無名氏の戦争準備 ※5年くらい前のおやじさんの勝手な妄想です。 ========================= 輸送機を降りると、かっとした陽光の照り返しが平らな滑走路に弾かれ目に飛び込んで来る。ちかちかとしそうな眩しさに目を眇めて、男は額の上に手で庇を作ると頭を巡らせた。いつもならば帽子を被っているのだが、今は被っていないから仕方がない。どうにか目を休めようと、何もない滑走路上で暗い影を探せば、自然と今しがた降りて来たばかりの輸送機に目が向かう。 搭乗して来た輸送機はMC-2だ。中から長距離の物資や人員の輸送を目的にカンパニーに因って製造された機体で、ロールアウトから年数の経った今では前線を退いてはいるものの、カンパニー領内の離島間では現役でライフラインの重要な要として役をこなし重宝されている。 物資のついでに人間の移動にも気軽に使われる為、離島の人間はちょっとしたフェリーや夜行バスの様な感覚で世話になる事も多い。無論旅客機として製造されたものではないから、観光客などを乗せる事はまず無いが。 男は無論観光客ではない。普段はここより更に離島の2563号島で整備班の主任を務めている、カンパニーの職員の一人である。今日は非番なのでいつものツナギ姿ではなく、私服姿だ。だから当然、仕事の目的で来た訳でもない。 滑走路には輸送機の他に見物も無い。男は日差しの眩しさに溜息をつくと、空港の建物に向かって歩き出した。 その背後では、今帰着したばかりの空っぽの輸送機へと次の物資の積み込み作業が始まろうとしていた。生活物資などを満載した自動輸送車両が管制の操作を受けてハッチに近付いて来るのが視界の端に映った。 人間様より機械様の方が余程に忙しそうだ、と思いつつ、振り向いたついでにだだっ広い滑走路をもう一度見回す。 ここ中央島──正確には南南部方面中央島は、カンパニーの領内でも世界の涯てと呼ばれる地域にある。だだっ広いだけの海洋上には天然の島と人工島とが何千と点在しており、実験場から養成所から観測所から軍事基地から娯楽施設まで、様々な用途の島々が存在している。 それら離島部は方位によって管轄が区切られており、この中央島は南南部方面と呼ばれる区域の島々を統括する役を担っている。 そんな要衝の目的もあり、この島は岩盤に打ち込んだ杭とコンクリートとで建造された完全な人工島で、男の暮らしている南南部第2563号島とは風景の趣が随分と異なる。高波を避ける為に港湾部以外の施設や居住区は海面から突き出した土台に構築された高台に位置しており、何れも軍事的な意味合いもあって淡い灰色の色彩で統一されている。遠くから見ると巨大なコンクリートブロックの塊──要塞島とも呼ばれているのも頷ける威容だ。 広い滑走路には芝生どころか雑草の一本も生えていない。この島には人間が意図的に持ち込んだもの以外の植生は殆ど存在すらしていない。海鳥や輸送機が種子を気まぐれに落としていった所で、土や水の存在しないコンクリートを打たれた地面には易々根付く事はないのだ。 そりゃあ、太陽も眩しく映るもんだと肩をすくめながら、男は空港に入った。外の眩しさや暑さとは全く異なる、人工的な灯りと冷風のもたらす心地よく快適な空間で簡単な入島手続きと荷物の検査を終えて仕舞えば、後は滞在時間の間は自由に行動が出来る。 2563号島から島民──もとい島に務める職員が中央島に来る事は珍しい事ではなくもっと日常的に近い。何しろ、日帰りで生活物資の買い付けも娯楽の用も為せるのは付近ではこの島ぐらいしかないのだ。非番になると中央島まで出向いて遊んだり発散したりと言うのは、若い職員の間ではごく普通の事だ。陸地の基準に合わせれば、週末に都会に出かける様なものと言い換えても良い。 元々離島部は何れも通信も輸送も不便な土地柄なのだが、第2563号島はその中でも取り分け『不便さ』が徹底されている。外部への直接の通話や通信は緊急時や仕事以外では認められず、敷かれた電話回線も一本しかない。 便利な通信販売などは無論無く、物資は週に一度中央島経由で届けられ、その際に必要な物資を要求し、次回の輸送でそれが届けられると言った実に前時代的なシステムが用いられている。 その為、急にトイレットペーパーが切れた、などと言う事が無い様に、2563号島では備品の在庫チェックは死活問題である。もしもそんな事が起きた日には、この中央島まで何時間もかけて買い物に来なければならない。 とは言え、男は別に買い物に訪れた訳ではない。島には長いこと連れ添った妻も居るから娯楽目的でもない。 (…あれか) 空港で手続きを待つ間に窓から何気なく見ていた滑走路に、水平飛行をしながら大きな機体が迫って来るのが目に入った。目的のものに漸くお目にかかれそうだ。 「ほぉ…」 思わず感嘆の声が漏れた。海から向かって来たのは大きな匣型の変わった航空機だ。静音飛行が可能で、おまけにその機体は広い滑走路を滑る事もなく垂直に着陸してきた。噂に聞いていたスペックを脳裏に思い起こしながら、実際目にするその最新機体を観察する。その眼差しは常日頃培われた技術屋の性分そのものであった。 叶うならばもっとよく近付いて見てみたいが、流石にそれは宜しくない。自分がスパイと疑われるのも困るが、2563号島の所長の背信まで疑われてはもっと困る。 メモを取る事も写真を撮影する事も無論出来ない。仮にやったとして、それは技術者と言う男の職業柄の様なものであってスパイ行為では断じて無いのだが、残念ながらそんな言い訳が通じる程にカンパニーとは殊に軍事に於いては甘いものではない。 技術者として、最新鋭の機体が日帰り距離の島に配備されたのをちょっと見てみたかった。それが今日男が中央島を訪れた九割の理由であったのだが、こればかりは致し方ない。 件の機体は手早く人員を乗り換えて再び飛行した。あの機構はどうなっているのだろうとか、基幹システムは何を使っているのだろうかとか、そう言った知識欲がむずむずと疼くが、男は何とか堪える。 彼の妻に言わせれば、男は何歳になっても子供、だそうだが、確かにこう言う時にはその意見も否めないなと思う。 そうする内に手続きが完了し、男は中央島への入島を許可された。 ……とは言え、一番の目的はもう果たして仕舞ったのだから、後は精々、備品のカタログには載っていない様な専門書や工具の類でも見に行く程度だ。 中央島は人工島である為、街区は綺麗に整備され計画的に建造されている。空港と港のある港湾部が一番低地に位置し、少し登れば職員や島民の為の店舗の立ち並ぶ商店区画が拡がり、更に先には生活居住区がある。居住区は何れも揃いの団地と言った風情で、似た様な風景が連なっていて迷い易い。 島民や職員は多く、2563号島とは比ぶるまでもない程に賑わっているが、その風景はやはり無機質で平坦だと男は思う。自分の暮らす2563号島が余りに野放図で不便で古風なつくりをしていて、それを見慣れている所為かも知れないが。 (まあ、道はどこも大体平らかで歩き易くはあるな。俺の好みじゃあないが) さわさわと吹く風は日差しの割に程よい温度を与えてくれてはいたが、機能的に過ぎる街は余り長時間の散歩を楽しむ風情でもない。男は行き慣れた幾つかの店を覗き、経費ではとても落とせない、不足していた趣味の細かな工具パーツを購入し、今年最新の電動工具のカタログを貰って行く事にした。 わざわざ入れてくれた紙袋を小脇に抱えて、腕時計を見る。2563号島に戻る為の航空機の出発まではまだ小一時間以上余裕があったので、先頃歩きながら見繕っておいた、空港近くのカフェに適当に入る事にした。 天気も良く視界も明るかったので、薄暗い店内ではなく張り出した屋根の下のテラス席を選んで、男は、ふう、と息をついた。本日晴天なれども波高し。大昔のそんな言葉を何となく思い起こしつつ巡らせる視線の先には、人工的な島を囲む紺碧の海洋がただただ広がっているばかりだった。だが、運が良ければ空港に向かう件の最新機体の姿をまた拝めるかも知れない。 アイスコーヒーを注文して暫く経つと、ウェイターがアイスコーヒーと共に、「こちら、サービスとなっております」と、カップケーキの詰まったバスケットを置いていった。 こう言った島での食料は、備蓄が効かない場合には消費期限が切れる前に何らかの形で供する事が多い。2563号島でもよく、取り寄せた食材が必要以上に余ったから、と、トレーにおまけに載せられるものだ。 食事が欲しい程ではなかったが、小腹も空く頃かな、と、男は手を伸ばしバスケットに掛けられていた、浅葱色のナフキンをひらりと持ち上げた。 「──!」 途端、ナフキンの端を掴んだ手が慌ててそれを戻す。どこからか吹いた涼やかな風に、瞬時に冷や汗をかいていた背筋の冷たさに気付かされる。 周囲をちらりと油断なく伺うが、テラスの他の席で寛ぐ客も、談笑する声も、立ち働く店員も、男の狼狽に気付いた様子は無い。──無い様に、見える。 口元を複雑な感情の侭に歪めて、男はバスケットを見つめた。もう一度ゆっくりと手を伸ばして、その端を慎重に捲る。浅葱色の爽やかな色彩のナフキンで覆われたその下には、店員の言った通りのカップケーキが三つ並んでいた。 プレーンと、チョコと、ナッツ入りの三種。──それと、その上に無造作に置かれた小さな、名刺サイズの紙片。 そこにエンボスで刻印されていた意匠は、記憶のそれとやはり合致した。見間違いではなく確かに。背筋を瞬時に冷やす程の『それ』が示すものは。 (……PIXIES) 「まあ、そう言う事です」 胸中で呟くのとほぼ同時に、背後から涼やかな声音がそんな言葉を投げて来た。 テラスの、端の、後ろの席。そこに客は居ただろうか。最初から?後から来た? 振り向いて確認したかったが、そこまで軽率な行動をする気にはなれない程度の分別はあった。男は、暗殺者に町中で刃を突きつけられる様な感覚にぞっとしながらも、幾度か深呼吸をした。 PIXIES六天が、島流しにされた神崎貴広を追う様にして一斉にカンパニーから離脱したと言う噂はかねてから耳にしていた。ただでさえ何かと有名な部隊の壊滅、そして離散だ。噂と言う意味ではカンパニー領内でも国外でも各種様々なものが飛び交っている。 況してや、彼らが『追った』と推測される──カンパニーは公式には無論認めていないが──、彼らのリーダーであった、元PIXIES隊長の神崎貴広は、正に男の務める第2563号島に居るのだから。 PIXIESを名乗る者が自分にこんな接触をするとしたら、その目的、可能性は限られているだろう。 カンパニーに追われるPIXIES残党、六天。そんな彼らが、貴広に近い所に居る男を訪ねて来ている。 男がもしもここで、お尋ね者がいると何らかの手段で伝えれば、背後に居る元エージェントはあっさりと捕縛されるか粛清されるかも知れない。そうなった時には真っ先に男自身が殺される可能性も高いが。 つまりは、彼らにとってもこの接触はリスクが高い筈だ。それでもそんな真似をしたのは、男がカンパニーよりは貴広の味方であると言う確信でもあったからなのか。 「…で、何の用件だ。うちの島にこっそり手引きしろってのはちと難しいぞ」 浮かんだ可能性の幾つかを胸中で転がして、ひそめた声で言う。然し背後の声はあっさりと、 「いいえ。それは良いです。行こうと思えば行けますから」 そんな事は障碍としても考えた事などない、と言いたげに返して寄越した。 からん、とアイスコーヒーの氷が傾いて音を立てる。小さな音が嫌に響いた気がして、男は我知らず額にかいていた汗を拭うと、グラスを手に取った。自分の為にもここは普通の客である事を貫く必要がある。動揺し誰かに不審がられるのは一番避けたい。 「…じゃあなんだ、所長を島から連れ出せとか言う気か?」 更に声の音量を落として再び言う。声は殆ど囁く様な質になっていた。 「それも良いです。出ようと思えばあの人がご自分で出ますから」 かすれた様な己の声に、返ったのはまたしても、ごく普通の声量で紡ぐ淡々とした調子であった。何を当たり前の事を、とでも言いたげだが、彼の言葉には想像ではなく確たるものがある様に思えた。 きっと彼らは解っているのだ。今、貴広が2563号島で過ごしているのは、カンパニーの命令が理由ではあって発端ではあったが、その先は彼自身の意志でしか無いのだと。 思わず口端を下げると、背後の元エージェントが肩を揺らす気配がした。 「まあ、悪巧みには違いありませんけどね。詳しくは伏せますけど、どうも最近LAB周りできな臭い噂を耳にするのですよ。元LABの筆頭工学博士であった貴方ならば、既にご存知かも知れませんけど」 「……」 しれっとした調子の侭でとんでもない事を言われた。元とは言え情報部の人間であれば己の素性ぐらいは調べられない範囲では決して無いだろうが、それでもやはり背筋が薄ら寒くなる。 元LABの研究員であった自分と言う人間が、今日と言う日に2563号島を出て中央島を訪れる。そこに神崎貴広を慕う元部下が接触して来る。とんでもない偶然であっても起こり得る事ではない事ぐらいは誰にでも解る。輸送機の搭乗記録でも常にチェックしていなければ到底無理な話だ。 少なくとも数ヶ月程度の間は、カンパニーでも一部の人間しか閲覧出来ない様な、2563号島からの人の出入りのデータを密やかに監視していたのは恐らく間違いないだろう。 薄ら寒い想像に乾いた口中を誤魔化す様に、男はアイスコーヒーを啜った。 「悔しい話ですが、ナーサリークライムと言う存在をデータとして最も仔細に保持しているのはかの組織です。そしてLABの集積している機密データはカンパニーのメインフレームの中でも、侵入は不可能と断言出来る程に堅固です。…ですので、こちらとしてはいつかの為に対抗策を練っておく程度しか出来ないのが現状」 困ったものです、とまるで困っていない様な口調で続けて、元エージェントはそこで言葉を切った。実際は困っているからこそ男に危険を冒してまで接触したのだろうが、全くそうとは感じさせない声音である。これでは本心がどこにあるのか、狙いが何であるのかも判然としない。 話題が話題なだけに口の中がからからに乾く。男はアイスコーヒーをまた飲むが、全く喉を潤す役に立ってくれている気がしない。 「……いつかの為、ってのは、いつの事だ」 少し考えながら、男は慎重にそう問いた。仮にだが、貴広の背信と言う偽装工作を目論み粛清を狙うカンパニーのエージェントが、PIXIESを騙って接触してきていると言う可能性もあるのだ。自分が下手な発言をする事が誰にどう響くのか定かではない。 だが、これは長年の勘とでも言うか──、先頃の貴広に纏わる彼の意見を訊くだに、本物の六天で無ければ、貴広に近しかった者でなければ到底出ないだろう発言だろうとは何となく思う。 「LABがそのプランを実行に移した時です。……つまりは、ナーサリークライムを害する事が可能なだけの力を実用化した時」 無音の風が頬を打った。中央島には木々がないから、風の訪れは音もなく唐突である様に感じられる。 恐らくはこの元エージェントに因る何らかの手段で、この会話は他所には一切が漏れない様になっているのだとは思う。 だが、その言葉は剣呑さを纏って、風の隙間を裂いて妙にはっきりと響いた。 「より具体的に言えば、LABがあの人を脅かそうとした時ですかね」 響きこそ単調だったが、憤りと嘲りとを含んだ表情で紡いだ言葉なのだと、顔を見ずともそう確信出来た。 男はアイスコーヒーのグラスをテーブルに置くと、そっと息を吐いた。 間違いなく、背後のエージェントは神崎貴広の嘗ての部下であり、世界を震わせたPIXIES六天の一人であり、同時に、貴広の意志や性格を知悉していて、それを重んじている様な人物に違いない。 そもそもにしてLABがナーサリークライムの力を研究している事そのものが、一般にも噂話程度にも、到底漏れる様な事ではない。彼らはどうやってかそれを、彼らなりに確信を以て得た。そうして、貴広の為にもそれに対抗しようと考えている。 男は腕を組んで唸った。確かにその確信は間違ってはいない。いない、が。 「……俺があそこに居た頃にはまだN計画は全くの未完成だった。それにそもそも俺には畑違いの分野だったからな。飽く迄、研究内容の一端をデータとして、多少は知り得てるって事ぐらいだ。対抗って意味では、全く足元にも及ばん抵抗しか出来ねぇぞ…」 N計画。LABの設立となった理念であり最終目的とする計画。人智に負えぬもので世界に叛乱するが如き所業。 男がLABで筆頭工学博士を務めていた頃にも、その計画に携わった事は一度も無い。ただ、自然と耳に入るのだ。意識で理解するのだ。自分たちの研究も開発も全て、なにか一つの大きな目的の為の、小さなちいさな歯車や螺子に過ぎないのだと。 カンパニーですら、元はLABの設立した隠れ蓑であり、表の姿でしかないものだったのだ。 そうしてまで到達しようとする目的。その所業。想像すらつかない想像に、かぶりを振る。 「ええ、ですから、それで良いのですよ。もしも、かの計画が実行可能となったら、それを打ち砕く事が出来るのは、あの人と同じナーサリークライムでしか足り得ません。そのぐらいは理解していますよ。 ──僕たちがお願いしたいのは、その『足元にも及ばない抵抗』です」 声に、ふ、と笑む様な気配が混じった。想像を巡らせるだけで押し潰されそうになる男の意識の翳りを、涼やかな声と風とが振り払う様に静かに吹き抜けて行く。 「まだ猶予はある筈ですから、少しずつで構いません。あの人にこれから伸びるだろう、謀略以外の理不尽な武力に対する抵抗を、その余地を、牙を研ぐ事を、貴方にはお願いしたいのです」 「……」 簡単に言ってくれるが、それは全く具体的ではない『お願い』だ。備えも、敵が見えなければしようがない事だが、それでもして欲しいと言う事でもある。 男は反射的に、2563号島の防衛についての設備を考えた。戦術的な作戦行動は全く素人だが、それを有効に扱えるだろう当人は居る。 防衛設備を、物資の調達の困難なあの島にどう持ち込むか。システムを新たに構築するか。カンパニーの現在の主戦力にどう対応出来るか。 自然と実用的な思考が次々浮かんで来るのは、やはり職業柄ゆえの事だろうか。考える事が少しずつ楽しくなって来ている事に気付いて、男はアイスコーヒーを行儀悪く、音を立てて最後まで啜ってから、ぷは、と溜息をついた。どうせならカフェインではなくアルコールでも飲みたい気分だ。 「つまり…、カンパニーと戦争をやらかす準備はしておけ、って事だろ?」 潜めずに出た声に──誰かに聞かれでもしたら即座に粛清されてもおかしくない様な言葉に、背後の元エージェントは静かに笑った。 「話が早くて助かります。無論僕らもあの人を護るべく尽力はしていますが、生憎何かと目立つのですよ。それであの人の立場を危うくする訳にはいきませんからね…」 がた、と背後で椅子を引く音と、椅子から立ち上がる衣擦れの音。男は振り向かなかったが、その横をすいと、左耳に環のピアスを付けた、ラフな服装をした青年が通り過ぎる。 「僕らにはどうしても出来ない事──、どうしても、あの人の側に、あの人に協力してくれる味方が必要なのです」 足を止めず、視線も寄越さず、唇も殆ど動かさずに寄越された言葉は、この短い時間で最も、感情の様なものの籠もったものだった様に聞こえた。 男が見上げる間もなく、元エージェントの青年の姿はカフェからゆっくりと遠ざかり雑踏へ消えていった。普通の、この中央島に住む人間の様に余りに自然に。 我知らず強張っていた侭だった肩を落として深々と嘆息すると、男は恐る恐るカップケーキの入ったバスケットに掛け直したナフキンを持ち上げてみた。が、そこには先頃確かにこの目で見た筈の、名刺大のカードなど置いてはなかった。ナフキンを裏表に返して、慎重に拡げてもみたがやはり何も無い。 すれ違い様に素早く回収したのか、それとも何らかの異能でも用いたのか。答えなど解り様もなかったが、振り向けばそこには空になったティーカップの残されたテーブルが確かにある。 背中合わせの位置に配された席には当然だが誰の姿ももう無い。だが、よもや夢や幻を見たと言う事もあるまい。中途半端に残された痕跡だけが、今しがたの不穏で厄介極まりないなやり取りを、現実であったと示している。 (言うだけ言って、まるでこっちが賛同する以外は考えにないですよって言ってる様なもんじゃねぇか) 紡いだ声は涼やかで穏やかな質ではあったが、なかなかどうして図太い人物なのかも知れない。まあそのぐらいの図々しさや明確に定まった性格でも無ければ、情報部の特殊部隊に在籍など出来ないのかも知れないが。 男はカップケーキを一つ掴むと、自棄っぱちな思考と共にそれに齧り付いた。 N計画がどうとか、本来であれば妄言としか言い様のない話である。恐らくは正しい情報であると確実に証明する術すら持たないに違いない。そんなものを大真面目に持ち込んで来て、こんな面倒な接触までして来て、その目的は実に単純明快でしかない。 (……貴広の為、か。ったく、アイツも難儀と言うか、部下に愛されていると言うか…) だが、と思う。自分とて貴広とは知らない仲では無いし、彼にとって忌憚なく振る舞える人間の一人として認識されているだろう事も解っている。 だから何となくだが彼の部下たちの気持ちも解るし、今更放っておく気にもなれない。 (何より、カンパニーと喧嘩しようって大胆な考えも嫌いじゃあねぇ) つまりは、この事案を避ける理由も、聞かなかった事にする理由も、無いと言う事である。 帰ったらまず、通信用の海底ケーブルの整備でも考えるか、と取り敢えずの目標を決めて、男は次のカップケーキを取り上げながら、アイスコーヒーのお代わりを注文する事にした。 リニア篇が顕著ですが、五年前からアレコレやってたとかおやじさんの準備が良すぎるので、何らか予め確信持った備えがあっても良いのではないかなと言う拡大妄想。 五十鈴メッセンジャーなのは単なる趣味ですが、六天側も貴広の指令を受けて直ぐ様に動く程度には気にかけていた訳ですし、貴広に纏わるきな臭い噂に関しては詳細が解らずともチェックぐらいしてたらいいなって…(弱 おやじさんは実際、貴広だけで勝ち目がなくとも自分が手伝えが変わるかも知れないとか言ってますしねえ…、貴広がカンパニーに表立って戦う時が来ると言う想定があったとしても、おやじさんの備え方は、最悪全部捨ててでもそれに付き合うと言う前提がありそうだなと。 おやじさんは六天と違って貴広に恩や心酔がある訳ではないので、単に友達思いで付き合いが良いだけと言えばそうなのかも知れませんけど。 …まあ何より改めて一番驚いたのは、そう言えばおやじさんの名前知らないわ、と言う事でした…。 もえかんは結構モブの名前が空白ですが、おやじさんの様なメインキャラが名無しで、大柴や、会話でしか出てこない検見川さんにフルネームがあるのとかちょっと面白い。 オムニバス無名氏リスペクト。 ↑ : |