緑の思想

※十年前のPIXIES妄想。
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 ビルの上から見下ろした街は明け方の頃のそれで、夜を引き摺っている様な気怠い空気をどこか漂わせていて、まだ静かだった。
 もう一時間もすれば公共交通システムの始発が動き出し、車の往来が始まり、街は目覚めの空気に包まれて賑わいを始めるだろう。平和と言う有り様の、正しくその通りに。
 ここはJesus and Mary Chain以降に成立した、小国家の一つである。元々は大国の地方都市の一部に過ぎなかったそこが独立してからまだ日は浅い。あの頃は国の解体や独立、或いは消滅や併合が立て続けに起こり、世界地図は短期間に幾度も書き換えられる羽目になった。地図と言うよりは、勢力図と言った方が正しかったかも知れない。
 この街は──否、この小国は、地方都市であった頃から地形に因る天然の要害の中にあり、インフラが遅れがちな不便さとそのお陰で保たれていた大自然とで、観光地として栄えていた。だが、国として独立を果たして以降は、豊富な天然資源を用いての外貨獲得に積極的に乗り出し、僅か数十年で見事なまでの発展を遂げるに至った。今では小国と言えどなかなかに裕福である。
 さて、その見事な経営手腕とでも言うべき功績が、実はカンパニー主導のものであったと知る者は少ない。それは無論ただの親切などではなく、経済支援がカンパニーの大きな利益となる、見返りを期待してのものだ。
 だが、ここに来て状況は余り宜しくない方向へ進もうとしていた。天然資源ごとこの国を──否、地方都市を取り戻そうとした、元々の国に因る強引な侵略活動である。
 政治的な介入に加え、国境付近の小競り合いや、資源採掘拠点の襲撃と言った本格的な活動。戦禍はまだ都市部には及んではいないが、それも恐らく時間の問題。
 元々、大国はカンパニーと小競り合いを起こしがちな体制にある。小国の独立を支援していたと言う情報もとっくに掴んでいるだろう。だからこそ余計に、カンパニーにこれ以上の利を得させまいとしている。寧ろ独立から今まで黙っていた事の方が不思議だったぐらいだ。
 そんな状況下である。内偵を任務としてカンパニーの情報部から送り込まれた伊勢と貴広とは、焦臭い空気を前にじっくりと時間をかけて潜入と言う訳にもいかず、こそこそとした情報集めに奔走させられていた。
 一枚岩ではない国の中には、元々の地方都市、或いは属国と言う立場に戻るべきだと言う声もある。それは即ちカンパニーとの敵対でもある。カンパニーは飽く迄元の国や周辺国に、天然資源とそこから生じる金銭とを渡さない為にとこの国としての独立や経済活動を援助したのだから、ここに来ていきなり手を切られると言うのは、飼い犬に手を噛まれる様なものであり、棄て置く訳にもいかない。
 内偵の目的は主に、戦禍を恐れて元の国に屈し、カンパニーへの背信行為に踏み切るどうかの調査である。
 具体的にどの様な人物たちがそれを狙っているのか、どの程度の武力支援をすれば戦争危機を回避出来るのか。もしくは、誰を始末すれば良いのか。まあそう言った辺りの事だ。こればかりは外部から幾ら調べた所で有効手は導き出せない。現地の状況を実際に見て調査してみなければ解らない事ばかりである。
 そして、幾日にも及ぶ調査の結果は想像以上に、戦禍を忌避する声の大きい事を物語っていた。Jesus and Mary Chain以降、世界の各地では散発的な戦争や紛争が日々絶えず起きている。そんな中で人は死の匂いを身近に感じ過ぎて、僅かの平和を得れば得るだけ、いつしかそれを過剰に忌避する様になったのかも知れない。
 この侭行けばそう遠からず、国はカンパニーと距離を置く選択を取るだろう。その報告をまとめて本社へと送信したのが昨晩の事になる。それから三時間後には、本社から任務の変更命令が届けられた。
 内偵から、殲滅へ。
 情報を奪うのではない。情報と、状況とを作れ。
 その命令は即ち、PIXIESに本来の得意分野である、軍事活動の許可が下りたと言う事でもある。
 「殲滅対象は国の都市部。余剰圏内の有無は問わない。好きに、壊し尽くせと言う事だ」
 首都と言うだけあって、庁舎周辺にはオフィス街が広がっている。少し古くさい高層建築が立ち並ぶそこは、地方都市だった頃から然程に変わらぬ風景だと言う。きっと、如何にも田舎の地方都市の中央だと感じさせる様な、効率的な都市の拡がりと発展を見せて来たのだろう。
 横から放たれた貴広の声に、伊勢は眼下の町並みから緩やかな速度で視線を移動させた。目標とされた市街の面積はおよそ50km2程度だろうか。範囲内全てに人口が密集している訳ではないとは言っても、都市の人口は大凡10万人以上がおり、その半数以上の居住域は確実に含まれている。
 その範囲内を『殲滅』せよ。言うは容易いが、実行は容易ではない。伊勢の『神風』を全力で扱ったとしても何日かの時間は要る。まずは情報の発信送信全てをシャットアウトし、建造物を根こそぎ破壊し、さながら災害の様な破壊を与えねば、自然災害などを装った『殲滅』と言う意は果たせないのだから仕方あるまいが。
 カンパニーへの敵対を理由に、宣戦布告も無しに殲滅作戦を行使すると言う訳ではない。情報と、状況を作る。特殊情報課のその理念で言えば、あらゆる情報操作と捏造とを行い、大国が侵略戦争を行ったと言う筋書きにするのが最終目的となる。
 つまり任務の内容は、正しくは殲滅ではない。殲滅された様に片付けろと言う事である。
 「解り易い汚れ仕事ですね」
 ビルの屋上、柵の向こうぎりぎりの所に立った伊勢は、ぼやく様に呟いて嘆息した。情報部に綺麗な仕事などまず無いのだが、まだ結成して間もない特殊情報課随一のエリート部署であったとしてその扱いは例外では無いと言う事だ。解ってはいたが、決して楽しい任務(しごと)ではない。
 だが、恐らくは当初からこちらの線が強いと見た上での人選である事は間違いない。何しろ貴広も伊勢も、人為には見えぬ規模の破壊を目的とした方向性の能力の持ち主なのだから。
 「今更何を」
 伊勢のその横で、縁に座って足を組んだ貴広が肩を竦めてわらった。今ひとつ感情の読めない能面めいた顔の紡ぐ表情はどうにも何を考えているのかが、時々酷く解り難い。
 それでも、伊勢は理解を投げ出す事はなく、貴広の横顔を不躾ではない程度に伺った。このPIXIESと呼ばれるエリートだらけの新設部隊の中で二番手、第弐天と言う序列を与えられた伊勢にとっては、神崎貴広は紛れもなく上司であって、己より強いと客観的な評価で判断され、尊敬する事の叶う唯一の存在である。
 伊勢と双子の弟である五十鈴とは、カンパニーの擁する兵士としては間違いなく最高ランクの実力者とされる。『個人』の戦果が一軍を凌駕した例としては世界初であろう、大かがりな戦闘を始めとして、その功績は計り知れない程だ。
 そんな伊勢と五十鈴にカンパニーから与えられたものが、彼らに比肩する実力を持った者らで構成されたPIXIESであり、それを率いる上司の存在でもあった。
 「どうせ表には、都市伝説程度にしか残らない任務なんだ。成果も人並みの罪悪感も、何一つ残らんから持つだけ無駄だ」
 ふと強い風の気配を感じて、伊勢は吹くに任せていた風の影響を一定範囲だけ軽減させた。そよぐ風の音はその侭に、吹かれて揺れていた貴広の髪が大人しくなり、乱れた髪型が気になったのか、彼は手櫛で自らの髪を軽く掻いた。
 「辛辣ですね」
 「事実を述べているだけだ」
 思った侭に投げた言葉を軽い吐息一つで吹き散らすと、貴広は腕時計をちらと見下ろした。任務開始の予定時刻まではあと数分と言った所だが、その仕草は電車やバスを待つ普通の人間の様だった。
 とてもではないが、殺戮と言う汚れ役の大任を引き受けているとは思えない程に、普通だった。
 伊勢は一見ただの優男にしか見えないこの上司の事を、紛れもなく実力者として認めている。能力も知識も差配も判断力も、情報部のエージェントとして要されるあらゆる全ての技能に於いて水準以上のものを持っているし、己の上司として、補佐すべき対象として、これ以上の適任者は現れないだろうとも思っている。
 誰が言い始めたのか、彼を、世界に五人しかいない怪物の名でもあり、絶対的な強者の称号でもある、ナーサリークライムであると言う声もある。そして、貴広自身もそれを特に否定してはいない。
 「どの道、局地的な兵器に成り得る俺やお前を派遣した時点で、本社は既にその可能性が高い事を視野に入れていたのは間違いないだろ。汚れ仕事だろうが何だろうが、とっとと時間通りに済ませて仕舞おう」
 「……方法は?」
 言い種は諦観の様でどこか投げ遣りではあったが、意見そのものは伊勢の考えと同じである。問いながら伊勢は顎に手を当てた。
 五十鈴を連れて来ていないので、『神風』の全力をぶつける事は出来ないが、それでも殲滅戦には事足りる。構造物の破壊が少々手間だが、重風での圧壊が手っ取り早いだろう。
 伊勢のそんな思考を割いて、「いや」と言った貴広は小さくかぶりを振ってみせた。
 「お前は取り敢えず待機で良い。俺が『撃ち漏らし』たのが居たら適宜対処を任せる」
 漆黒。その言葉が咄嗟に浮かぶ。それは神崎貴広をそう呼び表す、闇より深く暗い闇の名前だ。
 貴広の操るそれは、普通の異能とは全く異なる。物理法則も道理も常識も科学も、あらゆるものを無視して行使されるそれは、魔法とか神の御業と呼ばれてもおかしくない質のものだ。
 武器も兵器も、あらゆる法則の上にその効果を発現出来る様に設計されている。例えばミサイルであれば、形状、火薬の量、速度、高度、命中した対象の強度、命中位置、そう言ったものから効力が算出されて、初めてその威力が証明される。そうなる様に造られている。
 然し漆黒と呼ばれるそれは、あらゆる法則全てを無視して行われる。貴広が無造作に投じただけの漆黒の刃は、速度、筋力、形状、空気抵抗、対象の強度、それら一切の干渉を受けない。普通のナイフであれば壁にすら刺さらないだろうものに見えても、それはどう言った道理でか、命中した相手をたったのそれだけで死に至らしめる。
 或いは、投じるモーションすら必要無い。貴広から遠く離れた影から這い出たそれは、如何なる道理でか、確実に敵を仕留める。そう言ったものだ。
 伊勢や五十鈴の『神風』も特異な異能であるが、それでも基本的には物理法則の干渉や制限から逃れる事は出来ない。圧縮した気圧の分だけ周囲に陰圧が生じるし、銃弾を大気圧で叩き落とすならば、銃弾の発射エネルギーと衝突の衝撃と等価かそれ以上の圧力が必要になる。そして、大気圏を越えて仕舞えば微風一つすら操れない。何故なら『神風』は飽く迄、そこに存在している大気を扱うものだからだ。そこには無尽蔵で理不尽な力の源は無い。漆黒の様に、何もかもを無視した力は、他にこの世界には存在していない。
 ナーサリークライムと呼ばれる者たち以外には。
 「…可能なのですか?この様な広範囲に、漆黒の力を及ぼせると…?」
 「………流石にこれだけの規模でやった事はないが、極力に力を絞って一人一人確殺する様にすれば、まぁ出来ない事もないだろ」
 疲れはするだろうが、と付け足すと、もう一度腕時計を一瞥してから貴広は立ち上がった。高層ビルの屋上の柵の向こう、垂直に聳える壁の淵と言う、足の竦みそうな場所だが、その動きに澱みはない。
 釣られて伊勢も時計を見下ろす。合図も何も無いが、作戦開始の時刻だ。
 「伊勢」
 「はい」
 呼ばれて伊勢が時計から顔を起こせば、少し距離を取って目蓋を閉じた貴広が小さく息を吐いた所だった。ざわ、と空気の震える様な感覚と同時に、ひやりとした気配が頬を叩く。
 気圧を操り扱う伊勢は、大気の微細な変化も逃さず感じ取る事が出来る。そして一定の、『神風』の有効射程内でありさえすれば、ある程度は意の侭に操作が可能だ。己の周囲の風圧を取り払ったり、圧を凝縮して障壁に或いは刃の様にする事ぐらいは朝飯前だ。
 その、己の手に届く範囲の大気が、勝手に震えている。そこには空気を揺らすと言う明確な法則も理由も何もない。ただ、世界の理の前に現象そのものが頭を垂れるかの如くに。まるで当たり前の様にそう感じられるのだ。
 漆黒が顕現する、この瞬間だけは伊勢であっても気圧される。これだけは己の『神風』ですら意の通りには出来はしない。
 「離れていろ」
 目を閉じた侭、貴広がゆっくりと、体の両脇に垂らしていた手を僅かに拡げた。まるで促す様なその仕草で、ぞ、と大気を割る様な音と共に、貴広の周囲に黒い闇が湧き出した。
 「然し、」
 頬を打つ凍てつきそうな冷気に、言い募ろうと開いた口から、吐かれた息が白い。闇はたゆたう水の様にざわざわと揺れて渦巻いて、伊勢の足下まで波濤の様に迫ってくる。
 (重風の有効範囲内だと言うのに、やはり全く気圧の影響を受けてはいない…)
 黒い波の様になった漆黒は、伊勢の靴先を掠めながら、ぎりぎりの隙間を作って辺りに満ちて行く。ビルの屋上に染み入りながら、闇の触手をどんどん伸ばして広がる。
 「俺はそれ程器用じゃないんだ。正直、お前を避けて事を成せる気がしない」
 だから離れて欲しい、とそう続ける貴広に、伊勢は半ば反射的に追いすがった。
 「貴方をお守りする事が、」
 「必要ない」
 何の痛痒も無い様な断言に、伊勢は、解ってはいたが思わず歯噛みする。厳然たる事実などとうに理解している。だが、それでも諦め切れない様な苦痛がある。
 薄く目蓋を開いた貴広は髪を、吹き始めた風に揺らしながら、淡々とした調子で続けた。
 「伊勢。お前は強い。能力と戦闘性能では恐らく、世界一かそれに準じる『人間』である事は間違いない。お前を殺しきる事は、通常の兵器や手段では不可能に等しい。お前が動かない的ではなく、意思を持った人間であるからこそ。
 だが、それ故に過信もある。通常兵器なら防げるその強度も、理不尽な理の前には無力になる。そして、お前自身は未だそれを味わってはいない」
 「……」
 伊勢には、貴広のその言葉は、味わっていない、と言うよりは、味わわせたくはない、と聞こえた気がした。
 ざわ、と足下で揺らぐ漆黒の波濤が、伊勢の足下ぎりぎりまで近づいていた、その距離を更に狭めた。革靴の表面に白い霜が浮く。
 「理解してくれ、伊勢。俺には今ここで、お前を殺さずにいる事の方が難しいんだ」
 漆黒の波が頬を掠めた。触れた場所から凍り付きそうな冷気を感じると言うのに、黒い波濤は流動的に蠢いている。
 物理法則など無視して仕舞う力。伊勢が重風をどれだけ身の周りに纏おうが、この波は容易く己が身を包んで忽ちに押し流して、殺し尽くすだろう。
 感覚だけで理解が出来る。これは、どうした所で叶う事のない様な現象なのだと。
 くそ、と珍しくも感情の侭に吐き棄てた伊勢は、その場から大きく飛び退いた。それと同時に貴広の足下から広がっていた漆黒が激しく波打って、浮かんだ足に向かってその手を伸ばす。
 大きく後退した伊勢の靴先すれすれを掠って波は沈み、五十鈴ほどに自在に浮遊する事の出来ない伊勢は、飛び出した中空で気圧を凝縮した足場を作り、それを蹴って更に大きく飛び退いた。ややあって、とん、と踵が着地したのは直ぐ隣のビルだった。
 貴広の佇む位置へ視線を戻した伊勢は、まるでビルの上から水でも湧き出した様に、漆黒の大波が眼下の街へと溢れ落ちていくのを見た。大きく固まっていた波は落下しながら触手の様に細かく割れて、分かれて行き、仕舞いにはただの雨粒の様になって地上へと、そこを歩く人間の元へと、降り注いだ。
 雨の様な、ひとしずく。
 降った黒い漆黒は違えず人の体を貫き、大きな水溜まりの様に広がって、その亡骸を呑み込んだ。
 街からは悲鳴も苦悶も聞こえなかった。運転手が突然死亡して、制御を喪った車や電車があちらこちらで衝突し爆発音を奏でる。手にしていた火種が落ちて何かに引火する。ただの、人の制御を失った物体の奏でる破壊の音だけが淡々と、そして次々に、何かの楽器の様に騒音を撒き散らしていく。
 「っ、」
 再び迫って来ていた漆黒の波を回避して行く内、伊勢と貴広との距離は随分と離れていた。最早肉眼では視認出来ない距離だが、それでも足下では向こうと同じ様な破壊が、殲滅が、何の例外もなく行われていた、跡だけが刻まれている。
 見上げた空は快晴。誰ひとり逃さず、屋根も何も関係無しに降り注ぐそれはまるで死の雨。或いは安楽死の慈雨。伊勢は茫然と、人の命が余りに容易く摘み取られて消えて行く様を見ていた。
 (……やはり、今回の任務は所詮は建前。漆黒がどの程度の性能を発揮するのかと言う、実証実験の様なものだったと見るべきか…)
 取締役会もLABも折に触れて、神崎貴広の、PIXIESの性能を調べている。どの程度性能が伸びたのかを確かめて、それをどう利用しようと言うのかは定かではない。
 (本来であれば、そう言う謀略からもあの人を護れる様になる事こそが、役割だろうに…!)
 ナーサリークライムと呼ばれるものからすると、己は余りにも脆弱なものに過ぎないのだと、幾度となく思い知って来た事実を前に、伊勢は苛々とかぶりを振った。
 
 *
 
 人の声のしなくなった街に、火花の爆ぜる音や建造物の崩落の音だけが響いている。
 運転者を喪った自動車が電柱に衝突し、千切れた電線が火花を散らして火事を起こしたのか、制御を喪った電車や機械が連鎖的に暴走したのか。ぱっと見ただけでは理由を一言で説明するのも解明するのも恐らくは困難に過ぎる。
 何しろ都市のどこにも、国土のどこにも、生きて動いているものも、死んで動かなくなったものも、何一つ残されていないのだから。
 まだ早朝と言って良い時間帯だから、道路のあちこちを塞ぐ車輌事故はそれ程に多くはなかった。ひょっとしたら何も知らぬ侭に、眠い目を擦って起き上がった所で再び眠りにつかされた者も多かったかも知れない。
 生存者はいない。ただ破壊の跡だけが遺されたそれは、如何なる兵器を用いて成し遂げられたものなのか。骸と言う処理に困る証拠の何一つ残らないこの広大な虐殺の現場は、正しく人智を越えたミステリーそのものであった。貴広曰くの『撃ち漏らし』も無く、殲滅或いは殺戮そのものは余りに速やかに片付いていた。
 国は、破壊された有り様だけを持つ、白い癖に不快感を伴ったキャンバスとなったも同然だ。後は大国の兵器によって殺戮があったと言う証拠さえ捏造して仕舞えば良い。漆黒がそれを為したと言う証拠など何一つ残ってすらいないのだから。そして、その仕事は今回PIXIESが請け負う事ではない。
 つまりは、首尾良く任務は完了された。後に残るは報告と帰還だけだ。
 ガソリンの気化臭を漂わせ黒煙を吐き出し続けているバスの残骸の横を通り過ぎて、伊勢は街の中央部へと向かう。庁舎の足下には小さな緑地が整備されており、季節の花々で彩られた花時計が、見るものの無くなった今でも勤勉に時を刻み続けていた。
 人工の泉を形作る噴水の前のベンチに、果たして貴広の姿はあった。ネクタイを弛めて背もたれに体を寄り掛けて、疲れた様に目を閉じている彼に、伊勢は静かに接近していく。
 「やれば出来ると言うか。意外と簡単なものではあった。疲れはしたが」
 まるで、徹夜の仕事明けの様な調子であった。疲れたと言う言葉を表す様に首をこきこきと鳴らしてみせるその足下に、子供の遊具と思しきボールが転がっている。
 それの持ち主の姿は見当たらない。どこから転がって来てそこにあるのかさえ、定かではない。
 「……そうですか。お疲れ様でした」
 貴広が視線すら投げないボールの、制止して動かない無惨さが酷く不快で、気分が悪くなる。
 きっと貴広は、今はまだこの作業について殆ど何の痛痒も得ないかも知れない。だが、きっといつか、その所行がどの様な意味を持つのかを思い知る日はきっと来る。
 やらなければやられる生存競争の上にただ積んだだけの屍の数は、その必要が無くなってから、貴広の背に重くのし掛かるだろう。今はただの数字だが、それが己を呪う言葉になる日は必ず来る。
 残骸を遺さずに結果だけを寄越す、それだけの力は大きすぎていっそおぞましい。それを何の苦楽無く成せる様に育てられた心の強度とは果たして如何なるものなのか。
 それを、さも当然の様に『任務』と言う言葉として寄越した、カンパニー上層部の考えを思えば、不快感はまるで晴れる気がしない。考えれば考えるだけ、伊勢の胸の裡へとその澱みは堆積するばかりであった。
 ややしてから、伊勢は脱力しきった様にベンチに座る貴広へと腕を差し伸べた。二度ほど瞬きをした貴広はそれを取るものの、引かれて立ち上がれば眩暈でも起こした様にふらふらとしながら伊勢の肩を掴んで何とか姿勢を保つ。
 「大丈夫ですか」
 「……想像以上に、疲れが出たな…。これでは使いものにならん」
 言うなりまたベンチに逆戻りしそうになる貴広の背を支えた伊勢は、仕方無しにその体を抱え上げた。肩に胸を乗せて背中にだらんと脱力した頭を下げてから、貴広は僅かに身じろぐ。
 「………荷物か、俺は」
 「背負うのも横抱きにするのも、脱力しきった人間相手にはバランスが悪くて危険と思いましたので…」
 いわゆる俵持ちと言うやつだ。貴広は「は」と笑い声を上げると、憶えてろよ、とばかりに伊勢の背を拳でぽすんと殴った。
 「実戦でそんな調子じゃ、危なっかしくて見ていられませんよ」
 「常にこの規模で殲滅戦を行うなんて事は何度も無いだろ。そもそもやった事なんて無かったのだから、想定外と言う奴だ」
 顔は見えずとも、唇を尖らせて言う貴広の様子は手に取る様に解って、伊勢は胸中に蟠る苦い感情を磨り潰しながら、喉を鳴らして無理矢理に笑う。
 「……貴方の力には全く及びはしませんが、頼って下さって構わないのですよ」
 「…………いや。その。何と言うかな。信用していなかったとかそう言う訳ではないんだ…」
 歯切れ悪く呻いた貴広は、伊勢の肩上に起こしかけた体を、然し諦めた様に戻した。
 余程に疲れているのか、部下に担がれているなどと言う状況だのに、貴広には抵抗の気配もない。黙ってされるが侭になっている。
 「何の跡も残らないだろ。遺さないで済むだろ。…だから、その方がましな気がしたんだ」
 「………難儀な性分ですね。貴方は。本当に」
 「…錯覚なのもエゴなのも解っている。だが、どの途誰かがしなければならない汚れ仕事ならば、やる方も、やられる方も、後味が悪くない方が良い…」
 単なる欺瞞さ、と少し投げ遣りな調子で続けた所で、貴広は息を吐いて力を抜く。その身を抱えている伊勢の肩にかかる重みが少し増した様な気がした。
 (……当然だ。幾らそうあれと教育された所で、人に交わって生きる、真っ当な感情を有した人間が、それを何とも思わずにいられる筈など無い)
 屍山血河。如何にそれを効率的に、容易く、為し得る事が可能であったとしても。一見して平然としている様に見えたとしても。そこに何の痛痒も爪痕も残さないのだとしたら、それは正しく人ではなく怪物だ。
 ただ、貴広の感情の強度はそれを平然と堪える事が叶う程度には、保たれている。そればかりか、部下に(不要な)気遣いまでしてみせた。
 嘗て伊勢は自らの沈めた艦を、その瞬間にはただの戦果としてしかカウントしていなかった。だが、そこには沢山の人が居た。そして、皆死んだ。戦果として捧げられる為に殺された。
 彼らが、死に往く身で、化け物、と罵ったのを聞いた気がした。実際にはそんな事は無かったのだから、きっとその呪詛は己の罪悪感とか、そう言った感情が叫んだのだろうと思う。
 敵を葬る事に理由はある。任務の名の下には自由意思は制限されるが罪悪感も和らぐ。だから、伊勢には任務に手心を加えるつもりはないし、最中には個人的な感情を挟むつもりもない。
 ただいつか、その感傷に復讐される日が来るのかも知れない。そんな漠然とした予感だけはある。だからこそ、有象無象の世界を拒んで、畏れて、立ち向かうべく命題を求めて已まない。
 神崎貴広の本来の人となりは、他者が言わしめる様な冷徹な殺人兵器の様なものではない。感情豊かで、親しき者の死に涙せずにはいられない様な、余りに当たり前の人間の有り様そのものだ。
 「……部下にやる気を出させるのも、指揮官の役目ですよ。ですから、もっと頼って下されば良いんです」
 「………今は全面的に頼っているがなあ…。情けない為体ですまないが」
 「構いませんよ、それでも。そんな貴方も悪くないですから」
 とん、と担ぎ上げている背を優しく叩いてこぼした伊勢に、だらんと脱力した侭の貴広が笑う。笑って、そして困った様に言う。
 「俺は、お前の方が難儀な生き方をしていると思うよ」
 「……」
 ぽつりと放たれた言葉は、多分痛烈な棘に似たものだったのだと思う。躱す事は出来た。憤ってみせる事も。然しその何れも取らず、伊勢は大人しく肩上に担がれている上司の体を抱え直した。
 なまじ強大な能力を持って生まれて来て仕舞ったからこそ、その扱いは己の意思と、己を信頼する者の意思とに委ねたい。
 「…それでも、我々を『使う』のであれば、それは貴方を於いて他には無いのですよ」
 故に誓った。故に課した。この人の為に為した事であれば、その一切を悔いないと。疑わないと。
 それだけが、正義か悪かなどどうでも良い、信念に因って選んだ結果の一択であるのだと。
 「……………どうせお前らは、俺が幾ら止めろと言っても押し通すのだろ」
 け、と小さく吐き棄てる様にぼやいた貴広が、大きな溜息をつくのが肩上の重みから解って、伊勢は仕返しのつもりで白々しく笑った。
 「務めに徹していても自主性を失うな、と言うのが隊長の口癖じゃないですか。我々は各々解釈したそれを遵守しているだけの事です」
 「はいはい。もう好きにしろよ」
 言い出したのは自分だと言うのに、平行線を辿る会話が億劫になったのか、単に疲れただけなのか。そう、さも投げ遣りですと言わんばかりに強調した言い種を寄越した貴広に、伊勢は、おや、と眉を持ち上げた。どうやら機嫌そのものは悪くないらしい。先頃までの偽悪めいた様子とは明らかに異なっている。
 生きるものの消えた街を歩きながら、伊勢は胸の奥で疼く様に蟠っていた、不快な痛痒が和らいでいる事にふと気付いた。そしてその代わりの様に、疼く様な寂寥感が、己のものではない風に吹かれてくるくると舞っている様な感覚を憶えた。
 「……隊長」
 「…………ん?」
 歩いているから、肩に担がれた貴広の体は僅かに揺れている。その振動に誘われたのだろう眠気の中から戻るつもりはないのか、発したのはたったの一音だけであった。
 何十万の死を拵えて、その代償が疲労と眠気だけなど、安すぎる。人の命の代わりとしては、余りに安すぎる。
 だが、この男にとっては未だ、それでも良いのだ。当たり前の様な、知識や経験から探り出した『遠い他者の死』、その程度で。──今は、未だ。
 「勿論、好きにさせて頂くつもりですから。ご安心下さい」
 返ったのは、肩を竦める様な仕草と、疲労しきった人間の肉体の重みだけだった。





何億の人間を殺したと言われる通り、実際に漆黒の神崎が大量殺戮をなして来た事は確か。よくよく考えると一日で億単位になる朱キ日は極東さんとの喧嘩の結果なのでノーカンだと思うんですけどね。
如何に長生きとは言え記憶の保持は曖昧だし、現在の神崎貴広と言う人格を構成しているのは結局のところ養成所での経験や教育で得た、捻子の弛んだ価値観であるのも間違いない訳です。
勿論、平和の中で暮らして、道徳的な観念を人並みには得たからこそ、もう殺戮の日々には戻りたくないと言う結論に至った訳ですが、それでも、それを崩す『敵』には容赦ない決断を下せるだけの覚悟や思考があるのです。暗殺者とか大柴への殺す気満々の態度からみても。
つまり結局のところ弛んだ捻子の生んだ思考は徹底していて、それは後から得た価値観の天秤に乗せても揺らがない程に貴広の裡に根付いて仕舞っている。人を殺す事が必要と思えば、躊躇いなく痛痒を感じずに済む心を持っている。大事なものの為なら上司の本部長もさっくり暗殺します。
……筈なのではないかと。それだけのはなしです。
あと、この時代(世界)、国が幾つも消えて宗教も思想も大混乱だろうし、働き手にアンドロイドも沢山居るし、そのくせメイドと言う他人への奉仕者が消耗品の如くに販売されているしで、人の命の重さも全然違うんだろうなとか。



かれらを蒸発させてしまうのはわけもない
一片の憐憫の心さえあればいいのだから

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