常灯の僅かな光源程度では、恐らくどの様な表情をしていたかなど気取られはしないだろうが、それでも何となく手を口元にやって仕舞う。 晴れやかだろうが機嫌が良かろうが、そう貴広に指摘させた理由を、思い当たりを浮かべてみれば、自分の事ながらなかなかに性格が歪んでいるやも知れないと思う。 執務室と言う日常風景の中で、部下が見ていた、或いは見ていたかも知れない、と、その場で貴広に報告していたらどうなっていただろうか。恥じ入ったか、それとも、更に興奮していただろうか。そんな下衆な想像をして仕舞う程度には、あの瞬間に何とも説明し難い優越感の様なものを、確かに憶えていたのだ。 我ながら大概だ、と呆れ混じりに思いながら、伊勢は意識して背筋を正した。エレベーターの中は流石に灯りが灯っているから、また上機嫌そうだの楽しそうだの指摘されたら困る。何しろ今度は逃げ場もないし誤魔化しようもないのだから。 お伊勢は本音レベルでは独占欲強めイメージ。飯島さんは忘れものを取りに来てつい灯りが点いてるのが気になって覗いて仕舞っただけなんですが、見せつけられて良い迷惑でした。だから後々六天に嫉妬や恨み軋らせてるとかどうでしょうって。 どうも双子は片方でした事と同じ様な事をもう片方でもやらせたくなっていかんです。 ↑ : |