犂星は昴星を慕い天を彩り

※十年前のPIXIES結成直後辺りの妄想。
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 「要するに、合同演習なんてものは建前だ」
 こつん、と、手にした小石を机に拡げた地図の上へと置く。静かだが、鋭い音。
 東西に歪な、鉤型の形状をした島のみがプリントアウトされた地図だ。それは白い紙にただその形だけを記したもので、地図としての体裁にすらまだ至らない白地図。何も手を加えなければ役割を果たす事すら難しいただの画の様なものだ。
 こつ、ともう一つ石を置く。続けて別の小石を指で摘み上げる、貴広の目には、ただの地図未満の紙切れもただの小石も、恰も遊戯の盤面とそこに配された駒の様に映る。
 現実は遊戯ではない。命は駒ではない。法則は絶対ではない。盤上の想定など盤石ではない。知の研鑽は無力ではないが、有効に役立てるには経験が必要だ。
 これは、故に用意された遊戯。そして、駒たち。
 (試金石と果たして成り得るのか。きっとそれは、俺に対する問いでもある)
 取り上げた六つめの小石を手の中で転がすと、貴広は少し考えてからそれを地図の外にそっと置いた。深く息を吐き出して、仮拵えの天蓋の下から空を見上げる。
 天頂から見下ろしている筈の星々は未だ見えない。だが、もうじきに陽は沈む。
 朱い、日暮れの時間が終わろうとしていた。
 
 *
 
 上陸した島の感想はと言えば、存外に暑い、と言う一言に尽きた。日没まで一時間とない頃の筈なのだが、遮るもののない海上から斜めに照りつけて来る残照は、じりじりと暑い上に眩しい。西側の、遮るもののない海岸が揚陸地点と言う時点で既に、軽いイヤガラセを受けている気がしないでもない。
 いつものスーツよりは幾分楽だとは思われるACUを着用しているのだが、着慣れないからかどうも逆に肩が凝って仕舞う。装備はほぼ取り付けていない森林の迷彩パターンのそれにはご丁寧にも揃いの帽子が付属していた。その帽子だけは陽を遮る役に立ってくれているが、利点と言えばその程度しかない。
 お世辞にも貴広たちは、その見た目も立ち居振る舞いも軍人の風貌とは言えない。お仕着せのACU姿は着慣れなく見慣れない為に、まるで傍目には軍隊かPMCか軍人くずれのゲリラか、緊張感が無さすぎてただのコスプレかと言った様相である。
 貴広たちを乗せて来た小型の揚陸艇は、幾つかの小コンテナと言う荷物を下ろすと挨拶もそこそこにとっとと沖合に浮かぶ本船へと引き上げていって仕舞った。なかなかに薄情だとは思うが、実に軍隊らしい事務的な対応である。
 お陰様で、波打ち際にて資材の入ったコンテナたちと共に立ち尽くした貴広は、こうして暑さに呻いている訳なのだが。
 「開始時刻までは残り四十八分ですが、どうしますか?」
 「取り敢えずその辺りに天蓋を張るぞ。日陰がないとやってられん」
 腕時計を見ながら問う伊勢に、目深に被った帽子のつばを更に前へと傾斜させながらそう返す。天幕ではなく、簡単な支柱だけで支える天蓋を備品に入れて来ている筈だ。
 指示を受けて早速作業に入る背中たちをちらと見てから、貴広はコンテナの一つを蹴り開けた。中から、今回最も重要に慎重に扱われるべきである、青い色をした三角旗(フラッグ)を無造作に取り出すなり、折り畳まれていた長さ二米程のポールを伸ばして、海岸にざくりと突き立てる。
 「……ええんか…?」
 「こんなもの、どこに設定しても然して変わらん」
 帽子を脱いでうちわの様にあおいでいた島風が、どこかぽかんとした様子で呟くのが聞こえたが、投げ遣りに言うと貴広は視界に真っ直ぐ眩しく差し込んで来る斜陽を、目を細めて見た。
 この様子ならば、開始頃には辺りはほぼ日暮れの様相を呈しているだろう。主戦場となる、前方に広がる密林の中はきっと夜程に視界が悪くなる。敵はそれをも見越してあらゆる万全の備えでいる事だろう。そんな中で待ち戦などする気になれない。
 (………負ける気は、しない……、いや、しているのか?よく解らんが…)
 矢矧や雪風がコンテナから取り出した天蓋を手際よく組み、五十鈴と島風は無線など他の備品の設置をしている。伊勢は地図を片手に貴広からつかず離れずの位置に佇みながら彼らに細かい指示を出していく。
 (伊勢。五十鈴。島風。雪風。矢矧)
 五人の顔と名前とを順繰りに見遣ってから、貴広は己の足下に伸びる影を見つめた。そこに己の名を付け足して、合計六人。島に上陸したPIXIESメンバー。序列にして上位となる六天。
 それが、神崎貴広に与えられたものであって、役割でもあった。
 
 *
 
 伊、呂、波の三つの、特徴と役割との異なる部隊を備えた特殊情報課、その中でも肝煎りの部隊として、相当の年月をかけて人員を集め、育成し、満を持して結成されたのが伊部隊PIXIESである。
 その設立の青写真だけは何年も前から存在していたのだが、実際に実働可能な部隊として結成に至ったのは僅か一ヶ月に満たない前の事だ。それだけ取締役会はこの部隊の扱いを慎重に、入念に、手間を惜しまずに行って来た。
 粛正部隊を持つ監査部、軍事活動を行う防衛部など、何れも喉から手が出る程に欲した、選りすぐりのエリート人員だけを集結させたその部隊は社内に於いて結成当初から、オーバースペックであると取り沙汰されていた。
 特に防衛部はその存在に懐疑的な目を向けており、言うなれば目の上のたんこぶと言った存在として見ている。
 カンパニーの軍事活動──飽く迄会社としての『自己防衛』と言う建前の内だが──を一手に担う防衛部としては、自分たちに比肩する軍事力ないし兵力の存在を、同じ社内とは言え易々看過する訳にもいかないのだ。
 然し防衛部に監査の権限は無い。だからこそ、面子やプライドと言うものが代わりに出て来るのだ。それは円滑な関係を大きく損なう上に、明確な処理方法さえも存在していない様な、非常に厄介なものだとは巷間知れた事である。
 特に、PIXIES第弐、参天の序列に居る神風の伊勢と五十鈴は、一時期臨時ではあるものの、防衛部にその所属を置いており、かのBLURの戦いに参戦していたと言う経緯がある。その為、防衛部としては有益な人材を情報部に奪われたと言う見方もあると言う。
 実際の所は、伊勢と五十鈴は情報部の育成課在籍であった為に、防衛部への所属は正しく、軍事活動に参加する為の「仮」のものでしかなかったのだが、現場で性能を散々見せつけた挙げ句に情報部に戻されたと言う経緯だけを思えば、そう見られるのも頷ける話ではる。飽く迄現場の人間の感情的な部分の事だが。
 ともあれ、PIXIESと言う情報部の一部隊の戦力のレベルが、防衛部の一個師団を遙かに上回るだろう事実を前に、脅威を与えていると言うのが現状であった。
 そんな中で、情報部からの発案で、合同演習と言う提言が出されたのである。
 貴広の放った命令書を受け取って斜め読みしながら、「合同演習、ですか」と五十鈴が呟く様に言う。
 PIXIESオフィスにある隊長の執務室だ。そこに呼び出されて集った、部屋の主以外の五人は、めいめいの姿勢を取りながら、デスクに頬杖をついた貴広を見遣った。
 五十鈴、雪風はソファに腰掛け、矢矧は正面の壁に背を預け、島風はデスクに寄りかかり、伊勢は貴広の近くに立っている。そんな彼らの姿を確認する様にぐるりと一瞥してから、貴広は五十鈴の手にしている命令書を指さした。
 「結成間もない特殊部隊に華を持たせてくれようと、上の方々がご親切にも気を回して下さったと言う訳だ」
 「…そりゃあ有り難いお話だ。情報部からの提案となれば、防衛部がそれを蹴ろうものなら弱腰と囁かれ、挑むからにはメンツをかけて勝利しなければならない、と」
 「ほんで情報部から見りゃ、PIXIES(うち)の力と育成成果を見せつける発表会みたいなもんちゅう訳か」
 投げ遣りな貴広の言い種を、矢矧と島風が順に拾った所で一同は揃って小さく苦笑する。防衛部の威信とも言える面子を当て馬の様にするなど、どう控えめに見ても、発案した人間の性格の悪さと、防衛部を馬鹿にした本心とが透けている。
 まあ同じカンパニーに務める仲間として、互いの親睦を深める良い機会と思い給え。
 そんな口頭の命令を添えて寄越した上司である、水野の含む意図を隠さぬ笑い声を思い出して、貴広は肩を竦めた。現場感情に添ってはいるかも知れないが、色々と遠慮や配慮と言うものが無さすぎる。
 演習とは要するに、本格的な実戦の想定訓練と言う事である。防衛部と、情報部のPIXIESとに分かれて模擬戦を行うと言うのが今回の主旨だ。
 ルールは簡単だ。
 カンパニーの所有する演習用の広大な島の中に双方の陣地となるフラッグポイントを設定。但し陣地の場所は互いに自由に決めて構わず、一度設定したら移動は不可。
 互いの兵士達の尋問や人質、殺傷はルール違反。それぞれ着用しているACUに致命部位のダメージ測定を行う装置が付属されており、その数値が一定を越えたら死亡扱いで退場となる。
 実弾や刃物もそれに対応した訓練用のものを使用し、予め許可の下りている兵装以外の持ち込みは禁止。
 勝利条件は、相手の陣地にあるフラッグか、指揮官の首を獲る事。退場者の数は勝敗には関わらない。
 陣地を発見する為には、島の中に幾つか用意された通信施設である拠点ポイントへ進軍し、ビーコンをオンにする事で測定が可能となっている。但し拠点のビーコンは互いにオンオフ操作が可能である為、拠点を多く発見し、確保までを行わなければ相手の陣地の正確な把握は難しい。
 島はカンパニーの完全な管理下にあり、鳥や虫以外の野生動物の生息は無い。環境要因に注意を割かず、敵チームを倒す事に集中出来る様になっている。
 「まあ、大がかりな陣取りゲームと言った所だ」
 概要とルールとを読み上げる五十鈴にそう言って、貴広は椅子の背もたれに身を預けて腕を組んだ。島の付近には監視役の船が見張りにつき、衛星データで戦況は随時把握されている。不正をする余地はない。観戦、もといデータを俯瞰する側から見れば正しく、大がかりすぎるお遊戯の様なものである。
 「互いのチームの参加人数は最大50名…。これってPIXIES(うち)の人数に大体合わせてくれているって事ですかね」
 「まあそうやろなあ。うちは補欠まで含めた総員、あちらさんは選りすぐりの面子を揃えてお出ましっちゅう訳やな」
 五十鈴が書類の要項の欄をとんとんと指先で叩きながら言うのに、島風はにやにやと笑みを浮かべて肩を竦めてみせた。人数だけ聞けば防衛部の接待とも思えるのだが、無論そんな事は無いのだと、ここに居る誰もが解りきっている。
 PIXIESのエージェントの技能レベルは、補欠ら予備要員であってもその辺りの普通の兵士程度ならば凌駕出来る水準と言われている。飽く迄戦闘行為に限った事であるのなら、同じ人数でぶつかり合えば、間違いなく数など無関係にPIXIESの方が圧倒的に有利だ。
 そこに貴広は水を差す──否、油でも垂らす様な心地で口を挟んだ。
 「それなんだがな。厄介な事にも上からは、なるべく最少人数で果たせと言うオーダーが来ている」
 今回の(性格の悪い)命令を寄越した水野と言う男は、未だ育成課で指導職と現場指揮とを兼任で担う、役員連きっての武闘派の幹部である。半ばデスク組と呼べる立場になってもなお無駄に血気盛んであるらしい所には、現場の人間としては、理解を得られるかもしれないと言う期待半々、無茶振りを度々寄越されると言う不安半々と言った所だ。
 特に貴広は水野に、嘗ては親子や師弟の様にして指導を賜った憶えもあって、易々意見がし難いと言う弱味もあって非常に厄介だったりする。
 「……最少人数での詰め将棋をご希望ですか。そこに来て我々六天のみが集められたと言う事は」
 言って、窺う様に伊勢が視線を寄越すのに、貴広は深々と頷いてみせた。
 「察しが良い。と言う訳で、演習に赴くのはこの六人──……、ああ、俺は指揮官扱いになるから、自衛以外の戦闘には参加出来んからな、実質五人だが」
 構わないか?と仕草だけで問う貴広に、五人の一部は顔を見合わせた。そこに、顎に手を当て眉間に皺を寄せた雪風が挙手する。
 「力量的に問題は無いだろうが、物量的な問題が生じる。拠点を奪還し敵陣地を割り出すには、最低でも三点計測、つまり三つの拠点の確保が必要になる。五人だけでそれをこなすとなれば、陣地防衛か敵フラッグ奪取か何れが困難になると想定出来るが…」
 幾ら六天の一人一人が規格外の戦力であったとしても、純粋に何十人もの人間が個別に動いてくるとなると、拠点確保をしつつその全てを押し止める事は難しい。これは単純な押し相撲ではなく、飽く迄進軍と言う作戦行動を想定した演習だからだ。
 殲滅するつもりで行けば不可能ではないが、今回の演習での殺傷はルール違反だ。強力無比な異能はその扱いを大分セーブせねばならない為に、通常の武器の類に頼る必要性も生じるだろう。
 そんな訳で、雪風の指摘は正しいものであったが、貴広は組んでいた片腕を軽く振って、「問題はない」と。あっさり口にする。
 「人員は制限されているが、持ち込む『備品』には大した制限は掛からない。一応、名目上は『通信機器』だからな」
 そんな貴広の言葉に、ぽんと手を打った伊勢と五十鈴がほぼ同時に頷いた。
 「……ああ」
 「成程」
 暫しの間の後、残る三者も思い当たって頷き、咥えた煙草を揺らした矢矧が大きく息を吐いた。
 「確かに詰め将棋だなそれは。最少人数どころか、最小手で勝つ気か」
 「当然だろう。そうオーダーされた以上はやる。それだけだ」
 言う貴広の口調は、どこか気怠そうではあったが、まるで研ぎ澄まされた刃か何かの様に冷えていて、酷く人間味が無いものだった。
 
 *
 
 上陸地点は互いに、大体対象位置となる東西の浜辺であるとは知れている。だが、上陸の前からチーム同士が顔を突き合わせる事は無い為、互いに相手が何人いるのか、誰がいるのか、どう言った装備を持ち込んでいるのかは知れない。
 「18時。時間です」
 腕時計を一瞥した伊勢が言うのと同時に、沖合に停泊している、監視所となっている船舶から白色の信号弾が打ち上がった。開始の合図である。
 陽は大分傾き、強かった日差しは消えて、辺りは濃い翳りを夜陰落としている。波間はまだきらきらと白い光を散らしていたが、密林の方は今にも木陰から何かが飛び出して来そうな程に深くて、暗い。
 急拵えの天蓋の下から出ると、貴広は軽く息を吸い、口から笛の様な鋭い音を発した。可聴領域を遙かに越えた高音に、聞こえているのか耳の良い五十鈴が少し眉を寄せる。どうもこの類の音が好きではないらしい。
 数秒も待たぬ内に、密林の中からばさりと大きな羽音を立てて、貴広の前に転がっているコンテナの一つの持ち手の部分に、大きな翼を拡げた鷲が器用に降り立つ。貴広の『相棒』であり、仕様書には『通信機器』と記載されている、伝書鷲の蛍火だ。
 敵陣地の発見をコードにして命じると、蛍火は了解を示す様に「キィ」と小さく鳴いて飛び立った。上空をゆるりと旋回すると矢の様な速度で忽ちに密林の上空へと消えて行く。
 蛍火の行方を見届けた貴広は天蓋の下へと戻ると、そこに置かれた折り畳み式の椅子に腰を下ろした。同じ天蓋の下に置いてある長机の上には通信機が設置してあり、その受信機を耳に当てた雪風がさらさらと内容を書き付けている。矢継ぎ早に放たれる暗号を解読していくその手元を見ながら、伊勢が目を細める。
 「無線は問題なく傍受出来ている様ですね。あちらもどうせ傍受されている事は承知の上で扱っているのだと思われますが……」
 「然して広くもない島での、一つの目標物(フラッグ)の奪い合いとなると、即決戦がセオリーだ。情報戦など弄するとは考え難い」
 ましてやこちらは腐っても情報部だ。情報戦を挑むとなると一日の長はこちらにある。どちらかと言わずとも実力主義現場主義の防衛部が、そんな面倒な手間を踏む筈もない。
 貴広の呟きに「同感です。これは脳筋の方が有利なお遊戯(ゲーム)でしょ」と、さらりと五十鈴が続ける。そんな所に飛び込んで来た次の暗号通信に、貴広を除いた全員が眉を寄せた。
 「拠点Dポイントが奪取された。続けてC、F、Gポイントに分散して進軍」
 「この暗い中でも迅速な事だ。幾ら地図には拠点の場所が予め記されてるとは言え、地形は完璧には把握出来てない筈なんだがな。相当良い暗視装備でも持って来ているのか」
 雪風の報告に、矢矧が口笛を吹いた。それを聞いていた島風は、帽子を放って天蓋の外に出ると、砂浜でその侭、準備運動なのかストレッチを開始する。その動作は軽快で、鼻歌でも歌い出しそうな風情だ。
 夜の、地形も不明瞭な密林を行軍するなど正気の沙汰ではないが、野生動物や現地人の居ないこの島であれば、暗視装置などで視界を確保出来ていれば容易だろう。何しろ相手は防衛部の陸戦部隊だ。川でも沼でも森でも、素早い行軍には慣れているのだから。
 相手も全くPIXIESの人員に遭遇しない事で、陣地に集結しているか拠点奪取に動くかと言う警戒をしているだろうが、そろそろこちらが少人数である事も想定されているかも知れない。よもやたったの六人しかいないなど、俄には信じ難い事だろうが。
 拡げた地図の、拠点の一つに伊勢がマーカーで×の印を入れるのを横目に、貴広は足下の砂の中から、適当な石ころを幾つか拾い上げた。海から打ち上げられたものなのか、何れも角がなくすべすべとした手触りで丸い。それらを掌の中で転がしていると、羽音を立てて、行った時と同じ様な速度で蛍火が戻って来るのが見えた。
 「ご苦労だったな。報告を頼む」
 先程と同じコンテナの端に降りた蛍火は、もう一度ぽんと飛んで貴広の前、机の上へと器用に降りた。本来は猛禽類はつるつるとした平らな地面に留まる事を苦手としている筈なのだが、サイボーグである蛍火はその体の構造も利便性が高い様に色々と手が加えられているのだ。
 蛍火が報告を音のコードに変換し発するのを一緒に聞いていた伊勢が、地図上にマーカーで、とんと小さな点を打った。準備運動は終わったのか、島風が横からそれを覗き込む。
 「特に何の変哲もないポイントですね。密林の中なのかな」
 五十鈴がぼやくが、相槌以上の答えはない。地形の描かれていない地図上ではその点の位置がどうなっているのかは解らないのだ。
 「…F、Gポイント奪取。Cポイントはこちらに近い。Cに向かった人員は恐らくはBポイントを経由しつつ進軍に目的を変える」
 無線に入った暗号を雪風が読み上げた。皆の表情が、近づく鉄火場への緊張を孕んだそれに僅か変わるのをちらと伺った貴広は、手の中で転がしていた石ころを机に置いた。立ち上がる。
 「三点確保されたから、もうこちらの座標は突き止められてる筈ですけど、どうします?」
 緊張の気配を殆ど感じさせぬ軽さで言う五十鈴を見て、「決まっている」と返した貴広は小さく深呼吸した。帽子を脱ぐと、まだ残る暑さに鬱陶しい髪を、項で尻尾の様に結ぶ。
 「……さて。PIXIES六天。そろそろ状況を開始する」
 無線の前から。地図の横から。天蓋の外れから。砂の上から。机の傍から。めいめい寄越される視線を前に、貴広は口を開いた。
 「島風は蛍火の報告した座標へフラッグ確保に向かい、矢矧はそのサポートに付け。恐らく罠もあるだろうから油断だけはするな。五十鈴と雪風は各々適当に、拠点をからかって陽動してやれ。応援が集まり易い様になるべく派手にな」
 隊長として貴広の発する、恐らくは初めてに程近い指示に、膝を叩いた島風が笑って、五十鈴が戯けた様に敬礼して、拳を打つ矢矧が息を吐いて、ただ頷いた雪風が立ち上がって、素早く散って行く。
 「ほな行ってくるわ。殺さない様に蹴る事に、精々労力使わせて貰いますわ」
 「露払い程度はしてやるさ。殺さない程度、だが」
 言うなり走り出した島風を追おうとした矢矧の体がふわりと浮かんだ。横に並んで飛んだ五十鈴の号風だ。
 「矢矧さんが島風さんの足に追いつくのも、島風さんが加減するのも大変でしょ?途中まで送りますよ」
 「〜せめて予告してからやりやがれってんだ」
 それこそ微風か何かの様にしれっと言う五十鈴に、ち、と舌打ちをしながらも矢矧は、体を押し上げ進める風に合わせて器用にバランスを取る。
 「…では一番近いBかC拠点に向かう」
 風と共に遠ざかって行く連中に少し出遅れながらも雪風は地を蹴り、あっと言う間に全員の姿は見えなくなった。
 「……それでは、私はどうしましょうか」
 取り残された形になった伊勢が問うのを耳に、貴広は椅子に座り直した。うーん、と唸る。
 「…正直、伊勢(おまえ)を出して良い様な状況に至る気がしないのだが…」
 少し考えつつも貴広が正直にそう言うと、伊勢は眼鏡の奥の眼差しを困った様に細めてみせた。
 防衛にも、迎撃にも、役割が無い訳ではない。こちらの人数は少ないのだ。どうとでも指示は出せる。だが、勿体無いとでも言えば良いのか、伊勢と言う、生死さえ問わなければ単独で敵兵力の制圧が可能な程の戦力を、上手く使う理由が思いつかない。
 「……では、自己判断で動いても?」
 「それもな。指揮官としては最もつまらない話だし、持て余しているとも判断されたくはない。難しい所だが」
 指示や命令と言うよりは、愚痴と言った方が良さそうな呟きに、然し伊勢は何も言わなかった。貴広は先頃机に並べた石の一つをそっと手に取る。
 「要するに、合同演習なんてものは建前だ」
 手にした小石を机に拡げた地図の上へと置く。固く静かな音。鋭さを滲ませた音。
 地図を盤上に見立てて、島風、と名付けたそれに追従する様に、矢矧、と名付けた次の石を置く。
 五十鈴。雪風。続け様に二つの石を置くと、こちらの陣地、砂浜にぽつりと佇む青いフラッグを一瞥してから、地図上に記されたその横に小石をまた一つ置いた。
 そして、六つめの石を手の中で転がす。この石の名が何になるのかは、未だ決めていない。
 (試金石と果たして成り得るのか。きっとそれは、俺に対する問いでもある)
 地図の外に名も無い石を置くと、貴広は朱色の残照も遠い空の下、傍らに佇む伊勢の顔を見上げた。
 「情報部も、無論個々のエージェントの性能は把握しているが、防衛部の様な軍事活動や戦闘行為におけるエキスパートたちを相手取って、神崎貴広(俺)と言う実戦指揮の経験のない素人指揮官如きにでも、どの程度PIXIESを使いこなせるのかと言うのを確かめておきたいのだろ」
 まだあれこれとノイズ混じりの通信を寄越している無線のスイッチを、手を伸ばしてオフにすると、貴広は唇を尖らせた。
 「俺一人でも出来る事を、最早幾度やらせても意味がない。量りたいのはその性能ではない。指揮のみに従事して、どんな馬鹿でもそれなりの成果が出せる筈の、優秀な部下たちを上手く使ってみせろと。そう言いたいのだろうよ」
 言いながら、舌打ちが漏れた。元々気に食わない事を改めて言葉にするとどうやら想像以上に苛々するものだなと気付いて、貴広は大袈裟な仕草でかぶりを振った。
 つまりこれは神崎貴広の、指揮官としての出来映えを見定める為の場でもあると言う事だ。圧勝すればPIXIES六天は防衛部の精鋭を退ける実行能力を持っていると評され、失敗に近い勝利に終われば、現場仕事だけに特化した無能な指揮官であってもPIXIESは有能に事を成した、と評される。
 漆黒を扱う事が出来れば、貴広にならばこの場に座った侭でも敵兵全てを退場、或いは殲滅する事が可能だ。だが、今回求められているのは、軍事力としての神崎貴広の、そんな解りきった性能ではない。貴広は今回飽く迄指揮に徹して、漆黒も戦闘行為も自衛にのみしか扱いを許されない。
 己の力だけでなせると判断出来る事を、部下を使って間接的に行うと言うのは、なかなかに難しいものなのだと、貴広はこの一件で思い知らされていた。単純な手である上に未だ何も状況は動いてはいないが、部下の特性や能力を考えて指示を出した、あれでさえも最善手或いは良手であったかどうか解らない。
 己の能力に自信はある。だが、己が他者を理解しているかと言う事に関しては、自信があるとは言えない。
 エージェントの養成所に居た頃から貴広は、数時間前まで仲間であった筈の者を殺して生き延びる様な生活を送って来ていた。それは恐らくPIXIESとして育成された者ならば皆同じ筈だ。
 だが、彼らと貴広とが決定的に違っていたのは、貴広にとって──漆黒にとっては、それは何の労も成果も無い作業であったと言う事だ。人並みにそれを悲しいなどと思った事も昔はあったが、殺すと言う行為そのものについて、何か苦労や痛痒を感じたかと言えば、無い、としか言い様がない。
 競争相手を、敵対相手を、ただの石ころの様に払いのける事が出来る。それは恐らく、余り有り難くはない才能だ。
 その延長線に立つ今も、部下を、地図に配した石ころと同様に見ているのか。役割を持った駒として見ているのか。それとも、人なのだと理解する事が出来ているのか。よく、解らない。
 解らないから、戦力と言う意味で割り出せば九割を越えるだろう勝算でさえも、己に断じる事が出来ない。不透明でいる。
 貴広には己の欠陥に対する一つの確信があった。だからきっと今の己に必要なものは、戦力でも強さでも沢山の部下でもない。
 (強いて言えば、他者を信じる事、だ。己への自信かそれ以上に)
 「キィ…」
 黙り込んだ貴広の心を察したかの様に、蛍火が机の上にあった貴広の手を嘴でつんと突いた。痛みなどない、戯れの様な動作だ。
 「何、じゃれてるんだ」
 思えば蛍火とはその頃からの付き合いだった。動物はよく人の気持ちを敏感に察知するなどと言うが、蛍火も果たしてそうなのだろうか。それとも単に長年の慣れか。思った貴広がやわく笑って言うのに、伊勢が少し驚いた様に眉を持ち上げた。眼鏡の向こうの目がきょとんと開かれている。
 「何だその顔は」
 「…ああ。いえ。貴方もそんな風に笑うのだな、と思っただけです」
 妙に神妙な調子でそう言われて、貴広はふんと息を吐く。
 「俺だって腹を抱えて笑う事ぐらいあるだろ、多分」
 「多分、とは」
 「何しろ、そんな風に笑った憶えなど無いからな」
 言えば、自然と口端が皮肉げに持ち上がるのが自分でも解った。笑った憶えが無いなどと、まるで不幸に耽溺する様な事を抜かすつもりはないが、実際に貴広には久しく愉快に笑った記憶など無かった。
 すれば、こちらは大体穏やかな形を刻む表情筋を持つ伊勢は、ふっと微笑んでみせた。何やら、年の離れた弟や子供でも見る様な目の様だと、直感的にだがそう思う。
 「成程。それでは、戻ったら面白い本でもお貸ししましょうか。それとも、思い切り擽ってみた方が効果的でしょうかね」
 「お前のその冗談が一番面白いな」
 からかわれているのだろうか。眉を寄せた貴広の口元が苦めに弧を描きかけたその時、蛍火がくるりと海の方を向いた。それとほぼ同時に同じ方角を向いた伊勢は「どうやら、無粋なものを持ち込んでいる様ですね」と言って眼鏡をそっと直した。
 どうしますか、とレンズ越しの瞳が訊ねて来るのに、貴広は数秒だけ黙り込んだ。躊躇いではなく思考。解りきっている答えを出すまでの僅かの間の後、息を吐く様にゆるりと口を開いた。呼ぶ。
 「伊勢」
 「はい」
 「任せて良いか」
 問いはただの確認であった。戦力、性格、人柄、能力、経験、自負。あらゆる書面上から得たデータを裏打ちするのは、指揮官の抱く信頼に他ならない。
 貴広が蛍火の性能を信じて扱うのは何故か。半分は機械と言う誤りの出ない存在の主人である事以上に、付き合いの長さだけ共に潜った死線があったと言う厳然たる事実が大きい。それもやはり、信頼ゆえの事だ。
 この、与えられたばかりの部下たちに──ナーサリークライムの力の前には容易く斃れる様な人間たちを、どう信じて扱えば良いのか。ここは、それを貴広に経験させ実感させる為の場でもあるのだ。
 伊勢はその実力から得て来た自信の表れなのだろうか、飽く迄柔らかに口端を持ち上げて貴広に微笑みかけると、執事ばりの綺麗な礼を取ってみせた。
 「無論です。貴方はただ、我々を信じてお命じになれば、それで良いのですよ。隊長」
 「──」
 その言葉に貴広が頷くより先に、顔を起こした伊勢は波間に見え隠れしている一人乗りの小型艇を見遣った。PIXIESが海岸線付近に陣取っているとまで掴んでいたかは定かではないが、初めから一部の人員を海経由で、こちらの背後をつく形で送り込むと言うのが敵側のプランだったのだろう。
 伊勢が無造作にそちらに向けて手を振り払った瞬間、暴風が波を派手に揺らし、三艘の小型艇はあっと言う間にその狭間へと転覆して消えた。艇と言うよりは一人用の小型の推進器の様なものだ。人とほぼ同じ重量しかないから、波には弱い。
 殺すなよ、と言外にはせずに伊勢の顔を見上げれば、視線から貴広の言いたいことは察したのか、伊勢は笑んだ侭あっさりと、
 「近付かせないだけです。まあ、あちらもプロですから、溺死の死亡判定で退場となる前に自力で何とかするでしょう」
 そんな事を言い、続け様に森の方へと姿勢を正した。少し遅れて貴広が同じ方角へと視線を向ければ、密林から一斉に出て来た幾人かの歩兵が訓練弾の装填されたARを構えるのが見えた。
 一応は屋根の下に居るとは言え、浜辺は視界が開けている。遮蔽物はほぼなく、足下には起伏もない。直線に飛ぶ銃弾は単純だが効果的だ。
 フラッグは設置されている地面から抜かなければ奪取判定にはならないが、指揮官は撃ち抜けばそれで終わりだ。どちらも勝利の判定となるならば、接近せずに事をなせる、後者を狙った方が易い。
 (まあ防御要員は全て攻撃手に回したからな…。迎撃手段は限られてくるが…、)
 島風と矢矧にフラッグを取りに行かせ、残る三名だけで、散って動く全ての敵を完璧に漏らさず仕留めるなどと言うのはどだい無理な話だ。そんな事は最初から解っている。だからこそ貴広は敵のフラッグを真っ先に奪取するだけの速攻勝負に賭けたのだ。
 そして島風らもそれに応じたと言う事は、貴広の首が獲られるより先に目標を達成出来ると言う自信があると言う事でもある。
 残る打つ手は、その為の時間稼ぎ。指揮官も自衛行為ならば行って良いルールだ。最悪、貴広一人でもフラッグの死守や自衛は出来る。海も近い。漆黒を扱うにはベストなコンディションは保っている。漆黒を使えば事もない。
 だが、貴広が椅子から立ち上がる事は無かった。漆黒を扱う事も。
 ふ、と眼鏡の向こうで笑った伊勢が、持ち上げた手を振り下ろした瞬間には、森から出て来た歩兵たちは全て吹き飛んでいる。放たれた銃弾も全て、大気の加圧領域の中、砂の中に沈んで落ちた。
 PIXIESの陣地。貴広と、伊勢と、フラッグとを囲う様に、円形の範囲が綺麗に、全てなぎ倒されている。
 「……」
 神風の伊勢。そのスペックも能力も、データで既に知っている。実戦ではまだ目の当たりにしていなかったが、訓練時や、記録映像では見た。
 だが、それでも貴広は半ば茫然とそれを見ていた。理解は恐らくまだ漠然としたものであったが、それを得た事に、与えられた事に、浮かんだ感情は悪いものでは決してなかった。
 無言で、地図の外に置いた石を摘むと、フラッグの横に置いた石の傍に配する。その名は神崎貴広であって、或いは神風の伊勢であるものだ。
 それとほぼ同時に、沖合の監視船から再び信号弾が上がり、夜を迎えようとしている空を今度は青く照らした。それはPIXIESの勝利を示す色だ。
 つまり、島風が首尾良くフラッグを確保したと言う事だ。
 確かに指示は出した。だが、島風がフラッグを手にしたかどうかは定かではない筈だ。それだと言うのに、確信の様にそう思った己に、貴広は少し動揺を憶える。
 「………」
 「どうやら我々の勝利ですね。お疲れ様です、隊長」
 風の止んだ中で伊勢にそう言われた時、貴広は何とも言えない、奇妙な高揚感を感じて胸を押さえた。
 掌の下、肋骨の裏側で脈打つ心の臓が訴える、今までに感じた事の無い様な充実感。歓喜。まるで、永年完成しなかったパズルのピースが見つかった時の様な、興奮と満足感から得る落ち着きと静寂。
 (ああ……、そうか)
 どこかで囁く賢しい理解に向けてそっと頷くと、貴広は目を閉じた。
 信頼を寄せる事。応えて貰える事。そして、彼らが容易く喪われる様な存在では無い事。
 自分と共に、同じ様な『化け物』であって呉れること。
 それは確かに、神崎貴広が今までに得た事のない、奇妙な安堵であった。
 
 *
 
 陽はすっかりと水平線の向こう側へと消えた。夜の静かな海に澪を刻んで進む輸送船の甲板で、柵に背を預けた伊勢は空を見上げていた。
 日中と同じく快晴。この季節の南洋沖は風は殆ど無い事が多いが、からりと晴れた空には重たい雲もない。普段北半球で見るのとは少し違う星の配置も、興味が無ければただきらきらと光るだけの砂粒の様なものだ。
 興味が無いと言うよりは、積極的にあれが何座だのあれが何と言う星だのと、自信を持って諳んじれる程の知識はない。だから伊勢は、黒い夜空を砕いて光っている様な星々をただぼんやりと眺めていた。
 星は眩しく鬱陶しいぐらいに光っていると言うのに、その狭間に無辜に広がる、ただただ黒いだけの夜空の方へと何故か目が吸い寄せられる。この圧倒的な宇宙の、光を持たぬ黒色があるからこそ、星の光は目立つ。然し光もやがてはどこかに到達して消える。そして、消える所を見るものはいない。
 防衛部の海軍の輸送船だ。今回PIXIESと敵対した陸軍は同じ船には乗り合わせていない。軋轢が起こる事に配慮したのかどうかは解らないが。ともあれ、部門は異なるとは言え、同じ防衛部の船舶であるだけあって、乗組員たちから漂う気配や態度や視線には、どこか刺々しいものや、忌避する気配が強かった。
 甲板の柵に寄りかかる伊勢の周囲に、働く船員たちの姿は無い。夜は元々甲板作業が少ないから、別に演習の結果が原因と言う訳ではないのだが、奇妙なぐらいに辺りは静かだった。
 そんな、風のない海の上でふわりと空気が揺れた。船舶の速度とは異なるから、風圧ではない。緩慢な思考でそう考える伊勢の鼻先数十糎の所に、唐突に視界を塞ぐものが現れた。土汚れは乗船時に落としてあるが、土そのものの匂いはまだ残っている。つまり靴底である。
 「…五十鈴。人にいきなり靴底で話しかけるとはどう言う料簡だ」
 「何だか呆けてたから、踏んでもバレないかなって」
 呆れた調子で言う伊勢の鼻先に靴底を向けて、中空に『立って』いたのは五十鈴だ。宙に浮かんで話しかけて来る、そんな芸当が出来る者は自分たち双子の他にこの船には乗っていないし、そもそもいきなり、顔を見せたり声を掛けたりするより先に靴底なぞ平然と向けて寄越すのは、礼儀などについては不肖のこの弟しか居まい。
 夜空を見上げる伊勢の鼻先、足場も支えもない中空に立った──浮いた五十鈴は冗談めかして笑うと、柵の上へ爪先を落とし、甲板を向いて海に背を向けて腰を下ろす。船舶は進んでいるから、単に浮いている様に見えてその実は飛んでいたのだが、飛ぶのをやめた事で五十鈴の周囲にだけ僅かに吹いていた風がふっと途絶えた。
 自分たち双子の異能は生まれ持っての技能だ。理屈や鍛錬ではなく、ただ意識した時から既に、空気を、風を、見て、扱える。そう言うものであった。
 特異であるとは評された。カンパニーの養成所に拾われた時も、それを怖れられたし褒められもした。上手く扱ってなんとかカンパニーの市民権を得て、人並みの生活も出来る様になった。
 だからそれは伊勢と五十鈴にとっては、技能であって、生きるべく食い扶持を得る手段であった。カンパニーでの生活はそれなりに充実していたが、その他に目的がある訳でも無かったから、自分たちがどう扱われるかは、然して問題無かった。
 この、PIXIESと言う部隊に配属される、その時までは。
 「調子はどうだった」
 横に座す弟に向けて伊勢がそう問えば、着慣れないACUが落ち着かないのか単に暑いだけなのか、襟元を弛めて袖を器用にまくり上げた五十鈴は、兄に倣う様に夜空をちらと見上げるが、直ぐに視線を水平に戻した。
 「矢矧さんを適当に落としてから、言われた通り拠点を冷やかしに行ったんだけど、やっぱり地上戦は余り好きじゃないかな。苦手って訳じゃないけど、泥臭いって言うか。生死問わずなら楽だったけど、そう言う訳にもいかないし」
 それで泥まみれになった靴底を向けてきたと言う訳ではあるまいが。伊勢は取り敢えず、適当に落とされたらしい矢矧に密かに同情する。そう言えば乗船時に見た時も何やら薄汚れていた様に見えていた。
 「まぁ、僕ら五人の役割を思えば、采配に問題はなかったでしょ。こちらの手の内も少しは見せてあげたんだし、防衛部も当面は表立って何も言えやしないんじゃないかな」
 平然と笑みながら言う五十鈴に、伊勢は肩を竦める事で答える。防衛部には臨時とは言え一時期在籍した事もあったが、特段思い入れがある訳ではないのだ。それよりも今の、PIXIESに居る方が遙かに良い。
 「そう言う、兄さんの方はどうだったの。海岸、結構派手に荒れてたけど」
 「……久々に少しばかり張り切ったからな」
 「へぇ?」
 く、と喉を鳴らして笑って言う伊勢の横顔を見て、面白そうな調子で、五十鈴。
 「今まで命令は色々と受けて来たが、頼まれたのは初めてだった。だからだな」
 任せて良いか、と。そう言われた。駒を見つめ盤上に思いを馳せるだけの指揮官と言う立場に置かれて、神崎貴広はそう言った。命令でもなく問いでも無く、ただ、やってくれると言う信頼と確信を以て。そう、言った。
 お前の使い処が解らないと、そんな事を愚痴の様に寄越した癖に、いざ敵が迫った時にはそう即断した。だからきっと最初からそこには、確信しかなかったのだろう。
 伊勢の『神風』は防御面でも攻撃面でも優れており、対人相手にはオーバースペックである事も珍しくはない。伊勢自身は己の使い方を心得ているから、如何なる場合でも柔軟に動く事が出来るのだが、飽く迄単独の時に限る。五十鈴とのコンビネーションには慣れているが、それ以外に於いては未だ力のバランスを上手く取る事が難しい。
 それを解っていたから、貴広は伊勢を単独で防衛役として配しようとした。恐らく、彼が地図の上に乗せていた石ころたちのうち、最後の一つは伊勢であり貴広であったのだろう。必要か不要か、どう扱うか。躊躇う様に地図の外に置かれた石。
 「あの人の力であれば、幾ら自衛でしか戦えないと言うルールであったとして、迫る敵兵全てを行動不能にする事は容易かった筈だ。それでも、任せる事を選んでくれた。それが心地良いと思えたんだ」
 真顔の侭そう言う伊勢を、口元だけ器用に笑ませた五十鈴は驚いた様にきょとんと見て、それから「ふは」と声を上げて笑った。
 「兄さんは頼られるのが好きだしね。その感じは凄く解るなぁ。何しろあの人、誰かに頼ったりするのは凄く下手そうだから、余計張り切る気になっちゃったんでしょ」
 さも可笑しげにそう笑うと、五十鈴は両手で頬杖をついた。
 「ああ言う、自分をしっかりしてるって思っている人ほど、脇が甘くて危なっかしいし。支えてあげるのも、頼って貰うのも、存外にやり甲斐があると思うよ。このPIXIESって役割(仕事)は」
 元々の人懐こい性質もあってか、五十鈴は当初から貴広に好意的であった。PIXIES結成当初は、序列が高い者ほど──つまりは実戦経験が多く己の実力に自負のある者ほど、自分の方が実力者である筈だと、そう言う懐疑的な目で、隊長として就任した神崎貴広を見たと言うのに。
 伊勢とて当初それは例外では無かった。自分たち双子の見せつけた性能は、部隊の長としても余る程のものだと言う自信も自負もあったからだ。
 『知る』まではそうだった。この男は自分たちの命や力を預けるに足りるのか、どれだけ有効にこの存在を使いこなしてくれるのか、と。
 力は確かにあった。圧倒的な程に。そこに純粋に敬意は払った。強さと言う意味で。存在感と言う意味で。
 そして今日実際に『使われ』て実感した。敬意以上に湧いたのは、歓喜と言う感情だった。頼られると言う酷く単純な事が、何故か誇らしく嬉しく思えた。
 そんな己の心境の変化を思えば、成程、五十鈴の目は、指摘は、正しかったのだと納得せざるを得ない。「そうだな」と頷いて、伊勢は視線を夜空の黒さからゆっくりと下ろしていった。目を閉じると、まだ星の瞬きが瞼の裏に残留して眩しい。
 「あ」
 五十鈴が小さく一音を発するのが耳に入り伊勢が瞼を開くと、海と空の境界の様な甲板上にそれが見えた。黒いばかりの夜空から、小さな銀色の星が落ちたのだと、思わずそんな錯覚を憶えて仕舞った伊勢は、咄嗟に眼鏡を外して額を揉んだ。
 「隊長」
 笑って、五十鈴が弾んだ声を上げた。その声に、銀色をした髪をさらりと揺らしてこちらを振り向く。星ではない。神崎貴広。自分たちを率いる隊長だ。
 同じ、密林迷彩のACU姿の彼は、丁度甲板に出て来た所だったのだろう。手を振る五十鈴を見ると、少し考える素振りを見せてから、歩いて来る。
 「二人共、今日はご苦労だったな。……飲むか?」
 手を軽く上げてそう言った所で、己が片手に持っていた紙コップに気付いた貴広はそれを軽く振ってみせる。湯気の立つそれは船内の自販機で売られているコーヒーの様だ。香ばしい香りを漂わせてはいるが、五十鈴が袖をまくる程の気温だ。幾ら夜の洋上とは言ってもホットのコーヒーが欲しいと言う気はしない。
 「いえ…」
 「じゃあお言葉に甘えて一口だけ頂きます」
 断る伊勢の横から無造作に伸びた五十鈴の手に、貴広は紙コップを渡した。柵から降りてそれを受け取った五十鈴は、本当に一口だけを丁重な仕草で含むと、中身の殆ど残るそれを「ありがとうございます」と微笑みと共に返却する。暑さは増しただろうに、五十鈴の表情には僅かたりともそんな様子は出ていない。見事なものである。感心する所ではないかも知れないが。
 「散歩ですか?」
 「…いや……、まぁ、そんなものだが…どうも寝付きが悪くてな」
 続け様ににこにこと問われるのに、返されたコーヒーを啜った貴広は曖昧に答えながら、先頃まで伊勢の見つめていた空を見上げた。そしてまた直ぐに顔を戻す。
 弟の相変わらずの礼儀と言うか常識に欠けた(恐らく態とやっているのだが)態度と、どうにも落ち着かなさそうにしている貴広とを見た伊勢は、こんな時間にコーヒー片手に甲板になど出て来る辺り、一人になりたかったのかも知れないと言う可能性に思い至った。ちらりと五十鈴を見るが、楽しげに話を矢継ぎ早に振っているその様子からは、気付いている気配はしない。
 否、気付いていても知らぬ振りを通す腹づもりなのだ、多分。
 (……全く)
 密かに溜息をつくと、伊勢は何かと構いたがりの気のある、弟の後頭部を指先で軽く小突いた。
 「何?」
 「何、じゃない。隊長もお疲れなんだ、少しは遠慮と言うものを」
 けろりとした表情を向ける五十鈴へと直球で釘を刺した所で、「伊勢」と貴広が口を挟んだ。
 呼ばれた伊勢が思わず振り向けばそこには、大体常に固い能面の様な質を保っている表情筋に、力を抜く事を許した様な、穏やかな笑みを浮かべた神崎貴広の姿があった。
 「ありがとう」
 「……──、」
 思った侭に働いてくれて。役割を任されてくれて。信頼に応えてくれて。気遣いを寄越してくれて。続く言葉の想定は幾つか咄嗟に頭に浮かびはしたが、貴広の口からは明確に「何」に向けてそう言ったのかの答えは続かなかった。
 紡がれた、余りに簡単で思い当たりの少ない言葉に、伊勢が返す言葉を探している内に、貴広は五十鈴の方を向いて仕舞う。
 「お前も。五十鈴」
 「はい。と言ってもお礼を言われる様な事はしていないんですけど、そう言って頂けるのは純粋に嬉しいですよ」
 人好きのする笑みと共にそつのない答えを寄越す五十鈴に笑い返すと、「じゃあな。お休み」と手をひらりと振って、貴広は背を向けた。いつの間にか空になっていたらしい紙コップを、甲板の隅に据え付けてあるゴミ箱へと放って、船内へと戻って行く。
 「………」
 礼にせよ挨拶にせよ、色々言いそびれて仕舞った。我知らず苦い面持ちを浮かべる伊勢に、「今更、何構えてるの」と言った五十鈴が肩を竦める。
 「……仕方がないだろう」
 眼鏡を直しながら伊勢が言い訳の様に半端にそうこぼせば、五十鈴に、察したのかも今ひとつはっきりとしない溜息を吐かれた。
 (冗談を言うより、擽るより、効果的だったのは一体何だったのか…。何があの人に笑みなど浮かべさせたと言うのか…)
 何時間か前に「見た事がなかった」と思ったものを、余りにあっさりと見て仕舞ったから少し驚いたのだと、五十鈴に正直にそう言えば「隊長だって人間なんだから普通に笑いぐらいするでしょ」とでも呆れ混じりに返されそうだ。
 然し、ああしてごく普通に微笑みなど寄越されるのであれば、それも悪くない。言葉や行動だけでも信頼を受けていると感じるが、よりその方が良いと思える。
 (……そうだな。人間ならば誰だってその方が良い)
 信頼されて心地が良かった。応えてそれを感謝されるのにも酷く満足がいった。それが仕え甲斐などと言うものなのかどうかは解らない。ただ、己を理解し信頼し扱ってくれる、己よりも強い者が居ると言うのは、不思議な昂揚を憶えるものだったのだと、初めて知った。
 「隊長も、」
 伊勢が柵から背を起こした所で、五十鈴がぽつりと呟いた。
 「何て言うんだろうな。楽しそうだったって言うか、安心していた様なって言うか…、上手く言えないけど。演習の前から比べると、何か、変わった様な気がする」
 今も、何だか妙にすっきりと帰って行ったし、と続ける五十鈴に、伊勢は小さく顎を引いて頷いた。
 「……そうか」
 聡い五十鈴の感じた事ならば、あながち的外れと言う事でもないのだろう。今はまだそうとだけ理解するに留めて、伊勢は宛がわれた船室へと向かって歩き始めた。五十鈴もそれを追おうと動き出して、然しふと立ち止まった。空を見上げる。
 「…………星のさ。たった一つだけが特別輝いていたら皆それを意識するけど。これだけ沢山光って散っていたら、余り気にならないものだね」
 それ以上は続けず、じゃあお休み、と言って五十鈴は足を止めていた伊勢の横を通り過ぎていく。
 (あの人は、それを確認したかったのだろうか…?)
 そうは思うが、こんなものはただの、解ったふりだ。恐らく一生、貴広当人の口からそれを聞く事はないだろう。
 絶対的な力を持ちながら、それを平然となせる精神性を保ちながら、全く『普通の人間』の様に、愚痴をこぼして、悩んで、笑って、誰かに頼って誰かを背負う。その形は酷く歪で、不安定なものなのかも知れない。
 (……それでも、あの人がそう在ろうとするのであれば。それを支えると言うのは、悪くない)
 ふ、と伊勢は密かに笑う。得た功績や名声よりも、ただ命令をこなしていた作業よりも、今日の下らない演習の方が余程に充実していたと言う事実を、胸の内に収めながら。





PIXIES自体が、貴広に人外だと言う意識無しに人外レベルに育成する為の組織みたいなものだから、少なくとも六天は貴広と対等と思えるぐらいの(不完全ナーサリークライムと同等に近い)水準にいないと意味がない筈。なので、貴広的に見てやっと仲間が出来たみたいに思っちゃった、そんな感じの妄想ですはい。
十年後も、知識はあっても割と世間知らずなのは島流しだけが原因でなく、多分その所為。
隊長が所長になってからもお伊勢をものっっそ評価しまくっているのは、ナーサリークライム(不完全)の視点で見ても伊勢は滅法強い頼り甲斐のある奴だと言う認識があったからだろうと思う次第で、多分舐めプしてなければ0.2秒とか言われなかった…。筈…。

あと、PIXIES結成時から隊長就任まではどうも不自然な間があるんですが、六天とまとめて称されるぐらいだし、前述通りに貴広の人外育成が目的でもあるので、貴広が隊長就任するのと同時に五人もPIXIES入りした=それまでは正式に実働してない部隊だったのが、貴広を隊長に据えて人外たちを揃えて漸く実働に至ったと言う想定です。
……や。だって癖の強い五人+αが居る優等生クラスに貴広が「今日からこのクラスを受け持つ事になった神崎だ」なノリで現れたとしたら、あそこまで付き合える上司と部下の関係にはならなかった様な気がするんですよ…。

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